十三
須永もそこに気がついた。
「話が
「いや構わん。大変面白い」
「
「どうも不思議にあるようだ。ついでにもう少し先まで話す事にしようじゃないか」
「もう無いよ」
須永はそう云い切って、静かな水の上に眼を移した。敬太郎もしばらく黙っていた。不思議にも今聞かされた須永の詩だか哲学だか分らないものが、形の
僕が大学の三年から四年に移る夏休みの出来事であった。
十四
母は内気な性分なので
鎌倉へ行こうと思い立った日、僕は彼女のために一個の
車が別荘の門に着いた時、
「これを御使いなさい」という千代子の声が突然
「御父さんは四五日前ちょっといらしったけど、
「ここにゃいないのかい」
「ええ。なぜ。ことによると今日の夕方
千代子は
十五
「先刻誰だか男の人が一人座敷にいたじゃないか」
「あれ高木さんよ。ほら秋子さんの兄さんよ。知ってるでしょう」
僕は知っているともいないとも答えなかった。しかし腹の中では、この高木と呼ばれる人の何者かをすぐ了解した。百代子の学校
「ついこの下よ」と彼女は云ったぎりであった。
「別荘かい」と僕は重ねて聞いた。
「ええ」
二人はそれ以外を語らずに座敷へ帰った。座敷では母と叔母がまだ海の色がどうだとか、大仏がどっちの見当にあたるとかいうさほどでもない事を、問題らしく聞いたり教えたりしていた。百代子は千代子に彼らの父がその日の夕方までに来ると云って、わざわざ知らせて来た事を告げた。二人は
「高木さんもいらっしゃるんでしょう」
「
僕は行かないと答えた。その理由として、少し
僕の帰ると云うのを聞いた二人は、驚ろいたような顔をしてとめにかかった。ことに千代子は
「えらい
「あなたは親不孝よ」
「じゃ叔母さんに聞いて来るから、もし叔母さんが泊って行く方がいいって、おっしゃったら、泊っていらっしゃい。ね」
百代子は仲裁を試みるような口調でこう云いながら、すぐ年寄の話している座敷の方へ立って行った。僕の母の意向は無論聞くまでもなかった。したがって百代子の年寄二人から
僕はやがてちょっと町へ出て来るという
十六
実を云うと、僕はこの高木という男について、ほとんど何も知らなかった。ただ一遍百代子から彼が適当な配偶を求めつつある由を聞いただけである。その時百代子が、御姉さんにはどうかしらと、ちょうど相談でもするように僕の顔色を見たのを覚えている。僕はいつもの通り冷淡な調子で、好いかも知れない、御父さんか御母さんに話して御覧と云ったと記憶する。それから以後僕の田口の
僕が別荘へ帰って一時間
二人の
僕は初めて彼の容貌を見た時からすでに
落ちついた今の気分でその時の事を回顧して見ると、こう解釈したのはあるいは僕の
十七
僕は男として嫉の強い方か弱い方か自分にもよく解らない。競争者のない一人息子としてむしろ大事に育てられた僕は、少なくとも家庭のうちで嫉を起す機会を
僕は普通の人間でありたいという希望を
「相変らず
千代子にこう
二人の後姿が別荘の門を出た後で、高木はなおしばらく年寄を相手に話していた。こうやって避暑に来ていると気楽で好いが、どうして日を送るかが大問題になってかえって苦痛になるなどと、実際活気に
十八
高木の去った
二人がこんな話をしている内、僕はほとんど一口も口を
前後の模様から
夕方になって、僕は姉妹と共に東京から来るはずの叔父を
途中まで来た頃、千代子は思い出したように突然とまって、「あっ高木さんを誘うのを忘れた」と云った。百代子はすぐ僕の顔を見た。僕は足の運びを
「
僕は時計を出して百代子に見せた。
「まだ間に合わない事はない。誘って来るなら来ると好い。僕は先へ行って待っているから」
「もう遅いわよあなた。高木さん、もしいらっしゃるつもりならきっと一人でもいらしってよ。後から忘れましたって
姉妹は二三度押問答の末ついに後戻りをしない事にした。高木は百代子の予言通りまだ汽車の着かないうちに急ぎ足で構内へ
十九
その晩は叔父と
「
「わたしもいつか
「腐るの」千代子が聞いた。
「叔母さん
「興津鯛はまた興津鯛で結構ですよ」と母はおとなしい答をした。
こんなくだくだしい会話を、僕がなぜ覚えているかと云うと、僕はその時母の顔に表われた、さも満足らしい気持をよく注意して見ていたからであるが、もう一つは僕が母と同じように
ついでだからここで云う。僕は自分の
食事の
「
僕も僕の隣にいる吾一も東京の方が楽だと云った。それでは何を苦しんでわざわざ鎌倉
「これも
疑問は叔父の一句でたちまち
二十
彼は今日の船遊びの中止を深く
食事を済ます頃から霧のような雨が降り出した。それでも風がないので、海の上は平生よりもかえって
「今日はこれでも若いものの部だよ」
叔父はこの言葉を
「御前達も尻を
「
僕は山賊のような
「
「早く降りていらっしゃい」と千代子が叱るように云った。
「市さんに悪い
僕は一も二もなく降りたが、約束のある高木が来ないので、それがまた一つの問題になった。おおかたこの天気だから見合わしているのだろうと云うのが、みんなの意見なので、僕らがそろそろ歩いて行く間に、吾一が
叔父は例の調子でしきりに僕に話しかけた。僕も相手になって歩調を合せた。そのうちに、男の足だものだから、いつの間にか
二十一
彼は突然彼の体格に相応した大きな声を出して姉妹を呼んだ。自白するが、僕はそれまでに何度も
見ると二人の姿はまだ一町ほど下にあった。そうしてそのすぐ後に高木と吾一が続いていた。叔父が遠慮のない大きな声を出して、おおいと呼んだ時、姉妹は同時に僕らを見上げたが、千代子はすぐ後にいる高木の方を向いた。すると高木は
叔父と僕は崖の鼻に立って彼らの近寄るのを待った。彼らは叔父に呼ばれた
「どうも御待たせ申しまして、実は
「えらい物を着込んで暑かありませんか」と叔父が聞いた。
「暑くったって脱ぐ訳に行かないのよ。上はハイカラでも下は
一同がぞろぞろ
「それで分るんでしょうか」と高木が不思議な顔をした。
「分ったらよっぽど奇体だわね」と千代子が笑った。
「何大丈夫分るよ」と叔父が受合った。
吾一は面白半分人の顔さえ見れば、西のもので南の方から養子に来たものの宅はどこだと聞いては、そのたびにみんなを笑わした。一番しまいに、
二十二
この細い石段を思い思いの
家は下から見たよりもなお小さくて汚なかった。戸口に
「あれじゃ大変だ」
高木は
「随分
婆さんは何
「何をしているだろう。ちょっと行って様子を見て来ましょう」
彼はそう云いながら、手に持った
「こっちへ御出しなさい。持ってるから」
そうして高木から二つの品を受け取った時、彼女は改めてまた彼の
二十三
船に乗るためにみんなが
「さあ御乗り」と坊主頭の船頭が云ったので、六人は順序なくごたごたに
「どうですこっちが
僕は千代子にこう云った。――
「千代ちゃん行っちゃどうだ。あっちの方が広くって
「なぜ、ここにいちゃ邪魔なの」
千代子はそう云ったまま動こうとしなかった。僕には高木がいるからあっちへ行けというのだというような説明は、露骨と聞こえるにしろ、
「蛸はどこにいるんだ」と叔父がまた聞いた。
「ここいらにいるんだ」と船頭はまた答えた。
そうして湯屋の
二十四
鏡がそれからそれへと順々に回った時、叔父はこりゃ
「
「見えない」
僕は顔を上げた。千代子はまた首を
「千代ちゃんには、
「駄目よ。
「よっぽど慣れないとなかなか
これは高木が千代子のために説明してくれた言葉であった。彼女は両手で
蛸は船頭一人の手で、
「千代ちゃん、蛸の泳いでるところを見た事がありますか。ちょっと来て御覧なさい、よっぽど妙ですよ」
高木はこう云って千代子を招いたが、
「ええ面白いわ、早く来て御覧なさい」
蛸は八本の足を真直に
叔父は船頭に向って蛸はもうたくさんだと云った。船頭は帰るのかと聞いた。向うの方に大きな
「一つ
高木は大きな
二十五
僕はその晩一人東京へ帰った。母はみんなに引きとめられて、帰るときには吾一か誰か送って行くという条件の
高木にはそれから以後ついぞ顔を合せた事がなかった。千代子と僕に高木を加えて
彼女は時によると、天下に
僕はこの二日間に
僕は強い
二十六
僕は東京へ帰ってからの気分を想像して、あるいは
僕が作のために安慰を得たと云っては、自分ながらおかしく聞こえる。けれども今考えて見てもそれよりほかの源因は全く考えつかないようだから、やっぱり作が――作がというより、その時の作が代表して僕に見せてくれた
僕は二階に
作の事をそう一々云う必要もないが、つい前からの関係で、彼女のその時の行動を覚えていたから話したのである。僕は一本の
二十七
僕にこの本を貸してくれたものはある文学
この出来事をすっかり忘れていた僕は、何の気もつかずにそのゲダンケを今
ある女に
二十八
僕の
それだから僕はゲダンケの主人公を見て驚ろいたのである。親友の命を虫の息のように
けれどももし僕の高木に対する
下へ降りるや
「いいや、大してどうもしない」
「急に御暑うございますから」
僕は黙って二杯の飯を食い終った。茶を
二十九
僕は僕の前に
「作御前でもいろいろ物を考える事があるかね」
「私なんぞ別に何も考えるほどの事がございませんから」
「考えないかね。それが好いね。考える事がないのが一番だ」
「あっても
「仕合せだ」
僕は思わずこう云って作を驚ろかした。作は突然僕から冷かされたとでも思ったろう。気の毒な事をした。
その夕暮に思いがけない母が出し抜けに鎌倉から帰って来た。僕はその時
「叔母さんを送って来たのよ。なぜ。驚ろいて」
「そりゃありがとう」と僕は答えた。僕の千代子に対する感情は鎌倉へ行く前と、行ってからとでだいぶ違っていた。行ってからと帰って来てからとでもまただいぶ違っていた。高木といっしょに
「泊って行くわ」
「どこへ」
「そうね。内幸町へ行っても好いけど、あんまり広過ぎて
僕には千代子が始めから僕の家に寝るつもりで出て来たように見えた。自白すれば僕はそこへ坐って十分と経たないうちに、また眼の前にいる彼女の言語動作を一種の立場から観察したり、評価したり、解釈したりしなければならないようになったのである。僕はそこに気がついた時、非常な不愉快を感じた。またそういう努力には自分の神経が疲れ切っている事も感じた。僕は自分が自分に
「千代ちゃんが来ないでも吾一さんでたくさんだのに」
「だってあたし責任があるじゃありませんか。叔母さんを招待したのはあたしでしょう」
三十
「じゃ僕も招待を受けたんだから、送って来て
「だから
「いいえあの時にさ。僕の帰った時にさ」
「そうするとまるで看護婦みたようね。好いわ看護婦でも、ついて来て上げるわ。なぜそう云わなかったの」
「云っても断られそうだったから」
「あたしこそ断られそうだったわ、ねえ叔母さん。たまに招待に応じて来ておきながら、
「だから千代子について来て貰いたかったのだろう」と母が笑いながら云った。
僕は母の帰るつい一時間前まで千代子の来る事を予想し得なかった。それは今改めてくり返す必要もないが、それと共に僕は母が高木について
その晩は散歩に出る時間を倹約して、女二人と共に二階に
「高木はどうしたろう」という問が僕の口元までしばしば出た。けれども単なる消息の興味以外に、何かためにする不純なものが自分を前に押し出すので、その
三十一
千代子の様子はいつもの通り
千代子はかくのごとく明けっ放しであった。けれども夜が
「なぜ高木の話をしないのだろう」
僕は寝ながらこう考えて苦しんだ。同時にこんな問題に睡眠の時間を奪われる
僕がこうして同じ問題をいろいろに考えているうちに、同じ問題が僕にはいろいろに見えた。高木の名前を口へ出さないのは、全く彼女の僕に対する好意に過ぎない。僕に気を悪くさせまいと思う親切から彼女はわざとそれだけを遠慮したのである。こう解釈すると鎌倉にいた時の僕は、あれほど単純な彼女をして、僕の前に高木の二字を
僕は寝つかれないで負けている自分を
三十二
一時間ばかりして僕はむしろ疲れた顔を母からも千代子からも怪しまれに戻って来た。母はどこへ行ったのと聞いたが、
「
僕は千代子のこの言葉に対して答うべき
三人が同じ食卓で
妙な事を
「何に結おうかしら」
髪結は島田を勧めた。母も同じ意見であった。千代子は長い髪を背中に垂れたまま突然
「あなた何が好き」
「
僕はぎくりとした。千代子はまるで平気のように見えた。わざと僕の方をふり返って、「じゃ島田に結って見せたげましょうか」と笑った。「好いだろう」と答えた僕の声はいかにも
三十三
僕は千代子の髪のでき上らない先に二階へ
僕は自分で自分の事をかれこれ取り
僕は
僕は今いう通り早く二階へ
「
僕は僕の前にすぐこう云いながら坐る彼女を見た。
「おかしいでしょう。久しく結わないから」
「大変美くしくできたよ。これからいつでも島田に
「二三度
こんな事を聞いたり答えたり三四
三十四
それはほかでもない。しばらく千代子と話しているうちに、彼女が単に頭を見せに
「早いね。もう帰るのかい」と僕が云った。
「早かないわ、もう一晩泊ったんだから。だけどこんな頭をして帰ると何だかおかしいわね、御嫁にでも行くようで」と千代子が云った。
「まだみんな鎌倉にいるのかい」と僕が聞いた。
「ええ。なぜ」と千代子が聞き返した。
「高木さんも」と僕がまた聞いた。
高木という名前は今まで千代子も口にせず、僕も話頭に
僕が煮え切らないまた
ところが偶然高木の名前を口にした時、僕はたちまちこの尊敬を永久千代子に奪い返されたような心持がした。と云うのは、「高木さんも」という僕の問を聞いた千代子の表情が急に変化したのである。僕はそれを
「あなたそれほど高木さんの事が気になるの」
彼女はこう云って、僕が両手で耳を
「あなたは
「なぜって、あなた自分でよく解ってるじゃありませんか」
「解らないから聞かしておくれ」と僕が云った。僕は
「それが解らなければあなた馬鹿よ」
僕はおそらく
三十五
「千代ちゃんのような
「そんな事を誰が卑怯だと云うもんですか」
「しかし
「あなたこそあたしを軽蔑しているじゃありませんか。あたしの方がよっぽどよく知ってるわ」
僕はことさらに彼女のこの言葉を肯定する必要を認めなかったから、わざと返事を控えた。
「あなたはあたしを学問のない、
「それは御前が僕をぐずと
「じゃ卑怯の意味を話して上げます」と云って千代子は泣き出した。僕はこれまで千代子を自分より強い女と認めていた。けれども彼女の強さは単に
「あなたはあたしを
「そりゃ千代ちゃんの方だって……」
「まあ御聞きなさい。そんな事は御互だと云うんでしょう。そんならそれで
彼女はここへ来て急に
「あなたは
「侮辱を与えた覚はない」
「あります。言葉や仕打はどうでも構わないんです。あなたの態度が侮辱を与えているんです。態度が与えていないでも、あなたの心が与えているんです」
「そんな立ち入った批評を受ける義務は僕にないよ」
「男は卑怯だから、そう云う下らない