彼岸過迄 夏目漱石

.

 風呂の後
 
 
 
 
 
 
 
 一
 
 敬太郎けいたろうはそれほどげんの見えないこの間からの運動と奔走に少し厭気いやきして来た。元々頑丈がんじょうにできた身体からだだから単にけ歩くという労力だけなら大して苦にもなるまいとは自分でも承知しているが、思う事が引っかかったなり居据いすわって動かなかったり、または引っ懸ろうとして手を出す途端とたんにすぽりとはずれたりする反間へま度重たびかさなるに連れて、身体よりも頭の方がだんだん云う事を聞かなくなって来た。で、今夜は少ししゃくも手伝って、飲みたくもない麦酒ビールをわざとポンポン抜いて、できるだけ快豁かいかつな気分を自分といざなって見た。けれどもいつまでっても、ことさらに借着をして陽気がろうとする自覚が退かないので、しまいに下女を呼んで、そこいらを片づけさした。下女は敬太郎の顔を見て、「まあ田川さん」と云ったが、そのあとからまた「本当にまあ」とつけ足した。敬太郎は自分の顔をでながら、「赤いだろう。こんな好い色をいつまでも電灯に照らしておくのはもったいないから、もう寝るんだ。ついでに床を取ってくれ」と云って、下女がまだ何かやり返そうとするのをわざとはずして廊下へ出た。そうして便所から帰って夜具の中にもぐり込む時、まあ当分休養する事にするんだと口の内でつぶやいた。
 敬太郎は夜中に二へん眼をました。一度は咽喉のどが渇いたため、一度は夢を見たためであった。三度目に眼がいた時は、もう明るくなっていた。世の中が動き出しているなと気がつくやいなや敬太郎は、休養休養と云ってまた眼をねむってしまった。その次には気のかないボンボン時計の大きな音が無遠慮に耳に響いた。それからあとはいくら苦心しても寝つかれなかった。やむを得ず横になったまま巻煙草まきたばこを一本吸っていると、半分ほどに燃えて来た敷島しきしまの先が崩れて、白い枕が灰だらけになった。それでも彼はじっとしているつもりであったが、しまいに東窓から射し込む強い日脚ひあしに打たれた気味で、少し頭痛がし出したので、ようやくを折って起き上ったなり、楊枝ようじくわえたまま、手拭てぬぐいをぶら下げて湯に行った。
 湯屋の時計はもう十時少し廻っていたが、流しの方はからりと片づいて、小桶こおけ一つ出ていない。ただ浴槽ゆぶねの中に一人横向になって、硝子越ガラスごしに射し込んでくる日光をながめながら、呑気のんきそうにじゃぶじゃぶやってるものがある。それが敬太郎と同じ下宿にいる森本もりもとという男だったので、敬太郎はやあ御早うと声を掛けた。すると、向うでも、やあ御早うと挨拶あいさつをしたが、
「何です今頃楊枝ようじなぞをくわえ込んで、冗談じょうだんじゃない。そう云やあ昨夕ゆうべあなたの部屋に電気がいていないようでしたね」と云った。
「電気はよいの口から煌々こうこうと点いていたさ。僕はあなたと違って品行方正だから、夜遊びなんか滅多めったにした事はありませんよ」
「全くだ。あなたは堅いからね。うらやましいくらい堅いんだから」
 敬太郎は少し羞痒くすぐったいような気がした。相手を見ると依然として横隔膜おうかくまくから下を湯にけたまま、まだきずにじゃぶじゃぶやっている。そうして比較的真面目まじめな顔をしている。敬太郎はこの気楽そうな男の口髭くちひげがだらしなくれて一本一本下向したむきに垂れたところを眺めながら、
「僕の事はどうでも好いが、あなたはどうしたんです。役所は」と聞いた。すると森本は倦怠だるそうに浴槽のふち両肱りょうひじを置いてその上に額をせながら俯伏うっぷしになったまま、
「役所は御休みです」と頭痛でもする人のように答えた。
「何で」
「何ででもないが、僕の方で御休みです」
 敬太郎は思わず自分の同類を一人発見したような気がした。それでつい、「やっぱり休養ですか」と云うと、相手も「ええ休養です」と答えたなり元のとおり湯槽ゆぶねの側に突伏つっぷしていた。
 
 
 
 
 
 
 
 二
 
 敬太郎けいたろう留桶とめおけの前へ腰をおろして、三助さんすけ垢擦あかすりを掛けさせている時分になって、森本はやっとけむの出るような赤い身体からだを全く湯の中から露出した。そうして、ああ好い心持だという顔つきで、流しの上へぺたりと胡坐あぐらをかいたと思うと、
「あなたは好い体格だね」と云って敬太郎の肉付にくづきめ出した。
「これで近頃はだいぶ悪くなった方です」
「どうしてどうしてそれで悪かった日にゃ僕なんざあ」
 森本は自分で自分の腹をポンポンたたいて見せた。その腹はへこんで背中の方へひっつけられてるようであった。
「何しろ商売が商売だから身体はこわす一方ですよ。もっとも不養生もだいぶやりましたがね」と云った後で、急に思い出したようにアハハハと笑った。敬太郎はそれに調子を合せる気味で、
「今日は僕もひまだから、久しぶりでまたあなたの昔話でも伺いましょうか」と云った。すると森本は、
「ええ話しましょう」とすぐ乗気な返事をしたが、活溌かっぱつなのはただ返事だけで、挙動の方は緩慢かんまんというよりも、すべての筋肉が湯に※(「火+蝶のつくり」、第3水準1-87-56)でられた結果、当分作用はたらきを中止している姿であった。
 敬太郎が石鹸シャボンけた頭をごしごしいわしたり、堅い足の裏や指の股をこすったりする間、森本は依然として胡座をかいたまま、どこ一つ洗う気色けしきは見えなかった。最後にせた一塊ひとかたまりの肉団をどぶりと湯の中にほうり込むようにけて、敬太郎とほぼ同時に身体を拭きながら上って来た。そうして、
「たまに朝湯へ来ると綺麗きれいで好い心持ですね」と云った。
「ええ。あなたのは洗うんでなくって、本当に湯に這入はいるんだからことにそうだろう。実用のための入湯にゅうとうでなくって、快感をむさぼるための入浴なんだから」
「そうむずかしい這入り方でもないんでしょうが、どうもこんな時に身体なんか洗うな億劫おっくうでね。ついぼんやりつかってぼんやり出ちまいますよ。そこへ行くと、あなたは三層倍も勤勉まめだ。頭から足からどこからどこまで実によく手落なく洗いますね。御負おまけ楊枝ようじまで使って。あの綿密な事には僕もほとんど感心しちまった」
 二人は連立って湯屋の門口かどぐちを出た。森本がちょっと通りまで行って巻紙を買うからというので、敬太郎もつき合う気になって、横丁を東へ切れると、道が急に悪くなった。昨夕ゆうべの雨が土をふやかし抜いたところへ、今朝からの馬や車や人通りで、踏み返したり蹴上けあげたりした泥のあとを、二人はいとうような軽蔑けいべつするような様子で歩いた。日は高くのぼっているが、地面から吸い上げられる水蒸気はいまだにかすかな波動を地平線の上にえがいているらしい感じがした。
「今朝の景色けしき寝坊ねぼうのあなたに見せたいようだった。何しろ日がかんかん当ってるくせもやがいっぱいなんでしょう。電車をこっちからかして見ると、乗客がまるで障子しょうじに映る影画かげえのように、はっきり一人ひとり一人見分けられるんです。それでいて御天道様おてんとさまが向う側にあるんだからその一人一人がどれもこれもみんな灰色の化物に見えるんで、すこぶる奇観でしたよ」
 森本はこんな話をしながら、紙屋へ這入はいって巻紙と状袋でふくらましたふところをちょっと抑えながら出て来た。表に待っていた敬太郎はすぐ今来た道の方へ足を向け直した。二人はそのままいっしょに下宿へ帰った。上靴スリッパーかかとを鳴らして階段はしごだんを二つのぼり切った時、敬太郎は自分の部屋の障子を手早く開けて、
「さあどうぞ」と森本をいざなった。森本は、
「もうじき午飯ひるでしょう」と云ったが、躊躇ちゅうちょすると思いの外、あたかも自分の部屋へでも這入るような無雑作むぞうさな態度で、敬太郎の後にいて来た。そうして、
「あなたのへやから見た景色はいつ見ても好いね」と自分で窓の障子を開けながら、手摺付てすりつきの縁板の上へ濡手拭ぬれてぬぐいを置いた。
 
 
 
 
 
 
 
 三
 
 敬太郎けいたろうはこのせながら大した病気にもかからないで、毎日新橋の停車場ステーションへ行く男について、平生から一種の好奇心をっていた。彼はもう三十以上である。それでいまだに一人で下宿住居ずまいをして停車場へ通勤している。しかし停車場で何の係りをして、どんな事務を取扱っているのか、ついぞ当人に聞いた事もなければ、また向うから話したためしもないので、敬太郎には一切がエックスである。たまたま人を送って停車場へ行く場合もあるが、そんな時にはつい混雑にまぎれて、停車場と森本とをいっしょに考えるほどの余裕よゆうも出ず、そうかと云って、森本の方から自己の存在を思い起させるように、敬太郎の眼につくべき所へ顔を出す機会も起らなかった。ただ長い間同じ下宿に立籠たてこもっているという縁故だか同情だかがもとで、いつの間にか挨拶あいさつをしたり世間話をする仲になったまでである。
 だから敬太郎の森本に対する好奇心というのは、現在の彼にあると云うよりも、むしろ過去の彼にあると云った方が適当かも知れない。敬太郎はいつか森本の口から、彼が歴乎れっきとした一家の主人公であった時分の話を聞いた。彼の女房の話も聞いた。二人の間にできた子供の死んだ話も聞いた。「餓鬼がきが死んでくれたんで、まあ助かったようなもんでさあ。山神さんじんたたりには実際恐れをしていたんですからね」と云った彼の言葉を、敬太郎はいまだに覚えている。その時しかも山神が分らなくって、何だと聞き返したら、山の神の漢語じゃありませんかと教えられたおかしさまでまだ記憶に残っている。それらを思い出しても、敬太郎から見ると、すべて森本の過去には一種ロマンスのにおいが、箒星ほうきぼし尻尾しっぽのようにぼうっとおっかぶさって怪しい光を放っている。
 女についてできたとか切れたとかいう逸話以外に、彼はまたさまざまな冒険譚ぼうけんだんの主人公であった。まだ海豹島かいひょうとうへ行って膃肭臍おっとせいは打っていないようであるが、北海道のどこかでさけってもうけた事はたしかであるらしい。それから四国辺のある山から安質莫尼アンチモニーが出ると触れて歩いて、けっして出なかった事も、当人がそう自白するくらいだから事実に違ない。しかし最も奇抜なのは呑口会社のみぐちがいしゃの計画で、これは酒樽さかだるの呑口を作る職人が東京にごく少ないというところから思いついたのだそうだが、せっかく大阪から呼び寄せた職人と衝突したために成立しなかったと云って彼はいまだに残念がっている。
 儲口もうけぐちを離れた普通の浮世話になると、彼はまた非常に豊富な材料の所有者であるという事を容易に証拠立てる。筑摩川ちくまがわの上流の何とかいう所から河を隔てて向うの山を見ると、いわの上に熊がごろごろ昼寝をしているなどはまだ尋常の方なので、それが一層色づいて来ると、信州戸隠山とがくしやまの奥の院というのは普通の人の登れっこない難所だのに、それを盲目めくら天辺てっぺんまで登ったから驚ろいたなどという。そこへ御参おまいりをするには、どんなにあしの達者なものでも途中で一晩明かさなければならないので、森本も仕方なしに五合目あたりで焚火たきびをして夜の寒さをしのいでいると、下かられいの響が聞えて来たから、不思議に思っているうちに、その鈴のがだんだん近くなって、しまいに座頭ざとうのぼって来たんだと云う。しかもその座頭が森本に今晩はと挨拶あいさつをしてまたすたすた上って行ったと云うんだから、余り妙だと思ってなおよく聞いて見ると、実は案内者が一人ついていたのだそうである。その案内者の腰に鈴を着けて、あとから来る盲者めくらがその鈴の音を頼りに上る事ができるようにしてあったのだと説明されて、やや納得なっとくもできたが、それにしても敬太郎には随分意外な話である。が、それがもう少しこうじると、ほとんど妖怪談ようかいだんに近い妙なものとなって、だらしのない彼の口髭くちひげの下から最も慇懃いんぎんに発表される。彼が耶馬渓やばけいを通ったついでに、羅漢寺らかんじへ上って、日暮に一本道を急いで、杉並木の間を下りて来ると、突然一人の女とれ違った。その女は臙脂べにを塗って白粉おしろいをつけて、婚礼に行く時の髪をって、裾模様すそもよう振袖ふりそでに厚い帯をめて、草履穿ぞうりばきのままたった一人すたすた羅漢寺らかんじの方へのぼって行った。寺に用のあるはずはなし、また寺の門はもうまっているのに、女は盛装したまま暗い所をたった一人で上って行ったんだそうである。――敬太郎はこんな話を聞くたびにへえーと云って、信じられ得ない意味の微笑をらすにかかわらず、やっぱり相当の興味と緊張とをもって森本の弁口べんこうを迎えるのが例であった。
 
 
 
 
 
 
 
 四
 
 この日も例によって例のような話が出るだろうという下心から、わざと廻り路までしていっしょに風呂ふろから帰ったのである。年こそそれほど取っていないが、森本のように、大抵な世間の関門をくぐって来たとしか思われない男の経歴談は、この夏学校を出たばかりの敬太郎けいたろうに取っては、多大の興味があるのみではない、聞きようしだいで随分利益も受けられた。
 その上敬太郎は遺伝的に平凡を浪漫趣味ロマンチックの青年であった。かつて東京の朝日新聞に児玉音松こだまおとまつとかいう人の冒険談が連載された時、彼はまるで丁年ていねん未満の中学生のような熱心をもって毎日それを迎え読んでいた。そのうちでも音松君が洞穴の中からおどり出す大蛸おおだこと戦った記事を大変面白がって、同じ科の学生に、君、蛸の大頭を目がけて短銃ピストルをポンポン打つんだが、つるつるすべって少しも手応てごたえがないというじゃないか。そのうち大将の後からぞろぞろ出て来た小蛸こだこがぐるりとを作って彼を取り巻いたから何をするのかと思うと、どっちが勝つか熱心に見物しているんだそうだからねと大いに乗気で話した事がある。するとその友達が調戯からかい半分に、君のような剽軽ひょうきんものはとうてい文官試験などを受けて地道じみちに世の中を渡って行く気になるまい、卒業したら、いっその事思い切って南洋へでも出かけて、好きな蛸狩たこがりでもしたらどうだと云ったので、それ以来「田川たがわの蛸狩」という言葉が友達間にだいぶ流行はやり出した。この間卒業して以来足を擂木すりこぎのようにして世の中への出口を探して歩いている敬太郎に会うたびに、彼らはどうだね蛸狩は成功したかいと聞くのが常になっていたくらいである。
 南洋の蛸狩はいかな敬太郎にもちと奇抜きばつ過ぎるので、真面目まじめに思い立つ勇気も出なかったが、新嘉坡シンガポール護謨林ゴムりん栽培などは学生のうちすでに目論もくろんで見た事がある。当時敬太郎は、はてしのない広野ひろのめ尽すいきおいで何百万本という護謨の樹が茂っている真中に、一階建のバンガローをこしらえて、その中に栽培監督者としての自分が朝夕あさゆう起臥きがする様を想像してやまなかった。彼はバンガローのゆかをわざと裸にして、その上に大きな虎の皮を敷くつもりであった。壁には水牛の角を塗り込んで、それに鉄砲をかけ、なおその下に錦の袋に入れたままの日本刀を置くはずにした。そうして自分は真白なターバンをぐるぐる頭へ巻きつけて、広いヴェランダにえつけてある籐椅子といすの上に寝そべりながら、強いかおりのハヴァナをぷかりぷかりと鷹揚おうように吹かす気でいた。それのみか、彼の足の下には、スマタラ産の黒猫、――天鵞絨びろうどのような毛並と黄金こがねそのままの眼と、それから身のたけよりもよほど長い尻尾しっぽを持った怪しい猫が、背中を山のごとく高くして蹲踞うずくまっている訳になっていた。彼はあらゆる想像の光景をかく自分に満足の行くようにあらかじめ整えた後で、いよいよ実際の算盤そろばんに取りかかったのである。ところが案外なもので、まず護謨ゴムを植えるための地面を借り受けるのにだいぶんな手数てすうと暇がる。それから借りた地面を切り開くのが容易の事でない。次に地ならし植えつけに費やすべき金高かなだかが以外に多い。その上絶えず人夫を使って草取をした上で、六年間苗木なえぎの生長するのを馬鹿見たようにじっと指をくわえて見ていなければならない段になって、敬太郎はすでに充分退却に価すると思い出したところへ、彼にいろいろの事情を教えてくれた護謨つうは、今しばらくすると、あの辺でできる護謨の供給が、世界の需用以上に超過して、栽培者は非常の恐慌を起すに違ないと威嚇いかくしたので、彼はその後護謨の護の字も口にしなくなってしまったのである。
 
 
 
 
 
 
 
 五
 
 けれども彼の異常に対する嗜欲しよくはなかなかこれくらいの事で冷却しそうには見えなかった。彼は都の真中にいて、遠くの人や国を想像の夢にのぼして楽しんでいるばかりでなく、毎日電車の中で乗り合せる普通の女だの、または散歩の道すがら行き逢う実際の男だのを見てさえ、ことごとく尋常以上になあるものを、マントの裏かコートのそでに忍ばしていはしないだろうかと考える。そうしてどうかこのマントやコートをっくり返してその奇なところをただ一目ひとめで好いからちらりと見た上、後は知らん顔をして済ましていたいような気になる。
 敬太郎けいたろうのこの傾向は、彼がまだ高等学校にいた時分、英語の教師が教科書としてスチーヴンソンの新亜剌比亜物語しんアラビヤものがたりという書物を読ました頃からだんだん頭を持ち上げ出したように思われる。それまで彼はだい英語嫌えいごぎらいであったのに、この書物を読むようになってから、一回も下読を怠らずに、あてられさえすれば、必ず起立して訳を付けたのでも、彼がいかにそれを面白がっていたかが分る。ある時彼は興奮の余り小説と事実の区別を忘れて、十九世紀の倫敦ロンドンに実際こんな事があったんでしょうかと真面目まじめな顔をして教師に質問を掛けた。その教師はついこの間英国から帰ったばかりの男であったが、黒いメルトンのモーニングの尻から麻の手帛ハンケチを出して鼻の下をぬぐいながら、十九世紀どころか今でもあるでしょう。倫敦という所は実際不思議な都ですと答えた。敬太郎の眼はその時驚嘆の光を放った。すると教師は椅子いすを離れてこんな事を云った。
「もっとも書き手が書き手だから観察も奇抜だし、事件の解釈もおのずから普通の人間とは違うんで、こんなものができ上ったのかも知れません。実際スチーヴンソンという人は辻待つじまちの馬車を見てさえ、そこに一種のロマンスを見出すという人ですから」
 辻馬車とロマンスに至って敬太郎は少し分らなくなったが、思い切ってその説明を聞いて見て、始めてなるほどと悟った。それから以後は、この平凡きわまる東京のどこにでもごろごろして、最も平凡を極めている辻待の人力車を見るたんびに、この車だって昨夕ゆうべ人殺しをするための客を出刃でばぐるみ乗せていっさんにけたのかも知れないと考えたり、または追手おっての思わくとは反対の方角へ走る汽車の時間に間に合うように、美くしい女をほろの中に隠して、どこかの停車場ステーションへ飛ばしたのかも分らないと思ったりして、一人でこわがるやら、面白がるやらしきりに喜こんでいた。
 そんな想像を重ねるにつけ、これほど込み入った世の中だから、たとい自分の推測通りとまで行かなくっても、どこか尋常と変った新らしい調子を、彼の神経にはっと響かせ得るような事件に、一度ぐらいは出会であってしかるべきはずだという考えが自然と起ってきた。ところが彼の生活は学校を出て以来ただ電車に乗るのと、紹介状を貰って知らない人を訪問するくらいのもので、その他に何といって取り立てて云うべきほどの小説は一つもなかった。彼は毎日見る下宿の下女の顔にき果てた。毎日食う下宿のさいにも飽き果てた。せめてこの単調を破るために、満鉄の方ができるとか、朝鮮の方がまとまるとかすれば、まだ衣食のみち以外に、幾分かの刺戟しげきが得られるのだけれども、両方共二三日前に当分のぞみがないと判然して見ると、ますます眼前の平凡が自分の無能力と密切な関係でもあるかのように思われて、ひどくぼんやりしてしまった。それで糊口ここうのための奔走はもちろんの事、往来に落ちたばらせんさがして歩くような長閑のどかな気分で、電車に乗って、漫然と人事上の探検を試みる勇気もなくなって、昨夕はさほど好きでもない麦酒ビールを大いに飲んで寝たのである。
 こんな時に、非凡の経験に富んだ平凡人とでも評しなければ評しようのない森本の顔を見るのは、敬太郎にとってすでに一種の興奮であった。巻紙を買う御供おともまでして彼を自分のへやへ連れ込んだのはこれがためである。
 
 
 
 
 
 
 
 六
 
 森本は窓際まどぎわへ坐ってしばらく下の方をながめていた。
「あなたのへやから見た景色けしきは相変らず好うがすね、ことに今日は好い。あの洗い落したような空のすそに、色づいた樹が、所々あったかくかたまっている間から赤い煉瓦れんがが見える様子は、たしかにになりそうですね」
「そうですね」
 敬太郎けいたろうはやむを得ずこういう答をした。すると森本は自分がひじを乗せている窓から一尺ばかり出張った縁板を見て、
「ここはどうしても盆栽ぼんさいの一つや二つせておかないと納まらない所ですよ」と云った。
 敬太郎はなるほどそんなものかと思ったけれども、もう「そうですね」を繰り返す勇気も出なかったので、
「あなたは画や盆栽まで解るんですか」と聞いた。
「解るんですかは少し恐れ入りましたね。全くがらにないんだから、そう聞かれても仕方はないが、――しかし田川さんの前だが、こう見えて盆栽もいじくるし、金魚も飼うし、一時は画も好きでよくいたもんですよ」
「何でもやるんですね」
「何でも屋にろくなものなしで、とうとうこんなもんになっちゃった」
 森本はそう云い切って、自分の過去を悔ゆるでもなし、またその現在を悲観するでもなし、ほとんど鋭どい表情のどこにも出ていない不断の顔をして敬太郎を見た。
「しかし僕はあなた見たように変化の多い経験を、少しでも好いからめて見たいといつでもそう思っているんです」と敬太郎が真面目まじめに云いかけると、森本はあたかも酔っ払のように、右の手を自分の顔の前へ出して、大袈裟おおげさに右左に振って見せた。
「それがごく悪い。若い内――と云ったところで、あなたと僕はそう年も違っていないようだが、――とにかく若い内は何でも変った事がしてみたいもんでね。ところがその変った事を仕尽した上で、考えて見ると、何だ馬鹿らしい、こんな事ならしない方がよっぽど増しだと思うだけでさあ。あなたなんざ、これからの身体からだだ。おとなしくさえしていりゃどんな発展でもできようってもんだから、肝心かんじんなところで山気やまぎだの謀叛気むほんぎだのって低気圧を起しちゃ親不孝に当らあね。――時にどうです、この間から伺がおう伺がおうと思って、つい忙がしくって、伺がわずにいたんだが、何か好い口は見付めっかりましたか」
 正直な敬太郎は憮然ぶぜんとしてありのままを答えた。そうして、とうてい当分これという期待あてもないから、奔走をやめて少し休養するつもりであるとつけ加えた。森本はちょっと驚ろいたような顔をした。
「へえー、近頃は大学を卒業しても、ちょっくらちょいと口が見付からないもんですかねえ。よっぽど不景気なんだね。もっとも明治も四十何年というんだから、そのはずには違ないが」
 森本はここまで来て少し首をかしげて、自分の哲理を自分でみしめるような素振そぶりをした。敬太郎は相手の様子を見て、それほど滑稽こっけいとも思わなかったが、心の内で、この男は心得があってわざとこんな言葉遣ことばづかいをするのだろうか、または無学の結果こうよりほか言い現わす手段てだてを知らないのだろうかと考えた。すると森本がかしげた首を急にたてに直した。
「どうです、御厭おいやでなきゃ、鉄道の方へでも御出おでなすっちゃ。何なら話して見ましょうか」
 いかな浪漫的ロマンチックな敬太郎もこの男に頼んだら好い地位が得られるとは想像し得なかった。けれどもさも軽々と云って退ける彼の愛嬌あいきょうを、翻弄ほんろうと解釈するほどのひがみももたなかった。拠処よんどころなく苦笑しながら、下女を呼んで、
「森本さんの御膳おぜんもここへ持って来るんだ」と云いつけて、酒を命じた。
 
 
 
 
 
 
 
 七
 
 森本は近頃身体からだのために酒を慎しんでいると断わりながら、いでやりさえすれば、すぐ猪口ちょくからにした。しまいにはもう止しましょうという口の下から、自分で徳利の尻を持ち上げた。彼は平生から閑静なうちにどこか気楽な風を帯びている男であったが、猪口を重ねるにつれて、その閑静がほてってくる、気楽はしだいしだいに膨脹ぼうちょうするように見えた。自分でも「こうなりゃ併呑自若へいどんじじゃくたるもんだ。明日あした免職になったって驚ろくんじゃない」と威張り出した。敬太郎が飲めない口なので、時々思い出すように、さかずきくちびるを付けて、付合つきあっているのを見て、彼は、
「田川さん、あなた本当にけないんですか、不思議ですね。酒を飲まないくせに冒険を愛するなんて。あらゆる冒険は酒に始まるんです。そうして女に終るんです」と云った。彼はつい今まで自分の過去をろくでなしのようになしていたのに、酔ったら急に模様が変って、後光ごこうぎゃくに射すとでも評すべき態度で、※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)きえんき始めた。そうしてそれが大抵は失敗の気※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)であった。しかも敬太郎を前に置いて、
「あなたなんざあ、失礼ながら、まだ学校を出たばかりで本当の世の中は御存じないんだからね。いくら学士でございの、博士でそうろうのって、肩書ばかり振り廻したって、僕はおびえないつもりだ。こっちゃちゃんと実地を踏んで来ているんだもの」と、さっきまで教育に対して多大の尊敬を払っていた事はまるで忘れたような風で、無遠慮なきめつけ方をした。そうかと思うとげっぷのような溜息ためいきらして自分の無学をさもなさけなさそうにうらんだ。
「まあ手っ取り早く云やあ、この世の中を猿同然どうぜん渡って来たんでさあ。こう申しちゃおかしいが、あなたより十層倍の経験はたしかに積んでるつもりです。それでいて、いまだにこの通り解脱げだつができないのは、全く無学すなわち学がないからです。もっとも教育があっちゃ、こうむやみやたらと変化する訳にも行かないようなもんかも知れませんよ」
 敬太郎はさっきから気の毒なる先覚者とでも云ったように相手を考えて、その云う事に相応の注意を払って聞いていたが、なまじい酒を飲ましたためか、今日はいつもより気※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)だの愚痴ぐちだのが多くって、例のように純粋の興味がかないのを残念に思った。好い加減に酒を切り上げて見たが、やっぱり物足らなかった。それで新らしく入れた茶をすすめながら、
「あなたの経歴談はいつ聞いても面白い。そればかりでなく、僕のような世間見ずは、御話を伺うたんびに利益を得ると思って感謝しているんだが、あなたが今までやって来た生活のうちで、最も愉快だったのは何ですか」と聞いて見た。森本は熱い茶を吹き吹き、少し充血した眼を二三度ぱちつかせて黙っていた。やがて深い湯呑ゆのみを干してしまうとこう云った。
「そうですね。やったあとで考えると、みんな面白いし、またみんなつまらないし、自分じゃちょっと見分がつかないんだが。――全体愉快ってえのは、その、女気おんなっけのある方を指すんですか」
「そう云う訳でもないんですが、あったって差支さしつかえありません」
「なんて、実はそっちの方が聞きたいんでしょう。――しかし雑談じょうだん抜きでね、田川さん。面白い面白くないはさておいて、あれほど呑気のんきな生活は世界にまたとなかろうという奴をやったおぼえがあるんですよ。そいつを一つ話しましょうか、御茶受の代りに」
 敬太郎は一も二もなく所望した。森本は「じゃあちょっと小便をして来る」と云って立ちかけたが、「その代り断わっておくが女気はありませんよ。女気どころか、第一人間のがないんだもの」と念を押して廊下の外へ出て行った。敬太郎は一種の好奇心をいだいて、彼の帰るのを待ち受けた。
 
 
 
 
 
 
 

Pages 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14