彼岸過迄 夏目漱石

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 八
 
 ところが五分待っても十分待っても冒険家は容易に顔を現わさなかった。敬太郎けいたろうはとうとうじっと我慢しきれなくなって、自分で下へ降りて用場を探して見ると、森本の影も形も見えない。念のためまた階段はしごだんあがって、彼の部屋の前まで来ると、障子しょうじを五六寸明け放したまま、真中に手枕をしてごろりと向うむきにころがっているものがすなわち彼であった。「森本さん、森本さん」と二三度呼んで見たが、なかなか動きそうにないので、さすがの敬太郎もむっとして、いきなりへや這入はいり込むや否や、森本の首筋をつかんで強く揺振ゆすぶった。森本は不意にはちにでもされたように、あっと云ってなかね起きた。けれども振り返って敬太郎の顔を見ると同時に、またすぐ夢現ゆめうつつのたるい眼つきに戻って、
「やああなたですか。あんまりちょうだいしたせいか、少し気分が変になったもんだから、ここへ来てちょっと休んだらつい眠くなって」と弁解する様子に、これといってひと愚弄ぐろうするていもないので、敬太郎もついおこれなくなった。しかし彼の待ち設けた冒険談はこれで一頓挫いちとんざきたしたも同然なので、一人自分のへやに引取ろうとすると、森本は「どうもすみません、御苦労様でした」と云いながら、またあとから敬太郎について来た。そうして先刻さっきまで自分のすわっていた座蒲団ざぶとんの上に、きちんとひざを折って、
「じゃいよいよ世界に類のない呑気生活の御話でも始めますかな」と云った。
 森本の呑気生活というのは、今から十五六年ぜん彼が技手に雇われて、北海道の内地を測量して歩いた時の話であった。もとより人間のいない所に天幕テントを張って寝起をして、用が片づきしだい、また天幕をかついで、先へ進むのだから、当人の断った通り、とうてい女っのありようはずはなかった。
「何しろ高さ二丈もある熊笹くまざさを切り開いてみちをつけるんですからね」と彼は右手を額より高く上げて、いかに熊笹が高く茂っていたかを形容した。その切り開いた途の両側に、朝起きて見ると、蝮蛇まむしがとぐろを巻いて日光をうろこの上に受けている。それを遠くから棒でおさえておいて、そばへ寄ってち殺して肉を焼いて食うのだと彼は話した。敬太郎がどんな味がすると聞くと、森本はよく思い出せないが、何でも魚肉さかな獣肉にくの間ぐらいだろうと答えた。
 天幕テントの中へは熊笹の葉と小枝を山のように積んで、その上に疲れた身体からだうずめぬばかりに投げかけるのが例であるが、時には外へ出て焚火たきびをして、大きな熊を眼の前に見る事もあった。虫が多いので蚊帳かや始終しじゅう釣っていた。ある時その蚊帳をかついで谷川へ下りて、何とかいう川魚をすくって帰ったら、その晩から蚊帳が急になまぐさくなって困った。――すべてこれらは森本のいわゆる呑気生活の一部分であった。
 彼はまた山であらゆるたけって食ったそうである。ますだけというのは広葢ひろぶたほどの大きさで、切って味噌汁みそしるの中へ入れて煮るとまるで蒲鉾かまぼこのようだとか、月見茸つきみだけというのは一抱ひとかかえもあるけれども、これは残念だが食えないとか、鼠茸ねずみだけというのは三つ葉の根のようで可愛かわいらしいとか、なかなかくわしい説明をした。大きなかさの中へ、野葡萄のぶどうをいっぱい採って来て、そればかりむさぼっていたものだから、しまいにしたが荒れて、飯が食えなくなって困ったという話もついでにつけ加えた。
 食う話ばかりかと思うと、また一週間絶食をしたという悲酸ひさんな物語もあった。それはみんなのかてが尽きたので、人足が村まで米を取りに行った留守中に大変な豪雨があった時の事である。元々村へ出るには、沢辺さわべまで降りて、沢伝いに里へ下るのだから、俄雨にわかあめで谷が急にいっぱいになったが最後、米など背負しょって帰れる訳のものでない。森本は腹が減って仕方がないから、じっと仰向あおむけに寝て、ただ空をながめていたところが、しまいにぼんやりし出して、夜も昼もめちゃくちゃに分らなくなったそうである。
「そう長い間飲まず食わずじゃ、両便りょうべんともまるでしょう」と敬太郎が聞くと、「いえ何、やっぱりありますよ」と森本はすこぶる気楽そうに答えた。
 
 
 
 
 
 
 
 九
 
 敬太郎けいたろうは微笑せざるを得なかった。しかしそれよりもおかしく感じたのは、森本の形容した大風の勢であった。彼らの一行が測量の途次茫々ぼうぼうたる芒原すすきはらの中で、突然おもても向けられないほどの風に出会った時、彼らはばいになって、つい近所の密林の中へ逃げ込んだところが、一抱ひとかかえ二抱ふたかかえもある大木の枝も幹もすさまじい音を立てて、一度に風から痛振いたぶられるので、その動揺が根に伝わって、彼らの踏んでいる地面が、地震の時のようにぐらぐらしたと云うのである。
「それじゃたとい林の中へ逃げ込んだところで、立っている訳に行かないでしょう」と敬太郎が聞くと、「無論突伏していました」という答であったが、いくら非道ひどい風だって、土の中に張った大木の根が動いて、地震を起すほどのいきおいがあろうとは思えなかったので、敬太郎は覚えず吹き出してしまった。すると森本もまるで他事ひとごとのように同じく大きな声を出して笑い始めたが、それがすむと、急に真面目まじめになって、敬太郎の口を抑えるような手つきをした。
「おかしいが本当です。どうせ常識以下に飛び離れた経験をするくらいの僕だから、不中用やくざにゃあ違ないが本当です。――もっともあなた見たいに学のあるものが聞きゃあ全くうそのような話さね。だが田川さん、世の中には大風に限らず随分面白い事がたくさんあるし、またあなたなんざあその面白い事にぶつかろうぶつかろうと苦労して御出おいでなさる御様子だが、大学を卒業しちゃもう駄目ですよ。いざとなると大抵は自分の身分を思いますからね。よしんば自分でいくら身を落すつもりでかかっても、まさか親の敵討かたきうちじゃなしね、そう真剣に自分の位地いちてて漂浪ひょうろうするほどの物数奇ものずきも今の世にはありませんからね。第一はたがそうさせないから大丈夫です」
 敬太郎は森本のこの言葉を、失意のようにもまた得意のようにも聞いた。そうして腹の中で、なるほど常調じょうちょう以上の変った生活は、普通の学士などには送れないかも知れないと考えた。ところがそれを自分にさえおさえたい気がするので、わざと抵抗するような語気で、
「だって、僕は学校を出たには出たが、いまだに位置などは無いんですぜ。あなたは位置位置ってしきりに云うが。――実際位置の奔走にも厭々あきあきしてしまった」と投げ出すように云った。すると森本は比較的厳粛げんしゅくな顔をして、
「あなたのは位置がなくってある。僕のは位置があって無い。それだけが違うんです」と若いものに教える態度で答えた。けれども敬太郎にはこの御籤おみくじめいた言葉がさほどの意義をもたらさなかった。二人は少しの間煙草たばこを吹かして黙っていた。
「僕もね」とやがて森本が口を開いた。「僕もね、こうやって三年越、鉄道の方へ出ているが、もういやになったから近々きんきんめようと思うんです。もっとも僕の方で罷めなけりゃ向うで罷めるだけなんだからね。三年越と云やあ僕にしちゃ長い方でさあ」
 敬太郎は罷めるが好かろうとも罷めないが好かろうとも云わなかった。自分が罷めた経験も罷められた閲歴もないので、ひとの進退などはどうでも構わないような気がした。ただ話が理に落ちて面白くないという自覚だけあった。森本はそれと察したか、急に調子をえて、世間話を快活に十分ほどしたあとで、「いやどうも御馳走ごちそうでした。――とにかく田川さん若いうちの事ですよ、何をやるのも」と、あたかも自分が五十ぐらいの老人のようなことを云って帰って行った。
 それから一週間ばかりの間、田川は落ちついて森本と話す機会をたなかったが、二人共同じ下宿にいるのだから、朝か晩に彼の姿を認めない事はほとんどまれであった。顔を洗う所などで落ち合う時、敬太郎は彼の着ている黒襟くろえりの掛ったドテラが常に目についた。彼はまた襟開えりあきの広い新調の背広せびろを着て、妙な洋杖ステッキを突いて、役所から帰るとよく出て行った。その洋杖が土間の瀬戸物製の傘入かさいれに入れてあると、ははあ先生今日はうちにいるなと思いながら敬太郎は常に下宿のかど出入でいりした。するとその洋杖ステッキがちゃんと例の所に立ててあるのに、森本の姿が不意に見えなくなった。
 
 
 
 
 
 
 
 十
 
 一日二日はつい気がつかずに過ぎたが、五日目ぐらいになっても、まだ森本の影が見えないので、敬太郎けいたろうはようやく不審の念を起し出した。給仕に来る下女に聞いて見ると、彼は役所の用でどこかへ出張したのだそうである。もとより役人である以上、いつ出張しないとも限らないが、敬太郎は平生からこの男をそうして、何でも停車場ステーションの構内で、貨物の発送係ぐらいを勤めているに違ないと判じていたものだから、出張と聞いて少し案外な心持がした。けれども立つ時すでに五六日と断って行ったのだから、今日か翌日あしたは帰るはずだと下女に云われて見ると、なるほどそうかとも思った。ところが予定の時日が過ぎても、森本の変な洋杖が依然として傘入の中にあるのみで、当人のドテラ姿はいっこう洗面所へ現われなかった。
 しまいに宿のかみさんが来て、森本さんから何か御音信おたよりがございましたかと聞いた。敬太郎は自分の方で下へ聞きに行こうと思っていたところだと答えた。神さんは多少心元ない色をふくろのような丸い眼のうちただよわせて出て行った。それから一週間ほどっても森本はまだ帰らなかった。敬太郎も再び不審をいだき始めた。帳場の前を通る時に、まだですかとわざと立ち留って聞く事さえあった。けれどもその頃は自分がまた思い返して、位置の運動を始め出した出花でばななので、自然その方にばかり頭を専領される日が多いため、これより以上立ち入って何物をも探る事をあえてしなかった。実を云うと、彼は森本の予言通り、衣食のはかりごとのために、好奇家の権利を放棄したのである。
 すると或晩主人がちょっと御邪魔をしても好いかと断わりながら障子しょうじを開けて這入はいって来た。彼は腰から古めかしい煙草入たばこいれを取り出して、そのつつを抜く時ぽんという音をさせた。それから銀の煙管きせる刻草きざみを詰めて、濃い煙を巧者に鼻の穴からほとばしらせた。こうゆっくり構える彼の本意を、敬太郎は判然はっきり向うからそうと切り出されるまでさとらずに、どうも変だとばかり考えていた。
「実は少し御願があって上ったんですが」と云った主人はやや小声になって、「森本さんのいらっしゃる所をどうか教えて頂く訳に参りますまいか、けっしてあなたに御迷惑のかかるような事は致しませんから」とやぶから棒につけ加えた。
 敬太郎はこの意外の質問を受けて、しばらくは何という挨拶あいさつも口へ出なかったが、ようやく、「いったいどう云う訳なんです」と主人の顔をのぞき込んだ。そうして彼の意味を読もうとしたが、主人は煙管が詰ったと見えて、敬太郎の火箸ひばし雁首がんくびを掘っていた。それが済んでから羅宇らうの疎通をぷっぷっ試した上、そろそろと説明に取りかかった。
 主人の云うところによると、森本は下宿代が此家ここに六カ月ばかりとどこおっているのだそうである。が、三年越しいる客ではあるし、遊んでいる人じゃなし、此年ことしの末にはどうかするからという当人の言訳を信用して、別段催促もしなかったところへ、今度の旅行になった。うちのものはもとより出張とばかり信じていたが、その日限にちげんが過ぎていくら待っても帰らないのみか、どこからも何の音信たよりも来ないので、しまいにとうとう不審を起した。それで一方に本人のへやを調べると共に、一方に新橋へ行って出張先を聞き合せた。ところが室の方は荷物もそのままで、彼のおった時分と何の変りもなかったが、新橋の答はまた案外であった。出張したとばかり思っていた森本は、先月限りめられていたそうである。
「それであなたは平生森本さんと御懇意の間柄でいらっしゃるんだから、あなたに伺ったら多分どこに御出おいでか分るだろうと思って上ったような訳で。けっしてあなたに森本さんの分をどうのこうのと申し上げるつもりではないのですから、どうか居所だけ知らして頂けますまいか」
 敬太郎はこの失踪者しっそうしゃの友人として、彼のかんばしからぬ行為に立ち入った関係でもあるかのごとく主人から取扱われるのをはなはだ迷惑に思った。なるほど事実をいえば、ついこの間まである意味の嘆賞たんしょうふところにして森本に近づいていたには違ないが、こんな実際問題にまで秘密の打ち合せがあるように見做みなされては、未来をつ青年として大いなる不面目だと感じた。
 
 
 
 
 
 
 
 十一
 
 正直な彼は主人の疳違かんちがいを腹の中でおこった。けれども怒る前にまず冷たい青大将あおだいしょうでも握らせられたような不気味さを覚えた。この妙に落ちつき払って古風な煙草入たばこいれからきざみをつまみ出しては雁首がんくびへ詰める男の誤解は、正解と同じような不安を敬太郎けいたろうに与えたのである。彼は談判に伴なう一種の芸術のごとく巧みに煙管きせるを扱かう人であった。敬太郎は彼の様子をしばらくながめていた。そうしてただ知らないというよりほかに、向うの疑惑を晴らす方法がないのを残念に思った。はたして主人は容易に煙草入を腰へ納めなかった。煙管を筒へ入れて見たり出して見たりした。そのたびに例の通りぽんぽんという音がした。敬太郎はしまいにどうしてもこの音を退治たいじてやりたいような気がし出した。
「僕はね、御承知の通り学校を出たばかりでまだ一定の職業もなにもない貧書生だが、これでも少しは教育を受けた事のある男だ。森本のような浮浪のといっしょに見られちゃ、少し体面にかかわる。いわんや後暗うしろぐらい関係でもあるように邪推して、いくら知らないと云っても執濃しつこく疑っているのはしからんじゃないか。君がそういう態度で、二年もいる客に対する気ならそれで好い。こっちにも料簡りょうけんがある。僕は過去二年の間君のうちに厄介になっているが、一カ月でも宿料しゅくりょうとどこおらした事があるかい」
 主人は無論敬太郎の人格に対して失礼に当るような疑を毛頭いだいていないつもりであるという事を繰り返して述べた。そうして万一森本から音信でもあって、彼の居所が分ったらどうぞ忘れずに教えてもらいたいと頼んだ末、もしさっき聞いた事が敬太郎の気にさわったら、いくらでもあやまるから勘弁してくれと云った。敬太郎は主人の煙草入たばこいれを早く腰に差させようと思って、単によろしいと答えた。主人はようやく談判の道具を角帯かくおびの後へしまい込んだ。へやを出る時の彼の様子に、別段敬太郎を疑ぐる気色けしきも見えなかったので、敬太郎は怒ってやって好い事をしたと考えた。
 それからしばらく経つと、森本の室に、いつの間にか新らしい客が這入はいった。敬太郎は彼の荷物を主人がどう片づけたかについて不審をいだいた。けれども主人がかの煙草入を差して談判に来て以来、森本の事はもう聞くまいと決心したので、腹の中はともかく、上部うわべは知らん顔をしていた。そうして依然としてできるようなまたできないような地位を、元ほど焦燥あせらない程度ながらも、まず自分のやるべき第一の義務として、根気にるいていた。
 或る晩もその用で内幸町まで行って留守をったのでやむを得ずまた電車で引き返すと、偶然向う側に黄八丈きはちじょう袢天はんてんで赤ん坊をおぶった婦人が乗り合せているのに気がついた。その女は眉毛まゆげの細くて濃い、首筋の美くしくできた、どっちかと云えばいきな部類に属する型だったが、どうしても袢天おんぶをするというがらではなかった。と云って、背中の子はたしかに自分の子に違ないと敬太郎は考えた。なおよく見ると前垂まえだれの下から格子縞こうしじまか何かの御召おめしが出ているので、敬太郎はますます変に思った。外面そとは雨なので、五六人の乗客は皆かさをつぼめてつえにしていた。女のは黒蛇目くろじゃのめであったが、冷たいものを手に持つのがいやだと見えて、彼女はそれを自分のわきに立て掛けておいた。その畳んだじゃの先に赤いうるし加留多かるたと書いてあるのが敬太郎の眼に留った。
 この黒人くろうとだか素人しろうとだか分らない女と、私生児だか普通の子だか怪しい赤ん坊と、濃いまゆを心持八の字に寄せて俯目勝ふしめがちな白い顔と、御召おめしの着物と、黒蛇の目にあざやかな加留多という文字とが互違たがいちがいに敬太郎の神経を刺戟しげきした時、彼はふと森本といっしょになって子まで生んだという女の事を思い出した。森本自身の口から出た、「こういうと未練があるようでおかしいが、顔質かおだちは悪い方じゃありませんでした。眉毛まみえの濃い、時々八の字を寄せて人に物を云う癖のある」といったような言葉をぽつぽつ頭の中でおもい起しながら、加留多と書いた傘の所有主もちぬしを注意した。すると女はやがて電車を下りて雨の中に消えて行った。後に残った敬太郎は一人森本の顔や様子を心に描きつつ、運命が今彼をどこに連れ去ったろうかと考え考え下宿へ帰った。そうして自分の机の上に差出人の名前の書いてない一封の手紙を見出した。
 
 
 
 
 
 
 
 十二
 
 好奇心にられた敬太郎けいたろうは破るようにこの無名氏の書信をひらいて見た。すると西洋罫紙せいようけいしの第一行目に、親愛なる田川君として下に森本よりとあるのが何より先に眼に入った。敬太郎はすぐまた封筒を取り上げた。彼は視線の角度を幾通りにも変えて、そこに消印の文字を読もうとつとめたが、肉が薄いのでどうしても判断がつかなかった。やむを得ず再び本文に立ち帰って、まずそれから片づける事にした。本文にはこうあった。
「突然消えたんで定めて驚ろいたでしょう。あなたは驚ろかないにしても、雷獣らいじゅうとそうしてズク(森本は平生下宿の主人夫婦を、雷獣とそうしてズクと呼んでいた。ズクは耳ズクの略である)彼ら両人は驚ろいたに違ない。打ち明けた御話をすると、実は少し下宿代をとどこおらしていたので、話をしたら雷獣とそうしてズクが面倒をいうだろうと思って、わざと断らずに、自由行動を取りました。僕のへやに置いてある荷物を始末したら――行李こりの中には衣類その他がすっかり這入はいっていますから、相当の金になるだろうと思うんです。だから両人にあなたから右を売るなり着るなりしろとおっしゃっていただきたい。もっとも彼雷獣は御承知のごとき曲者くせものゆえ僕の許諾を待たずして、とっくの昔にそう取計っているかも知れない。のみならず、こっちからそう穏便おんびんに出ると、まだ残っている僕の尻を、あなたに拭って貰いたいなどと、とんでもない難題を持ちかけるかも知れませんが、それにはけっして取り合っちゃいけません。あなたのように高等教育を受けて世の中へ出たての人はとかく雷獣はい食物くいものにしたがるものですから、そのへんはよく御注意なさらないといけません。僕だって教育こそないが、借金を踏んじゃくないくらいの事はまさかに心得ています。来年になればきっと返してやるつもりです。僕に意外な経歴が数々あるからと云って、あなたにこの点まで疑われては、せっかくの親友を一人失くしたも同様、はなはだ遺憾いかんいたりだから、どうか雷獣ごときもののために僕を誤解しないように願います」
 森本は次に自分が今大連で電気公園の娯楽がかりを勤めているよしを書いて、来年の春には活動写真買入の用向を帯びて、是非共出京するはずだから、その節は御地で久しぶりに御目にかかるのを今からたのしみにして待っているとつけ加えていた。そうしてそのあとへ自分が旅行した満洲まんしゅう地方の景況をさも面白そうに一口ぐらいずつ吹聴ふいちょうしていた。中で最も敬太郎を驚ろかしたのは、長春ちょうしゅんとかにある博打場ばくちばの光景で、これはかつて馬賊の大将をしたというさる日本人の経営に係るものだが、そこへ行って見ると、何百人と集まる汚ない支那人が、折詰のようにぎっしり詰って、血眼ちまなこになりながら、一種の臭気しゅうきを吐き合っているのだそうである。しかも長春の富豪が、なぐさみ半分わざとあかだらけな着物を着て、こっそりここへ出入しゅつにゅうするというんだから、森本だってどんな真似まねをしたか分らないと敬太郎は考えた。
 手紙の末段には盆栽ぼんさいの事が書いてあった。「あの梅の鉢は動坂どうざかの植木屋で買ったので、幹はそれほど古くないが、下宿の窓などにせておいて朝夕あさゆうながめるにはちょうど手頃のものです。あれを献上けんじょうするからあなたのへやへ持っていらっしゃい。もっとも雷獣らいじゅうとそうしてズクは両人共きわめて不風流ゆえ、床の間の上へえたなり放っておいて、もう枯らしてしまったかも知れません。それから上り口の土間の傘入かさいれに、僕の洋杖ステッキが差さっているはずです。あれも価格ねだんから云えばけっして高く踏めるものではありませんが、僕の愛用したものだから、紀念のため是非あなたに進上したいと思います。いかな雷獣とそうしてズクもあの洋杖をあなたが取ったって、まさか故障は申し立てますまい。だからけっして御遠慮なさらずと好い。取って御使いなさい。――満洲ことに大連ははなはだ好い所です。あなたのような有為の青年が発展すべき所は当分ほかに無いでしょう。思い切って是非いらっしゃいませんか。僕はこっちへ来て以来満鉄の方にもだいぶ知人ができたから、もしあなたが本当に来る気なら、相当の御世話はできるつもりです。ただしその節は前もってちょっと御通知を願います。さよなら」
 敬太郎は手紙を畳んで机の抽出ひきだしへ入れたなり、主人夫婦へは森本の消息について、何事も語らなかった。洋杖は依然として、傘入の中に差さっていた。敬太郎は出入でいり都度つど、それを見るたびに一種妙な感に打たれた。
 
 
 
 
 
 
 
 

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