彼岸過迄 夏目漱石

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 報告
 
 
 
 
 
 
 
 一
 
 眼がめると、自分の住みれた六畳に、いつもの通り寝ている自分が、敬太郎けいたろうには全く変に思われた。昨日きのうの出来事はすべて本当のようでもあった。またまとまりのない夢のようでもあった。もっと綿密に形容すれば、「本当の夢」のようでもあった。酔った気分で町の中に活動したという記憶も伴なっていた。それよりか、酔った気分が世の中にち充ちていたという感じが一番強かった。停留所も電車も酔った気分に充ちていた。宝石商も、革屋かわやも、赤と青の旗振りも、同じ空気に酔っていた。薄青いペンキ塗の洋食店の二階も、そこに席を占めたまゆの間に黒子ほくろのある紳士も、色の白い女も、ことごとくこの空気に包まれていた。二人の話しに出て来る、どこにあるか分らない所の名も、男が女にやる約束をした珊瑚さんごたまも、みんな陶然とうぜんとした一種の気分を帯びていた。最もこの気分にちて活躍したものは竹の洋杖ステッキであった。彼がその洋杖を突いたまま、ほろを打つ雨の下で、方角に迷った時の心持は、この気分の高潮に達した幕前の一区切ひとくぎりとして、ほとんど狐から取りかれた人の感じを彼に与えた。彼はその時店のびしく照らされたびしょれの往来と、坂の上に小さく見える交番と、その左手にぼんやり黒くうつる木立とを見廻して、はたしてこれが今日の仕事の結末かと疑ぐった。彼はやむを得ず車夫に梶棒かじぼうを向け直させて、思いも寄らない本郷へ行けと命じた事を記憶していた。
 彼は寝ながら天井てんじょうながめて、自分に最も新らしい昨日の世界を、幾順となく眼の前に循環させた。彼は二日酔ふつかよいの眼と頭をもって、かいこの糸をくようにそれからそれへと出てくるこの記念かたみかず見つめていたが、しまいには眼先にただようふわふわした夢の蒼蠅うるささにえなくなった。それでもあとから後からと向うでひと勝手がってに現われて来るので、彼は正気でありながら、何かに魅入られたのではなかろうかと云う疑さえ起した。彼はこの浅い疑に関聯かんれんして、例の洋杖を胸に思い浮べざるを得なかった。昨日の男も女も彼の眼には絵を見るほど明らかであった。容貌ようぼうもとより服装なりから歩きつきに至るまでことごとく記憶の鏡に判切はっきりと映った。それでいて二人とも遠くの国にいるような心持がした。遠くの国にいながら、つい近くにあるものを見るように、あざやかな色と形を備えてひとみおかして来た。この不思議な影響が洋杖から出たかも知れないという神経を敬太郎はどこかに持っていた。彼は昨夕ゆうべ法外な車賃を貪ぼられて、宿の門口かどぐちくぐった時、何心なくその洋杖を持ったまま自分のへやまで帰って来て、これは人の目に触れる所に置くべきものでないという顔をして、寝る前に、戸棚とだなの奥の行李こうりうしろへ投げ込んでしまったのである。
 今朝けさへびの頭にそれほどの意味がないようにも思われた。ことにこれから田口に逢って、探偵の結果を報告しなければならないと云う実際問題の方が頭に浮いて来ると、なおさらそういう感じが深くなった。彼は一日の午後からよいへかけて、妙に一種の空気に酔わされた気分で活動した自覚はたしかにあるが、いざその活動の結果を、普通の人間が処世上に利用できるように、筋の立った報告にまとめる段になると、自分の引き受けた仕事は成効せいこうしているのか失敗しているのかほとんど分らなかった。したがって洋杖ステッキ御蔭おかげこうむっているのか、いないのかも判然しなかった。床の中で前後をくり返した敬太郎には、まさしくその御蔭を蒙っているらしくも見えた。またけっしてその御蔭を蒙っていないようにも思われた。
 彼はともかくも二日酔の魔を払い落してからの事だと決心して、急に夜着よぎぐってね起きた。それから洗面所へ下りて氷るほど冷めたい水で頭をざあざあ洗った。これで昨日きのうの夢を髪の毛の根本から振い落して、普通の人間に立ち還ったような気になれたので、彼は景気よく三階のへやのぼった。そこの窓をいさぎよく明け放した彼は、東向に直立して、上野の森の上から高く射す太陽の光を全身に浴びながら、十遍ばかり深呼吸をした。こう精神作用を人間並に刺戟しげきした後で、彼は一服しながら、田口へ報告すべき事柄の順序や条項についてつとめて実際的に思慮をめぐらした。
 
 
 
 
 
 
 
 二
 
 突きとめて見ると、田口の役に立ちそうな種はまるで上がっていないようにも思われるので、敬太郎けいたろうは少し心細くなって来た。けれども先方では今朝にも彼の報告を待ち受けているように気がくので、彼はさっそく田口家へ電話を掛けた。これからすぐ行っていいかと聞くと、だいぶ待たしたあとで、差支さしつかえないという答が、例の書生の口を通して来たので、彼は猶予ゆうよなく内幸町へ出かけた。
 田口の門前には車が二台待っていた。玄関にも靴と下駄げたが一足ずつあった。彼はこの間と違って日本間の方へ案内された。そこは十畳ほどの広い座敷で、長い床に大きな懸物かけものが二幅掛かっていた。湯呑ゆのみのような深い茶碗ちゃわんに、書生が番茶を一杯んで出した。きりった手焙てあぶりも同じ書生の手で運ばれた。柔かい座蒲団ざぶとんも同じ男が勧めてくれただけで、女はいっさい出て来なかった。敬太郎は広い室の真中にかしこまって、主人の足音の近づくのを窮屈に待った。ところがその主人は用談が果てないと見えて、いつまで待ってもなかなか現われなかった。敬太郎はやむを得ず茶色になった古そうな懸物かけもの価額ねだんを想像したり、手焙のふちで廻したり、あるいははかまひざへきちりと両手を乗せて一人改たまって見たりした。すべて自分の周囲まわりがあまり綺麗きれい調ととのっているだけに、居心地が新らし過ぎて彼は容易に落ちつけなかったのである。しまいに違棚ちがいだなの上にある画帖がじょうらしい物を取りおろしてみようかと思ったが、その立派な表紙が、これは装飾だから手を触れちゃいけないとことわるように光るので、彼はついに手を出しかねた。
 こう敬太郎の神経を悩ました主人は、彼をやや小一時間も待たしたあとで、ようやく応接間から出て来た。
「どうも長い間御待たせ申して。――客がなかなか帰らないものだから」
 敬太郎はこの言訳に対して適当と思うような挨拶あいさつを一と口と、それに添えた叮嚀ていねい御辞儀おじぎを一つした。それからすぐ昨日きのうの事を云い出そうとしたが、何をどう先に述べたら都合がいいか、この場に臨んで急にまた迷い始めたうちに、切り出す機を逸してしまった。主人はまた冒頭からさも忙がしそうに声も身体からだも取り扱かっている癖に、どこか腹の中に余裕よゆうの貯蔵庫でもあるように、けっして周章あわてて探偵の結果を聞きたがらなかった。本郷では氷が張るかとか、三階では風が強く当るだろうとか、下宿にも電話があるのかとか、調子は至極しごく面白そうだけれども、その実つまらない事ばかり話の種にした。敬太郎は向うの問に従って主人の満足する程度にわが答えを運んでいたが、相手はこんな無意味な話を進めて行くうちに、あんに彼の様子を注意しているらしかった。そこまでは彼もぼんやり気がついた。しかし主人がなぜそんな注意を自分に払うのか、そのわけはまるで解らなかった。すると、
「どうです昨日きのうは。うまく行きましたか」と主人が突然聞き出した。こう聞かれるだろうぐらいの腹は始めから敬太郎にもあったのだが、正直に答えれば、「どうですか」というひとを馬鹿にした生返事になるので、彼はちょっと口籠くちごもったあと
「そうです御通知のあった人だけはやっと探し当てました」と答えた。
眉間みけん黒子ほくろがありましたか」
 敬太郎は少し隆起した黒い肉の一点を局部に認めたと答えた。
衣服なりもこっちから云って上げた通りでしたか。黒の中折なかおれに、霜降しもふり外套がいとうを着て」
「そうです」
「それじゃ大抵間違はないでしょう。四時と五時の間に小川町で降りたんですね」
「時間は少しおくれたようです」
「何分ぐらい」
「何分か知りませんが、何でも五時よっぽどすぎのようでした」
「よっぽどすぎ。よっぽど過ならそんな人を待っていなくても好いじゃありませんか。四時から五時までの間と、わざわざ時間を切って通知して上げたくらいだから、五時を過ぎればもうあなたの義務はすんだも同然じゃないですか。なぜそのまま帰って、その通り報知しないんです」
 今までおだやかに機嫌きげんよく話していた長者ちょうしゃから突然こう手厳てきびしくやりつけられようとは、敬太郎は夢にも思わなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 三
 
 敬太郎けいたろうは今まで下町出したまちでの旦那を眼の前に描いていた。それが突然規律ずくめの軍人として彼を威圧して来た時、彼はたちまち心の中心を狂わした。友達に対してなら云い得る「君のためだから」という言葉も挨拶あいさつっていたのだが、この場合にはそれがまるで役に立たなかった。
「ただ私の勝手で、時間が来てもそこを動かなかったのです」
 敬太郎がこう答えるか答えないうちに、田口は今のきっとした態度をすぐくずして、
「そりゃわたしのために大変都合が好かった」と機嫌きげんの好い調子で受けたが、「しかしあなたの勝手と云うのは何です」と聞き返した。敬太郎は少し逡巡しゅんじゅんした。
「なにそりゃ聞かないでも構いません。あなたの事だから。話したくなければ話さないでも差支さしつかえない」
 田口はこう云って、自分の前に引きつけた手提煙草盆てさげたばこぼん抽出ひきだしを開けると、その中からつのでできた細長い耳掻みみかきさがし出した。それを右の耳の中に入れて、さもゆそうにき廻した。敬太郎は見ないふりをしてわざと自分を見ているような、また耳だけに気を取られているような、田口の蹙面しかめつらを薄気味悪く感じた。
「実は停留所に女が一人立っていたのです」と彼はとうとう自白してしまった。
「年寄ですか、若い女ですか」
「若い女です」
「なるほど」
 田口はただ一口こう云っただけで、何とも後をいでくれなかった。敬太郎も頓挫とんざしたなり言葉を途切とぎらした。二人はしばらく差向いのまま口を聞かずにいた。
「いや、若かろうが年寄だろうが、その婦人の事を聞くのはよくなかった。それはあなただけに関係のある事なんでしょうから、止しにしましょう。私の方じゃただ顔に黒子ほくろのある男について、研究の結果さえ伺がえばいいんだから」
「しかしその女が黒子のある人の行動に始終しじゅう入り込んでくるのです。第一女の方で男を待ち合わしていたのですから」
「はあ」
 田口はちょっと思いも寄らぬという顔つきをしたが、「じゃその婦人はあなたの御知合でも何でもないのですね」と聞いた。敬太郎はもとより知合だと答える勇気をたなかった。きまりの悪い思いをしても、見た事も口をいた事もない女だと正直に云わなければならなかった。田口はそうですかと、おだやかに敬太郎の返事を聞いただけで、少しも追窮する気色けしきを見せなかったが、急にくだけた調子になって、
「どんな女なんです。その若い婦人と云うのは。器量からいうと」と興味にちた顔を提煙草盆さげたばこぼんの上に出した。
「いえ、なに、つまらない女なんです」と敬太郎は前後のきがかり上答えてしまって、実際頭の中でもつまらないような気がした。これが相手と場合しだいでは、うん器量はなかなか好い方だぐらいは固より云い兼ねなかったのである。田口は「つまらない女」という敬太郎の判断を聞いて、たちまち大きな声を出して笑った。敬太郎にはその意味がよく解らなかったけれども、何でも頭の上で大濤おおなみが崩れたような心持がして、幾分か顔が熱くなった。
「よござんす、それで。――それからどうしました。女が停留所で待ち合わしているところへ男が来て」
 田口はまた普通の調子に戻って、真面目まじめに事件の経過を聞こうとした。実をいうと敬太郎は自分がこれから話す顛末てんまつを、どうして握る事ができたかの苦心談を、まず冒頭に敷衍ふえんして、二つある同じ名の停留所の迷った事から、不思議ななぞきて働らく洋杖ステッキを、どうかかえ出して、どう利用したかに至るまでを、自分の手柄てがらのなるべく重く響くように、詳しく述べたかったのであるが、会うやいなや四時と五時とのいきさつでやられた上に、勝手に見張りの時間を延ばした源因になる例の女が、源因にも何にもならない見ず知らずの女だったりした不味まずいところがあるので、自分を広告する勇気は全く抜けていた。それで男と女が洋食屋へ入ってから以後の事だけをごく淡泊あっさり話して見ると、うちを出る時自分が心配していた通り、少しもつらまえどころのない、あたかも灰色の雲を一握り田口の鼻の先で開いて見せたと同じような貧しい報告になった。
 
 
 
 
 
 
 
 四
 
 それでも田口は別段いやな顔も見せなかった。落ちついた腕組をしまいまで解かずに、ただふんとか、なるほどとか、それからとか云うつなぎの言葉を、時々敬太郎けいたろうのために投げ込んでくれるだけであった。その代り報告の結末が来ても、まだ何か予期しているように、今までの態度を容易に変えなかった。敬太郎は仕方なしに、「それだけです。実際つまらない結果で御気の毒です」と言訳をつけ加えた。
「いやだいぶ参考になりました。どうも御苦労でした。なかなか骨が折れたでしょう」
 田口のこの挨拶あいさつうちに、大した感謝の意を含んでいない事は無論であったが、自分が馬鹿に見えつつある今の敬太郎にはこれだけの愛嬌あいきょうが充分以上に聞こえた。彼は辛うじて恥をかずにすんだという安心をこの時ようやく得た。同時に垂味たるみのできた気分が、すぐ田口に向いて働らきかけた。
「いったいあの人は何なんですか」
「さあ何でしょうか。あなたはどう鑑定しました」
 敬太郎の前には黒の中折なかおれかぶって、襟開えりあきの広い霜降しもふり外套がいとうを着た[#「着た」は底本では「来た」]男の姿がありありと現われた。その人の様子といい言葉遣ことばづかいといい歩きつきといい、何から何まで判切はっきり見えたには見えたが、田口に対する返事は一口も出て来なかった。
「どうも分りません」
「じゃ性質はどんな性質でしょう」
 性質なら敬太郎にもほぼ見当けんとうがついていた。「おだやかな人らしく思いました」と観察の通りを答えた。
「若い女と話しているところを見て、そう云うんじゃありませんか」
 こう云った時、田口のくちびるの角に薄笑の影がちらついているのを認めた敬太郎は、何か答えようとした口をまたふさいでしまった。
「若い女には誰でもやさしいものですよ。あなただって満更まんざら経験のない事でもないでしょう。ことにあの男と来たら、人一倍そうなのかも知れないから」と田口は遠慮なく笑い出した。けれども笑いながらちゃんと敬太郎の上に自分の眼を注いでいた。敬太郎ははたで自分を見たらさぞ気のかない愚物ぐぶつになっているんだろうと考えながらも、やっぱり苦しい思いをして田口と共に笑わなければいられなかった。
「じゃ女は何物なんでしょう」
 田口はここで観察点を急に男から女へ移した。そうして今度は自分の方で敬太郎にこういう質問を掛けた。敬太郎はすぐ正直に「女の方は男よりもなお分りにくいです」と答えてしまった。
素人しろうとだか黒人くろうとだか、大体の区別さえつきませんか」
「さよう」と云いながら、敬太郎はちょっと考がえて見た。かわの手袋だの、白い襟巻えりまきだの、美くしい笑い顔だの、長いコートだの、続々記憶の表面に込み上げて来たが、それを綜括すべくくったところでどこからもこの問に応ぜられるような要領は得られなかった。
「割合に地味なコートを着て、革の手袋を穿めていましたが……」
 女の身に着けた品物のうちで、特に敬太郎の注意をいたこの二点も、田口には何の興味も与えないらしかった。彼はやがて真面目まじめな顔をして、「じゃ男と女の関係について何か御意見はありませんか」と聞き出した。
 敬太郎は先刻さっき自分の報告がとどこおりなく済んだ証拠しょうこに、御苦労さまと云う謝辞さえ受けたあとで、こう難問が続発しようとはごうも思いがけなかった。しかも窮しているせいか、それが順をおってだんだんむずかしい方へあがって行くように感ぜられてならなかった。田口は敬太郎の行きづまった様子を見て、再び同じ問をほかの言葉で説明してくれた。
「例えば夫婦だとか、兄弟きょうだいだとか、またはただの友達だとか、情婦いろだとかですね。いろいろな関係があるうちで何だと思いますか」
「私も女を見た時に、処女だろうか細君だろうかと考えたんですが……しかしどうも夫婦じゃないように思います」
「夫婦でないにしてもですね。肉体上の関係があるものと思いますか」
 
 
 
 
 
 
 
 五
 
 敬太郎けいたろうの胸にもこのうたがいは最初から多少きざさないでもなかった。改ためて自分の心を解剖して見たら、彼ら二人の間に秘密の関係がすでに成立しているという仮定が遠くから彼をあやつって、それがために偵察ていさつの興味が一段と鋭どくぎ澄まされたのかも知れなかった。肉と肉の間に起るこの関係をほかにして、研究に価する交渉は男女なんにょの間に起り得るものでないと主張するほど彼は理論家ではなかったが、暖たかい血をった青年の常として、この観察点から男女なんにょながめるときに、始めて男女らしい心持がいて来るとは思っていたので、なるべくそこを離れずに世の中を見渡したかったのである。年の若い彼の眼には、人間という大きな世界があまり判切はっきり分らない代りに、男女という小さな宇宙はかくあざやかに映った。したがって彼は大抵の社会的関係を、できるだけこの一点まで切落して楽んでいた。停留所で逢った二人の関係も、敬太郎の気のつかない頭の奥では、すでにこういう一対いっついの男女として最初から結びつけられていたらしかった。彼はまたその背後に罪悪を想像して要もないのに恐れをいだくほどの道徳家でもなかった。彼は世間並な道義心の所有者としてありふれた人間の一人いちにんであったけれども、その道義心は彼の空想力と違って、いざという場合にならなければ働らかないのを常とするので、停留所の二人を自分に最も興味のある男女関係に引き直して見ても、別段不愉快にはならずにすんだのである。彼はただ年齢としの上において二人の相違の著るしいのを疑ぐった。が、また一方ではその相違がかえって彼の眼に映ずる「男女の世界」なるものの特色を濃く示しているようにも見えた。
 彼の二人に対する心持は知らず知らずの間にこうゆるんでいたのだが、いよいよそうかと正式に田口から質問を掛けられて見ると、断然とした返答は、責任のあるなしにかかわらず、まとまった形となって頭の中には現われにくかった。それでこう云った。――
「肉体上の関係はあるかも知れませんが、無いかも分りません」
 田口はただ微笑した。そこへ例のはかま穿いた書生が、一枚の名刺を盆にせて持って来た。田口はちょっとそれを受取ったまま、「まあ分らないところが本当でしょう」と敬太郎に答えたが、すぐ書生の方を見て、「応接間へ通しておいて……」と命令した。先刻さっきからよほど窮していた矢先だから、敬太郎はこの来客を好いしおに、もうここで切り上げようと思って身繕みづくろいにかかると、田口はわざわざ彼の立たない前にそれをさえぎった。そうして敬太郎の辟易へきえきするのに頓着とんじゃくなくなお質問を進行させた。そのうちで敬太郎の明瞭めいりょうに答えられるのはほとんど一カ条もなかったので、彼は大学で受けた口答試験の時よりもまだつらい思いをした。
「じゃこれぎりにしますが、男と女の名前は分りましたろう」
 田口の最後とことわったこの問に対しても、敬太郎はもとより満足な返事をっていなかった。彼は洋食店で二人の談話に注意を払う間にも何々さんとか何々子とかあるいは御何おなにとかいう言葉がきっとどこかへまじって来るだろうと心待に待っていたのだが、彼らは特にそれを避ける必要でもあるごとくに、御互の名はもちろん、第三者の名もけっして引合にさえ出さなかったのである。
「名前も全く分りません」
 田口はこの答を聞いて、手焙てあぶりの胴に当てた手を動かしながら、拍子ひょうしを取るように、指先できりふちたたき始めた。それをしばらくくり返したあとで、「どうしたんだかあんまり要領を得ませんね」と云ったが、すぐ言葉をいで、「しかしあなたは正直だ。そこがあなたの美点だろう。分らない事を分ったように報告するよりもよっぽど好いかも知れない。まあ買えばそこを買うんですね」と笑い出した。敬太郎は自分の観察が、はたして実用に向かなかったのを発見して、多少わが迂闊うかつに恥じ入る気も起ったが、しかしわずか二三時間の注意と忍耐と推測では、たとい自分より十層倍行き届いた人間に代理を頼んだところで、田口を満足させるような結果は得られる訳のものでないと固く信じていたから、この評価に対してそれほどの苦痛も感じなかった。その代り正直とめられた事も大したうれしさにはならなかった。このくらいの正直さ加減は全くの世間並に過ぎないと彼には見えたからである。
 
 
 
 
 
 
 
 六
 
 敬太郎けいたろう先刻さっきから頭の上らない田口の前で、たった一言ひとことで好いから、思い切った自分の腹をずばりと云って見たいと考えていたが、ここで云わなければもう云う機会はあるまいという気がこの時ふときざした。
「要領を得ない結果ばかりで私もはなはだ御気の毒に思っているんですが、あなたの御聞きになるような立ち入った事が、あれだけの時間で、私のような迂闊うかつなものに見極みきわめられる訳はないと思います。こういうと生意気に聞こえるかも知れませんが、あんな小刀細工をしてあとなんかけるより、じかに会って聞きたい事だけ遠慮なく聞いた方が、まだ手数てかずはぶけて、そうして動かない確かなところが分りゃしないかと思うのです」
 これだけ云った敬太郎は、定めて世故せこけた相手から笑われるか、冷かされる事だろうと考えて田口の顔を見た。すると田口は案外にもむしろ真面目まじめな態度で「あなたにそれだけの事が解っていましたか。感心だ」と云った。敬太郎はわざと答を控えていた。
「あなたのいう方法は最も迂闊のようで、最も簡便なまた最も正当な方法ですよ。そこに気がついていれば人間として立派なものです」と田口が再びくり返した時、敬太郎はますます返答に窮した。
「それほどのかんがえがちゃんとあるあなたに、あんなつまらない仕事を御頼おたのみ申したのはわたしが悪かった。人物を見損みそくなったのも同然なんだから。が、市蔵があなたを紹介する時に、そう云いましたよ。あなたは探偵のやるような仕事に興味をっておいでだって。それでね、ついとんでもない事を御願いして。しゃあよかった……」
「いえ須永すなが君にはそう云う意味の事をたしかに話した覚えがあります」と敬太郎は苦しいおもいをして答えた。
「そうでしたか」
 田口は敬太郎の矛盾をこの一句で切りてたなり、それ以上に追窮するをあえてしなかった。そうして問題をすぐ改めて見せた。
「じゃどうでしょう。黙って後なんどを跟けずに、あなたのいう通り尋常に玄関からかかって行っちゃ。あなたにそれだけの勇気がありますか」
「無い事もありません」
「あんなに跟け廻した後で」
「あんなに跟け廻したって、私はあの人達の不名誉になるような観察はけっしてしていないつもりです」
「ごもっともだ。そんなら一つ行って御覧なさい。紹介するから」
 田口はこう云いながら、大きな声を出して笑った。けれども敬太郎にはこの申し出が万更まんざら冗談じょうだんとも思えなかったので、彼は紹介状をたずさえて本当に眉間みけん黒子ほくろと向き合って話して見ようかという料簡りょうけんを起した。
「会いますから紹介状を書いて下さい。私はあの人と話して見たい気がしますから」
いでしょう。これも経験の一つだから、まあ会ってじかに研究して御覧なさい。あなたの事だから田口に頼まれてこの間の晩あとけましたぐらいきっと云うでしょう。しかしそれは構わない。云いたければ云ってもうござんす。わたしに遠慮はらないから。それからあの女との関係もですね、あなたに勇気さえあるなら聞いて御覧なさい。どうです、それを聞くだけの度胸があなたにありますか」
 田口はここでちょっと言葉を切らして敬太郎の顔を見たが、答の出ないうちにまた自分から話を続けた。
「だが両方とも口へ出せるように自然が持ちかけて来るまでは、聞いても話してもいけませんよ。いくら勇気があったって、常識のないやつだと思われるだけだから。それどころじゃない、あの男はただでさえ随分にくほうなんだから、そんな事をむやみにしゃべろうものなら、すぐ帰ってくれぐらい云い兼ねないですよ。紹介をして上げる代りには、そこいらはよく用心しないとね……」
 敬太郎はもとよりかしこまりましたと答えた。けれども腹の中では黒の中折なかおれの男を田口のように見る事がどうしてもできなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 七
 
 田口は硯箱すずりばこと巻紙を取り寄せて、さらさらと紹介状を書き始めた。やがて名宛なあてしたため終ると、「ただ通り一遍の文言もんごんだけ並べておいたらそれで好いでしょう」と云いながら、手焙てあぶりの前にかざした手紙を敬太郎けいたろうに読んで聞かせた。その中には書いた当人の自白したごとく、これといって特別の注意にあたいする事は少しも出て来なかった。ただこの者は今年大学を卒業したばかりの法学士で、ことによると自分が世話をしなければならない男だから、どうか会って話をしてやってくれとあるだけだった。田口は異存のない敬太郎の顔を見届けた上で、すぐその巻紙をぐるぐると巻いて封筒へ入れた。それからその表へ松本恒三まつもとつねぞう様と大きく書いたなり、わざと封をせずに敬太郎に渡した。敬太郎は真面目まじめになって松本恒三様の五字をながめたが、ふとったしまりのない書体で、この人がこんな字を書くかと思うほどせつらしくできていた。
「そう感心していつまでもながめていちゃあいけない」
「番地が書いてないようですが」
「ああそうか。そいつはわたしの失念だ」
 田口は再び手紙を受け取って、名宛の人の住所と番地を書き入れてくれた。
「さあこれなら好いでしょう。不味まずくって大きなところは土橋どばし大寿司流おおずしりゅうとでも云うのかな。まあ役に立ちさえすればよかろう、我慢なさい」
「いえ結構です」
「ついでに女の方へも一通書きましょうか」
「女も御存じなのですか」
「ことによると知ってるかも知れません」と答えた田口は何だか意味のありそうに微笑した。
御差支おさしつかえさえなければ、おついでに一本書いていただいてもよろしゅうございます」と敬太郎も冗談じょうだん半分に頼んだ。
「まあ止した方が安全でしょうね。あなたのような年の若い男を紹介して、もし間違でもできると責任問題だから。浪漫ローマン―何とか云うじゃありませんか、あなたのような人の事を。わたしゃ学問がないから、今頃流行はやるハイカラな言葉をすぐ忘れちまって困るが、何とか云いましたっけね、あの、小説家の使う言葉は。……」
 敬太郎はまさかそりゃこう云う言葉でしょうと教える気にもなれなかった。ただエヘヘと馬鹿みたように笑っていた。そうして長居をすればするほど、だんだん非道ひどく冷かされそうなので、心の内では、この一段落がついたら、早く切り上げて帰ろうと思った。彼は田口のくれた紹介状をふところに収めて、「では二三日うちにこれを持って行って参りましょう。その模様でまた伺がう事に致しますから」と云いながら、やわらかい座蒲団ざぶとんの上をすべり下りた。田口は「どうも御苦労でした」と叮嚀ていねい挨拶あいさつしただけで、ロマンチックもコスメチックもすっかり忘れてしまったという顔つきをして立ち上った。
 敬太郎は帰り途に、今会った田口と、これから会おうという松本と、それから松本を待ち合わした例の恰好かっこうのいい女とを、合せたり離したりしてしきりにその関係を考えた。そうして考えれば考えるほど一歩ずつ迷宮メーズの奥に引き込まれるような面白味を感じた。今日きょう田口での獲物えものは松本という名前だけであるが、この名前がいろいろに錯綜さくそうした事実を自分のためにくくっている妙なふくろのように彼には思えるので、そこから何が出るか分らないだけそれだけ彼には楽みが多かった。田口の説明によると、近寄にくい人のようにも聞こえるが、彼の見たところでは田口より数倍話しがしやすそうであった。彼は今日田口から得た印象のうちに、人を取扱う点にかけてなるほど老練だという嘆美たんびの声を見出した上、人物としてもどこか偉そうに思われる点が、時々彼の眼を射るようにちらちら輝やいたにもかかわらず、その前にすわっている間、彼は始終しじゅう何物にかしばられて自由に動けない窮屈な感じを取り去る事ができなかった。絶えず監視のもとに置かれたようなこの状態は、一時性のものでなくって、いくら面会の度数を重ねても、けっして薄らぐ折はなかろうとまで彼には見えたくらいである。彼はこういう風に気のおける田口と反対の側に、何でも遠慮なく聞いて怒られそうにない、話し声その物のうちにすでになつかし味のこもったような松本を想像してやまなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 八
 
 翌朝よくあささっそく支度をして松本に会いに行こうと思っているとあいにく寒い雨が降り出した。窓を細目に開けて高い三階から外を見渡した時分には、もう世の中が一面にれていた。屋根瓦やねがわらとおるようなびしい色をしばらくながめていた敬太郎けいたろうは、田口の紹介状を机の上に置いて、出ようか止そうかとちょっと思案したが、早く会って見たいという気が強く起るので、とうとう机の前を離れた。そうして豆腐屋の喇叭らっぱが、陰気な空気をいて鋭どく往来に響く下の方へ降りて行った。
 松本のうち矢来やらいなので、敬太郎はこの間の晩きつねにつままれたと同じ思いをした交番下の景色けしきを想像しつつ、そこへ来ると、坂下と坂上が両方共二股ふたまたに割れて、勾配こうばいのついた真中だけがいびつにふくれているのを発見した。彼は寒い雨のはかますそに吹きかけるのもいとわずに足を留めて、あの晩車夫が梶棒かじぼうを握ったまま立往生をしたのはこのへんだろうと思う所を見廻した。今日も同じように雨がざあざあ落ちて、彼の踏んでいる土は地下の鉛管まで腐れ込むほど濡れていた。ただ昼だけに周囲は暗いながらも明るいので、立ちどまった時の心持はこの間とはまるでおもむきが違っていた。敬太郎はうしろの方に高く黒ずんでいる目白台めじろだいの森と、右手の奥に朦朧もうろうと重なり合った水稲荷みずいなり木立こだちを見て坂をあがった。それから同じ番地の家の何軒でもある矢来の中をぐるぐる歩いた。始めのうちはさい横町を右へ折れたり左へ曲ったり、濡れた枳殻からたちの垣をのぞいたり、古い椿つばきかぶさっている墓地らしいかまえの前を通ったりしたが、松本の家は容易に見当らなかった。しまいに尋ねあぐんで、ある横町の角にある車屋を見つけて、そこの若い者に聞いたら、何でもない事のようにすぐ教えてくれた。
 松本の家はこの車屋の筋向うを這入はいった突き当りの、竹垣に囲われた綺麗きれい住居すまいであった。門をくぐると子供が太鼓を鳴らしている音が聞こえた。玄関へかかって案内を頼んでもその太鼓の音はごうもやまなかった。その代り四辺あたり森閑しんかんとして人の住んでいるにおいさえしなかった。雨にとざされたいえの奥から現われた十六七の下女は、手を突いて紹介状を受取ったなり無言のまま引っ込んだが、しばらくしてからまた出て来て、「はなはだ勝手を申し上げてすみませんでございますが、雨の降らない日においでを願えますまいか」と云った。今まで就職運動のため諸方へ行って断わられつけている敬太郎にも、この断り方だけは不思議に聞こえた。彼はなぜ雨が降っては面会に差支さしつかえるのかすぐ反問したくなった。けれども下女に議論を仕かけるのも一種変な場合なので、「じゃ御天気の日に伺がえば御目にかかれるんですね」と念晴ねんばらしに聞き直して見た。下女はただ「はい」と答えただけであった。敬太郎は仕方なしにまた雨の降る中へ出た。ざあと云う音が急にはげしく聞こえる中に、子供の鳴らす太鼓がまだどんどんと響いていた。彼は矢来の坂をりながら変な男があったものだという観念を数度すどくり返した。田口がただでさえにくいと云ったのは、こんなところを指すのではなかろうかとも考えた。その日はうちへ帰っても、気分が中止の姿勢に余儀なくえつけられたまま、どの方角へも進行できないのが苦痛になった。久しぶりに須永すながうちへでも行って、この間からの顛末てんまつを茶話に半日を暮らそうかと考えたが、どうせ行くなら、今の仕事に一段落つけて、自分にも見当けんとうの立った筋を吹聴ふいちょうするのでなくては話しばいもしないので、ついに行かずじまいにしてしまった。
 翌日あくるひ昨日きのうと打って変って好い天気になった。起き上る時、あらゆるにごりを雨の力で洗い落したように綺麗きれいに輝やく蒼空あおぞらを、まばゆそうに仰ぎ見た敬太郎は、今日きょうこそ松本に会えると喜こんだ。彼はこの間の晩行李こうりうしろに隠しておいた例の洋杖ステッキを取り出して、今日は一つこれを持って行って見ようと考がえた。彼はそれを突いて、また矢来やらいの坂をあがりながら、昨日の下女が今日も出て来て、せっかくですが今日は御天気過ぎますから、もすこし曇った日においで下さいましと云ったらどんなものだろうと想像した。
 
 
 
 
 
 
 

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