彼岸過迄 夏目漱石

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 九
 
 ところが昨日と違って、門をくぐっても、子供の鳴らす太鼓の音は聞こえなかった。玄関にはこの前目に着かなかった衝立ついたてが立っていた。その衝立には淡彩たんさいの鶴がたった一羽たたずんでいるだけで、姿見のように細長いその格好かっこうが、普通の寸法と違っている意味で敬太郎の注意をうながした。取次には例の下女が現われたには相違ないが、そのあとから遠慮のない足音をどんどん立てて二人の小供が衝立の影まで来て、珍らしそうな顔をして敬太郎をながめた。昨日に比べるとこれだけの変化を認めた彼は、最後にどうぞという案内と共に、硝子戸ガラスどまっている座敷へ通った。その真中にある金魚鉢のように大きな瀬戸物の火鉢ひばちの両側に、下女は座蒲団ざぶとんを一枚ずつ置いて、その一枚を敬太郎の席とした。その座蒲団は更紗さらさの模様を染めた真丸の形をしたものなので、敬太郎は不思議そうにその上へすわった。とこには刷毛はけでがしがしと粗末ぞんざいに書いたような山水さんすいじくがかかっていた。敬太郎はどこが樹でどこがいわだか見分のつかない画を、軽蔑けいべつに値する装飾品のごとくながめた。するとその隣りに銅鑼どらさがっていて、それをたたく棒まで添えてあるので、ますます変ったへやだと思った。
 するとあいふすまを開けて隣座敷から黒子ほくろのある主人が出て来た。「よくおいでです」と云ったなり、すぐ敬太郎の鼻の先に坐ったが、その調子はけっして愛嬌あいきょうのある方ではなかった。ただどこかおっとりしているので、相手に余り重きを置かないところが、かえって敬太郎に楽な心持を与えた。それで火鉢一つを境に、顔と顔を突き合わせながら、敬太郎は別段気がつまる思もせずにいられた。その上彼はこの間の晩、たしかに自分の顔をここの主人に覚えられたに違ないと思い込んでいたにもかかわらず、今会って見ると、覚えているのだか、いないのだか、平然としてそんな素振そぶりは、口にも色にも出さないので、彼はなおさら気兼きがねの必要を感じなくなった。最後に主人は昨日雨天のため面会を謝絶した理由も言訳も一言ひとことも述べなかった。述べたくなかったのか、述べなくっても構わないと認めていたのか、それすら敬太郎にはまるで判断がつかなかった。
 話は自然の順序として、紹介者になった田口の事から始まった。「あなたはこれから田口に使ってもらおうというのでしたね」というのを冒頭に、主人は敬太郎の志望だの、卒業の成績だのを一通り聞いた。それから彼のいまだかつて考えた事もない、社会観とか人生観とかいうこむずかしい方面の問題を、時々持ち出して彼を苦しめた。彼はその時心のうちで、この松本という男は世にあらわれない学者の一人なのではなかろうかと疑ぐったくらい、妙な理窟りくつをちらちらとひらめかされた。そればかりでなく、松本は田口をつらまえて、役には立つが頭のなっていない男だとののしった。
第一だいちああ忙がしくしていちゃ、頭の中に組織立ったかんがえのできるひまがないから駄目です。あいつの脳と来たら、ねん年中ねんじゅう摺鉢すりばちの中で、擂木すりこぎき廻されてる味噌みそ見たようなもんでね。あんまり活動し過ぎて、何の形にもならない」
 敬太郎にはなぜこの主人が田口に対してこうまで悪体あくたいくのかさっぱり訳が分らなかった。けれども彼の不思議に感じたのは、これほどの激語を放つ主人の態度なり口調なりに、ごうも毒々しいところだの、小悪こにくらしい点だのの見えない事であった。彼のののしる言葉は、人を罵しった経験を知らないような落ちつきをそなえた彼の声を通して、敬太郎の耳に響くので、敬太郎も強く反抗する気になれなかった。ただ一種変った人だという感じが新たに刺戟しげきを受けるだけであった。
「それでいて、を打つ、うたいうたう。いろいろな事をやる。もっともいずれも下手糞へたくそなんですが」
「それが余裕よゆうのある証拠しょうこじゃないでしょうか」
「余裕って君。――僕は昨日きのう雨が降るから天気の好い日に来てくれって、あなたを断わったでしょう。その訳は今云う必要もないが、何しろそんなわがままな断わり方が世間にあると思いますか。田口だったらそう云う断り方はけっしてできない。田口が好んで人に会うのはなぜだと云って御覧。田口は世の中に求めるところのある人だからです。つまり僕のような高等遊民こうとうゆうみんでないからです。いくらひとの感情を害したって、困りゃしないという余裕がないからです」
 
 
 
 
 
 
 
 十
 
「実は田口さんからは何にも伺がわずに参ったのですが、今御使いになった高等遊民という言葉は本当の意味で御用いなのですか」
「文字通りの意味で僕は遊民ですよ。なぜ」
 松本は大きな火鉢ひばちふち両肱りょうひじを掛けて、その一方の先にある拳骨げんこつあごの支えにしながら敬太郎けいたろうを見た。敬太郎は初対面の客を客と感じていないらしいこの松本の様子に、なるほど高等遊民の本色ほんしょくがあるらしくも思った。彼は煙草たばこ道楽と見えて、今日は大きな丸い雁首がんくびのついた木製の西洋パイプを口から離さずに、時々思い出したような濃い煙を、まだ火の消えていない証拠として、狼煙のろしのごとくぱっぱっと揚げた。その煙が彼の顔のそばでいつの間にか消えて行く具合が、どこにもしまりを設ける必要を認めていないらしい彼の眼鼻と相待って、今まで経験した事のない一種静かな心持を敬太郎に与えた。彼は少し薄くなりかかった髪を、頭の真中から左右へ分けているので、平たい頭がなおの事尋常に落ちついて見えた。彼はまた普通世間の人が着ないような茶色の無地の羽織を着て、同じ色の上足袋うわたびを白の上に重ねていた。その色がすぐ坊主の法衣ころも聯想れんそうさせるところがまた変に特別な男らしく敬太郎の眼に映った。自分で高等遊民だと名乗るものに会ったのはこれが始めてではあるが、松本の風采ふうさいなり態度なりが、いかにもそう云う階級の代表者らしい感じを、少し不意を打たれた気味の敬太郎に投げ込んだのは事実であった。
「失礼ながら御家族は大勢でいらっしゃいますか」
 敬太郎はみずから高等遊民と称する人に対して、どういう訳かまずこういう問がかけて見たかった。すると松本は「ええ子供がたくさんいます」と答えて、敬太郎の忘れかかっていたパイプからぱっと煙を出した。
「奥さんは……」
さいは無論います。なぜですか」
 敬太郎は取り返しのつかないな問を出して、始末に行かなくなったのを後悔した。相手がそれほど感情を害した様子を見せないにしろ、不思議そうに自分の顔を眺めて、解決を予期している以上は、何とか云わなければすまない場合になった。
「あなたのような方が、普通の人間と同じように、家庭的に暮して行く事ができるかと思ってちょっと伺ったまでです」
「僕が家庭的に……。なぜ。高等遊民だからですか」
「そう云う訳でも無いんですが、何だかそんな心持がしたからちょっと伺がったのです」
「高等遊民は田口などよりも家庭的なものですよ」
 敬太郎はもう何も云う事がなくなってしまった。彼の頭脳の中では、返事に行き詰まった困却と、ここで問題を変えようとする努力と、これを緒口いとくちに、かわの手袋を穿めた女の関係を確かめたい希望が三ついっしょに働らくので、元からそれほど秩序の立っていない彼の思想になおさら暗い影を投げた。けれども松本はそんな事にまるで注意しない風で、困った敬太郎の顔を平気にながめていた。もしこれが田口であったなら手際てぎわよく相手を打ちえる代りに、打ち据えるとすぐ向うから局面を変えてくれて、相手に見苦るしい立ち往生などはけっしてさせないあざやかな腕をっているのにと敬太郎は思った。気はおけないが、人を取扱かう点において、全くえた熟練を欠いている松本の前で、敬太郎ははからず二人の相違を認めたような気がしていると、松本は偶然「あなたはそういう問題を考えて見た事がないようですね」と聞いてくれた。
「ええまるで考えていません」
「考える必要はありませんね。一人で下宿している以上は。けれどもいくら一人だって、広い意味での男対女の問題は考えるでしょう」
「考えると云うよりむしろ興味があるといった方が適当かも知れません。興味なら無論あります」
 
 
 
 
 
 
 
 十一
 
 二人は人間として誰しも利害を感ずるこの問題についてしばらく話した。けれども年歯としの違だか段の違だか、松本の云う事は肝心かんじんの肉を抜いた骨組だけを並べて見せるようで、敬太郎けいたろうの血の中まで這入はいり込んで来て、共に流れなければやまないほどの切実ないきおいをまるで持っていなかった。その代り敬太郎の秩序立たない断片的の言葉も口を出るとすぐ熱を失って、少しも松本の胸にとおらないらしかった。
 こんな縁遠い話をしているうちで、ただ一つ敬太郎の耳に新らしく響いたのは、露西亜ロシヤの文学者のゴーリキとかいう人が、自分の主張する社会主義とかを実行する上に、資金の必要を感じて、それを調達ちょうたつのため細君同伴で亜米利加アメリカへ渡った時の話であった。その時ゴーリキは大変な人気を一身に集めて、招待やら驩迎かんげいやらに忙殺ぼうさつされるほどの景気のうちに、自分の目的を苦もなく着々と進行させつつあった。ところが彼の本国かられて来た細君というのが、本当の細君でなくて単に彼の情婦に過ぎないという事実がどこからか曝露ばくろした。すると今まで狂熱に達していた彼の名声が、たちまちどさりと落ちて、広い新大陸に誰一人として彼と握手するものが無くなってしまったので、ゴーリキはやむを得ずそのまま亜米利加を去った。というのが筋であった。
「露西亜と亜米利加ではこれだけ男女なんにょ関係の解釈が違うんです。ゴーリキのやりくちは露西亜ならほとんど問題にならないくらい些細ささいな事件なんでしょうがね。下らない」と松本は全く下らなそうな顔をした。
「日本はどっちでしょう」と敬太郎は聞いて見た。
「まあ露西亜派でしょうね。僕は露西亜派でたくさんだ」と云って、松本はまた狼煙のろしのような濃い煙をぱっと口から吐いた。
 ここまで来て見ると、この間の女の事を尋ねるのが敬太郎に取って少しも苦にならないような気がし出した。
「せんだっての晩神田の洋食店で私はあなたに御目にかかったと思うんですが」
「ええ会いましたね。よく覚えています。それから帰りにも電車の中で会ったじゃありませんか。君も江戸川まで乗ったようだが、あすこいらに下宿でもしているんですか。あの晩は雨が降って困ったでしょう」
 松本ははたして敬太郎を記憶していた。それを初めから口に出すでもなく、今になってようやく気がついたふりをするでもなく、話してもよし話さないでもよしと云った風の態度が、無邪気から出るのか、度胸から出るのか、または鷹揚おうような彼の生れつきから出るのか、敬太郎にはちょっと判断しかねた。
御伴おつれがおありのようでしたが」
「ええ別嬪べっぴんを一人れていました。あなたはたしか一人でしたね」
「一人です。あなたも御帰りには御一人じゃなかったですか」
「そうです」
 ちょっとはきはき進んだ問答はここへ来てぴたりととまってしまった。松本がまた女の事を云い出すかと思って待っていると、「あなたの下宿は牛込ですか、小石川ですか」とまるで無関係の問を敬太郎はかけられた。
「本郷です」
 松本はに落ちない顔をして敬太郎を見た。本郷に住んでいる彼が、なぜ江戸川の終点まで乗ったのか、その説明を聞きたいと云わぬばかりの松本の眼つきを見た時、敬太郎は面倒だからここで一つ心持よく万事を打ち明けてしまおうと決心した。もしおこられたら、あやまるだけで、詫まって聞かれなければ、御辞儀おじぎ叮嚀ていねいにして帰れば好かろうと覚悟をきめた。
「実はあなたのあとけてわざわざ江戸川まで来たのです」と云って松本の顔を見ると、案外にも予期したほどの変化も起らないので、敬太郎はまず安心した。
「何のために」と松本はほとんどいつものようなゆるい口調で聞き返した。
「人から頼まれたのです」
「頼まれた? 誰に」
 松本は始めて、少し驚いた声のうちに、並より強いアクセントを置いて、こう聞いた。
 
 
 
 
 
 
 
 十二
 
「実は田口さんに頼まれたのです」
「田口とは。田口要作ようさくですか」
「そうです」
「だって君はわざわざ田口の紹介状を持って僕に会いに来たんじゃありませんか」
 こう一句一句問いつめられて行くよりは、自分の方で一と思いに今までの経過を話してしまう方が楽な気がするので、敬太郎けいたろうは田口の速達便を受取って、すぐ小川町の停留所へ見張みはりに出た冒険の第一節目から始めて、電車が江戸川の終点に着いた後の雨の中の立往生に至るまでの顛末てんまつを包まず打ち明けた。もとよりただ筋の通るだけを目的に、誇張は無論布衍ふえんわずらわしさもできる限り避けたので、時間がそれほどかからなかったせいか、松本は話の進行している間一口も敬太郎をさえぎらなかった。話が済んでからも、すぐとは声を出す様子は見えなかった。敬太郎は主人のこの沈黙を、感情を害した結果ではなかろうかと推察して、怒り出されないうちに早くあやまるに越した事はないと思い定めた。すると主人の方から突然口をき始めた。
「どうもけしからん奴だね、あの田口という男は。それに使われる君もまた君だ。よっぽどの馬鹿だね」
 こういった主人の顔を見ると、あきれ返っている風は誰の目にも着くが、怒気を帯びた様子は比較的どこにも現われていないので、敬太郎はむしろ安心した。この際馬鹿と呼ばれるぐらいの事は、彼に取って何でもなかったのである。
「どうも悪い事をしました」
「詫まって貰いたくも何ともない。ただ君が御気の毒だから云うのですよ。あんな者に使われて」
「それほど悪い人なんですか」
「いったい何の必要があって、そんなな事を引き受けたのです」
 物数奇ものずきから引き受けたという言葉は、この場合どうしても敬太郎の口へは出て来なかった。彼はやむを得ず、衣食問題の必要上どうしても田口に頼らなければならない事情があるので、面白くないとは知りながら、つい承諾したのだという風な答をした。
「衣食に困るなら仕方がないが、もう止した方がいいですよ。余計な事じゃありませんか、寒いのに雨に降られて人のあとけるなんて」
「私も少しりました。これからはもうやらないつもりです」
 この述懐を聞いた松本は何とも云わず、ただ苦笑にがわらいをしていた。それが敬太郎には軽蔑けいべつの意味にも憐愍れんみんの意味にも取れるので、彼はいずれにしてもはなはだ肩身の狭い思をした。
「あなたは僕に対してすまん事をしたような風をしているが、実際そうなのですか」
 根本義にさかのぼったらそれほどに感じていない敬太郎もこう聞かれると、行がかり上そうだと思わざるを得なかった。またそう答えざるを得なかった。
「じゃ田口へ行ってね。この間僕のれていた若い女は高等淫売こうとういんばいだって、僕自身がそう保証したと云ってくれたまえ」
「本当にそういう種類の女なんですか」
 敬太郎はちょっと驚ろかされた顔をしてこう聞いた。
「まあ何でも好いから、高等淫売だと云ってくれたまえ」
「はあ」
「はあじゃいけない、たしかにそう云わなくっちゃ。云えますか、君」
 敬太郎は現代に教育された青年の一人として、こういう意味の言葉を、年長者の前で口にする無遠慮をはばかるほどの男ではなかった。けれども松本がいてこの四字を田口の耳へ押し込もうとする奥底には、何か不愉快なある物がひそんでいるらしく思われるので、そう軽々しい調子で引き受ける気も起らなかった。彼が挨拶あいさつに困ってむずかしい顔をしていると、それを見た松本は、「何、君心配しないでもいいですよ。相手が田口だもの」と云ったが、しばらくしてやっと気がついたように、「君は僕と田口との関係をまだ知らないんでしたね」と聞いた。敬太郎は「まだ何にも知りません」と答えた。
 
 
 
 
 
 
 
 十三
 
「その関係を話すと、君が田口に向ってあの女の事を高等淫売こうとういんばいだと云う勇気が出悪でにくくなるだけだからつまり僕には損になるんだが、いつまで罪もない君を馬鹿にするのも気の毒だから、聞かして上げよう」
 こういう前置を置いた上、松本は田口と自分が社会的にどう交渉しているかを説明してくれた。その説明は最も簡単にすむだけに最も敬太郎けいたろうを驚ろかした。それを一言でいうと、田口と松本は近い親類の間柄だったのである。松本に二人の姉があって、一人が須永すながの母、一人が田口の細君、という互の縁続きを始めてみ込んだ時、敬太郎は、田口の義弟に当る松本が、叔父という資格で、彼の娘と時間をきわめて停留所で待ち合わした上、ある料理店で会食したという事実を、世間の出来事のうちで最も平凡を極めたものの一つのように見た。それを込み入ったあやでも隠しているように、一生懸命に自分の燃やした陽炎かげろうを散らつかせながら、あとおっかけて歩いたのが、さもさも馬鹿馬鹿しくなって来た。
「御嬢さんは何でまたあすこまで出張でばっていたんですか。ただ私を釣るためなんですか」
「何須永へ行った帰りなんです。僕が田口で話していると、あの子が電話をかけて、四時半頃あすこで待ち合せているから、ちょっと帰りに降りてくれというんです。面倒だから止そうと思ったけれども、是非何とかかとかいうから、降りたところがね。今朝けさ御父さんから聞いたら、叔父さんが御歳暮おせいぼ指環ゆびわを買ってやると云っていたから、停留所で待ち伏せをして、にがさないようにいっしょに行って買って貰えと云われたから先刻さっきからここで待っていたんだって、人の知りもしないのに、一人で勝手な請求を持ち出してなかなか動かない。仕方がないから、まあ西洋料理ぐらいでごまかしておこうと思って、とうとう宝亭へ連れ込んだんです。――実に田口という男は箆棒べらぼうだね。わざわざそれほどの手数てかずをかけて、何もそんな下らない真似まねをするにも当らないじゃないか。だまされた君よりもよっぽど田口の方が箆棒ですよ」
 敬太郎には騙された自分の方がはるかに愚物ぐぶつに思われた。そうと知ったら、探偵の結果を報告する時にも、もう少しは手加減が出来たものをと、おのずからあかい顔もしなければならなかった。
「あなたはまるで御承知ない事なんですね」
「知るものかね、君。いくら高等遊民だって、そんな暇の出るはずがないじゃありませんか」
「御嬢さんはどうでしょう。多分御存じなんだろうと思いますが」
「そうさ」と云って松本はしばらく思案していたが、やがて判切はっきりした口調で、「いや知るまい」と断言した。「あの箆棒の田口に、一つ取柄とりえがあると云えば云われるのだが、あの男はね、いくら悪戯いたずらをしても、その悪戯をされた当人が、もう少しで恥をきそうなきわどい時になると、ぴたりととめてしまうか、または自分がその場へ出て来て、当人の体面にかかわらない内に綺麗きれいに始末をつける。そこへ行くと箆棒べらぼうには違ないが感心なところがあります。つまりやりかたは悪辣あくらつでも、結末には妙にあたたかいなさけこもった人間らしい点を見せて来るんです。今度の事でもおそらく自分一人でみ込んでいるだけでしょう。君が僕のうちへ来なかったら、僕はきっとこの事件を知らずに済むんだったろう。自分の娘にだって、君の馬鹿を証明するような策略さくりゃくを、始めから吹聴ふいちょうするほど無慈悲むじひな男じゃない。だからついでに悪戯いたずらも止せばいいんだがね、それがどうしても止せないところが、要するに箆棒です」
 田口の性格に対する松本のこういう批評を黙って聞いていた敬太郎は、自分の馬鹿な振舞ふるまいかえりみる後悔よりも、自分を馬鹿にした責任者をうらむよりも、むしろ悪戯をした田口を頼もしいと思う心が、わが胸のうちで一番勝を制したのを自覚した。が、はたしてそういう人ならば、なぜ彼の前に出て話をしている間に、あんな窮屈な感じが起るのだろうという不審もおのずときざさない訳に行かなかった。
「あなたの御話でだいぶ田口さんが解って来たようですが、私はあのかたの前へ出ると、何だか気が落ちつかなくって変に苦しいです」
「そりゃ向うでも君に気を許さないからさ」
 
 
 
 
 
 
 
 十四
 
 こう云われて見ると、田口が自分に気を許していない眼遣めづかいやら言葉つきやらがありありと敬太郎けいたろうの胸に、うたがいもない記憶として読まれた。けれども田口ほどの老巧のものに、何で学校を出たばかりの青臭あおくさい自分が、それほど苦になるのか、敬太郎は全く合点がてんが行かなかった。彼は見た通りのままの自分で、誰の前へ出ても通用するものと今まで固くおのれを信じていたのである。彼はただかような青年として、ひとはばかられたり気をおかれたりする資格さえないように自分を見縊みくびっていただけに、経験の程度の違う年長者から、自分のおもわくと違う待遇を受けるのをむしろ不思議に考え出した。
「私はそんな裏表のある人間と見えますかね」
「どうだか、そんな細かい事は初めて会っただけじゃ分らないですよ。しかしあっても無くっても、僕の君に対する待遇にはいっこう関係がないからいいじゃありませんか」
「けれども田口さんからそう思われちゃ……」
「田口は君だからそう思うんじゃない、誰を見てもそう思うんだから仕方がないさ。ああして長い間人を使ってるうちには、だいぶだまされなくっちゃならないからね。たまに自然そのままの美くしい人間が自分の前に現われて来ても、やっぱり気が許せないんです。それがああ云う人の因果いんがだと思えばそれで好いじゃないか。田口は僕の義兄だから、こう云うと変に聞えるが、本来は美質なんです。けっして悪い男じゃない。ただああして何年となく事業の成功という事だけをおもに眼中に置いて、世の中と闘かっているものだから、人間の見方が妙に片寄って、こいつは役に立つだろうかとか、こいつは安心して使えるだろうかとか、まあそんな事ばかり考えているんだね。ああなると女にれられても、こりゃ自分に惚れたんだろうか、自分の持っている金に惚れたんだろうか、すぐそこを疑ぐらなくっちゃいられなくなるんです。美人でさえそうなんだから君見たいな野郎が窮屈な取扱を受けるのは当然だと思わなくっちゃいけない。そこが田口の田口たるところなんだから」
 敬太郎はこの批評で田口という男が自分にも判切はっきり呑み込めたような気がした。けれどもこういう風に一々彼をうけがわせるほどの判断を、彼の頭に鉄椎てっついたたき込むように入れてくれる松本はそもそも何者だろうか、その点になると敬太郎は依然として茫漠ぼうばくたる雲に対する思があった。批評にのぼらない前の田口でさえ、この男よりはかえって活きた人間らしい気がした。
 同じ松本について見ても、この間の晩神田の洋食屋で、田口の娘を相手にして珊瑚樹さんごじゅたまがどうしたとかこうしたとか云っていた時の方が、よっぽど活きて動いていた。今彼の前にすわっているのは、大きなパイプをくわえた木像の霊が、口をくと同じような感じを敬太郎に与えるだけなので、彼はただその人の本体を髣髴ほうふつするに苦しむに過ぎなかった。彼が一方では明瞭めいりょうな松本の批評に心服しながら、一方では松本の何者なるかをこういう風に考えつつ、自分は頭脳の悪い、直覚の鈍い、世間並以下の人物じゃあるまいかと疑り始めた時、この漠然ばくぜんたる松本がまた口を開いた。
「それでも田口が箆棒べらぼうをやってくれたため、君はかえって仕合しあわせをしたようなものですね」
「なぜですか」
「きっと何か位置をこしらえてくれますよ。これなりで放っておきゃ田口でも何でもありゃしない。それは責任を持って受合って上げてもい。が、つまらないのは僕だ。全く探偵のされ損だから」
 二人は顔を見合せて笑った。敬太郎が丸い更紗さらさ座蒲団ざぶとんの上から立ち上がった時、主人はわざわざ玄関まで送って出た。そこに飾ってあった墨絵の鶴の衝立ついたての前に、せた高い身体からだをしばらくたたずまして、靴を穿く敬太郎の後姿うしろすがたながめていたが、「妙な洋杖ステッキを持っていますね。ちょっと拝見」と云った。そうしてそれを敬太郎の手から受取って、「へえ、へびの頭だね。なかなかうまってある。買ったんですか」と聞いた。「いえ素人しろうとが刻ったのを貰ったんです」と答えた敬太郎は、それを振りながらまた矢来やらいの坂を江戸川の方へくだった。
 
 
 
 
 
 
 
 

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