彼岸過迄 夏目漱石

.

 雨の降る日
 
 
 
 
 
 
 
 一
 
 雨の降る日に面会を謝絶した松本の理由は、ついに当人の口から聞く機会を得ずに久しく過ぎた。敬太郎けいたろうもそのうちに取りまぎれて忘れてしまった。ふとそれを耳にしたのは、彼が田口の世話で、ある地位を得たのを縁故に、遠慮なく同家へ出入しゅつにゅうのできる身になってからの事である。その時分の彼の頭には、停留所の経験がすでに新らしい匂いを失いかけていた。彼は時々須永すながからその話を持ち出されては苦笑するに過ぎなかった。須永はよく彼に向って、なぜその前に僕の所へ来て打ち明けなかったのだと詰問した。内幸町の叔父が人をかつぐくらいの事は、母から聞いて知っているはずだのにとたしなめる事もあった。しまいには、君があんまり色気があり過ぎるからだと調戯からかい出した。敬太郎はそのたびに「馬鹿云え」で通していたが、心の内ではいつも、須永の門前で見た後姿の女を思い出した。その女がとりも直さず停留所の女であった事も思い出した。そうしてどこか遠くの方で気恥かしい心持がした。その女の名が千代子ちよこで、その妹の名が百代子ももよこである事も、今の敬太郎には珍らしい報知ではなかった。
 彼が松本に会って、すべて内幕の消息を聞かされたあと、田口へ顔を出すのは多少きまりの悪い思をするだけであったにかかわらず、顔を出さなければくくりがつかないという行きがかりから、笑われるのを覚悟の前で、また田口の門をくぐった時、田口ははたして大きな声を出して笑った。けれどもその笑のうちにはおのれの機略に誇る高慢の響よりも、迷った人を本来のみちに返してやった喜びの勝利が聞こえているのだと敬太郎には解釈された。田口はその時訓戒のためだとか教育の方法だとかいった風の、恩に着せた言葉をいっさい使わなかった。ただ悪意でした訳でないから、おこってはいけないと断わって、すぐその場で相当の位置をこしらえてくれる約束をした。それから手を鳴らして、停留所に松本を待ち合わせていた方の姉娘を呼んで、これがわたしの娘だとわざわざ紹介した。そうしてこのかたいっさんの御友達だよと云って敬太郎を娘に教えていた。娘は何でこういう人に引き合されるのか、ちょっとかいしかねた風をしながら、きわめてよそよそしく叮嚀ていねい挨拶あいさつをした。敬太郎が千代子という名を覚えたのはその時の事であった。
 これが田口の家庭に接触した始めての機会になって、敬太郎はそのも用事なり訪問なりに縁をりて、同じ人の門を潜る事が多くなった。時々は玄関脇の書生部屋へ這入はいって、かつて電話で口をき合った事のある書生と世間話さえした。奥へも無論通る必要が生じて来た。細君に呼ばれて内向うちむきの用を足す場合もあった。中学校へ行く長男から英語の質問を受けて窮する事もまれではなかった。出入でいりの度数がこう重なるにつれて、敬太郎が二人の娘に接近する機会も自然多くなって来たが、一種の延びた彼の調子と、比較的引きしまった田口の家風と、差向いで坐る時間の欠乏とが、容易に打ち解けがたい境遇に彼らを置き去りにした。彼らの間に取り換わされた言葉は、無論形式だけを重んずる堅苦しいものではなかったが、大抵は五分とかからない当用に過ぎないので、親しみはそれほど出る暇がなかった。彼らが公然とひざを突き合わせて、例になく長い時間を、遠慮のまじらない談話にかしたのは、正月なかばの歌留多会かるたかいの折であった。その時敬太郎は千代子から、あなた随分のろいのねと云われた。百代子からは、あたしあなたと組むのはいやよ、負けるにきまってるからとおこられた。
 それからまた一カ月ほどって、梅の音信たよりの新聞に出る頃、敬太郎はある日曜の午後を、久しぶりに須永の二階で暮した時、偶然遊びに来ていた千代子に出逢であった。三人してそれからそれへとまとまらない話を続けて行くうちに、ふと松本の評判が千代子の口にのぼった。
「あの叔父さんも随分変ってるのね。雨が降ると一しきりよく御客を断わった事があってよ。今でもそうかしら」
 
 
 
 
 
 
 
 二
 
「実は僕も雨の降る日に行って断られた一人いちにんなんだが……」と敬太郎けいたろうが云い出した時、須永すながと千代子は申し合せたように笑い出した。
「君も随分運の悪い男だね。おおかた例の洋杖ステッキを持って行かなかったんだろう」と須永は調戯からかい始めた。
「だって無理だわ、雨の降る日に洋杖なんか持って行けったって。ねえ田川さん」
 この理攻りぜめの弁護を聞いて、敬太郎も苦笑した。
「いったい田川さんの洋杖って、どんな洋杖なの。わたしちょっと見たいわ。見せてちょうだい、ね、田川さん。下へ行って見て来ても好くって」
「今日は持って来ません」
「なぜ持って来ないの。今日はあなたそれでも好い御天気よ」
「大事な洋杖だから、いくら好い御天気でも、ただの日には持って出ないんだとさ」
「本当?」
「まあそんなものです」
「じゃ旗日はたびにだけ突いて出るの」
 敬太郎は一人で二人に当っているのが少し苦しくなった。この次内幸町へ行く時は、きっと持って行って見せるという約束をしてようやく千代子の追窮をのがれた。その代り千代子からなぜ松本が雨の降る日に面会を謝絶したかの源因を話して貰う事にした。――
 それは珍らしく秋の日の曇った十一月のある午過ひるすぎであった。千代子は松本の好きな雲丹うにを母からことづかって矢来やらいへ持って来た。久しぶりに遊んで行こうかしらと云って、わざわざ乗って来た車まで返して、ゆっくり腰を落ちつけた。松本には十三になる女をかしらに、男、女、男と互違たがいちがいに順序よく四人の子がそろっていた。これらは皆二つ違いに生れて、いずれも世間並に成長しつつあった。家庭にはなやかな匂を着けるこの生き生きした装飾物の外に、松本夫婦は取って二つになる宵子よいこを、指環にめた真珠のように大事にいて離さなかった。彼女は真珠のように透明な青白い皮膚と、うるしのように濃い大きな眼をって、前の年のひなの節句の前のよいに松本夫婦の手に落ちたのである。千代子は五人のうちで、一番この子を可愛かわいがっていた。来るたんびにきっと何か玩具おもちゃを買って来てやった。ある時は余り多量にあまいものをあてがって叔母からおこられた事さえある。すると千代子は、大事そうに宵子を抱いて縁側えんがわへ出て、ねえ宵子さんと云っては、わざと二人の親しい様子を叔母に見せた。叔母は笑いながら、何だね喧嘩けんかでもしやしまいしと云った。松本は、御前そんなにその子が好きなら御祝いの代りに上げるから、嫁に行くとき持っておいでと調戯からかった。
 その日も千代子は坐るとすぐ宵子を相手にして遊び始めた。宵子は生れてからついぞ月代さかやきった事がないので、頭の毛が非常に細くやわらかに延びていた。そうして皮膚の青白いせいか、その髪の色が日光に照らされると、潤沢うるおいの多いむらさきを含んでぴかぴかちぢれ上っていた。「宵子さんかんかんって上げましょう」と云って、千代子は鄭寧ていねいにその縮れ毛にくしを入れた。それから乏しい片鬢かたびんを一束いて、その根元に赤いリボンをくくりつけた。宵子の頭は御供おそなえのように平らに丸く開いていた。彼女は短かい手をやっとその御供の片隅かたすみへ乗せて、リボンのはじを抑えながら、母のいる所までよたよた歩いて来て、イボンイボンと云った。母がああ好くかんかんが結えましたねとめると、千代子はうれしそうに笑いながら、子供の後姿をながめて、今度は御父さんの所へ行って見せていらっしゃいと指図さしずした。宵子はまた足元の危ない歩きつきをして、松本の書斎の入口まで来て、四つばいになった。彼女が父に礼をするときには必ず四つ這になるのが例であった。彼女はそこで自分の尻をできるだけ高く上げて、御供のような頭を敷居から二三寸の所まで下げて、またイボンイボンと云った。書見をちょっとやめた松本が、ああ好い頭だね、誰に結って貰ったのと聞くと、宵子はくびを下げたまま、ちいちいと答えた。ちいちいと云うのは、舌の廻らない彼女の千代子を呼ぶ常の符徴ふちょうであった。うしろに立って見ていた千代子はさいくちびるから出る自分の名前を聞いて、また嬉しそうに大きな声で笑った。
 
 
 
 
 
 
 
 三
 
 そのうち子供がみんな学校から帰って来たので、今まで赤いリボンに占領されていた家庭が、急に幾色かのはなやかさを加えた。幼稚園へ行く七つになる男の子が、ともえもんのついた陣太鼓じんだいこのようなものを持って来て、宵子よいこさん叩かして上げるからおいでと連れて行った。その時千代子は巾着きんちゃくのような恰好かっこうをした赤い毛織の足袋たびが廊下を動いて行く影を見つめていた。その足袋のひもの先には丸い房がついていて、それが小いさな足を運ぶたびにぱっぱっと飛んだ。
「あの足袋はたしか御前がんでやったのだったね」
「ええ可愛かわいらしいわね」
 千代子はそこへ坐って、しばらく叔父と話していた。そのうちに曇った空から淋しい雨が落ち出したと思うと、それが見る見る音を立てて、空坊主からぼうずになった梧桐ごとうをしたたからし始めた。松本も千代子も申し合せたように、硝子越ガラスごしの雨の色を眺めて、手焙てあぶりに手をかざした。
芭蕉ばしょうがあるもんだから余計音がするのね」
「芭蕉はよく持つものだよ。この間から今日は枯れるか、今日は枯れるかと思って、毎日こうして見ているがなかなか枯れない。山茶花さざんかが散って、青桐あおぎりが裸になっても、まだ青いんだからなあ」
「妙な事に感心するのね。だから恒三つねぞう閑人ひまじんだって云われるのよ」
「その代り御前の叔父さんには芭蕉の研究なんか死ぬまでできっこない」
「したかないわ、そんな研究なんか。だけど叔父さんは内の御父さんよりか全く学者ね。わたし本当に敬服しててよ」
生意気なまいき云うな」
「あら本当よあなた。だって何を聞いても知ってるんですもの」
 二人がこんな話をしていると、ただいまこのかたが御見えになりましたと云って、下女が一通の紹介状のようなものを持って来て松本に渡した。松本は「千代子待っておいで。今にまた面白い事を教えてやるから」と笑いながら立ち上った。
いやよまたこないだみたいに、西洋煙草たばこの名なんかたくさん覚えさせちゃ」
 松本は何にも答えずに客間の方へ出て行った。千代子も茶の間へ取って返した。そこには雨に降り込められた空の光を補なうため、もう電気灯がともっていた。台所ではすでに夕飯ゆうめしの支度を始めたと見えて、瓦斯七輪ガスしちりんが二つとも忙がしく青い※(「(諂-言)+炎」、第3水準1-87-64)ほのおを吐いていた。やがて小供は大きな食卓に二人ずつ向い合せに坐った。宵子だけは別に下女がついて食事をするのが例になっているので、この晩は千代子がその役を引受けた。彼女はさい朱塗のわんと小皿に盛った魚肉とを盆の上にせて、横手にある六畳へ宵子を連れ込んだ。そこはうちのものの着更きがえをするために多く用いられるへやなので、箪笥たんすが二つと姿見が一つ、壁から飛び出したようにえてあった。千代子はその姿見の前に玩具おもちゃのような椀と茶碗を載せた盆を置いた。
「さあ宵子さん、まんまよ。御待遠おまちどおさま」
 千代子がかゆ一匙ひとさじずつすくって口へ入れてやるたびに、宵子はおいしい旨しいだの、ちょうだいちょうだいだのいろいろな芸をいられた。しまいに自分一人で食べると云って、千代子の手から匙を受け取った時、彼女はまた丹念たんねんに匙の持ち方を教えた。宵子はもとよりきわめて短かい単語よりほかに発音できなかった。そう持つのではないと叱られると、きっと御供おそなえのような平たい頭をかしげて、こう? こう? と聞き直した。それを千代子が面白がって、何遍もくり返さしているうちに、いつもの通りこう? と半分言いかけて、心持横にした大きな眼で千代子を見上げた時、突然右の手に持った匙を放り出して、千代子のひざの前に俯伏うつぶせになった。
「どうしたの」
 千代子は何の気もつかずに宵子をき起した。するとまるで眠った子を抱えたように、ただ手応てごたえがぐたりとしただけなので、千代子は急に大きな声を出して、宵子さん宵子さんと呼んだ。
 
 
 
 
 
 
 
 四
 
 宵子よいこはうとうと寝入ねいった人のように眼を半分閉じて口を半分けたまま千代子のひざの上に支えられた。千代子は平手でその背中を二三度たたいたが、何の効目ききめもなかった。
「叔母さん、大変だから来て下さい」
 母は驚ろいてはしと茶碗を放り出したなり、足音を立てて這入はいって来た。どうしたのと云いながら、電灯の真下で顔を仰向あおむけにして見ると、くちびるにもう薄く紫の色がしていた。口へてのひらを当てがっても、呼息いきの通う音はしなかった。母は呼吸こきゅうつまったような苦しい声を出して、下女に濡手拭ぬれてぬぐいを持って来さした。それを宵子の額にせた時、「みゃくはあって」と千代子に聞いた。千代子はすぐ小さい手頸てくびを握ったが脈はどこにあるかまるで分らなかった。
「叔母さんどうしたら好いでしょう」とあおい顔をして泣き出した。母は茫然ぼうぜんとそこに立って見ている小供に、「早く御父さんを呼んでいらっしゃい」と命じた。小供は四人よつたりとも客間の方へけ出した。その足音が廊下のはずれで止まったと思うと、松本が不思議そうな顔をして出て来た。「どうした」と云いながら、かぶさるように細君と千代子の上から宵子をのぞき込んだが、一目見ると急にまゆを寄せた。
「医者は……」
 医者は時を移さず来た。「少し模様が変です」と云ってすぐ注射をした。しかし何の効能ききめもなかった。「駄目でしょうか」という苦しく張りつめた問が、固く結ばれた主人のくちびるれた。そうして絶望をおそれる怪しい光にちた三人の眼が一度に医者の上にえられた。鏡を出して瞳孔どうこうを眺めていた医者は、この時宵子のすそまくって肛門こうもんを見た。
「これでは仕方がありません。瞳孔も肛門も開いてしまっていますから。どうも御気の毒です」
 医者はこう云ったがまた一筒いっとうの注射を心臓部に試みた。もとよりそれは何の手段にもならなかった。松本はとおるような娘の肌に針の突き刺される時、おのずから眉間みけんけわしくした。千代子は涙をぽろぽろ膝の上に落した。
「病因は何でしょう」
「どうも不思議です。ただ不思議というよりほかに云いようがないようです。どう考えても……」と医者は首を傾むけた。「辛子湯からしゆでも使わして見たらどうですか」と松本は素人料簡しろうとりょうけんで聞いた。「好いでしょう」と医者はすぐ答えたが、その顔にはごう奨励しょうれいの色が出なかった。
 やがて熱い湯をたらいんで、湯気の濛々もうもうと立つ真中へ辛子からしを一袋けた。母と千代子は黙って宵子の着物を取りけた。医者は熱湯の中へ手を入れて、「もう少し注水うめましょう。余り熱いと火傷やけどでもなさるといけませんから」と注意した。
 医者の手にき取られた宵子は、湯の中に五六分けられていた。三人は息を殺して柔らかい皮膚の色を見つめていた。「もう好いでしょう。あんまり長くなると……」と云いながら、医者は宵子をたらいから出した。母はすぐ受取ってタオルで鄭寧ていねいに拭いて元の着物を着せてやったが、ぐたぐたになった宵子の様子に、ちっとも前と変りがないので、「少しの間このまま寝かしておいてやりましょう」とうらめしそうに松本の顔を見た。松本はそれがよかろうと答えたまま、また座敷の方へ取って返して、来客を玄関に送り出した。
 さい蒲団ふとんと小さい枕がやがて宵子のために戸棚とだなから取り出された。その上に常の夜の安らかな眠に落ちたとしか思えない宵子の姿をながめた千代子は、わっと云って突伏つっぷした。
「叔母さんとんだ事をしました……」
「何も千代ちゃんがした訳じゃないんだから……」
「でもあたしが御飯をべさしていたんですから……叔父さんにも叔母さんにもまことにすみません」
 千代子は途切とぎれ途切れの言葉で、先刻さっき自分が夕飯ゆうめしの世話をしていた時の、平生ふだんと異ならない元気な様子を、何遍もくり返して聞かした。松本は腕組をして、「どうもやっぱり不思議だよ」と云ったが、「おい御仙おせん、ここへ寝かしておくのは可哀かわいそうだから、あっちの座敷へ連れて行ってやろう」と細君をうながした。千代子も手を貸した。
 
 
 
 
 
 
 

Pages 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14