彼岸過迄 夏目漱石

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 五
 
 手頃な屏風びょうぶがないので、ただ都合の好い位置をって、何のかこいもない所へ、そっと北枕に寝かした。今朝方けさがた玩弄おもちゃにしていた風船玉を茶の間から持って来て、御仙がその枕元に置いてやった。顔へは白いさら木綿もめんをかけた。千代子は時々それを取りけて見ては泣いた。「ちょっとあなた」と御仙が松本をかえりみて、「まるで観音様かんのんさまのように可愛かわいい顔をしています」と鼻を詰らせた。松本は「そうか」と云って、自分の坐っている席から宵子の顔をのぞき込んだ。
 やがて白木の机の上に、しきみと線香立と白団子が並べられて、蝋燭ろうそくが弱い光を放った時、三人は始めて眠からめない宵子と自分達が遠く離れてしまったという心細い感じに打たれた。彼らは代る代る線香を上げた。その煙のにおいが、二時間前とは全く違う世界にいざない込まれた彼らの鼻を断えず刺戟しげきした。ほかの子供は平生の通り早く寝かされたあとに、咲子さきこという十三になる長女だけが起きて線香のそばを離れなかった。
「御前も御寝おねよ」
「まだ内幸町からも神田からも誰も来ないのね」
「もう来るだろう。好いから早く御寝」
 咲子は立って廊下へ出たが、そこで振りかえって、千代子を招いた。千代子が同じく立って廊下へ出ると、小さな声で、こわいからいっしょに便所はばかりへ行ってくれろと頼んだ。便所には電灯がけてなかった。千代子は燐寸マッチって雪洞ぼんぼりを移して、咲子といっしょに廊下を曲った。帰りに下女部屋をのぞいて見ると、飯焚めしたき出入でいりの車夫と火鉢ひばちはさんでひそひそ何か話していた。千代子にはそれが宵子の不幸を細かに語っているらしく思われた。ほかの下女は茶の間で来客の用意に盆を拭いたり茶碗を並べたりしていた。
 通知を受けた親類のものがそのうち二三人寄った。いずれまた来るからと云って帰ったのもあった。千代子は来る人ごとに宵子の突然な最後をくり返しくり返し語った。十二時過から御仙は通夜つやをする人のために、わざと置火燵おきごたつこしらえてへやに入れたが、誰もあたるものはなかった。主人夫婦は無理に勧められて寝室へ退しりぞいた。そのあとで千代子は幾度か短かくなった線香の煙を新らしくいだ。雨はまだ降りやまなかった。夕方芭蕉ばしょうに落ちた響はもう聞こえない代りに、亜鉛葺トタンぶきひさしにあたる音が、非常に淋しくて悲しい点滴てんてきを彼女の耳に絶えず送った。彼女はこの雨の中で、時々宵子の顔に当てたさらしを取っては啜泣すすりなきをしているうちに夜が明けた。
 その日は女がみんなして宵子の経帷子きょうかたびらを縫った。百代子ももよこが新たに内幸町から来たのと、ほかに懇意のうちの細君が二人ほど見えたので、小さいそですそが、方々の手に渡った。千代子は半紙と筆とすずりとを持って廻って、南無阿弥陀仏なむあみだぶつという六字を誰にも一枚ずつ書かした。「いっさんも書いて上げて下さい」と云って、須永すながの前へ来た。「どうするんだい」と聞いた須永は、不思議そうに筆と紙を受取った。
「細かい字で書けるだけ一面に書いて下さい。あとから六字ずつを短冊形たんざくがたってかんの中へ散らしにして入れるんですから」
 みんかしこまって六字の名号みょうごうしたためた。咲子は見ちゃいやよと云いながら袖屏風そでびょうぶをして曲りくねった字を書いた。十一になる男の子は僕は仮名で書くよと断わって、ナムアミダブツと電報のようにいくつも並べた。午過ひるすぎになっていよいよ棺に入れるとき松本は千代子に「御前着物を着換さしておやりな」と云った。千代子は泣きながら返事もせずに、冷たい宵子を裸にしてき起した。その背中には紫色むらさきいろの斑点が一面に出ていた。着換が済むと御仙が小さい珠数じゅずを手にかけてやった。同じく小さい編笠あみがさ藁草履わらぞうりを棺に入れた。昨日きのうの夕方まで穿いていた赤い毛糸の足袋たびも入れた。そのひもの先につけた丸いたまのぶらぶら動く姿がすぐ千代子の眼に浮んだ。みんなのくれた玩具おもちゃも足や頭の所へ押し込んだ。最後に南無阿弥陀仏の短冊たんざくを雪のように振りかけた上へふたをして、白綸子しろりんずおいをした。
 
 
 
 
 
 
 
 六
 
 友引ともびきくないという御仙おせんの説で、葬式を一日延ばしたため、うちの中は陰気な空気のうちに常よりはにぎわった。七つになる嘉吉かきちという男の子が、いつもの陣太鼓じんだいこたたいて叱られたあと、そっと千代子のそばへ来て、宵子よいこさんはもう帰って来ないのと聞いた。須永すながが笑いながら、明日あしたは嘉吉さんも焼場へ持って行って、宵子さんといっしょに焼いてしまうつもりだと調戯からかうと、嘉吉はそんなつもりなんか僕いやだぜと云いながら、大きな眼をくるくるさせて須永を見た。咲子さきこは、御母さんわたしも明日あした御葬式に行きたいわと御仙にせびった。あたしもねと九つになる重子しげこが頼んだ。御仙はようやく気がついたように、奥で田口夫婦と話をしていた夫を呼んで、「あなた、明日いらしって」と聞いた。
「行くよ。御前も行ってやるが好い」
「ええ、行く事にきめてます。小供には何を着せたらいいでしょう」
紋付もんつきでいいじゃないか」
「でもあんまり模様が派手だから」
はかま穿けばいいよ。男の子は海軍服でたくさんだし。御前は黒紋付だろう。黒い帯は持ってるかい」
「持ってます」
「千代子、御前も持ってるなら喪服を着てともに立っておやり」
 こんな世話を焼いた後で、松本はまた奥へ引返した。千代子もまた線香を上げに立った。かんの上を見ると、いつの間にか綺麗きれい花環はなわせてあった。「いつ来たの」とそばにいる妹の百代ももよに聞いた。百代は小さな声で「先刻さっき」と答えたが、「叔母さんが小供のだから、白い花だけではさみしいって、わざと赤いのをぜさしたんですって」と説明した。姉と妹はしばらくそこに並んで坐っていた。十分ばかりすると、千代子は百代の耳に口を付けて、「百代さんあなた宵子さんの死顔を見て」と聞いた。百代は「ええ」と首肯うなずいた。
「いつ」
「ほら先刻さっき御棺に入れる時見たんじゃないの。なぜ」
 千代子はそれを忘れていた。妹がもし見ないと云ったら、二人で棺のふたをもう一遍開けようと思ったのである。「御止しなさいよ、こわいから」と云って百代は首をふった。
 晩には通夜僧つやそうが来て御経を上げた。千代子が傍で聞いていると、松本は坊さんを捕まえて、三部経さんぶきょうがどうだの、和讃わさんがどうだのという変な話をしていた。その会話の中には親鸞上人しんらんしょうにん蓮如上人れんにょしょうにんという名がたびたび出て来た。十時少し廻った頃、松本は菓子と御布施おふせを僧の前に並べて、もうよろしいから御引取下さいとことわった。坊さんの帰ったあとで御仙がその理由わけを聞くと、「何坊さんも早く寝た方が勝手だあね。宵子だって御経なんか聴くのはきらいだよ」とすましていた。千代子と百代子は顔を見合せて微笑した。
 あくる日は風のない明らかな空の下に、小いさな棺が静かに動いた。路端みちばたの人はそれを何か不可思議のものでもあるかのように目送もくそうした。松本は白張しらはり提灯ちょうちん白木しらき輿こしが嫌だと云って、宵子の棺を喪車に入れたのである。その喪車の周囲ぐるりに垂れた黒い幕が揺れるたびに、白綸子しろりんずおいをした小さな棺の上に飾った花環がちらちら見えた。そこいらに遊んでいた子供がけ寄って来て、珍らしそうに車をのぞき込んだ。車と行き逢った時、脱帽して過ぎた人もあった。
 寺では読経どきょうも焼香も形式通り済んだ。千代子は広い本堂に坐っている間、不思議に涙も何も出なかった。叔父叔母の顔を見てもこれといってうれいとざされた様子は見えなかった。焼香の時、重子がこうをつまんで香炉こうろうちくべるのを間違えて、灰を一撮ひとつかみ取って、抹香まっこうの中へ打ち込んだ折には、おかしくなって吹き出したくらいである。式が果ててから松本と須永と別に一二人棺につき添って火葬場へ廻ったので、千代子はほかのものといっしょにまた矢来やらいへ帰って来た。車の上で、切なさの少し減った今よりも、苦しいくらい悲しかった昨日きのう一昨日おとといの気分の方が、清くて美くしい物を多量に含んでいたらしく考えて、その時味わった痛烈な悲哀をかえって恋しく思った。
 
 
 
 
 
 
 
 七
 
 骨上こつあげには御仙おせん須永すながと千代子とそれに平生ふだん宵子よいこの守をしていたきよという下女がついて都合四人よつたりで行った。柏木かしわぎ停車場ステーションを下りると二丁ぐらいな所を、つい気がつかずにうちから車に乗って出たので時間はかえって長くかかった。火葬場の経験は千代子に取って生れて始めてであった。久しく見ずにいた郊外の景色けしきも忘れ物を思い出したようにうれしかった。眼に入るものは青い麦畠むぎばたけと青い大根畠と常磐木ときわぎの中に赤や黄や褐色を雑多に交ぜた森の色であった。前へ行く須永は時々うしろを振り返って、穴八幡あなはちまんだの諏訪すわもりだのを千代子に教えた。車が暗いだらだら坂へ来た時、彼はまた小高い杉の木立の中にある細長い塔を千代子のためにゆびさした。それには弘法大師こうぼうだいし千五十年供養塔くようとうきざんであった。その下に熊笹くまざさの生い茂った吹井戸を控えて、一軒の茶見世が橋のたもとをさも田舎路いなかみちらしく見せていた。折々坊主になりかけた高い樹の枝の上から、色の変った小さい葉が一つずつ落ちて来た。それが空中で非常に早くきりきり舞う姿があざやかに千代子の眼を刺戟しげきした。それが容易に地面の上へ落ちずに、いつまでも途中でひらひらするのも、彼女には眼新らしい現象であった。
 火葬場は日当りの好い平地ひらちに南を受けて建てられているので、車を門内に引き入れた時、思ったより陽気な影が千代子の胸に射した。御仙が事務所の前で、松本ですがと云うと、郵便局の受付口みたような窓の中に坐っていた男が、かぎは御持ちでしょうねと聞いた。御仙は変な顔をして急にふところや帯の間を探り出した。
「とんだ事をしたよ。鍵を茶の間の用箪笥ようだんすの上へ置いたなり……」
「持って来なかったの。じゃ困るわね。まだ時間があるから急いでいっさんに取って来て貰うと好いわ」
 二人の問答をうしろの方で冷淡に聞いていた須永は、鍵なら僕が持って来ているよと云って、冷たい重いものをたもとから出して叔母に渡した。御仙がそれを受付口へ見せている間に、千代子は須永をたしなめた。
「市さん、あなた本当ににくらしいかたね。持ってるなら早く出して上げればいいのに。叔母さんは宵子さんの事で、頭がぼんやりしているから忘れるんじゃありませんか」
 須永はただ微笑して立っていた。
「あなたのような不人情な人はこんな時にはいっそ来ない方がいいわ。宵子さんが死んだって、涙一つこぼすじゃなし」
「不人情なんじゃない。まだ子供を持った事がないから、親子の情愛がよく解らないんだよ」
「まあ。よく叔母さんの前でそんな呑気のんきな事が云えるのね。じゃあたしなんかどうしたの。いつ子供持ったおぼえがあって」
「あるかどうか僕は知らない。けれども千代ちゃんは女だから、おおかた男より美くしい心を持ってるんだろう」
 御仙は二人の口論を聞かない人のように、用事を済ますとすぐ待合所の方へ歩いて行った。そこへ腰をかけてから、立っている千代子を手招きした。千代子はすぐ叔母のそばへ来て座に着いた。須永も続いて這入はいって来た。そうして二人の向側むこうがわにある涼み台みたようなものの上に腰をかけた。清もおかけと云って自分の席をいてやった。
 四人が茶をんで待ち合わしているあいだに、骨上こつあげの連中が二三組見えた。最初のは田舎染いなかじみた御婆さんだけで、これは御仙と千代子の服装に対して遠慮でもしたらしく口数を多くかなかった。次には尻をからげた親子連おやこづれが来た。活溌かっぱつな声で、つぼを下さいと云って、一番安いのを十六銭で買って行った。三番目には散髪さんぱつに角帯をめた男とも女とも片のつかない盲者めくらが、紫のはかま穿いた女の子に手を引かれてやって来た。そうしてまだ時間はあるだろうねと念を押して、たもとから出した巻煙草まきたばこを吸い始めた。須永はこの盲者の顔を見ると立ち上ってぷいと表へ出たぎりなかなか返って来なかった。ところへ事務所のものが御仙の傍へ来て、用意が出来ましたからどうぞとうながしたので、千代子は須永を呼びに裏手へ出た。
 
 
 
 
 
 
 
 八
 
 真鍮しんちゅうの掛札に何々殿と書いた並等なみとうかまを、薄気味悪く左右に見て裏へ抜けると、広い空地あきちすみ松薪まつまきが山のように積んであった。周囲まわりには綺麗きれい孟宗藪もうそうやぶ蒼々あおあおと茂っていた。その下が麦畠むぎばたけで、麦畠の向うがまた岡続きに高く蜿蜒うねうねしているので、北側のながめはことに晴々はればれしかった。須永すながはこの空地のはしに立って広い眼界をぼんやり見渡していた。
いっさん、もう用意ができたんですって」
 須永は千代子の声を聞いて黙ったまま帰って来たが、「あの竹藪たけやぶは大変みごとだね。何だか死人しびとあぶら肥料こやしになって、ああ生々いきいき延びるような気がするじゃないか。ここにできるたけのこはきっとうまいよ」と云った。千代子は「おおいやだ」とぱなしにして、さっさとまた並等なみとうを通り抜けた。宵子よいこかまは上等の一号というので、扉の上に紫の幕が張ってあった。その前に昨日きのうの花環が少ししぼみかけて、台の上に静かに横たわっていた。それが昨夜ゆうべ宵子の肉を焼いた熱気ねっき記念かたみのように思われるので、千代子は急に息苦しくなった。御坊おんぼうが三人出て来た。そのうちの一番年を取ったのが「御封印を……」と云うので、須永は「よし、構わないから開けてくれ」と頼んだ。かしこまった御坊は自分の手で封印を切って、かちゃりと響く音をさせながらじょうを抜いた。黒い鉄の扉が左右へくと、薄暗い奥の方に、灰色の丸いものだの、黒いものだの、白いものだのが、形を成さない一塊ひとかたまりとなって朧気おぼろげに見えた。御坊は「今出しましょう」と断って、レールを二本前の方にぎ足しておいて、鉄のかんに似たものを二つ棺台のはしにかけたかと思うと、いきなりがらがらという音と共に、かの形を成さない一塊の焼残やけのこりが四人の立っている鼻の下へ出て来た。千代子はそのなかで、例の御供おそなえに似てふっくらとふくらんだ宵子の頭蓋骨ずがいこつが、生きていた時そのままの姿で残っているのを認めて急に手帛ハンケチを口にくわえた。御坊はこの頭蓋骨と頬骨と外に二つ三つの大きな骨を残して、「あとは綺麗きれいふるって持って参りましょう」と云った。
 四人よつたり各自めいめい木箸きばしと竹箸を一本ずつ持って、台の上の白骨はっこつを思い思いに拾っては、白いつぼの中へ入れた。そうして誘い合せたように泣いた。ただ須永だけは蒼白あおしろい顔をして口もかず鼻も鳴らさなかった。「歯は別になさいますか」と聞きながら、御坊が小器用に歯を拾い分けてくれた時、あごをくしゃくしゃとつぶしてその中から二三枚り出したのを見た須永は、「こうなるとまるで人間のような気がしないな。砂の中から小石を拾い出すと同じ事だ」と独言ひとりごとのように云った。下女が三和土たたきの上にぽたぽたと涙を落した。御仙おせんと千代子ははしを置いて手帛ハンケチを顔へ当てた。
 車に乗るとき千代子は杉の箱に入れた白い壺をいてそれをひざの上にせた。車がけ出すと冷たい風が膝掛と杉箱の間から吹き込んだ。高いけやき白茶しらちゃけた幹を路の左右に並べて、彼らを送り迎えるごとくに細い枝を揺り動かした。その細い枝がはるか頭の上で交叉こうさするほどしげく両側から出ているのに、自分の通る所は存外明るいのを奇妙に思って、千代子は折々頭を上げては、遠い空をながめた。うちへ着いて遺骨を仏壇の前に置いた時、すぐ寄って来た小供が、ふたを開けて見せてくれというのを彼女は断然拒絶した。
 やがて家内中同じへやで昼飯のぜんに向った。「こうして見ると、まだ子供がたくさんいるようだが、これで一人もう欠けたんだね」と須永が云い出した。
「生きてる内はそれほどにも思わないが、かれて見ると一番惜しいようだね。ここにいる連中のうちで誰か代りになればいいと思うくらいだ」と松本が云った。
非道ひどいわね」と重子が咲子に耳語ささやいた。
「叔母さんまた奮発して、宵子さんと瓜二うりふたつのような子をこしらえてちょうだい。可愛かわいがって上げるから」
「宵子と同じ子じゃいけないでしょう、宵子でなくっちゃ。御茶碗や帽子と違って代りができたって、くしたのを忘れる訳にゃ行かないんだから」
おれは雨の降る日に紹介状を持って会いに来る男がいやになった」
 
 
 
 
 
 
 
 

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