舌のすさび
著者:吉川 英治 読み手:入江 安希子 時間:12分17秒
あれはもう何年前か。とにかく晩春だった。陛下をかこんでおはなしする会が皇居内の花陰亭でもよおされた。文化人四、五名お招きうけてである。――その雑談中のことであったが
﹃陛下。陛下はマル干シを召上がったことがおありですか﹄と獅子文六がきいた。﹃マル干シ?﹄と陛下はけげんなお顔をなされた。﹃さあ、どうでしょうな﹄と、そばから徳川夢声。すこし間をおいて、入江侍従が﹃おそらく御存知ありますまい﹄とつけ加えた。味覚の説明はむずかしい。わけてマル干シの味境などをご理解に訴えるなどは至難であるからこの話題はしぜん花が咲くにいたらなかった。ただ獅子文六はちらと﹃ご不幸だな、やっぱり﹄と言いたげな顔つきだった・・・