春は馬車に乗って
著者:横光 利一 読み手:伊藤 靖 時間:37分36秒
海浜の松が凩に鳴り始めた。庭の片隅で一叢の小さなダリヤが縮んでいった。
彼は妻の寝ている寝台の傍から、泉水の中の鈍い亀の姿を眺めていた。亀が泳ぐと、水面から輝り返された明るい水影が、乾いた石の上で揺れていた。
﹁まアね、あなた、あの松の葉がこの頃それは綺麗に光るのよ﹂と妻は云った。
﹁お前は松の木を見ていたんだな﹂
﹁ええ﹂
﹁俺は亀を見てたんだ﹂
二人はまたそのまま黙り出そうとした。
﹁お前はそこで長い間寝ていて、お前の感想は、たった松の葉が美しく光ると云うことだけなのか﹂
﹁ええ、だって、あたし、もう何も考えないことにしているの﹂
﹁人間は何も考えないで寝ていられる筈がない﹂・・・