久しぶりにPCを使える環境になったので、この未曽有の災害について、自分が経験したことや感じたこと等を書いておこうと思う。
被災された方々にお見舞いを申し上げるとともに、亡くなった方々のご冥福をお祈りします。
■被災当日 ・被災の瞬間 俺は会社で仕事をしていた。やっているプロジェクトが、だいぶタスクが溜まっているにも関わらず外部要因やら内部要因やらで進まず、さてどうすっか、という状況。本番環境のログをあさったり、タスクを洗いなおして段取りしたり・・・みたいな事をやっていて、品川から﹁ちょっと電話で話そう﹂と言われて﹁了解っすー﹂なんてメッセンジャーを返してさて電話すっか、というタイミングでぐらっときた。
最初は、その数日前にあった震度5弱程度のものと思われた。﹁お、また結構でかいな、﹂と言うくらいに思っていて、PCとかモニターが落ちないように押さえているくらいだった。 第2波が、その数秒後に来た。これが凄かった。さっきまでの大きめの地震の数倍の横揺れ。起震車ってので震度6とか7とか、ってやった時のあのギャグみたいな揺れが、実際におこったのだ。机はがっくんがっくん横に数十センチゆれるわ、PCのモニターはぶっ倒れるわ、立っていられないくらいの揺れ。 で、信じられないことに、第3波が来た。俺らの執務室はビルの3階なのだが、ビルの床が波打ってるような感覚。これが一番恐ろしかった。床が抜けて下に落ちるのか、天井が上から落ちてきて生き埋めになるか。なんて事を思ってたらすぐ近くのエアコンがガシャーンと机の上に落ちた。幸いその席の人は机の下にもぐっていたので無事。電気がバツンと切れた。PCのデータどうなったのか。。。 第2波が来たくらいのタイミングで、携帯から聞いたこともない音が出た。これが緊急地震速報ってやつか!ってのは後で気づいた。
うちのリーダーはそんな時にも関わらずiPhoneで映像撮ってた。スゲエなおい。
10分くらいに感じられたが、2分くらいだったんだろう。みんなで靴を履いて荷物を持って、非常階段を降りて外に出た。
外を出た俺らは、ビルの損傷の激しさにマジビビリした。壁に、数十センチにわたる穴が空いている。俺らの執務室だ。それ以外にも、壁面に割れ目が入ってタイルが落ちていたり、非常階段が取れそうになっていたり、と、想像を絶する被害だった。 折しもその日は大学等の卒業式がすぐ近くのホールで行われていたようで、晴れ着姿の女子がぞろぞろと出てきた。我々も、それぞれの無事を確認しつつ、近くの公園に移動した。 公園はすぐに人で埋まった。その間も、かなり大きな余震が何度も襲う。携帯で各方面に連絡を試みるも、さっそくまったく繋がらず。かろうじてtwitterがつながったので無事と書きこんでおいた。 各自点呼したり連絡方法を交換したりして、非常事態と言うことで、自宅の無事を確認すべく全員その場で解散した。オフィスに戻ってもどうしようもないし。
・自宅へ 幸い、俺の妻子は秋田に行っているのでおそらく問題ないはず。後で連絡を取れることを祈りつつメールを送っておいて、ひとまず家に戻る事に。 榴ヶ岡駅から自宅のある泉中央までは約10Km、大した距離ではない。2〜3時間で着くだろう、という見込みで、同じ方面の人たちと一緒に歩き出した。 仙台の中心部は、ガラスが割れているビル、瓦屋根がまるごとおっこちたお寺、アスファルトがめり込んだりめくり上がったりしている道路、などなど、かなり危ない状態ではあったが、さすが数十年前に大きな地震があって教訓があるだけに、街並みが大きく変わるほどの倒壊をしている建物はまずなかった。電気が無くて信号がついていないのと、人が異常に多いのを除けば、ほぼいつものままと言ってもいいくらいだ。 道路はさすがに大渋滞で、全然動かない。これではタクシーに乗ったとしても全く身動きが取れないだろう。 徒歩ってのは一番遅いが一番着実な前進のための方法なんだなぁ、と改めて思ったりした。 歩いている間に、異常な勢いで雪が降ってきた。なんとか傘を持っていたが、ウール素材のコートであった為、雪がべったりついて参った。 北上するための大きな国道の歩道は、同じような境遇の人たちで埋め尽くされた。中心部よりも、ちょっと外れた国道沿いの店舗の方が被害が大きいようだ。自動車販売店なんかは、ガラスが全部割れて大変な事になっていた。壁がまるっきり取れてしまった民家もあった。 道すがら、幸い持っていたMP3プレイヤーでラジオを聴いていた。﹁岩手・宮城・福島に大津波警報発令﹂﹁仙台空港が津波で水没﹂﹁気仙沼や名取が津波で甚大な被害﹂等のひどい情報がどんどん飛び込む。だが、この時はこんな大惨事であることはまだ分かっていなかった。 自宅は思いの外なんの被害も無く、写真立てがひとつ割れただけで済んだ。
■震災1日目の夜 とりあえずガスと水が出ることを確認したが、明日には出なくなる可能性もあるので水は風呂おけに貯めておいた。すでに周囲は暗くなりつつあり、懐中電灯が手放せない明るさ。なんとか食える物を適当に口に入れ、とにかく寝ることにした。それしか出来ることが無い。携帯から情報を取りたいが充電出来ないし、電話は繋がらないし、メールは届かないし、情報はラジオしか無いし・・・という状況で、暗闇の中を余震に耐えながら一人過ごすのは、本当に辛かった。怖いとかいうより、とにかく辛かった。 あんまり眠れないまま朝になった。
■それからの数日 冷蔵庫に果物やら野菜は結構あったのだが、調理しないと食えない。調理器具はガスボンベとコンロが生きているので、焼きそばなんかを作って食って過ごしていた。 日中は、一人でひたすら過ごすのが辛いので自転車で周囲を走りまわった。やってる店はないか、何か情報はないか、という目的とともに、とりあえず人がいるとこに行きたい、という理由からが大きい。何より心細かったのが、携帯の充電である。クルマ用の充電器を買っておけばよかったと激しく後悔。3日目くらいに手に入れたが、それまでは路上で充電させてくれる人を頼ったりしていた。 で、その日くらいに電気が戻った。 二日目くらいに元上司が山形から水やら食料やらをもって応援に駆けつけてくれて、本当に助かった。
クルマ用携帯充電器を手に入れるまでの数日は本当に長かった。 自転車で10Km走って携帯充電しようと思って路上の人に助けてもらったりした。
■秋田へ 嫁と子供が秋田に行っていたので、そこに合流することに。 ガソリンが心配だったが途中の山形で丁度入れることが出来た。 秋田でも食料が不足しがちだ、とかメールで言うもんだからビビって、家にあるもの全て持っていったのだが、秋田は拍子抜けするほど変化が無かった。 そりゃ確かにスーパーに物は無いが、無いとは言ってもパンとかおむつとかの一部の物が無いだけで、生鮮食料品は結構普通にあるし、何も困るところなどなさそうだ。 ただガソリンはかなりの行列が必要。だがこれもかなり回復が早かった。仙台に戻ってくる頃には行列はかなり解消していたようだ。
秋田では子供と嫁とひたすら一緒に過ごした。なんか嘘みたいな日々だった。。。朝起きてご飯くって子供と遊んでお昼食って子供と寝てちょっと英語勉強して酒のんで寝る、みたいな。 福島の原発騒動のニュースが気になって気になってしょうがなく、あんまり休んだ気もしなかったが・・・。
■仙台に戻る 10日くらい秋田にいただろうか。仙台に戻ると、意外とコンビニ等が開いている事に驚いた。これなら最低限生活に困ることはなさそうだ、と思った。 が、出社が非常にキツイ。数百人の行列に1時間くらい並んでシャトルバスで2駅送ってもらうのだが当然激混み。電車も激混み。復旧は5月頃になるとの事・・・。 会社に社長が視察に来たりした。 俺の同期の人が塩竈で実家とクルマを流されてしまったという話を聞いて愕然。こんな身近にそんな人がいるとは思わなんだ・・・。凹む。
■教訓等 ・IT役に立たねー。極限状態では本当に役に立たねー。スマートフォンはあってとても助かったが、それはニュースを見たりするのに助かったのであって、生きるための情報を取得できたわけではなかった。結局クチコミや実地検証が必要で、自分の足が一番重要だった。特に震災直後。 ・かといって情報が無いと不安になるのでとにかくラジオは常に使えるようにしておけ。 ・ポータブルのガスコンロとガスは置いてあると安心感が全然違うぞ。 ・飴やチョコレートを常備しよう。ヤバい時は甘いものを食って鏡を見ると落ち着く。 ・水は確保出来るときに確保しよう。 ・トイレは水を物凄く使う。 ・可能であれば家族は安全なところにいてもらおう。自分一人ならなんとでもなる。主人ガソリンスタンドに並んで5時間帰って来ないんです何かしりませんか、って泣きそうになりながら隣の家に聞きに来てる奥さんとか見た。 ・ガソリンは常に満タンにしておけ。こういう時に頼りになるのはクルマ。単独で電気も使えるし移動できるし保温できるから。 ・携帯の充電は複数の手段を常備しておこう。電池でもいけるように。 ・海岸沿いには住まない。地震に強い建物に住む。
こんなとこか・・・
全部が元通りになって、いや元通り以上になって復興のゴールですよ。 がんばるぞ。やるぞ。
■被災当日 ・被災の瞬間 俺は会社で仕事をしていた。やっているプロジェクトが、だいぶタスクが溜まっているにも関わらず外部要因やら内部要因やらで進まず、さてどうすっか、という状況。本番環境のログをあさったり、タスクを洗いなおして段取りしたり・・・みたいな事をやっていて、品川から﹁ちょっと電話で話そう﹂と言われて﹁了解っすー﹂なんてメッセンジャーを返してさて電話すっか、というタイミングでぐらっときた。
最初は、その数日前にあった震度5弱程度のものと思われた。﹁お、また結構でかいな、﹂と言うくらいに思っていて、PCとかモニターが落ちないように押さえているくらいだった。 第2波が、その数秒後に来た。これが凄かった。さっきまでの大きめの地震の数倍の横揺れ。起震車ってので震度6とか7とか、ってやった時のあのギャグみたいな揺れが、実際におこったのだ。机はがっくんがっくん横に数十センチゆれるわ、PCのモニターはぶっ倒れるわ、立っていられないくらいの揺れ。 で、信じられないことに、第3波が来た。俺らの執務室はビルの3階なのだが、ビルの床が波打ってるような感覚。これが一番恐ろしかった。床が抜けて下に落ちるのか、天井が上から落ちてきて生き埋めになるか。なんて事を思ってたらすぐ近くのエアコンがガシャーンと机の上に落ちた。幸いその席の人は机の下にもぐっていたので無事。電気がバツンと切れた。PCのデータどうなったのか。。。 第2波が来たくらいのタイミングで、携帯から聞いたこともない音が出た。これが緊急地震速報ってやつか!ってのは後で気づいた。
うちのリーダーはそんな時にも関わらずiPhoneで映像撮ってた。スゲエなおい。
10分くらいに感じられたが、2分くらいだったんだろう。みんなで靴を履いて荷物を持って、非常階段を降りて外に出た。
外を出た俺らは、ビルの損傷の激しさにマジビビリした。壁に、数十センチにわたる穴が空いている。俺らの執務室だ。それ以外にも、壁面に割れ目が入ってタイルが落ちていたり、非常階段が取れそうになっていたり、と、想像を絶する被害だった。 折しもその日は大学等の卒業式がすぐ近くのホールで行われていたようで、晴れ着姿の女子がぞろぞろと出てきた。我々も、それぞれの無事を確認しつつ、近くの公園に移動した。 公園はすぐに人で埋まった。その間も、かなり大きな余震が何度も襲う。携帯で各方面に連絡を試みるも、さっそくまったく繋がらず。かろうじてtwitterがつながったので無事と書きこんでおいた。 各自点呼したり連絡方法を交換したりして、非常事態と言うことで、自宅の無事を確認すべく全員その場で解散した。オフィスに戻ってもどうしようもないし。
・自宅へ 幸い、俺の妻子は秋田に行っているのでおそらく問題ないはず。後で連絡を取れることを祈りつつメールを送っておいて、ひとまず家に戻る事に。 榴ヶ岡駅から自宅のある泉中央までは約10Km、大した距離ではない。2〜3時間で着くだろう、という見込みで、同じ方面の人たちと一緒に歩き出した。 仙台の中心部は、ガラスが割れているビル、瓦屋根がまるごとおっこちたお寺、アスファルトがめり込んだりめくり上がったりしている道路、などなど、かなり危ない状態ではあったが、さすが数十年前に大きな地震があって教訓があるだけに、街並みが大きく変わるほどの倒壊をしている建物はまずなかった。電気が無くて信号がついていないのと、人が異常に多いのを除けば、ほぼいつものままと言ってもいいくらいだ。 道路はさすがに大渋滞で、全然動かない。これではタクシーに乗ったとしても全く身動きが取れないだろう。 徒歩ってのは一番遅いが一番着実な前進のための方法なんだなぁ、と改めて思ったりした。 歩いている間に、異常な勢いで雪が降ってきた。なんとか傘を持っていたが、ウール素材のコートであった為、雪がべったりついて参った。 北上するための大きな国道の歩道は、同じような境遇の人たちで埋め尽くされた。中心部よりも、ちょっと外れた国道沿いの店舗の方が被害が大きいようだ。自動車販売店なんかは、ガラスが全部割れて大変な事になっていた。壁がまるっきり取れてしまった民家もあった。 道すがら、幸い持っていたMP3プレイヤーでラジオを聴いていた。﹁岩手・宮城・福島に大津波警報発令﹂﹁仙台空港が津波で水没﹂﹁気仙沼や名取が津波で甚大な被害﹂等のひどい情報がどんどん飛び込む。だが、この時はこんな大惨事であることはまだ分かっていなかった。 自宅は思いの外なんの被害も無く、写真立てがひとつ割れただけで済んだ。
■震災1日目の夜 とりあえずガスと水が出ることを確認したが、明日には出なくなる可能性もあるので水は風呂おけに貯めておいた。すでに周囲は暗くなりつつあり、懐中電灯が手放せない明るさ。なんとか食える物を適当に口に入れ、とにかく寝ることにした。それしか出来ることが無い。携帯から情報を取りたいが充電出来ないし、電話は繋がらないし、メールは届かないし、情報はラジオしか無いし・・・という状況で、暗闇の中を余震に耐えながら一人過ごすのは、本当に辛かった。怖いとかいうより、とにかく辛かった。 あんまり眠れないまま朝になった。
■それからの数日 冷蔵庫に果物やら野菜は結構あったのだが、調理しないと食えない。調理器具はガスボンベとコンロが生きているので、焼きそばなんかを作って食って過ごしていた。 日中は、一人でひたすら過ごすのが辛いので自転車で周囲を走りまわった。やってる店はないか、何か情報はないか、という目的とともに、とりあえず人がいるとこに行きたい、という理由からが大きい。何より心細かったのが、携帯の充電である。クルマ用の充電器を買っておけばよかったと激しく後悔。3日目くらいに手に入れたが、それまでは路上で充電させてくれる人を頼ったりしていた。 で、その日くらいに電気が戻った。 二日目くらいに元上司が山形から水やら食料やらをもって応援に駆けつけてくれて、本当に助かった。
クルマ用携帯充電器を手に入れるまでの数日は本当に長かった。 自転車で10Km走って携帯充電しようと思って路上の人に助けてもらったりした。
■秋田へ 嫁と子供が秋田に行っていたので、そこに合流することに。 ガソリンが心配だったが途中の山形で丁度入れることが出来た。 秋田でも食料が不足しがちだ、とかメールで言うもんだからビビって、家にあるもの全て持っていったのだが、秋田は拍子抜けするほど変化が無かった。 そりゃ確かにスーパーに物は無いが、無いとは言ってもパンとかおむつとかの一部の物が無いだけで、生鮮食料品は結構普通にあるし、何も困るところなどなさそうだ。 ただガソリンはかなりの行列が必要。だがこれもかなり回復が早かった。仙台に戻ってくる頃には行列はかなり解消していたようだ。
秋田では子供と嫁とひたすら一緒に過ごした。なんか嘘みたいな日々だった。。。朝起きてご飯くって子供と遊んでお昼食って子供と寝てちょっと英語勉強して酒のんで寝る、みたいな。 福島の原発騒動のニュースが気になって気になってしょうがなく、あんまり休んだ気もしなかったが・・・。
■仙台に戻る 10日くらい秋田にいただろうか。仙台に戻ると、意外とコンビニ等が開いている事に驚いた。これなら最低限生活に困ることはなさそうだ、と思った。 が、出社が非常にキツイ。数百人の行列に1時間くらい並んでシャトルバスで2駅送ってもらうのだが当然激混み。電車も激混み。復旧は5月頃になるとの事・・・。 会社に社長が視察に来たりした。 俺の同期の人が塩竈で実家とクルマを流されてしまったという話を聞いて愕然。こんな身近にそんな人がいるとは思わなんだ・・・。凹む。
■教訓等 ・IT役に立たねー。極限状態では本当に役に立たねー。スマートフォンはあってとても助かったが、それはニュースを見たりするのに助かったのであって、生きるための情報を取得できたわけではなかった。結局クチコミや実地検証が必要で、自分の足が一番重要だった。特に震災直後。 ・かといって情報が無いと不安になるのでとにかくラジオは常に使えるようにしておけ。 ・ポータブルのガスコンロとガスは置いてあると安心感が全然違うぞ。 ・飴やチョコレートを常備しよう。ヤバい時は甘いものを食って鏡を見ると落ち着く。 ・水は確保出来るときに確保しよう。 ・トイレは水を物凄く使う。 ・可能であれば家族は安全なところにいてもらおう。自分一人ならなんとでもなる。主人ガソリンスタンドに並んで5時間帰って来ないんです何かしりませんか、って泣きそうになりながら隣の家に聞きに来てる奥さんとか見た。 ・ガソリンは常に満タンにしておけ。こういう時に頼りになるのはクルマ。単独で電気も使えるし移動できるし保温できるから。 ・携帯の充電は複数の手段を常備しておこう。電池でもいけるように。 ・海岸沿いには住まない。地震に強い建物に住む。
こんなとこか・・・
全部が元通りになって、いや元通り以上になって復興のゴールですよ。 がんばるぞ。やるぞ。