ラテン語訳 |
宿 酔 | Crapula |
朝、鈍い日が照つてて 風がある。 千の天使が バスケットボールする。 私は目をつむる、 かなしい酔ひだ。 もう不用になつたストーヴが 白つぽく銹びてゐる。 朝、鈍い日が照つてて 風がある。 千の天使が バスケットボールする。 |
mane sol sine scintilla ---in vento lucet. mille angelorum ---corbifolle ludit. Oculos meos claudo ---triste ebrius. iam non utor foculis ---quae robiginem albam traxerunt. mane sol sine scintilla ---in vento lucet. mille angelorum ---corbifolle ludit. |
この詩のミソといえばなんといっても、二日酔いによる頭痛を﹁千の天使﹂の﹁バスケット﹂と表現したところ。この両者の結びつきはいわゆるデペイズマンとは違うのかもしれませんが、突拍子のない面白さがあるなぁと思ったりします。ところで、この﹁千の天使﹂という表現。これは、中也の創作ではなく、フラ語の詩にでてくるとどっかで読んだ記憶があり、探してみたところ、彼が翻訳を手掛けた詩人ランボーの”Memoire”という作品で使用されているのを見つけました。 ︵------------------︶Hélas, Lui, comme mille anges blancs qui se séparent sur la route, s'éloigne par delà la montagne !︵---------︶ ﹁ああ、彼は、道で分かれゆく白い千の天使のように、山の向こうへと遠ざかる。﹂ 出典Poesie Francaise このランボーの詩は、性的な隠喩が感じられるもので、﹁宿酔﹂とはとくに深い関係がないように思います。ちなみに、内容については、こちらの英訳サイトが翻訳論っぽくて面白いっす。でも、Improvedversionと名づけられているものは、訳者の解釈が入りすぎているんじゃないか、と。で、興味深いのが、中也自身はこの詩の翻訳を、少なくとも角川旧全集を見る限りは、していないんですな。まぁ、かなり分かり難い詩ではあるんですが。もしかしたら、この詩の訳を決定稿として発表するにいたらなかった未練が、﹁宿酔﹂のなかに感じられるなどといっては、言い過ぎだわな。 さて、mille angesという表現。これまたRimbaudの創作ではなく、キリスト教関係の文章で見られるもののようで。ネットで探して見つかったのが、教会の献堂式の際に歌われる非常に古い賛美歌をローマ教皇ウルバヌス8世︵1623-1644在位︶の時代に改変したものだそうです。載っていたのはカトリック百科事典とでもいうべきサイト。ということは、かなり有名な賛美歌なのかもしれませんな。 Coelestis Urbs Jerusalem, Beata pacis visio, Quæ celsa de viventibus Saxis ad astra tolleris, Sponsæque ritu cingeris Mille Angelorum millibus. ﹁天上の都市、イェルサレム、 平和の幸いなる姿よ 汝は、生ける岩により高々と 星に到るまでそびえ立ち、 約束されし都市にふさわしく 千の天使、幾千の天使に守護される。﹂ ということで、中也の﹁千の天使﹂をたどっていくと、ラテン語にまで行き着く、と。だから、ラテン語訳する意義もあるのだ、なぁーんて、強引な主張をするつもりなど毛頭なかったのですが、ま、そこはご愛嬌ってことで。 さて、前置きはこれぐらいにして、次にこの詩のMackintosh&Sugiyama、Bevilleの英訳、それからAlliouxの仏訳を眺めてまいりましょう。 まず、気になったのが、冒頭の﹁朝﹂。これは単に﹁今朝は﹂とでも言い換えられるような、極々普通の副詞表現だと思うのですが、英訳者、仏訳者の方々はそうはとらなかったようで。以下に3者による最初の2行の訳を並べてみたのですが、とくにアリューさんが、びっくりマークまでつけているのが目立ちます。でも、、いくらなんでもこれはやりすぎじゃないかと。これでは、﹁朝よ!﹂なぁーんて感じになっちゃうんではないかな、とも。 Mackintosh︵p19︶ Morning, dull light shinnig, and there is wind Beville︵p?︶ Morning -- keen sunlight shines and there is a breeze. Allioux︵p41︶ Matin! un soleil sans éclat brille Dans le vent. とはいえ、この3種類の訳でやっぱり一番ひねってあるのがアリューさん。直訳するとこうなります。 ﹁朝!輝きのない太陽が風の中で光っている。﹂ ﹁風がある﹂というところを英訳者は二人とも、風を主語に置いたthere is構文を使っているのに対し、仏訳では副詞句にまとめちゃってます。これによって、太陽のあり方のほうにぐっと焦点が置かれる効果が生まれてるようにも。まぁ、確かに、﹁風がある﹂と書かれているとはいえ、風の存在することにどれだけ重きが置かれているのかという点を考慮すると、英訳は重すぎるのかもしれませんな。 それから、﹁鈍い日﹂というところも英訳では直訳されているのに対し、仏訳では﹁輝きのない太陽﹂と分析的な解釈がされています。こういう解釈はえてして、上のランボーの場合のように﹁えぇーッ﹂とついのけぞってしまいがちなのですが、このケースは、﹁ふむふむ﹂とうなづいてしまいました。で、ラテン語訳では、仏訳をほぼそのまま逐語訳してあります。 なお、﹁バスケットボール﹂という単語ですが、すでにラテン語に定訳がありまして特に問題にはなりませんでした。スポーツ関係の用語はこちらにリストがあります。 さて、第2連に目を移しますと、やはり仏訳が英訳とかなり違っているのが目につきます。 Mackintosh Already the defunct stove is whitely rusting Beville A stove beyond repair is rusting to a flaky white. Allioux Plus besoin de ce poêle Avec sa rouille blanche. ﹁白い錆びのあるこのストーブはもういらない。﹂ 英訳ではどちらも、﹁銹びてゐる﹂という状態がいわゆる定動詞で記述されているのに対し、アリューさんは﹁白く銹びてゐる﹂を形容詞句にまとめてしまい、省略を交えながらも﹁不用になつた﹂をメインにもってきています。 この仏訳を読んで思ったのが、﹁不用になつた﹂というのはなぜなんだろうか、という点。引越しするからか、壊れたからか、はたまた春になったからか。英訳では、錆びの浮いたストーブの表面が視覚的に立ち上がってくるのに対し、仏訳では、その所有者の存在がかなり強く出てくるような気が。まぁ、この場合、どっちがよいかは好みが分かれそうな感じがしますな。 ネタ本一覧 The poems of Nakahara Chuya / [Nakahara Chuya] ; translated by Paul Mackintosh and Maki Sugiyama. -- Gracewing, 1993 Poems of the goat / by Chuya Nakahara ; the complete translations by R y Beville ; : pbk. -- American Book Company, 2002 Poemes / Nakahara Chuya ; traduction du japonais, postface, notes, chronologie, bibliographie par Yves-Marie Allioux ; preface par Kitagawa Toru. -- Philippe Picquier, 2005 戻る