経済は、昔も今も、成長と平等が目標だ。どうやって実現するかと言うと、まず、輸出を増やすことで設備投資を引き出し、高投資の経済構造にして成長率を高める。これが進行し、労働需給が締まって、賃金と物価が上がるようになると、所得は広く行き渡るようになる。﹁輸出増で高成長﹂は幾つも例があるが、平等化まで到達できたのは、高度成長期の日本のみである。日本人であれば、せっかくなら、そうした観点で経済を眺めたい。
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深尾京司、中村尚文、中林真幸の各先生が編集する岩波講座﹃日本経済の歴史4近代2﹄には、巻末付表4﹁名目国内総支出の構成 1913~40年﹂が掲載されている。その変遷は、経済構造を観察するのに極めて有用であり、もったいないのでグラフ化してみた。これを眺めつつ、戦間期の経済政策がどういうものだったかを評価するとともに、そこから現代に活かせる教訓を探ることにしよう。
第一次大戦時の日本経済は勃興期として知られる。﹃近代2﹄の最重要の指摘は、欧米へのキャッチアップが始まったことだ。もちろん、明治以来、近代化は進んでいたが、成長率が欧米を上回るようになったのは、ここからになる。成長率を高めるには、高投資の経済構造が必要で、これは、輸出が急増し、供給のために投資が増えたことで達成された。図では、純輸出の占める割合が拡大し、追うように民間資本の比率が上昇したことが分かる。
残念なのは、大戦終結後、その民間資本が元へ戻ってしまったことだ。輸出景気が過ぎたのだから、当然に思われるかもしれないが、高度成長期は、少し揺り戻しがあるだけで、完全には戻らず、そのうち、次の輸出拡大を迎え、一層、高まって行き、高投資の経済構造を完成させている。戦間期は、次が来ないまま耐える時期が続いた。そうした中、好対応と評価できるのは、原敬内閣時の公的資本の拡大である。
原敬は﹁我田引鉄﹂で有名だが、京大の伊藤之雄先生の研究では、経済性に基づくものとされている。従来のイメージは角栄政治からの照射が強過ぎるようだ。需要管理の観点からも、民間資本の減少を和らげるように伸ばしたことは適切である。原敬の透徹した現実主義が経済運営にも表れているように思える。むしろ、気になるのは、1920年代を通じた実質円ドルレートの円高傾向と、1924~26年にかけての政府支出の低下という消極性である。
(図)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/05/2c04cf93fd68b21e07e7e0450af49963.jpg)
……… その後、戦間期における最大の失敗である浜口内閣の金解禁に伴う緊縮財政を迎える。﹁伸びんがために縮む﹂とは裏腹に、民間資本の比率は、1929~32年にかけて、低下する一方だった。こうした政策不況の悲惨な結果を受け、高橋是清による円安への転換と積極財政が始まり、輸出は急増し、民間資本も復活する。こうした対比からすれば、1920年代に、金解禁を視野に入れた円高を追わず、より積極的な財政を行っていたらと惜しまれる。 浜口内閣が金解禁に踏み切った理由は、﹁金本位心性﹂として語られるが、筆者には、矯角殺牛の病の一つに思われる。成長には、設備投資を引き出す需要が決定的に重要なのに、理論派ほど、それが視野になく、成長に資する副次的条件に拘り、赤子ごと湯を流すマネをしてしまう。もはや、金本位制を目指す者はいないが、固定レート、低金利維持、財政再建といったものにかかずらわり、需要を疎かにして、成長を損なう例は枚挙に暇がない。 今のアベノミクスとて、後世の人から見たら、デフレ脱却を掲げつつ、緊縮で財政再建を進めたことは、﹁謎﹂にしか映るまい。輸出が投資を呼び、需要増による人手不足が生産性を高めているのに、これは一向に目に入らず、財政再建をしないと金利が跳ねると怯え、需要を抜きつつ産業政策で生産性を上げようとする。これでは賃金や物価は伸びない。金解禁と拘るものは違えども、需要を疎かにする点は同じだ。 また、戦間期は格差が開いた時代でもあった。日本は未だ農業国であり、大戦後の円高は、輸入を増やし、米価を下げて、農村を疲弊させた。その上に、緊縮財政を取ったことで、貧困化による社会不安が生じてしまった。その際、ピケティ的な富裕層の肥大が見られなかったのは、バブルは大戦後に弾けており、貧困化は緊縮財政によって中間層が崩れたことで生じたからであろう。このあたりは、今に至る﹁失われた20年﹂と共通するものがある。 ……… 高度成長期に平等化が進んだのは、物価高もものかは、積極財政を行い、高圧経済を続け、人手不足を背景に賃金を引き上げたからである。今は、金融緩和と緊縮財政の組み合わせが当然のように行われるが、それと逆のことがなされていた。当時も、物価高に対する批判はあったが、﹁人間の価値が高まっているのだ﹂として振り切った。それだけ強い政策的自信も政治的支持もあったのだ。 高度成長期の積極財政の成功は、戦間期の緊縮財政の失敗のリベンジとも言える。しかし、いつしか過去となり、再び成長以外の副次的な目標が大事にされるようになった。金融資産を膨らませるために必要な金融緩和を、小さな政府や財政再建に名を借り、緊縮財政を敷くことで実現する。こうした成長とも平等とも無縁な経済政策が採られている。百年前の戦間期がなぜか現在の参考になるのは、そんなわけである。 (今日までの日経) 中国 政治主導の高成長 借金依存は深刻に。物価上昇18年にも・内閣府。
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……… その後、戦間期における最大の失敗である浜口内閣の金解禁に伴う緊縮財政を迎える。﹁伸びんがために縮む﹂とは裏腹に、民間資本の比率は、1929~32年にかけて、低下する一方だった。こうした政策不況の悲惨な結果を受け、高橋是清による円安への転換と積極財政が始まり、輸出は急増し、民間資本も復活する。こうした対比からすれば、1920年代に、金解禁を視野に入れた円高を追わず、より積極的な財政を行っていたらと惜しまれる。 浜口内閣が金解禁に踏み切った理由は、﹁金本位心性﹂として語られるが、筆者には、矯角殺牛の病の一つに思われる。成長には、設備投資を引き出す需要が決定的に重要なのに、理論派ほど、それが視野になく、成長に資する副次的条件に拘り、赤子ごと湯を流すマネをしてしまう。もはや、金本位制を目指す者はいないが、固定レート、低金利維持、財政再建といったものにかかずらわり、需要を疎かにして、成長を損なう例は枚挙に暇がない。 今のアベノミクスとて、後世の人から見たら、デフレ脱却を掲げつつ、緊縮で財政再建を進めたことは、﹁謎﹂にしか映るまい。輸出が投資を呼び、需要増による人手不足が生産性を高めているのに、これは一向に目に入らず、財政再建をしないと金利が跳ねると怯え、需要を抜きつつ産業政策で生産性を上げようとする。これでは賃金や物価は伸びない。金解禁と拘るものは違えども、需要を疎かにする点は同じだ。 また、戦間期は格差が開いた時代でもあった。日本は未だ農業国であり、大戦後の円高は、輸入を増やし、米価を下げて、農村を疲弊させた。その上に、緊縮財政を取ったことで、貧困化による社会不安が生じてしまった。その際、ピケティ的な富裕層の肥大が見られなかったのは、バブルは大戦後に弾けており、貧困化は緊縮財政によって中間層が崩れたことで生じたからであろう。このあたりは、今に至る﹁失われた20年﹂と共通するものがある。 ……… 高度成長期に平等化が進んだのは、物価高もものかは、積極財政を行い、高圧経済を続け、人手不足を背景に賃金を引き上げたからである。今は、金融緩和と緊縮財政の組み合わせが当然のように行われるが、それと逆のことがなされていた。当時も、物価高に対する批判はあったが、﹁人間の価値が高まっているのだ﹂として振り切った。それだけ強い政策的自信も政治的支持もあったのだ。 高度成長期の積極財政の成功は、戦間期の緊縮財政の失敗のリベンジとも言える。しかし、いつしか過去となり、再び成長以外の副次的な目標が大事にされるようになった。金融資産を膨らませるために必要な金融緩和を、小さな政府や財政再建に名を借り、緊縮財政を敷くことで実現する。こうした成長とも平等とも無縁な経済政策が採られている。百年前の戦間期がなぜか現在の参考になるのは、そんなわけである。 (今日までの日経) 中国 政治主導の高成長 借金依存は深刻に。物価上昇18年にも・内閣府。
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