インターネットの普及によって訪れたのは、誰もが情報を受信・発信できる時代。情報の受け手と送り手の境界は曖昧になり、﹁情報﹂の価値は今もなお変化しつつある。それによって、テレビや新聞といったこれまでのマスメディアは衰退した──と言われている。
しかしそれらオールドメディアと呼ばれる媒体は、はたして本当に﹁時代遅れ﹂なのだろうか。全盛期と比べれば、視聴率や売上は確かにたしかに低迷している。とはいえ、それでもなお多くの人の生活の一部としての役割を果たしているテレビや新聞が消えていくだけのものとは、どうしても思えない。
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﹁時代遅れ﹂の意味するところ
先日、次のような記事を読んでいて、ちょっとした違和感を覚えた︵※現在、元記事は削除されています︶。 ニュースサイト﹁ザ・ハフィントン・ポスト﹂日本版を運営する会社の最高経営責任者︵CEO︶でもある小野さんは﹁世界で流通する膨大な情報量のうち、新聞に載る活字はわずか。だが、プロ集団が厳選し編成した情報が詰め込まれている﹂。シンポ開催を知らせるチラシに私たちが書いた﹁時代遅れの紙媒体﹂という文言に違和感があるとし、﹁紙媒体もオンライン︵の媒体︶も情報の伝達が使命。情報があふれすぎて使いこなせないなら、オンラインの方がむしろ時代遅れといえる﹂と話した。 ﹁時代遅れの紙媒体﹂という言葉。これの意味するところは、﹁インターネットによる情報伝達の方が、紙媒体よりも優れている﹂というものだろう。 対して、﹁情報があふれすぎて使いこなせないなら、オンラインの方がむしろ時代遅れといえる﹂という切り返し。この突っ込みは一見すると正論であるように思える。﹁情報量が膨大過ぎるインターネットよりは、厳選された情報をまとめた新聞の方が優れている﹂という指摘。 けれどこれらふたつの主張には、そもそもの隔たりが存在しているようにも思えてならない。前者が﹁ネットという媒体の情報伝達機能﹂を評価しているのに対し、後者は﹁新聞という媒体が伝える情報の質﹂を評価しているように映るからだ。無限の情報量と双方向性を持つ、インターネット
情報伝達媒体としてのインターネットが優れているのは、紛れない事実であると言える。端末とネット環境さえあれば、いつでもどこでも、世界中の誰もが等しく、世界中の情報にアクセスすることができる。時間と場所を選ばないという点は、他の媒体では成し得ない利点だろう。 加えて、その伝達速度も他の追随を許さないものとなっている。テレビでも﹁生放送﹂はできるものの、映像だけでなくあらゆる情報をオンタイムで受発信できるインターネットの速さは尋常ではない。日本人の中には、地震が起きたらTwitterをチェックする、という人も少なくないはずだ。 さらには、インターネットならではの双方向性こそ、最も大きな特徴として挙げられるだろう。それまでは情報の﹁受け手﹂に過ぎなかった僕らが﹁送り手﹂として情報を発信できるようになったのは、インターネットの恩恵によるものだ。 どこの誰とも知れない他人と気軽につながり、仲良くなったり、言い争ったり、議論をしたり。自作ホームページやブログなどを利用することで、自らの主張を世界中に発信することすらできるのだから──インターネットの力はとんでもない。 以上のように、時間や場所、さらには国境や言語の壁すら飛び越えて、世界中を包むように広がっている網こそが、現代のインターネットの姿だ。情報量と規模、そしてその機能性で言えば、もはや地球においてNo.1の情報伝達手段であると言えるだろう。確実性と専門性を持つ、新聞
では一方で、古くからの情報伝達手段の代表である﹁新聞﹂の利点には、どのようなものがあるだろうか。 まずは前述のように、﹁厳選された情報をまとめている﹂という点がある。先ほどの表現を引用して、﹁確実性﹂と言い換えてもいいかもしれない。 誤報がゼロとは言い切れないが、然るべき手段で集められ、プロによる事実の検証の行程を経たうえで、ひとつの記事として情報がまとめられる。デマや妄言、個人的な主観に過ぎない情報といった雑多な情報が散らばっているインターネットと比べれば、その質は格段に高いと断言できる。 そしてもうひとつ、新聞ならではの﹁専門性﹂も挙げられる。 一口に新聞と言っても多種多彩で、特定のジャンルを扱う専門紙も存在する。地方紙・経済誌・商業紙・業界紙・スポーツ紙・学生新聞──などなど。そういった新聞には専門の記者が就いており、彼らの選球眼と解説によって作り込まれた新聞は他の追随を許さない。 もちろんネット上にも専門サイトはごろごろ存在しているものの、いかんせん数が多い。その中から信頼できるサイトを探し出し、さらに自分の求める情報を探そうとするのは大変だ。その点、プロの集団によって作られた新聞ではあれば、最初からある程度は信頼はして読むことができる。新聞は時代遅れで、インターネットは最先端?
このような両者の特徴を考慮したうえで、新聞という媒体の是非を考えてみよう。本記事のタイトルの問いに答えるとすれば──﹁機能面ではそのとおり﹂となるだろうか。 情報を伝える手段として両者を比較すると、新聞はインターネットよりも劣っていると言わざるを得ない。配達の時間や場所といったコストがかかる新聞では、残念ながら光通信には敵わない。そのような意味では、たしかに新聞は﹁時代遅れ﹂であるとも言えそうだ。 しかし一方で、情報の確実性・信頼性・専門性という観点で見れば、新聞は今なおインターネットに負けていない。前項で述べたように、プロによって厳選された情報が濃縮されている新聞は、あらゆる情報がとっちらかったインターネットと比べて質の面では勝っている。 インターネットを用いた情報収集では、ユーザー自身がその正確性や妥当性を検証する必要があるが、プロが編集に携わっている新聞ではその必要がない。これは新聞のみならず、﹁マスメディア﹂と呼ばれる媒体を利用するにあたって大きなメリットであると言える。両者のメリットの相互輸入
そんなインターネットと新聞だが、最近はお互いの良いところを吸収しようという動きが活発になってきている。 インターネットでは、これまであまりできていなかった莫大な情報の選り分けと価値の判断を行うものとして、数年前からキュレーションが注目を浴びている。 広大なネットの海から信頼のできる情報を選び出し、再構成して発信する。時には専門知識に裏打ちされた補足情報や、識者の考えを付加価値として添えつつ発信するような動きもある。結果、近頃は新聞のように厳選された情報が増えてきたようにも感じる*1。 他方、新聞社は自社新聞の電子版を配信することで、ネット上における﹁信頼の置ける情報源﹂のソースとしての立ち位置を確保している。名の通った新聞の記事が情報源として参照されていれば、聞いたことのない個人の話よりは間違いなく信頼できる。 同時に、新聞記者が個人として名前を出し、Twitterなどで情報を発信する試みも一部では行われている。新聞では取り扱わなかった情報を提示していたり、誰よりも早く情報を呟いていたりと、プロならではの発信を続けているようだ。 インターネットは新しいサービスやツールに合わせて環境を変えつつあり、また、新聞もネットに触発されて相互活用の道を見出そうとしている。そのようななか、消費者である僕らは、どのようにメディアと向き合っていけばいいのだろうか。ネットユーザーの在り方
若いデジタルネイティブ世代に話を聞くと、しばしば﹁テレビや新聞は信用ならない﹂という意見を耳にする。マスメディアは消費者を煽動し、世論を操作しようとしているのではないか──と。彼らはテレビや新聞に対して懐疑的であり、ネットを主な情報源として利用している。 その意見を完全に否定することはできない。﹁SNSで大きな話題になっているに、なぜマスコミは報道しないのか﹂と感じたり、逆に大胆すぎる煽り文句を耳にして﹁さすがにやりすぎじゃないだろうか﹂と感じたり。いち消費者として、不可解な印象を受けることもたまにある。 しかし一方で、彼らが信じるネットの情報こそが偏向的であるケースも少なくない。 一部のSNSやまとめサイトでの反応を見ていると、それがまるで多数派の意見であるように感じることがあるが、実際はそうでもない。そこに情報を編集する人が存在する以上、意図的であるか否かに関係なく個人の主張・感情が含まれてしまうことは避けられない。 インターネットは機能面では優れているかもしれないが、情報を発信しているのは一個人であり、そこには人それぞれに異なる考えと感情がある。 ﹁マスコミは駄目でネットのほうが信頼できる﹂というのは、インターネットを万能と考えるがゆえの思考停止だ。場所がテレビや新聞からネットに変わっただけに過ぎない。 消費者でありながら発信者ともなった僕らは、一人ひとりが誠実に﹁情報﹂と向き合っていかなければならない。インターネットを含むメディアに関するリテラシーは、これからますます必要になってくるはずだ。新聞の目指すべき姿
ネットユーザーがそのような流れに翻弄される一方で、新聞は苦境に立たされているという見方もある。新聞の購読者は減り続け、幼い頃からネットの主張に触れてきたデジタルネイティブ世代はオールドメディアに懐疑的な視線を向けている。そんななかで新聞は、どこへ向かえばいいのだろう。 このままでは、新聞は一次情報源としての価値しか認められなくなってしまう可能性がある。感情や人の思考、社の方針などを全て削ぎ落とした、単純な情報ソースとしての存在価値。余計な情報はいらない、必要であれば他の人が考えるから──と。 それならば逆に、新聞は個性を前面に押し出していくべきではないだろうか。 今でも新聞ごとにカラーはあるものの、それをさらに強めていく形。中途半端に中立・公正を謳うよりは、元の情報を掲載したうえで、それぞれの記事に記者の主張が書かれているくらいのほうがいい。そのほうが読者としてはおもしろいし、複数の主張を併記することで議論も活性化するのではないか。 振り返ってみれば、昔からの﹁なぜ新聞の記事には記名がないのか﹂という疑問があった。上司による検閲があったり、新聞社の方針があったり──という事情もあるのだろうが、新聞はあまりにも淡白でつまらない。 名前を出せばそれだけリスクも高まるだろうが、同時に、記者単位でファンがつくようにもなるはずだ。本名が問題ならハンドルネームでもいい。﹁読者の読みたい記事﹂を想定して書くよりも、﹁読者が読みたくなる記者﹂が生まれるように個性的な記者を増やして、ファンの獲得を目指してみてはどうだろう。 ﹁目指すべき姿﹂などと書いたが、これは僕個人の希望に過ぎない。新聞をあまり読まない自分が、﹁こうなったらおもしろいし、読む!﹂と思えるような魅力。各新聞社はいろいろと細かな策を講じているようだけれど、より大胆に、インターネットにすら影響を及ぼすような変革をもたらしてほしい。そう感じた。
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*1:ただし、それ以上のスピードで偏向的な情報が増えている気もしますが。