homebacknext
20314

忠臣蔵新聞

12





田村邸で切腹をする浅野内匠頭長矩


 元禄15(1702)年1215(東京発)
幕府の判決書
乱心説を否定して、宿意説を採用して切腹を命ず
 史料(1の口語訳です。
 「さっき、場所柄も弁えず、自分の宿意(以前からいだいている恨み)を以って、吉良上野介へ刃傷に及んだことは不届きにつき、田村右京太夫へその身を預け、切腹を仰せ付ける」
*解説1これは幕府の判決書というべきものです。ここでは、乱心説を否定して、宿意(以前からいだいている恨み)説を採用して、浅野内匠頭に切腹を命じていることが分ります。
史料(1
 先刻御場所柄も不弁自分宿意ヲ以吉良上野介江及刃傷候段不届ニ付田村左京太夫(建顕)(ママ)江御預其身は切腹被 仰付(「徳川幕府御日記」)
赤穂藩札

史料の前半では
城が没収されて、赤穂の庶民は餅をついて喜んだ
史料の後半では
大石内蔵助が藩札6分替えを提案して、赤穂の庶民は大石らを支援
 史料(2の口語訳です。
 「ある人が言っています。赤穂の政治を大野九郎兵衛が上席で全てを仕切ったので、赤穂の庶民は税のとりたてに耐えなかったといいます。
 そうこうしている間に刃傷事件がおきて、城を没収されるにことになったので、赤穂の庶民は大いに喜んで餅などをついて大賑いをしました。
 そこへ大石内蔵助が出てきて政務を行うようになり、困った時に赤穂藩が借りていた金銀を皆に返済したので、赤穂の人は大変驚いて”赤穂藩にこのような立派なことをする人もいたのか”と考えを改めたということです」
*解説2大野九郎兵衛は、塩田開発で手腕を発揮して、政治の実権を握っていました。しかし、塩田のマニュファクチャ化による酷税に赤穂の庶民は困っていました。
 そこへ、赤穂城の取り潰しです。赤穂の庶民は喜んで、餅をついて喜んだというのです。
 しかし、大石内蔵助が藩札を6分(60%)替えを提案したので、紙切れ同然と思っていた藩札を過去にない効率で交換してくれるというので、赤穂藩を見直したという話です。
*解説3赤穂の一部では、今も「餅をついて喜んだ」という前半部分が流布しているようです。こういう史料の恣意的な利用は、忠臣蔵を貶めるものです。きっちりと対応する必要があります。
史料(2
 或人曰く、赤穂の政務、大野氏上席にして、よろづはからひしほどに、民その聚斂にたへず。
 しかる間、事おこりて城を除せらるるに及びしかば、民大いに喜び、餅などつきて賑はひしに、
 大石氏出て来て事をはかり、近時、不時に借りとられし金銀など、皆それぞれに返弁せられしかば、大いに驚きて、この城中にかやうのはからひする人もありしやと、面(おもて)をあらためしとかや云々(『伴蒿蹊『閑田次筆』)
龍野藩が受城使として赤穂城を受け取りに行く場面です






indexhomebacknext