魔女のパン
- 版番号 1.00 (2003/11/18)
- 原作 O・ヘンリー
- 原典 "Witches' Loaves"
- 翻訳 山本ゆうじ
電子版注
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ミス・マーサ・ミーチャムは、街角の小さなパン屋をやっている。とんとんとんと、階段を三段上がって扉を開けると、ベルがちりんちりんと鳴る、そんな店だ。
ミス・マーサは四十歳で、通帳には二千ドルの預金があり、差し歯を二つと、いわゆる同情心を持ち合わせていた。もっと結婚運に恵まれない女性でさえ結婚していく中で、彼女はずっと独身でいた。
ミス・マーサは、このところ、週に二、三度店に来る、ある客に興味をひかれていた。眼鏡をかけた中年の男で、とび色のあごひげは、先まで丁寧に刈り込まれている。
言葉には強いドイツ語なまりがあった。ところどころすり切れた服には、つくろいがしてあり、しわが寄って、だぶだぶのところもある。けれど身ぎれいにしていて、とても礼儀正しかった。
男はいつも、古いパンを二個買っていった。焼き立てのパンは一個五セントで、古いパンは二個で五セントだ。男は、いつも古いパンのほうしか買おうとしなかった。
あるとき、ミス・マーサは男の指に赤と茶色の汚れがついているのをみつけた。それで、男がとても貧しい絵描きなのだと確信した。屋根裏部屋に住んで絵を描き、古いパンを食べては、ミス・マーサのパン屋のもっといい食べ物のことを思い浮かべているに相違なかった。
ミス・マーサは、骨付き肉と、ジャムを塗ったふんわりとしたロールパンの食事をすませ、お茶を飲みながら、このおいしい食事をご一緒できたら、とため息まじりに考えた。あの礼儀正しい画家が、すきま風が入る屋根裏部屋で、固くなったパンに何もつけずに食べる姿を思い浮かべる。前にも言ったが、ミス・マーサは同情心にあふれていたのだ。
ある日彼女は、男の生業を確かめるために、以前に安く買った絵を部屋から持ってきて、パンのカウンターの後ろの棚に置いてみた。
その絵は、ヴェニスの風景だった。見事な大理石の宮殿︵絵の説明によればパラッツォ︶が、前景の地面――というより水の中に立っていた。他には空と雲、手を水に差し入れた婦人などが乗るゴンドラが描かれ、明暗法︵キアロスクーロ︶が多用されている。画家なら、きっとこの絵に目をとめることだろう。二日後に、また例の客がやってきた。
﹁古いパン二つ、おねがいじます﹂
パンを包む間に彼が言った。﹁マダム、きれいな絵がありまずね﹂
﹁これですか?﹂ミス・マーサは、してやったりとほくそえんだ。﹁わたくし、芸術も絵か……︵絵描きって言うのはちょっと早いわね︶、そう、絵も大好きなんですの﹂言葉を選んで答えた。﹁これをいい絵とお思いかしら?﹂
客は言った。﹁宮殿の描きかた、あまりよくないね。遠近法、正じくないです。では、ごきげんよう、マダム﹂
彼はパンを受け取って会釈をすると、急いで出て行った。
そうだわ、きっと画家に違いないわ。ミス・マーサは、絵を部屋に戻した。
眼鏡の奥の瞳が、なんて優しく、親切そうに輝いていたことか! それに、あの賢そうな額! ひと目見ただけで遠近法の良し悪しを見定められるのに、古いパンを食べて暮らしているなんて! でも、天才というものは、世間に認められる前に苦労するものなんだわ。
もし天才が、二千ドルの預金がある、情け深いパン屋の女主人の後援を得たなら、芸術と遠近法の発展にどれだけ貢献することか――。でもね、ミス・マーサ、それは白昼夢というものですよ。
彼は店に来ると、ショーケースの前でしばらく談笑していくようになった。ミス・マーサの朗らかな言葉を、待ちこがれているようだった。
買っていくのは、相変わらず古いパンだけだった。ケーキやパイはもちろん、店の自慢のおいしいサリーラン・マフィンなどは一つも買わなかった。
彼は、日に日にやせ細り、落胆していくように見えた。ミス・マーサは、心では彼のつつましい買い物にもっといい食べものを加えてあげたいと願ったが、実際にそうする勇気はなかった。侮辱したくはなかったのだ。彼女は芸術家の誇り高さを知っていた。
ミス・マーサはカウンターに立つとき、青の水玉模様の絹のブラウスを着るようになった。奥の部屋では、マルメロの種とホウ砂の神秘的な混ぜ物を調合した。昔から、肌の手入れに使われてきたものだ。
ある日、例の客はいつものように中に入って、ショーケースに五セント硬貨を置き、古いパンを注文した。ミス・マーサが、パンに手を伸ばしたとき、サイレンと鐘の音が鳴り響き、消防車が大きな音を立てて通りすぎていった。
例の客は、だれでもするように、ドアにかけよって外をのぞき見た。ミス・マーサは、この機会に、突然あることを思いついた。
カウンターの後ろの一番下の棚に、牛乳屋が十分ほど前に持ってきた新鮮なバターが一ポンドあった。ミス・マーサは、パン切りナイフで二つの古いパンにそれぞれ深い切れ目を入れ、バターをたっぷり塗りつけると、パンをまた閉じた。
客が戻ってきたときには、パンを紙で包んでいるところだった。
その後のおしゃべりはいつもより話が弾み、彼が行ってしまったあとで、ミス・マーサは胸をちょっとときめかせながら、ひとりほくそ笑んだ。
大胆すぎたかしら? 腹を立てるかしら? そんなはずはないわ。花言葉ならともかく、食べ物言葉なんてないし。バターを入れてあげるくらいなら、はしたない、でしゃばり屋には思われないはずよ。
その日ずっと、彼女はそのことばかり考えていた。彼が、あのちょっとしたいたずらに気づく場面を想像してみた。
やがて、彼は絵筆とパレットを置くの。イーゼルの上には、描きかけの絵があって、その遠近法には非の打ち所がないのよ。
それから、何も塗らないパンと水だけの昼食を準備するの。そして、ローフ・パンを切り分けると――ああ!
ミス・マーサは顔を赤らめた。食べながら、バターを入れた人のことを考えてくれるかしら? もしかして――
玄関のベルが、荒々しくジャンジャン鳴らされた。だれかが、けたたましく中に入ってきた。
ミス・マーサは、急いで店先に出た。二人の男がそこにいた。一人は、以前に一度も見たことがない若者で、パイプを吹かしていた。もう一人は、あの﹁芸術家﹂だった。
顔をまっ赤にし、帽子もきちんとかぶらずに、髪は乱暴にかきむしったようだった。彼は、両のこぶしを握りしめ、ミス・マーサに向かって猛烈に振りまわした。そう、ミス・マーサに向かって。
ドイツ語で﹁ダムコップフ︵まぬけ︶!﹂と、とんでもない声で叫び、それから﹁タウゼンドンファー!﹂とか何とかまくしたてた。
若者は、彼を引き離そうとした。
﹁まだ、ずんでない﹂男は腹立たしげに言った。﹁まだ他に、言うことがある﹂
そして、カウンターをドラムのようにバンバン叩いて叫んだ。
﹁おまえのぜいでめちゃくちゃだ!﹂眼鏡の奥に青い目を燃え上がらせて。﹁ああ、ぞうだ。この、おぜっかいのおいぼれ猫!﹂
ミス・マーサはなえたように棚に寄りかかり、青い水玉模様の絹のブラウスの胸に手をやった。若い男が、客のえりくびを押さえた。
﹁それぐらいにしとけよ。もう充分だろう﹂彼は怒りに燃えた男をドアから外に引っ張り出すと、戻って来た。
﹁まあ聞いてくださいよ、おかみさん。どういう事情なのかね﹂彼が言った。﹁あいつはブルムバーガーっていうんです。建築の製図をやってるんです。ぼくは、同じ事務所で働いている者です。
彼はこの三カ月間というもの、新しい市役所の設計図を一生懸命描いていたんです。賞の出るコンペ、つまり設計競技のためにね。彼は昨日、図にインク入れを終えたところだったんです。製図者はね、いつも初めは鉛筆で製図するんです。それから、インク入れの後で、古いパンくずで鉛筆の線をこすって消すんですよ。消しゴムより、こっちのほうがよく消えるんでね。
ブルムバーガーは、こちらでパンを買っていましたね。おかみさん、今日の――あのバターはどうもまずかった。こうなった以上、ブルムバーガーの設計図は、切り刻んで、味の足りないサンドウィッチにでも入れるしかないというわけでして﹂
ミス・マーサは、奥の部屋に入った。青い水玉模様の絹のブラウスを脱いで、いつも着ていた古い茶色のサージの服に着替えた。それから、マルメロの種とホウ砂の混ぜ物のお手製化粧品を、窓の外のごみ箱に放り込んだ。
著作権に関する注
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