しばらく間が空いた。で、反知性主義についての簡単なお勉強を経て、ぼくが手に取ったのは﹃日本の反知性主義﹄だった。
この本の題名は、明らかに﹃アメリカの反知性主義﹄を意識しているようだ。その一方で、この面子を見ると、ぼくが冒頭に挙げた﹃現代思想﹄の執筆者と重なるようであり、﹁反知性主義﹂を﹁バーカ﹂の意味で使う連中の集団のようにも思える。で、どうなのよ? それがぼくの興味だった。が、その前に……
﹁反知性主義﹂をちがう意味で使ってはいけないの?
まず、そもそも﹁反知性主義﹂を﹁バーカ﹂の意味で使ってはいかんのか? ぼくはそうは思っていない。ぜんぜん構わないと思う。ただ、その場合にはホフスタッターとかを引き合いに出してはいけない。まるで意味がちがうからだ。 なぜか? ホフスタッターの本は、名著とはいえ決してだれでも知っているメジャーな本ではない。ぼくはたまたま、漠然とホフスタッター的な意味合いでの用法を知っていたけれど、それを知らないからといってこうした分野に関係していない人が責められるべきだとは思わない。 さらに言葉は変わるし、だれかが単語の用法に独占権を持っているわけではない。ホフスタッターがそういう用法をしたから、他の人は一切その用語を別の意味で使ってはいけない、なんてことはない。反知性という言葉を見て、﹁知性に反対するんだから、これって﹃バカ﹄ってことだね﹂と思ってその意味で使うのは、ぼくは全然オッケーだと思う。 そういう人は﹁反知性主義はホフスタッターが~~﹂と言われても、単に﹁あ、反知性主義ってそういう意味もあるんだね、でも自分はそういう意味では使ってない﹂と胸を張って返せばいい話だと思う。人はあらゆることを知るわけにはいかないんだから。ついでに﹁ホフスタッターなんてまじめに受け取る価値はないよ、そんなのに準拠するつもりも用語をしばられるつもりもないね﹂とはねつけるのもあり。これまた小気味よい。池内恵によれば、佐藤優は日本ではすでに﹁反知性主義﹂が﹁バカ﹂の同義語として使われるようになっているから、ホフスタッターや森本を持ち出すのはダメ、と言っているそうな。なんでダメなのかはわからない。きちんとちがいや自分の用法における意味を明記すればすむだけの話だ。広い世界で、ちがう意味が併存していて悪いことは何もない。 でも、﹃アメリカの反知性主義﹄を読んで、それを援用しつつ﹁反知性主義﹂をバカの意味で使うのは、これはダメでしょう。読解力がないか、歪曲か、その両方がないと、そういう用法は出てこない。ホフスタッターをまったく無視するか、あるいは引き合いに出しても﹁これとは意味がちがうからね﹂と説明する必要がある。さて、その点でこの本はどうだったろうか?内田編『日本の反知性主義』:総論として、かなり変な本。
ということで手に取ったのが内田編﹃日本の反知性主義﹄だった。そして……なんだか珍妙な本だと言わざるを得ない。編者のまとめ文が異様なほどの悪質さを露呈している一方で、そこにあらわれた意図と、実際の寄稿者たちの文が完全に乖離しているからだ。寄稿者たちの文の多くは、きわめて落ち着かない様子を見せたり、人によっては編集意図を、おそらくは故意に黙殺・迂回している。それはこの寄稿者たちが決して単細胞なお調子者たちではなく、本当に与えられたテーマをきちんと考えている誠実さを持っていることを示している。そしてその結果として出てきた文が、図らずも編集意図のおかしな部分や妥当でない部分を浮き彫りにしてしまったという面すら見える。その意味でのおもしろさはある。だが、そのために本全体としては、編者が意図したであろう統一的な、反安倍政権的なメッセージの本にはまったくならず、非常にインパクトの薄い本に成りはてている。
さて﹁反知性主義﹂に関する前節最後の疑問に対する答えとしては、本書の首謀者と思われる二人――内田樹と白井総――の文は、この読解力のなさand/or歪曲を見事に露呈している。
内田の文は冒頭からホフスタッターを引用しておきながら、その主張を完全に読み違え/歪曲し、自分にとって都合のいい下りだけをつまみ食いして並べ立て、ホフスタッターに依拠したふりをしつつ、ホフスタッターの用法と正反対の意味で知性/反知性主義を定義して平気だ。それ以外の点でも、全般に非常に不誠実で悪質な文章だと思う。
続く白井の文は、ホフスタッターを採りあげつつ、まるでトンチンカンで一般的な妥当性がまったくあるとは思えない思想史っぽい話を並べ立て、ホフスタッターとは全然関係ないところに話を持っていく。同じく非常に不誠実で悪質な文章になっている。
そしてこの二つの文は、明らかに煽ろうとしている。いま日本には反知性主義がはびこっている、特に安倍政権のやってるいろんなことは反知性主義のあらわれだ、やばい、このままじゃ日本はアレだ、という一種の檄文だ。その内容はかなりトンチンカンだ︵これについては後述︶。そして編者の文は、声をかけた人々がその煽りに共感してくれることを期待している。
ところが……声をかけられた内田樹のお仲間たちは、そういうふうには動かなかった。むしろ戸惑いを見せている。ちなみに、いま﹁お仲間﹂と書いたのは、ここで声がかかっているのが本当にある種のイデオロギー的な偏りを見せている人だけだからだ。つまり、安倍政権大嫌い、という人々。公平なポーズをするために、多少はちがう立場の人々を入れる、というバランスも考慮されていない。ほんとなら、アンチ安倍政権大合唱になりかねなかった本だ。
でも、そういったストレートなアンチ安倍政権を書いた論者は、2人ほどに限られる。その他の人の文章はむしろこのテーマに困惑し、﹁反知性主義﹂という言葉そのものに違和感を表明して、ある意味であたりさわりのない記述に終始した文章となっている。それは別に、この人たちがホフスタッターを読んでいるとか、あるいはホフスタッター的な意味での反知性主義を理解しているから、ではない。かれらは、安倍政権やそれを支持する人々が決してバカではないし、それなりの考えや計算をもって﹁知的に﹂行動していることは理解できているので、安倍政権批判を展開した文ですら、安倍政権やその支持者を単純にバカ=反知性と決めつけるようなことはしていない。
その意味で、本書は﹁笛吹けど踊らず﹂。編者の文で意図されているらしき、力強い政治的なメッセージを持った本にはならず、内田と白井の文だけが騒ぎ立てて、他の人の文はそれを遠巻きにして戸惑い、あたりさわりのないおつきあいでお茶を濁そうとしている。そしてみんながそれをやったがために、冒頭の内田と白井の文だけが全体の中で孤立し浮いた、すごくすわりの悪い変な本になってしまっている。ただしたぶん、本書に寄稿した多くの論者にとっては、これはよいことだろう。また、日本の思想状況の縮図として見ると、非常に興味深いとはいえる。
では、収録された文を個別に見ていこう。