空爆の歴史と台湾
﹃反空爆の思想﹄︵吉田敏浩、NHKブックス︶より。
日本軍がはじめて空からの攻撃を行なったのは第一次大戦中のこと、青島のドイツ軍艦船、軍事施設、鉄道駅、市街地などへ44発の爆弾︵砲弾を改造したもの︶を投下した。
青島の次に日本軍の飛行機が爆弾を投下したのは、日本の植民地支配下にあった台湾の険しい山地の小さな村である。それは一九一七︵大正六︶年八月のことだ。
日本の植民地統治機関、台湾総督府の警務局が編集した﹃理蕃誌稿﹄第三巻︵台湾総督府警務局編 一九三七年/青史社 一九八九年復刻︶の︿大正六年の章﹀に、︿陸軍飛行機の蕃地飛翔﹀という項目があり、次のような記述が見られる。
︿臨時陸軍氣球研究會ノ本島ニ於ケル耐暑飛行試験ヲ機トシ、平地蕃地ノ飛行及反抗蕃威嚇ノ爲メ爆弾投下ノ實行ヲ計リ、陸軍參謀長ニ交渉シテ飛行地點及装備等ヲ左ノ如ク豫定ス﹀︵三五六頁︶
134-135ページ。引用にあたってルビは省略した。問題の日英博はこの空爆より7年前のこととなる。
﹁理蕃﹂とは﹁蕃人﹂を治めるという意味である。台湾総督府の﹁理蕃﹂政策は、軍事力による制服・威圧と授産・教育・交易・医療を通じた懐柔の、硬軟二本立てで進められた。
一八九五年に日本が台湾を手に入れると、それに反対する台湾人勢力は﹁台湾民主国宣言﹂を発して、上陸してきた日本軍と戦った。日本軍が一年弱で台湾の平野部を占領した後も、平野部の農民を中心とするゲリラ的抵抗は一〇年以上続いた。多くの台湾人が日本軍に殺された。日本軍にも死傷者が出た。
この植民地制服戦争の一環として、次に山地の先住諸民族に対する作戦も始まる。台湾総督府警察隊は軍隊と共同で、﹁討伐﹂の名のもとに山砲や機関銃も使って攻撃した。諸民族の人びとも猟銃と槍刀と弓矢を手に激しく抵抗する。警察隊と軍隊は鉄条網︵電流も流した︶を張りめぐらし、地雷を敷設し、武装警戒所や砲台を設けて山地を封鎖し、銃器押収に従って降伏、帰順するよう迫った。こうした包囲網を﹁隘勇線﹂という。帰順しなければ﹁反抗蕃﹂と呼んで攻撃を続けた。どれだけ多くの先住諸民族の人びとが殺されたことだろう。むろん日本側にも相当な死傷者が出た。
135-136ページ。同じくルビは省略。ジョン・エリスの﹃機関銃の社会史﹄︵平凡社︶によれば、19世紀に登場した機関銃は当初なかなか軍人たちに受けいれられなかった。19世紀において機関銃が本格的に用いられたのは、植民地征服服戦争においてであった。
陸軍飛行隊に﹁蕃地威嚇飛行﹂を要請したのは台湾総督府警察だった。﹃台湾総督府警察沿革史﹄第一編︵台湾総督府警務局編 一九三三年/緑蔭書房 一九八六年復刻︶によれば、﹁反抗蕃﹂は険しい山地にいるため制圧するのが難しく、警察は苦慮していた。飛行機で空から威圧すれば効果があがるだろうと考えたのが要請の理由である。
︿治安を攪乱する不逞の蕃人も、一度膺懲の師を向くれば人跡未踏の天険に據り容易に之を降す能わざること、蕃人制壓上の一大障害として理蕃當局の常に苦心せる處なり、之に對し飛行機を以て空中より之を威壓するを得ば甚だ効顯あるべし﹀︵二八九頁︶
新兵器としての航空機もまた、第一次大戦後には植民地での“治安維持”に盛んに用いられた。この点については本書第二章のほか、﹃空の戦争史﹄︵田中利幸、講談社現代新書︶の第二章にも記述がある。
最初の﹁威嚇飛行﹂は空爆の効果を思い知らせるために予行予定日時と場所を通告して行なわれた。本書は﹁爆弾炸裂ノ状況ヲ見呆然自失スル者アリ、我ハ夢見ルニアラスヤト絶叫スル者アリ﹂という報告を﹃理蕃誌稿﹄から引用している︵﹁状﹂﹁絶﹂は原文では旧字︶。
生まれて初めて飛行機と爆弾投下を見た住民たちは、その威力に驚愕した。そして、威嚇飛行は威嚇にとどまらず、流血の事態まで引き起こす。植民地支配に従わないマンタウラン社という村に爆弾を三発投下して村人を殺し、負傷させたのである。また、トクブン社という村にも爆弾四発を落とした。﹁社﹂は村の意味である。
︵中略︶
村人の被害は﹁若干ノ死傷者﹂として片づけられている。罪悪感は微塵も感じられない。﹁大日本帝国﹂に反攻する﹁未開野蛮な蕃人﹂を懲らしめるといった趣である。︵中略︶飛行機に象徴される科学技術、軍事力、経済力を手にした自分たちは﹁文明﹂の側で、相手は﹁未開﹂だと決めつけ、差別する驕りが透けて見える。﹁附近蕃人ハ一層恐怖ノ念ヲ強メ﹂﹁恭順ノ意ヲ表シ﹂﹁哀願セリ﹂という言葉からは、爆弾が流血の恐怖を植えつけるための見せしめだったことがわかる。
137-138ページ、﹁層﹂﹁強﹂は原文では旧字、またルビを省略した。﹁人間動物園﹂にも共通する問題は、このような威嚇、攻撃がどのようなまなざしの下で行なわれたか、というものである。
本書はこれ以降、台湾総督府警察の航空班による﹁威嚇飛行﹂について触れ、ついで大江志乃夫の議論((﹃近代日本と植民地2 帝国支配の構造﹄︵岩波書店︶所収、﹁植民地戦争と総督府の成立﹂。︶を援用しつつ、こうした﹁理蕃﹂政策の背景に樟脳問題があったことを指摘している。
︿当時、樟脳は防虫剤や医薬品︵カンフル︶などの原料として台湾の独占的世界商品であった。樟脳の需要が増すにつれ、樟脳採取用の樟の良木が高山でしか入手できなくなった。日本の製脳業者の要求に応じ、総督府は隘勇線を圧縮して先住民族の生活権をせばめ、その武装抵抗を誘発した﹀
141-142ページ︵孫引き︶、ルビは省略。