案の定、ナイチンゲールが大人気のようなので、看護覚え書―看護であること・看護でないこと﹂︵現代社; 改訂第6版版︶
から、とくに私が感銘を受けた部分を紹介しよう。看護の本であるからして、看護婦の行動の例がたくさん提示されるのであるが、その多くがダメな例である。たとえば、観察不足から虚偽の報告がなされる例として、
﹁この患者さんにはお通じは何回ありましたか?看護婦さん﹂﹁一回です、先生﹂。こういうばあいたいていは、実際には便器は七回も八回も使われていたが、ただそれを看護婦が空にしたのが一回だけであった、という意味なのである。︵P179︶
ペットが患者の癒しになるという文脈で、
ある病人が、自分が看護婦から受けた看護と、犬から受けた看護とについて語ったことがあるが、彼は犬による看護のほうがずっと良かったと言った。﹁何よりも犬は喋︵しゃべ︶りませんからね。﹂︵P174︶
使命感を持っていない看護婦の実例。
彼女は、衰弱した患者のために湯割りブランデーを持ってくるように指示されたときに、週刊﹃パンチ﹄を出したりする︵実例︶︵P232︶
カクテルの一種のパンチと間違えたわけですな。ドジっ娘ナース。これぐらいならまだ笑っていられるが、
彼女は、物に触れば必ず、大きな音をたてたり、ひっくりかえしたりする。 ドアをきちんと閉めずに、ただ後ろ手に引っ張るだけだから、ドアはまたぱっと開いてしまう。 塗り薬を擦りこめば必ず皮膚を傷つけ、そのために、患者生活を送っている間じゅう傷が治りきらない患者があまりにも多い。 片方の手にカップをのせた受け皿をつかみながら、もう片方の手で暖炉の火をかきたてる。両方とも、もちろん﹁失敗﹂してしまう。あるいは、片手でお盆を運び、もう片方の手で石炭入れを持つ。もちろんどちらも中身がこぼれてしまう。おまけにこぼれたものを拾おうとしてかがみ込んで、自分の頭で床頭台を患者のほうへ倒してしまう︵実例︶。︵P233︶
しまいには、
看護婦が患者の死に気付く以前に、すでに彼が冷たくなっていたという事例が何例もある。︵P234︶
医師もナイチンゲールの毒舌から逃れられない。患者に対する誘導尋問*1が役に立たないことを示す文脈で、医師も槍玉にあげられている。
最近のある有名な裁判で、九人の有名な医師たちに対して順番に、つぎのような誘導尋問が行われた。﹁これらの症状の原因として、毒薬以外に何かの可能性が考えられますか?﹂。そして九人うち八人までが、無条件に﹁考えられません﹂と答えた。ところが反対尋問の結果、つぎの三点が判明したのである。すなわち、︵1︶彼らはいずれも、ここで想定されていた種類の毒薬中毒患者を、これまで見たことがなかった。︵2︶彼らはいずれも、これが毒物死でなかったばあいに死因として想定される種類の病気についても、それを見たことがなかった。︵3︶彼らはいずれも、その死亡の原因となりうる病気や状態についての主要な知識さえもっていなかった。︵P184︶
見舞い客たちも血祭り。
素人であれ医師であれ、のこのこと病室にまで出向いてきて、その実行の可能性はおろか、患者にとっての安全性について知らないことを、患者に勧めて患者を悩ます友人や知人たち。彼らのずうずうしさは驚嘆に値する。それはちょうど、患者の骨折を知りもしないで運動を勧めるのと同じである。そんな友人が、もしも︽自分が︾医師であって、しかも自分の患者が、︽他の︾友人が出向いてきたからといって、また、誰がこれを勧め、彼があれを勧め、誰が何を勧めなかったなどと騒いだあげくに、医師である自分の指示を無視し、他人の忠告に従ったというような、そんな目に遭わされたとしたら、いったいどんな言葉を吐くであろうか?しかし、世の人びとはけっしてここまで考えが及ばないのである。︵P170︶
現在でもこうしたことはよくある。プルーンやら電位治療器やらを勧めるのはやめてくれよ。ナイチンゲール自身も病気がちで、﹁おおよそあらゆる種類の忠告を受けてきた﹂そうである。ナイチンゲールは忠告者を﹁善意の陰謀を胸に抱いて入れかわり立ちかわり押し寄せてくるとてつもなく多勢の人びと﹂と呼び、レギオン、つまり新約聖書に出てくる大勢の悪霊に喩えている。第十二章のタイトルは﹁おせっかいな励ましと忠告﹂であり、一章まるごと見舞い客たちへの批判と説教である。なお、患者に対する批判はほとんどなかった。 第三章﹁小管理﹂では、責任者による管理の重要性が述べられる。
﹁責任を持っている﹂ということは、たんに自分自身が適切な処置を行なうだけでなく、ほかの誰もがそうするように手筈を整える、という意味である。すなわち、誰かが、故意にせよ過失にせよ、その処置を妨害したり中止したりしないように手筈を整えることなのである。それは、すべてを自分で切りまわすことでもなければ、多勢の人間に職務を分担させることでもなく、各人が自分に定められた職務を確実に果たせるようにすることを意味している。︵P77︶
責任者たちは往々にして、﹁自分がいなくなると皆が困る﹂ことに、つまり自分以外には仕事の予定や手順や帳簿や会計がわかるひとも扱えるひともいないことに誇りを覚えたりするらしい。私にいわせれば、仕事の手順や備品や戸棚や帳簿や会計なども、誰もが理解し扱いこなせるように ―すなわち、自分が病気で休んだときなどにも、すべてを他人に譲り渡して、それですべてが平常どおりに行なわれ、自分がいなくて困るようなことが絶対にないように― 方式を整え整理しておくことにこそ、誇りを覚えるべきである。︵P78︶
まさしく、看護師の業界にあって、医師の業界に足りない考え方である。日本の病院の多くはまだまだ主治医制で、主治医は受け持ちの患者に対して﹁責任を持つ﹂。患者の状態が悪くなれば、主治医が呼び出され、あるいは泊り込みで容態を診ることが美徳とされる。特殊な技能を要して代替が利かないとかならともかく、もはや特別な治療を行わない状態になっても、﹁主治医﹂が最期を看取ることを要求される。本当は、研修医には﹁家に帰って明日のために寝ろ。ただし、カルテには当直医が困らないだけの記載を行い、家族にも十分に説明しておけ﹂と指導できるのが理想なのに。むろん、日本の医療状勢ではそうも言っていられないのだが、少なくとも、医学部のトップが医学生に、﹁奉仕と犠牲の精神はあるか?医師の仕事はテレビドラマのような格好のいいものではない。重症患者のために連夜の泊まりこみ、急患のため休日の予定の突然お取り消しなど日常茶飯事だ*2﹂などとのたまい、あるいはその言葉をありがたがるような状況は恥である。連夜の泊まりこみなどしなくてもよいシステムをつくるのがトップの仕事であろうに。150年遅れている。
﹁この患者さんにはお通じは何回ありましたか?看護婦さん﹂﹁一回です、先生﹂。こういうばあいたいていは、実際には便器は七回も八回も使われていたが、ただそれを看護婦が空にしたのが一回だけであった、という意味なのである。︵P179︶
ペットが患者の癒しになるという文脈で、
ある病人が、自分が看護婦から受けた看護と、犬から受けた看護とについて語ったことがあるが、彼は犬による看護のほうがずっと良かったと言った。﹁何よりも犬は喋︵しゃべ︶りませんからね。﹂︵P174︶
使命感を持っていない看護婦の実例。
彼女は、衰弱した患者のために湯割りブランデーを持ってくるように指示されたときに、週刊﹃パンチ﹄を出したりする︵実例︶︵P232︶
カクテルの一種のパンチと間違えたわけですな。ドジっ娘ナース。これぐらいならまだ笑っていられるが、
彼女は、物に触れば必ず、大きな音をたてたり、ひっくりかえしたりする。 ドアをきちんと閉めずに、ただ後ろ手に引っ張るだけだから、ドアはまたぱっと開いてしまう。 塗り薬を擦りこめば必ず皮膚を傷つけ、そのために、患者生活を送っている間じゅう傷が治りきらない患者があまりにも多い。 片方の手にカップをのせた受け皿をつかみながら、もう片方の手で暖炉の火をかきたてる。両方とも、もちろん﹁失敗﹂してしまう。あるいは、片手でお盆を運び、もう片方の手で石炭入れを持つ。もちろんどちらも中身がこぼれてしまう。おまけにこぼれたものを拾おうとしてかがみ込んで、自分の頭で床頭台を患者のほうへ倒してしまう︵実例︶。︵P233︶
しまいには、
看護婦が患者の死に気付く以前に、すでに彼が冷たくなっていたという事例が何例もある。︵P234︶
医師もナイチンゲールの毒舌から逃れられない。患者に対する誘導尋問*1が役に立たないことを示す文脈で、医師も槍玉にあげられている。
最近のある有名な裁判で、九人の有名な医師たちに対して順番に、つぎのような誘導尋問が行われた。﹁これらの症状の原因として、毒薬以外に何かの可能性が考えられますか?﹂。そして九人うち八人までが、無条件に﹁考えられません﹂と答えた。ところが反対尋問の結果、つぎの三点が判明したのである。すなわち、︵1︶彼らはいずれも、ここで想定されていた種類の毒薬中毒患者を、これまで見たことがなかった。︵2︶彼らはいずれも、これが毒物死でなかったばあいに死因として想定される種類の病気についても、それを見たことがなかった。︵3︶彼らはいずれも、その死亡の原因となりうる病気や状態についての主要な知識さえもっていなかった。︵P184︶
見舞い客たちも血祭り。
素人であれ医師であれ、のこのこと病室にまで出向いてきて、その実行の可能性はおろか、患者にとっての安全性について知らないことを、患者に勧めて患者を悩ます友人や知人たち。彼らのずうずうしさは驚嘆に値する。それはちょうど、患者の骨折を知りもしないで運動を勧めるのと同じである。そんな友人が、もしも︽自分が︾医師であって、しかも自分の患者が、︽他の︾友人が出向いてきたからといって、また、誰がこれを勧め、彼があれを勧め、誰が何を勧めなかったなどと騒いだあげくに、医師である自分の指示を無視し、他人の忠告に従ったというような、そんな目に遭わされたとしたら、いったいどんな言葉を吐くであろうか?しかし、世の人びとはけっしてここまで考えが及ばないのである。︵P170︶
現在でもこうしたことはよくある。プルーンやら電位治療器やらを勧めるのはやめてくれよ。ナイチンゲール自身も病気がちで、﹁おおよそあらゆる種類の忠告を受けてきた﹂そうである。ナイチンゲールは忠告者を﹁善意の陰謀を胸に抱いて入れかわり立ちかわり押し寄せてくるとてつもなく多勢の人びと﹂と呼び、レギオン、つまり新約聖書に出てくる大勢の悪霊に喩えている。第十二章のタイトルは﹁おせっかいな励ましと忠告﹂であり、一章まるごと見舞い客たちへの批判と説教である。なお、患者に対する批判はほとんどなかった。 第三章﹁小管理﹂では、責任者による管理の重要性が述べられる。
﹁責任を持っている﹂ということは、たんに自分自身が適切な処置を行なうだけでなく、ほかの誰もがそうするように手筈を整える、という意味である。すなわち、誰かが、故意にせよ過失にせよ、その処置を妨害したり中止したりしないように手筈を整えることなのである。それは、すべてを自分で切りまわすことでもなければ、多勢の人間に職務を分担させることでもなく、各人が自分に定められた職務を確実に果たせるようにすることを意味している。︵P77︶
責任者たちは往々にして、﹁自分がいなくなると皆が困る﹂ことに、つまり自分以外には仕事の予定や手順や帳簿や会計がわかるひとも扱えるひともいないことに誇りを覚えたりするらしい。私にいわせれば、仕事の手順や備品や戸棚や帳簿や会計なども、誰もが理解し扱いこなせるように ―すなわち、自分が病気で休んだときなどにも、すべてを他人に譲り渡して、それですべてが平常どおりに行なわれ、自分がいなくて困るようなことが絶対にないように― 方式を整え整理しておくことにこそ、誇りを覚えるべきである。︵P78︶
まさしく、看護師の業界にあって、医師の業界に足りない考え方である。日本の病院の多くはまだまだ主治医制で、主治医は受け持ちの患者に対して﹁責任を持つ﹂。患者の状態が悪くなれば、主治医が呼び出され、あるいは泊り込みで容態を診ることが美徳とされる。特殊な技能を要して代替が利かないとかならともかく、もはや特別な治療を行わない状態になっても、﹁主治医﹂が最期を看取ることを要求される。本当は、研修医には﹁家に帰って明日のために寝ろ。ただし、カルテには当直医が困らないだけの記載を行い、家族にも十分に説明しておけ﹂と指導できるのが理想なのに。むろん、日本の医療状勢ではそうも言っていられないのだが、少なくとも、医学部のトップが医学生に、﹁奉仕と犠牲の精神はあるか?医師の仕事はテレビドラマのような格好のいいものではない。重症患者のために連夜の泊まりこみ、急患のため休日の予定の突然お取り消しなど日常茶飯事だ*2﹂などとのたまい、あるいはその言葉をありがたがるような状況は恥である。連夜の泊まりこみなどしなくてもよいシステムをつくるのがトップの仕事であろうに。150年遅れている。
*1:﹁患者さんはよく眠りましたか?﹂ではなく﹁何時間眠りましたか?それは夜の何時ごろでしたか?﹂と尋ねよ、とある。
*2:http://www.f-take.com/kindai-kawasaki.htm