昔︵昭和戦前頃まで︶の漁師は全裸で作業したり町中を歩いたりしていた。自分は、それは粋や伊達でそうしていたものだと思っていた。︵注1︶ だが、それだけではなかったことが、
@bandy_u バンディー http://twitter.com/#!/bandy_u
氏の調査結果で明らかになった。以下引用。
藁チン文化についてちょろっと調べてる。思った以上に奥深くて、ちょっと窮屈な感じ。 なんで全裸でチンポに藁1本結んだだけの姿で漁に出たり、ましてや街中を歩くのか理解できなかったけど、﹁着る服を持つような身分不相応なことはしておりません﹂という低い身分、隷属的な立場の表明だったんだ。
勝手に網子︵どこかの網元の下で働いている漁師︶が、勝手に褌だの半纏だのを着て町を歩こうものなら、それは﹁許されざる行為﹂だったらしい。全裸でいるべき身分の人間が服を着て町を歩いたり電車に乗ったりしようものなら、警官から注意されたとか。
時代の近代化につれて、警察側から﹁これからは、どんな身分だろうと、オモテを歩くときは全裸じゃダメということに、お上の方針で決まった次第で、、、﹂と言わざるを得なくなったときは、地元の民衆の理解を得るのに警察側が大変な気苦労をして、徐々にしぶしぶ従っていった、という時期もあるとか。
漁師は真冬でも全裸︵に藁しべ︶で漁に出るならわしだけど、ものすごく寒い日などは、﹁致し方ない特別措置﹂として外套を網元が網子に貸し出したりも、臨機応変にはしていたらしい。でも本来、全裸であるべき身分の人間は、上半身に服を着ていても、せめて下半身だけはちゃんとチンポ丸出しを守った。
藁しべにも、﹁どこの組のモンか﹂によって切り口や色、素材、長さ、など違いがあり、それはいわば自分の所属を顕すものだから、藁なしのフルチンは密猟者と間違われてボコボコにされても文句が言えないし、よその組の藁をチンポに結んでたら、いわば﹁偽造した身分証﹂をつけてるという異常な行為。
なんでそんなに裸にこだわってうるさく言われていたかというと、﹁着衣の度合い=出世の度合い﹂だったから。 一人前に認められると、藁チンを卒業して六尺を締めることが許される。しかしこの六尺も、先輩が使い古したボロボロの汚いもの。出世するに従って、新品の六尺→上着もOK、となっていく。
ようするに、好きで変態気質で露出癖があるから藁チンで暮らしてたんじゃなくて、日本特有の﹁暗黙の了解で浸透している、絶対に遵守すべき村の掟﹂という意味合いで、身分なり立場なりがそれに該当するなら全裸でいることを強いられていた形。そして下っ端になればなるほど理不尽で苦労を強いられる。
このへんは、会社組織でも言えるのかもね。表面上は、役員でも管理職でもヒラ社員でもなんとなく温和に会話したりしてるけど、管理職だけが使える社用車を勝手にヒラ社員が使うといった﹁ルール違反﹂をした途端、厳しく追及される、みたいな感じなんだろうか。笑顔の下には、身分の格付け意識がある。
昔の漁村の様子を撮影した写真には、藁チンをつけた全裸だったり六尺絞めてたり上着も着てる漁師たちが一丸となって笑顔で作業している様子が写されていたりもするけど、その牧歌的な笑顔と、みんなで協力している様子と同時並行して、厳しい階級格差︵による村の秩序構築︶があったというわけか。
全裸は、身分の低い人間であることの証明でもあり、義務でもあったんだ。
全裸で作業する房総の漁師たち︵昭和15年ごろ。木村伊兵衛撮影︶
︵注1︶ なぜそう思ったかと言えば、この画像を引用したのは、色川大吉﹃昭和史 世相篇﹄︵小学館ライブラリー55︶という本からなのだが、そこに著者の昭和初期頃の経験として次のような記述があったからだ。 少年のころ、私は千葉県の銚子や九十九里浜に泊まりがけで行った。銚子では漁師たちが市内でふんどしもつけずに歩いているのに眩しいような思いをした。彼らはチンポの先だけを細い稲藁で、つつましくお飾りのようにしばっているだけで、他は文字どおり一糸もまとわない全裸であった。あわてて周りを見回しても誰もふり返ったりしていない。どうしたことかと思ったら、九十九里浜でも同じ全裸で漁師たちが船をひき出していたのである。 ︵p.131〜132︶ 全裸の理由は特に書いていなかった。だから、この本を読んだ時、てっきりそれは好きでやっている風俗なのだと思ったわけである。
︵追記︶ 昭和30年ごろになっても九十九里浜では女性も裸︵半裸︶で作業していたらしい。松本清張の昭和31年の﹁九十九里浜﹂という短編に次のような記述がある。この場合の裸体は作業効率の問題なのかもしれない。それでも、裸体でも恥ずかしくないという意識があったのだと思う。このような女性たちのことを﹁浜の女﹂といったという。 ︵船を引っ張り出そうとかたまっている︶人間たちは黒く陽灼けした女どもで頭に手拭いをかぶり、腰に着物の布でつくった猿股をはいていた。襦袢のようなものを胴にまとった者もいるが、何も着ないで乳房を出している者が多かった。たいてい中年の女で乳房は萎びていたが、胴体や腰廻りは、くりくりと張っていた。
勝手に網子︵どこかの網元の下で働いている漁師︶が、勝手に褌だの半纏だのを着て町を歩こうものなら、それは﹁許されざる行為﹂だったらしい。全裸でいるべき身分の人間が服を着て町を歩いたり電車に乗ったりしようものなら、警官から注意されたとか。
時代の近代化につれて、警察側から﹁これからは、どんな身分だろうと、オモテを歩くときは全裸じゃダメということに、お上の方針で決まった次第で、、、﹂と言わざるを得なくなったときは、地元の民衆の理解を得るのに警察側が大変な気苦労をして、徐々にしぶしぶ従っていった、という時期もあるとか。
漁師は真冬でも全裸︵に藁しべ︶で漁に出るならわしだけど、ものすごく寒い日などは、﹁致し方ない特別措置﹂として外套を網元が網子に貸し出したりも、臨機応変にはしていたらしい。でも本来、全裸であるべき身分の人間は、上半身に服を着ていても、せめて下半身だけはちゃんとチンポ丸出しを守った。
藁しべにも、﹁どこの組のモンか﹂によって切り口や色、素材、長さ、など違いがあり、それはいわば自分の所属を顕すものだから、藁なしのフルチンは密猟者と間違われてボコボコにされても文句が言えないし、よその組の藁をチンポに結んでたら、いわば﹁偽造した身分証﹂をつけてるという異常な行為。
なんでそんなに裸にこだわってうるさく言われていたかというと、﹁着衣の度合い=出世の度合い﹂だったから。 一人前に認められると、藁チンを卒業して六尺を締めることが許される。しかしこの六尺も、先輩が使い古したボロボロの汚いもの。出世するに従って、新品の六尺→上着もOK、となっていく。
ようするに、好きで変態気質で露出癖があるから藁チンで暮らしてたんじゃなくて、日本特有の﹁暗黙の了解で浸透している、絶対に遵守すべき村の掟﹂という意味合いで、身分なり立場なりがそれに該当するなら全裸でいることを強いられていた形。そして下っ端になればなるほど理不尽で苦労を強いられる。
このへんは、会社組織でも言えるのかもね。表面上は、役員でも管理職でもヒラ社員でもなんとなく温和に会話したりしてるけど、管理職だけが使える社用車を勝手にヒラ社員が使うといった﹁ルール違反﹂をした途端、厳しく追及される、みたいな感じなんだろうか。笑顔の下には、身分の格付け意識がある。
昔の漁村の様子を撮影した写真には、藁チンをつけた全裸だったり六尺絞めてたり上着も着てる漁師たちが一丸となって笑顔で作業している様子が写されていたりもするけど、その牧歌的な笑顔と、みんなで協力している様子と同時並行して、厳しい階級格差︵による村の秩序構築︶があったというわけか。
全裸は、身分の低い人間であることの証明でもあり、義務でもあったんだ。
![f:id:Pulin:20110310134741j:image f:id:Pulin:20110310134741j:image](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/P/Pulin/20110310/20110310134741.jpg)
︵注1︶ なぜそう思ったかと言えば、この画像を引用したのは、色川大吉﹃昭和史 世相篇﹄︵小学館ライブラリー55︶という本からなのだが、そこに著者の昭和初期頃の経験として次のような記述があったからだ。 少年のころ、私は千葉県の銚子や九十九里浜に泊まりがけで行った。銚子では漁師たちが市内でふんどしもつけずに歩いているのに眩しいような思いをした。彼らはチンポの先だけを細い稲藁で、つつましくお飾りのようにしばっているだけで、他は文字どおり一糸もまとわない全裸であった。あわてて周りを見回しても誰もふり返ったりしていない。どうしたことかと思ったら、九十九里浜でも同じ全裸で漁師たちが船をひき出していたのである。 ︵p.131〜132︶ 全裸の理由は特に書いていなかった。だから、この本を読んだ時、てっきりそれは好きでやっている風俗なのだと思ったわけである。
︵追記︶ 昭和30年ごろになっても九十九里浜では女性も裸︵半裸︶で作業していたらしい。松本清張の昭和31年の﹁九十九里浜﹂という短編に次のような記述がある。この場合の裸体は作業効率の問題なのかもしれない。それでも、裸体でも恥ずかしくないという意識があったのだと思う。このような女性たちのことを﹁浜の女﹂といったという。 ︵船を引っ張り出そうとかたまっている︶人間たちは黒く陽灼けした女どもで頭に手拭いをかぶり、腰に着物の布でつくった猿股をはいていた。襦袢のようなものを胴にまとった者もいるが、何も着ないで乳房を出している者が多かった。たいてい中年の女で乳房は萎びていたが、胴体や腰廻りは、くりくりと張っていた。