遠慮は美徳にあらず
●TERRAZINE - 被害者意識が強い障害者自身が、障害者を排除させる
このエントリを読んでいて、1年以上前にはてブで人気エントリーになった記事を思い出した。﹁席を譲らなかった若者﹂の話である。
︵中略︶
ルールを守ることを当然のように要求される、不利であるがゆえの権利を振りかざしてこられた場合、僕は戸惑うだろう。
本来自発的になされるべきであることを押しつけられることで、これまで自分が配慮してきたつもりでいたことを反故にされるような心境になるのだ。
なるほどなー。ワシも目の前に大きなおなかを抱えた妊婦さんが立ってれば、自発的に席を譲るだろうけど、女連れでいい気になってるジジィに嫌み言われたら、グラサン兄ちゃんみたく論殺しちゃうだろな。ちなみにワシはこの話を﹁ケンカだ!ケンカだ!﹂って楽しんだんだけど。
ただ、ワシは人に﹁やって﹂と言われることを﹁強制﹂とはあまり感じない。何でかっていうと﹁いやなことは断る﹂から。
相手が障害者や弱者だと﹁断る﹂ことが﹁悪い﹂ことのように思っちゃうんだよな。これが間違い。ワシには障害者の知人が居て、トイレに連れて行けとか、あれ持ってきてとか、あれこれと頼まれるけど、いやなときは断るよ。だって当たり前やろ? 目の前の人と話しているときに、それを中断するなんて、そんな失礼なことは出来ない。﹁今話してるから、もう少し待つか、誰か他に頼め﹂って言う。でもみんな障害者相手だと﹁遠慮﹂して言わないんだよね。
障害者は子供と同じ
障害者ってのは、自分で出来ないことを誰かに頼んでやってもらわないと生活できない。それが﹁障害﹂なわけだけど、これって﹁子供﹂と同じなんだよね。トイレを一人で出来ない、危ない所に一人で行けない、誰か﹁大人﹂の付き添いがいる。ほら、子供とおんなじでしょ?
じゃあ、﹁障害者を子供扱い﹂しろって言ってるのかっていうと、ちょっと違う。ワシは子供を子供扱いしない。こないだ、ライブハウスの仲間たちと海へキャンプに行ったんだけど、その時に喘息持ちの男の子が居た。彼はどうも甘やかされて育ったらしく、わがままですぐにキレるようなところがあるそうだ。バーベキューをしているとき、彼はテーブルに座ったまま母親に﹁お母さんジュース﹂と要求した。その時母親は肉を焼いていたので手が離せない。別の気が利く男性が﹁何がいい?﹂と代わりに取ってやろうとした。ワシはその時言った。︵柄の悪い昔の任侠映画に出てくるような声に吹き替えてください︶
﹁くぉら、きさーん︵貴様︶、ガキのくせにどこの誰が大人を使いよんじゃ、自分で動かんかい!﹂
彼は驚いた様子だったが、素直に自分で取りに行った。自分のだけ取って戻ろうとしたので、﹁気の利かんガキやのぉ、みんなの分も取ってやらんかボケ!﹂って言ったら、これにも素直に従った。少なくともキャンプ旅行の間中、ワシに対してキレるようなことも逆らうようなこともなく、仲良く泳ぎ、任天堂DSで遊んだ。まぁ、彼が﹁このおっさん、ちょっと違う﹂と思ったのは確かだと思う。
配慮と遠慮は違う
子供に対して﹁配慮﹂は必要だ。喘息持ちの子供のそばでタバコを吸うようなことはバカのやることだろう。だが﹁遠慮﹂は無用だ。遠慮は甘やかしに通じ、それが当たり前と思うようになり、だんだんと図に乗るようになる。
相手が障害者でも全く同じ。彼らはいろいろと要求してくる。そうしなければ困るからそれは当然だ。だが、自分のペースを乱されてまでつきあう必要はない。トイレに連れて行ってもらいたいなら、そのタイミングを計るくらいの配慮はすべきだし、それをしないようなら﹁めくらでも空気は読め﹂とキッチリ言うべきだ。障害者と暮らしたことがある人ならわかると思うが、障害者のペース優先の生活は、必ず破綻する。子育てに悩み過ぎてノイローゼになる母親も、大抵は子供を中心に考えすぎている。共に生活しているのだ。遠慮なんかしてはダメだ。
やりたいこと、やってもらいたいことは遠慮せずにバンバン言う。やりたくないことは遠慮せずに断る。特に変な言い訳をして断るのは最悪だ。ダメなもんはダメ、イヤなもんはイヤ。これさえ出来ていれば、大抵のコミュニケーションはうまくいくはずだ。と、自分がいつも命令口調なのをいい感じで正当化できたところでこの話はおしまい︵笑︶