鎌倉幕府を鎌倉幕府たらしめている「差分」とは何か
鎌倉幕府に関する統一された定義は存在しない。なぜなら鎌倉幕府とは、源頼朝を中心に彼をとりまく様々な人々の営みの複合体だからである。
だからといって﹁鎌倉幕府は存在しない﹂という人はいない。
﹁鎌倉幕府﹂という言葉は源頼朝が生きた時代はもちろん、相当後世に至っても﹁鎌倉幕府﹂という言葉は存在しない。現在我々が﹁鎌倉幕府﹂と言うとき、それは頼朝が作り上げた組織を今日の我々が﹁鎌倉幕府﹂と呼称しているだけである。
だからといって﹁鎌倉幕府は存在しない﹂という人はいない。
﹁鎌倉幕府﹂の成立過程を考証するときに主に使われるのは、鎌倉幕府によって作られた﹃吾妻鏡﹄であって、もちろん鎌倉幕府側に都合よく編纂されている。
だからといって﹁鎌倉幕府の実在性は疑わしい﹂という人はいない。
﹁鎌倉幕府は実在しない﹂﹁鎌倉幕府は捏造だ﹂﹁鎌倉幕府の実在肯定派も否定派もどっちもどっち﹂という人は、いないはずである。もし今﹁鎌倉幕府はなかったんだ﹂と発言したとすれば、4月1日に発言しているのか、それとも何かの陰謀論に取りつかれたか、であろう。そのような﹁鎌倉幕府実在否定論﹂を﹁鎌倉幕府肯定論﹂と並べるのはおかしい。
しかしここで一つの仮定をしてみよう。﹁鎌倉幕府は実在しない﹂と信じ込んでいる﹁鎌倉幕府否定派﹂がいるとする。しかし﹁否定派﹂と言っても﹁鎌倉幕府はなかった﹂という単純な﹁否定派﹂だけではない。﹁鎌倉幕府否定論﹂として、むしろ現実的なのは源頼朝が組織した武家政権の実在は肯定しながらも、その政権を﹁幕府﹂と定義することを拒否する、という姿勢だろう。彼らが衆として問う問いが﹁鎌倉幕府を鎌倉幕府たらしめている差分は何か﹂﹁鎌倉幕府に似た武士の組織は存在した。平氏政権しかり、関東公方しかり。それらと鎌倉幕府との差分は何だろう﹂という問いだろう。
そもそも﹁鎌倉幕府﹂に関する統一された定義は存在しないわけであるから、﹁鎌倉幕府を鎌倉幕府たらしめている差分﹂についても統一された定義も当然存在しない。そこで次のような問いが想定される。﹁あなたはどういう事実が否定されれば鎌倉幕府を否定しますか?﹂と。しかし鎌倉幕府というのは源頼朝を中心に彼を取り巻く様々な複合体であり、その複合体を構成する個別の事実についてもその確実性や、その解明されていることの詳細さ、あるいはそれが﹁鎌倉幕府﹂として評価し得るウェイト、どれをとっても一言で言えるものではない。
例えば﹁幕府﹂といえばやはり﹁征夷大将軍﹂がその首長であることから、﹁幕府﹂が﹁幕府﹂たり得るにはやはり﹁征夷大将軍﹂が必要不可欠である、という見方は根強い。しかし常に欠けることなく﹁征夷大将軍﹂が存在し続けたのは江戸幕府のみである。室町幕府においては五代将軍足利義量が死去した後、前将軍の足利義持が政務を見たが、これを﹁将軍が不可欠﹂という見方に立てば、室町幕府の衰退という評価になる。しかし室町幕府では将軍であることよりも足利家家督=室町殿であることが重要だったのだ。征夷大将軍は室町殿になるための要件の一つに過ぎない。と考えれば、征夷大将軍の存在は必ずしも幕府の存在に直結するものではないことは明らかである。
源頼朝も建久三︵1192︶年に征夷大将軍になって、それまで発給していた﹁前右大将家政所下文﹂を﹁将軍家政所下文﹂に切り替えた。しかし建久六︵1195︶年には頼朝は将軍を辞任し、再び﹁前右大将家政所下文﹂にもどす。頼朝にとっては征夷大将軍という官職は、今の我々が考えているよりは重要度の少ないものであったのかもしれない。従って﹁将軍という条件が否定されれば鎌倉幕府を否定しますか﹂と言われても困るわけだ。
鎌倉幕府の統一された定義を求めるのも、鎌倉幕府を鎌倉幕府たらしめている差分を求めるのも、鎌倉幕府に関する無知を露呈しているだけである。幸いにして鎌倉幕府論には、そういう﹁知らないのに知ったかぶりをして適当なことをいう人﹂が現れていないのである。もしそういう﹁知らないのに知ったかぶりをして適当なことをいう人﹂がわらわらと現れたら、それは鎌倉幕府論にとっては大きな足止め効果を発揮することになるだろう。いや、そういうデムパがいないことに感謝しなければならない。