曽野綾子における「マサダ集団自決」と「沖縄集団自決」を比較することの愚かさをめぐって……。
曽野綾子が自分の犯した間違い、たとえば﹁罪の巨塊﹂を﹁罪の巨魁﹂とか﹁罪の巨魂﹂とか、雑誌や著書を通じて一貫して誤記し続けるという単純素朴な間違いや、あるいは、﹁大江健三郎は、赤松隊長を﹃罪の巨魁(巨塊)﹄だと書いた﹂というような誤字・誤読に基づく拙劣な間違いを、大江健三郎や僕などから指摘されると、﹁こっそり……﹂と修正して、あたかもそんな誤字・誤読問題などは初めから一切なかったかのように、﹁知らん振り﹂を決め込むような、そういう言葉というものに対して、かなりいい加減な、卑怯・卑劣な作家であることは、よーくわかったが、曽野綾子の間違いと勘違いはそれだけではない。今日は、曽野綾子が、最近、沖縄集団自決問題にからめて好んで取り上げるイスラエルの﹁マサダ集団自決﹂に関するとんでもない間違いを指摘しておくことにしよう。曽野綾子は、集団自決の始まりは﹁マサダ集団自決﹂だと言っている。なるほどそうかもしれない。あるいはそうではないかもしれない。というのは、僕は、イスラエルのマサダに行って、現地取材し、集団自決の生き残りや関係者から聞き取り調査をしていないから、それが歴史の真実か、歴史の神話か、あるいはイスラエル国家の国民的神話か判定できないからである。翻って、つらつら考えてみるに、おそらく、曽野綾子は、自信満々に集団自決の始まりは﹁マサダ集団自決﹂だ……と言っているところを見ると、得意の現地取材と生き残った関係者からの聞き取り調査を徹底的にやったのだろう。と、言うのは、もちろん皮肉である(笑)。な、わけないだろうが……。2000年(紀元前66年)も前の事件を、現地取材したり、生き残りからの聞き取り調査なんて、できるわけがないだろう。ということは、曽野綾子が自慢たらしく語る﹁マサダ集団自決﹂の話も、所詮は、文献や資料からの類推、推測、妄想の産物としての歴史に決まっているのだ。僕は、その点に関しては曽野綾子を批判しているのではない。元々、歴史とは、あるいは歴史記述とはそういうものなのである。曽野綾子の自慢する現地取材主義や当事者への聞き取り調査、というような素朴リアリズム論に基づく原始的な歴史記述が唯一の歴史記述だと考える方が、とんでもない妄想であり、勘違いなのである。現地取材主義や当事者への聞き取り調査も、歴史記述の方法論の一部に過ぎない。現に、﹁軍命令﹂証言を何回も変更する宮城晴美等に対して、曽野綾子側の弁護士等は、﹁沖縄住民の批判と反発を恐れて証言内容を変更したのだ……﹂と、自分達に都合のいい説明論理を組み立てて、宮城晴美等の﹁新証言﹂をインチキ証言と看做して、冒涜しているではないか。これは、どういうことを意味しているかと言えば、こういうことだ。現地取材も当事者達の証言も、原理的には当てにならないということだろう。資料や文献を軽視して、誤字・誤読を繰り返しつつ、現地取材や当事者の証言にのみこだわる曽野綾子の著書や発言も、かなりいい加減なものであって、原理的には当てにならないということだろう。逆に言い換えれば、現地取材や当事者への取材は、しばしば、現地や当事者への感情移入や、共感・同情の心理から、かえって客観的な歴史の真実から遠ざかる可能性が高くなるということであろう。曽野綾子の﹃ある神話の背景﹄のテキストを熟読玩味するまでもなく、その内容が、赤松某や赤松隊員たちとの濃密な人間関係を築いた上での取材・交流の中から生まれた産物であるが故に、赤松某や赤松隊員たちの証言に依存せざるをえず、結果的に赤松某や赤松隊員たちの証言が一方的に歴史的真実と見做され、逆に曽野綾子の取材を受けていない沖縄の現地住民たちの証言が軽視され、無視され、インチキ証言と見做され、挙句の果てには本土の保守論壇や保守陣営からは、共産党や反日左翼の手先と見做されて、激しく批判・罵倒されていくのも、ある意味では仕方が無いということになるのだ。そこで、あらためて保守論壇の面々や保守思想家たちに聞きたいのだが、曽野綾子の発言が真実で、宮城晴美の発言が真実でない、と誰が決定・審判するのか。それをするのが、﹁神﹂か……(笑)。ところで、僕が、今日、取り上げようとしいるのはそういう問題ではなく、問題は、曽野綾子が、﹁マサダ集団自決﹂と﹁沖縄集団自決﹂を比較して、﹁マサダ集団自決﹂を国民的な神話として尊敬・尊重するイスラエル国民と、﹁沖縄集団自決﹂を日本軍の命令で自決したと解釈し、集団自決を被害者的立場から悲劇と見做し、結果的に神聖な集団自決そのものを冒涜する日本国民、あるいは沖縄住民……というような図式を描き、日本国民や沖縄住民の﹁愚かさ﹂を、それこそ、曽野綾子が冒涜し、罵倒している問題である。≪私は、あまりにも日本と外国が違うので、その差に驚きます。≫だって。驚くもなにも、違うに決まっているだろうが……。では、﹁マサダ集団自決﹂とは何か。 http://homepage2.nifty.com/hashim/israel/israel027.htm マサダというのは、ヘブライ語で﹁要塞﹂の意味です。西暦73年、ローマ軍に追いつめられたユダヤ人グループ︵熱心党員︶960名が集団自決した場所として、今日のユダヤ人にとっても忘れられない場所となっています。 高さが400メートルの山です。東側︵この写真に写っている方向︶に蛇の道と呼ばれる登り道がありますが、それを登っていくと1時間はかかるし、相当な暑さなので誰もそんな元気はないでしょう。それで、ケーブルカーを使って3分ほどで頂上に到着です。頂上は広い台地となっています。そこには倉庫や貯水槽、シナゴーグ跡などがありました。 西暦70年にエルサレムがローマ軍によって陥落させられた後、ユダヤ人の最後の拠点がここでした。3年ほど持ちこたえましたが、西暦73年にはここも陥落、その際、ここに立てこもっていたユダヤ人は、ローマ軍に降伏するより、集団自決を選んだのです。 マサダは、イスラエルにおける数少ない︵5ヶ所︶世界遺産の一つです。 これが、いわゆる、﹁マサダ集団自決﹂だが、そもそも、司令官もその仲間達も、もちろん一般市民もほぼ全員が自決したと言われる﹁マサダ集団自決﹂と、司令官(赤松隊長)以下、多くの軍人達が生き残り、渡嘉敷島の現地住民だけが集団自決した﹁沖縄集団自決﹂を単純に比較して、その優劣を論じるなんて、こっちの方が、≪驚きます≫だろう。しかるに、曽野綾子は、新装版﹃ある神話の背景﹄(﹃﹁集団自決﹂の真実﹄に改題、ワック)の、2006年4月に書き加えた﹁新版まえがき﹂にこんなことを書いている。 沖縄の集団自決が悲劇だったことは言うまでもないが、決して歴史始まって以来、最初の特異で残酷な事件ではなかった。明確な、しかも遺物を伴う歴史として残っているのは、紀元66年に起こったユダヤ人の対ローマ反乱の最後の拠点となったマサダの集団自決が最初である。 対ローマ反乱組織は、紀元70年になってたった一つの拠点を残すのみになった。彼らは、ヘロデ大王の作った死海西岸のマサダの要塞にたてこもっていた。Y・ヤディンの﹃マサダ﹄は、ヨセフスがそこに残った960人のユダヤ人の運命を書いている。逃亡の望みも全くなく、あるのは降伏か死かのいずれのみということになった時、人々は﹁栄光の死は屈辱の生に勝るものであり、自由を失ってなお生きながらえるという考えを軽蔑することこそ、最も偉大な決意である﹂と考えたのである。 彼らは辱めを受ける前に妻たちを死なせること、奴隷の体験をさせる前に子供たちを死なせることを選んだ。(中略)それから彼らは、まず籤で10人の男たちを選び出した。この10人が、夫と妻が悲しみのうちに子供を擁して抱き合うあらゆる家族全員の命を絶っていった。その後この10人が再び籤をひき、当たった一人が残り9人を殺害し、その後で自ら剣で自決した。こうしたことがすべて明るみに出たのは、二人の婦人たちと、五人の子供たちだけが、地下の洞窟に隠れて、この悲劇を生き延びたからであった。 日本人とユダヤ人の大きな違いは、マサダの自決をどう評価するか、において見ることができる。イスラエルでは、マサダの集団自決を、非人間性や好戦性の犠牲者として見るどころか、そこで自決した960人の人々を、ユダヤ人の魂の強さと高貴さを現した人々として高く評価したのであった。 マサダは現在、イスラエルの国家の精神の発生の地として、一つの聖地になっている。新兵の誓約もここで行われ、国賓もここに案内される。 しかし沖縄では、集団自決の悲劇は軍や国家の誤った教育によつて強制されたもので、死者たちがその死によって名誉を贖ったとは全く考えてもらえなかった。そう考えるほうが死者たちが喜んだのかどうか、私には結論づける根拠がない。 曽野綾子は、このマサダ集団自決の話が好きなようで、沖縄集団自決の話題になると、必ずと言っていいほど、この話を持ち出し、日本国民や沖縄住民の﹁愚かさを﹂強調しているわけだが、このスタイルが語り部・曽野綾子の物語の﹁パターン﹂になっているようだ。言うまでもなく、曽野綾子のこの話はおかしい。曽野綾子は、日本人とユダヤ人の集団自決の受け止め方の大きな違いを強調して、例によって、ユダヤ人を賞賛し、日本国民や沖縄住民の﹁愚かさ﹂を批判し冒涜しているわけだが、そもそも、同じように集団自決とは言っても、﹁マサダ集団自決﹂と﹁沖縄集団自決﹂とでは、その内容は、誰が見ても、ぜんぜん違うはずである。沖縄の集団自決は、厳密には集団自決ではない。当時の渡嘉敷島の実質的な管理者であり、支配者であった日本帝国軍人・赤松某と赤松隊の軍人達は、集団自決に参加せずに、逆に、投降を促した渡嘉敷島の現地住民の男女を、米軍に通じた﹁スパイ﹂と見做し、片っ端から次から次へと斬殺・銃殺し、渡嘉敷島を﹁恐怖のどん底﹂に突き落としておきながら、最終的には自分達だけがあっさりと米軍に投降し、米軍捕虜になり、そして米軍に高待遇で保護されつつ無事に本土に帰国、今でも、ヌケヌケと生き恥さらしつつ、平和な戦後の生活を満喫しているのだから、司令官を筆頭に、ほぼ全員が自決した﹁マサダ集団自決﹂と比較して論じる曽野綾子の頭の方がおかしいことは、誰が見ても明らかだろう。愚かなのは、日本国民でも、沖縄の現地住民でもなく、曽野綾子の方だろう。さて、僕が、﹁マサダ集団自決﹂の話を知ったのは、実はつい最近のことで、今年、行われた拓殖大学日本文化研究所主催の記念シンポジウム﹁武士道﹂における前イスラエル大使・コーエン氏の講演によってであった。コーエン前大使は、元々が軍人であることもあって日本の武士道に造詣の深い人で、しかも本人自身も柔道などの日本武道の実践者であるらしく、その講演の中で、武士道の本質を﹁死﹂と捉える﹃葉隠﹄を念頭においていると思われたが、講演の冒頭で、すぐにイスラエルの﹁マサダ集団自決﹂の話を紹介し、それを、日本における武士の切腹や特攻隊の武士道と比較して論じていた。僕は、﹁マサダ集団自決﹂を、﹁切腹﹂や﹁特攻隊の死﹂と比較するコーエン前大使の比較の仕方は正しいと思ったが、同じように﹁マサダ集団自決﹂の話を例に出しているとはいえ、﹁マサダ集団自決﹂と﹁沖縄集団自決﹂を比較して、ユダヤ人を一方的に賞賛し、日本国民や沖縄住民の﹁精神﹂を批判し冒涜する曽野綾子の比較の仕方は、コーエン前大使のそれとは、決定的に違っている、と思う。どちらが正しいかは言うまでもないだろう。(続)
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資料1(過去エントリー) ■大江健三郎を擁護する。http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071110/p1 ■誰も読んでいない﹃沖縄ノート﹄。http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071111/p1 ■梅沢は、朝鮮人慰安婦と…。http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071113/p2 ■大江健三郎は集団自決をどう記述したか? http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071113/p1 ■曽野綾子の誤読から始まった。http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071118 ■曽野綾子と宮城晴美 http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071124 ■曽野綾子の﹁誤字﹂﹁誤読﹂の歴史を検証する。http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071127 ■﹁無名のネット・イナゴ=池田信夫君﹂の﹁恥の上塗り﹂発言http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071129
資料2 ■大江健三郎・岩波書店沖縄裁判の争点http://www.sakai.zaq.ne.jp/okinawasen/souten.html ■大江・岩波沖縄戦裁判の支援の会・ブログhttp://okinawasen.blogspot.com/ ■大江・岩波沖縄戦裁判支援会 http://www.sakai.zaq.ne.jp/okinawasen/news.html ■曽野綾子の第34回司法制度改革審議会議発言議事録 http://www.kantei.go.jp/jp/sihouseido/dai34/34gijiroku.html ■沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会http://blog.zaq.ne.jp/osjes/article/35/ ■大江健三郎﹃沖縄ノート﹄裁判告訴状 http://www.kawachi.zaq.ne.jp/minaki/page018.html