勝間和代さんの﹁結婚のすすめ(1)35歳独身限界説﹂*1というブログ記事が話題になっている。はてなのブクマでは炎上状態だが、勝間さん自身は﹁評判になっています﹂という認識らしい。さすが、いつでもどこでもポジティブシンキングである。*2
すでに、いくつかの反論の記事があがっている。一つはid:nagano_haru さんの記事だ。非嫡出子差別を指摘し、勝間さんの﹁結婚ありき﹂で進める論を批判している。﹁メリットとかどうのこうのとかは﹁おまけ﹂で、﹁結婚﹂を現代風にメリットを説明して、﹃結婚しないと子供は生んではいけない﹄という価値観を補強している。﹂という指摘である。
nagano_haru﹁︻勝間和代︼35歳独身限界説批判〜結婚しなくいい、同棲しろ〜﹂
http://d.hatena.ne.jp/nagano_haru/20091106/1257483361
もう一つは、id:yellowbell さんの記事である。yellowbellさんは組合活動の中で、﹁独身者は責任感がない!﹂と言われてきた。そこで1年かけて、﹁独身者は自分勝手だが、既婚者は家庭のことがあるので責任感が強い﹂という論を検証する。その結果、勤務における生産性に、独身者と既婚者に有意な差はないと結論が出る。むしろ、上司の思い込みにより、独身者への勤務評価が厳しくなっていることが発見されるのである。調査の精度の問題もあり、社会調査としての信頼性はわからないが、説得力のある記事になっている。
yellowbell﹁﹃35過ぎて独身でいること﹄の限界とはなにか
http://d.hatena.ne.jp/yellowbell/20091106
*これから上野千鶴子の﹁家父長制と資本制﹂の話が始まります。もう一度勝間さんの話には戻りますので、そっちに飛んでいただいたほうが話は早いかもしれません。
さて、生産と女性の問題といえば、私はすぐにこの本が頭に思い浮かんだ。
![家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平 家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平](https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/31PTAF4Z0CL._SL160_.jpg)
- 作者: 上野千鶴子
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1990/10/31
- メディア: 単行本
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1990年に発刊された、上野千鶴子﹁家父長制と資本制﹂である。日本で初めて、概括的に、マルクス主義フェミニズムを紹介した本である。
マルクス主義フェミニストとは、マルクス主義者の女性のことではない。フェミニストとして、女性の問題を考える上で、マルクスの議論を援用する論者のことである。上野さんは、この本で﹁生産労働と再生産労働﹂について解説している。
﹁生産労働﹂とは市場<内>労働であり、﹁再生産労働﹂とは市場<外>労働である。ざっくり言えば、会社に行ったりお店をしたりするのが﹁生産労働﹂であり、家事育児や出産をするのが﹁再生産労働﹂である。近代社会における労働では、﹁市場﹂と﹁家庭﹂が二分されていく。近代前での農家において、労働はどこからどこまでが、家の仕事で、商品を作りだす仕事なのか、明確に線引きがされていなかった。しかし、近代の労働では、男性が市場で商売をし、女性が家庭で家事育児や出産をするという、役割分担が割り振られる。そして、市場での商売が﹁生産﹂とされ、賃金が与えられ、社会的に重要な地位を占める。一方で、家事育児や出産は、無賃金であり、労働ではないとみなされ、貶められる。
マルクス主義フェミニズムは、この女性が無賃金で行ってきた、家庭における労働を﹁再生産労働﹂として再発見する。男性は、家事労働から解放され家でくつろぎ、女性のおかげで生産活動に専念する。新しい労働力である、子どもたちは女性に産みだされ、世話をされ教育される。こうして、女性の再生産労働は、資本制に組み込まれ、重要な歯車となっているのだ。家庭は、愛に包まれた、資本制から逃れられる安息の地ではない。家庭こそが、資本制を支えているのだ。
以上の議論でわかることは、男性の生産活動を支えるためには、女性が家庭内で再生産労働に専念してもらわなければならないということである。女性が楽をするために家庭に入るのではなく、男性が<もっともっと>働くために、女性は家庭に入れられるのである。実際に、主婦の労働量を換算すると、明らかに長時間労働であり、多大な賃金が支払われるべきだ、という試算が何度も出される。*3しかしながら女性側の手元に金銭はなく、仮に性役割が逃れようと離婚しようにも、貧困に追いやられるリスクを負わなければならないのだ。
そして、上野さんはこうした家父長制と資本制の結託について、﹁世代間支配﹂という側面も指摘する。母親が子どもの養育を単独で行うことにより、子どもを1対1の支配関係においてしまう。子どもは、資本制においては、新たな労働力として育てられるが、同時に意思をもった主体である。だが、育てた母親は、それまで投資した教育費を還元し、老後の自分の面倒をみることを要求する。そこで、子どもの独立欲求と、親に対する経済的依存が葛藤を引き起こす。こうして、女性は、家父長制支配における被抑圧者でありながらも、子どもにとっては母親として抑圧者になるのだ。
上野さんは、以上を踏まえて、次のように﹁家父長制の廃絶﹂について述べる。
したがってフェミニストの要求は、第一に再生産費用の両性間の不均衡な分配を是正すること、第二に、世代間支配を終了させることにある。後者の点については、︵1︶再生産費用を子ども自身の権利として自己所有させること︵家族手当ではなく児童手当child allowance︶の支給と、︵2︶老人が独立できるだけの老齢年金の支給と公共的な介護サーヴィスの確保、の二点があげられる。
もちろんこれは第一に両性間の相互依存︵その実女性の男性への依存︶と第二の相互依存︵その実子どもの親に対する依存と、親による子どもの搾取︶を断ち切る点で、﹁家庭破壊的﹂な戦略である。というよりも、もっと正確に言えば、家族の性/世代間支配の物質的基盤を破壊し、家族の凝集力を、ただたんに心理的基盤の上にのみ置くための試みである。婚姻の基礎が女性の男性への︵強制的な︶経済依存の中にしかなく、親子関係の絆が子供に対する親の︵強制的な︶資源コントロール意外にない、と考える、もっとも家父長制的な人々だけが、この戦略を﹁家族解体的﹂と呼んで非難することだろう。
逆説的なことに、高度産業社会で﹁マンパワーman power﹂や﹁人的資本human capital﹂の重要性がますます高まるにつれ、個々の親にとって再生産のコストが上昇しプロフィットは低下する、という事態が起きている。しかも、極端にコストがかかるために一人か二人にまで数を押さえこまれた子供の側からすれば、長時間にわたる依存と統制へのルサンチマンと、その後にかかってくる長期にわたる親の扶養負担とが、すでに背負いがたいまでの重圧になっている。
家族変動を新古典派経済学の立場から、徹底的に経済変動だけで扱おうとするのはシカゴ学派のゲリー・ベッカー︹Becker, 1982︺だが、彼は﹁子供の費用もしくは価格の上昇は、子供数の減少に導く﹂という仮説を立て、子供を﹁消費財consumpition goods﹂の一種と見なしている。親にとっては、現在子供は、生涯に一度か二度意を決して購入を決意するぜいたくな耐久消費財の一種となっていると言うのである。
ここで奇妙な逆転が起きる。﹁子供数の決定﹂という家父長制にとって中核にある問題の一つを、完全に経済変数だけで説明しようとする市場万能主義の新古典派が︵彼らこそ経済還元主義と呼ばれるにふさわしい︶、ついに子供は何の利益ももたらさない﹁無用の長物﹂だと結論したのである。
成人した子供の経済価値と、彼らの老いた親に対する貢献の重要性を評価するフォルバーでさえ、かさみすぎる再生産費用から。ついには子供は一種の﹁ぜいたく品luxury﹂となったと指摘する。
子供を育てるという意思決定は、まことに尋常でない経済コストを両親に課した上に、実質的に何の経済的利益ももたらさない。……親になることは、それが何らかの経済的なプラスをもたらすのでなければ、ぜいたく以外の何ものとしても持続することはできない。︹Folbre, 1983:279︺
この﹁ぜいたく﹂の味わいは、﹁親であることに内在する報酬﹂︹ibid.︺、子供が育つプロセスに立ち合いそれを分かち合う喜びそのものの中にある。このぜいたくを味わうには、家父長制は性支配と世代間支配を断念しなければならない。逆に、家父長制が性支配と世代間支配とを断念した時にはじめて、このぜいたくの味わいは、女と男の両方にとって接近可能なものになる。
だがそれまでは、資本制は、家族の中の独立した性支配の物質的基盤を残しておくことによって、家族が再生産を維持しつづける根拠を保証しておくだろうか。家族を全く心理的なぜいたく品に還元しつくすことは、家父長制の解体を意味する代わりに、今度は資本制の支配を強めることにしかならないのだろうか。あるいは、この子育てというぜいたく品は、貧乏人には手の届かないものになって、再生産の分配をめぐる新たな階級格差が生じるだろうか。家父長制と資本制のきしみは、新たな再編成を求めてここでも始まっている。
︵106〜108ページ︶
この本を上野さんが書いてから20年が経過した。引用部の意味では、家父長制は崩壊しつつあるだろう。女性は、差別はあるものの、再生産労働に留められることなく、生産労働にも参与できるようになってきた。しかし、そこで生まれたのは労働者間の階級格差である。女性の生産労働は、圧倒的に非正規雇用において行われている。また、とくに若い男性にも非正規雇用者が増えている。そのため、非正規雇用者同士が付き合い、貧困によって婚姻ができないという声もあがっている。上野さんの予言通り、子育てはもちろん、家族を持つことも﹁ぜいたく品﹂となった。
かつて、女性にとって、結婚は生きていく糧を得るために必要であった。﹁永久就職﹂という言葉にふさわしく、再生産労働の従事者になっていったのである。だが、上記のように、家父長制が軋み始めたとしても、生産労働と再生産労働との二分は揺らがない。男性が再生産労働担うため、家事を分担し、育児休暇をとったとしても、それらが市場と家庭の二項から成り立つ社会を温存している限り、抜本的な解決にはならないのだ。 たとえば、この20年の間に大きく注目を浴びるようになったのが、﹁介護労働﹂である。介護労働者は、これからの社会で必要であり重要だと認識されながら、いまだ低賃金におかれている。これは介護が、従来、家庭内で女性により行われてきた再生産労働であることに起因するという指摘がある。また、介護労働者の多くが女性である。こうして、介護労働は﹁無賃であるはずの労働﹂とみなされ、買いたたかれるのだという。 もちろん、女性がこれまで家庭内の再生産労働に従事させられ、抑圧されてきたことも問題である。だが、より大きな問題として、再生産労働を家庭の領域に限定してきた、近代社会の枠組みがあるのだ。
話を、勝間さんの記事に戻そう。勝間さんは結婚することのメリットをあげている。結婚することにより、業務が効率化されるという意見は、上で紹介したyellowbell さんの指摘に譲るとして、﹁結婚することによる人間的成長﹂について書いておく。 まず、同居について考えてみよう。nagano_haru さんが指摘するように、同居する相手は婚姻関係でなくてもいいだろう。先に引用した上野さんは、最近出した﹁おひとりさまの老後﹂で﹁女友達を作る﹂という解決策を出している。これは、フェミニズムが昔から主張する﹁シスターフッド﹂につながる関係かもしれない。男と一対一でつがうだけが、他人と暮らす方法ではない。二人でも、三人でも、そして女同士でも、ミックスでも、暮らしたい人と暮らせばいいのだ。 そして、﹁自分と違う他人と暮らす﹂という経験が、人間的成長を促すという意見にはひとまず賛同しておく。同じ空間で、他人と暮らすことの、一番のメリットは、自分の原家族を相対化できることである。多くの人は、成長過程において、一つの家族での共同生活を送る。ここで培われた生活スタイルは、自分自身でもその特殊性に気付きにくいし、変えることも難しい。他人と暮らし、指摘され、衝突し、妥協してスタイルを変えていく中で、原家族と違う生き方を作っていくことができる。お互いの癖や考えに寛容にならざるをえないことや、どうしても譲れずに大喧嘩になることもある。毎日、顔を突き合わすからこそ、細かなことも気になる。こうした経験の中で、人間的に成長していくうことができるだろう。 だが、﹁一人で暮らす﹂という経験もまた、人間的成長を促すのではないだろうか。一人きりの空間で、これから先も一人であろうことを引き受けていくという経験は、他人と暮らす経験と変わらないくらい、重みのあるものだと思う。誰かと一緒にいることでまぎれる、孤独や自分の悩みと向かい合い続けることは、人間的成長を促すのではないのだろうか。 私自身は同居人がいるので、前者の﹁他人と暮らす﹂ことの経験の良さは語ることができる。だが、後者を選んだ人たちよりも、自分のほうが成長しているとは言えない。勝間さんはなかなかずうずうしいな、と思う。独身を貫いている上野千鶴子と、二度の結婚をして離婚した勝間和代。どちらのほうが、豊かな経験をしているのか、という比較自体が︵どっちも人生の大先輩だし︶冒涜的でではないか。凡庸だが、﹁丁寧に、自分の人生を生きること﹂というような題目のほうが、結婚するよりもよっぽど人間的成長にはつながるように思う。 次に、子どもを持つことについて考えてみよう。先に述べたように、再生産労働が行われている領域が、家庭に限定されていることが、ここで問題になる。家族だけが子育てをするシステムを、問題化しなければならない。これは、家族から子どもを取り上げて育てようという主張ではない。男性が家庭と市場の往復の閉じた環境にあるように、子どももまた家庭と学校の往復という閉じた環境にいる。その閉鎖を破ることが必要だろう。 具体策として、ひとまず考えられることは、大人の生産労働の時間を減らすことである。市場と家庭、ではない﹁間﹂の場所を作らなければならない。こうした試みは、NPOなどが中心に、不登校問題での﹁居場所づくり﹂などが具現化してきた。そうした場に、積極的に関与していく﹁ぜいたく﹂を求めることが必要だ。これまで、子育て支援を求めてきたのは、家族で出産・育児を担う﹁親たち﹂であった。だが、親でないものたちが、子育てする権利を求めていってはどうか。 勝間さんは、子どもを持って初めて社会の資源に頼り、社会について考え、社会運動を始めたという。勝間さんにとって、子育てがそのきっかけになったのは良かったと思う。だが、それは必要条件ではないはずだ。子どもを持たずとも、社会に貢献していくことはできる。もし、勝間さんが子どもを持たなければ社会に貢献したいと思えなかったとすれば、それは35歳の壁ではなく、勝間さんの壁である。社会について考えるのは、子どもがいてもいなくてもできるのである。当然のことだ。
かつて、女性にとって、結婚は生きていく糧を得るために必要であった。﹁永久就職﹂という言葉にふさわしく、再生産労働の従事者になっていったのである。だが、上記のように、家父長制が軋み始めたとしても、生産労働と再生産労働との二分は揺らがない。男性が再生産労働担うため、家事を分担し、育児休暇をとったとしても、それらが市場と家庭の二項から成り立つ社会を温存している限り、抜本的な解決にはならないのだ。 たとえば、この20年の間に大きく注目を浴びるようになったのが、﹁介護労働﹂である。介護労働者は、これからの社会で必要であり重要だと認識されながら、いまだ低賃金におかれている。これは介護が、従来、家庭内で女性により行われてきた再生産労働であることに起因するという指摘がある。また、介護労働者の多くが女性である。こうして、介護労働は﹁無賃であるはずの労働﹂とみなされ、買いたたかれるのだという。 もちろん、女性がこれまで家庭内の再生産労働に従事させられ、抑圧されてきたことも問題である。だが、より大きな問題として、再生産労働を家庭の領域に限定してきた、近代社会の枠組みがあるのだ。
話を、勝間さんの記事に戻そう。勝間さんは結婚することのメリットをあげている。結婚することにより、業務が効率化されるという意見は、上で紹介したyellowbell さんの指摘に譲るとして、﹁結婚することによる人間的成長﹂について書いておく。 まず、同居について考えてみよう。nagano_haru さんが指摘するように、同居する相手は婚姻関係でなくてもいいだろう。先に引用した上野さんは、最近出した﹁おひとりさまの老後﹂で﹁女友達を作る﹂という解決策を出している。これは、フェミニズムが昔から主張する﹁シスターフッド﹂につながる関係かもしれない。男と一対一でつがうだけが、他人と暮らす方法ではない。二人でも、三人でも、そして女同士でも、ミックスでも、暮らしたい人と暮らせばいいのだ。 そして、﹁自分と違う他人と暮らす﹂という経験が、人間的成長を促すという意見にはひとまず賛同しておく。同じ空間で、他人と暮らすことの、一番のメリットは、自分の原家族を相対化できることである。多くの人は、成長過程において、一つの家族での共同生活を送る。ここで培われた生活スタイルは、自分自身でもその特殊性に気付きにくいし、変えることも難しい。他人と暮らし、指摘され、衝突し、妥協してスタイルを変えていく中で、原家族と違う生き方を作っていくことができる。お互いの癖や考えに寛容にならざるをえないことや、どうしても譲れずに大喧嘩になることもある。毎日、顔を突き合わすからこそ、細かなことも気になる。こうした経験の中で、人間的に成長していくうことができるだろう。 だが、﹁一人で暮らす﹂という経験もまた、人間的成長を促すのではないだろうか。一人きりの空間で、これから先も一人であろうことを引き受けていくという経験は、他人と暮らす経験と変わらないくらい、重みのあるものだと思う。誰かと一緒にいることでまぎれる、孤独や自分の悩みと向かい合い続けることは、人間的成長を促すのではないのだろうか。 私自身は同居人がいるので、前者の﹁他人と暮らす﹂ことの経験の良さは語ることができる。だが、後者を選んだ人たちよりも、自分のほうが成長しているとは言えない。勝間さんはなかなかずうずうしいな、と思う。独身を貫いている上野千鶴子と、二度の結婚をして離婚した勝間和代。どちらのほうが、豊かな経験をしているのか、という比較自体が︵どっちも人生の大先輩だし︶冒涜的でではないか。凡庸だが、﹁丁寧に、自分の人生を生きること﹂というような題目のほうが、結婚するよりもよっぽど人間的成長にはつながるように思う。 次に、子どもを持つことについて考えてみよう。先に述べたように、再生産労働が行われている領域が、家庭に限定されていることが、ここで問題になる。家族だけが子育てをするシステムを、問題化しなければならない。これは、家族から子どもを取り上げて育てようという主張ではない。男性が家庭と市場の往復の閉じた環境にあるように、子どももまた家庭と学校の往復という閉じた環境にいる。その閉鎖を破ることが必要だろう。 具体策として、ひとまず考えられることは、大人の生産労働の時間を減らすことである。市場と家庭、ではない﹁間﹂の場所を作らなければならない。こうした試みは、NPOなどが中心に、不登校問題での﹁居場所づくり﹂などが具現化してきた。そうした場に、積極的に関与していく﹁ぜいたく﹂を求めることが必要だ。これまで、子育て支援を求めてきたのは、家族で出産・育児を担う﹁親たち﹂であった。だが、親でないものたちが、子育てする権利を求めていってはどうか。 勝間さんは、子どもを持って初めて社会の資源に頼り、社会について考え、社会運動を始めたという。勝間さんにとって、子育てがそのきっかけになったのは良かったと思う。だが、それは必要条件ではないはずだ。子どもを持たずとも、社会に貢献していくことはできる。もし、勝間さんが子どもを持たなければ社会に貢献したいと思えなかったとすれば、それは35歳の壁ではなく、勝間さんの壁である。社会について考えるのは、子どもがいてもいなくてもできるのである。当然のことだ。
*1:http://morningmanga.com/katsuma/091105.html
*2:嫌味ならいくらでも思いつくけどね。ていうか「勝間和代の『誰でも出来る』日本支配計画」てブログタイトルもすごい。せっかくだから、外国人参政権についての記事を書いて欲しいもんだ。
*3:最近もインターネットで話題になったようだhttp://www.excite.co.jp/News/column/20090930101000/Allabout_20090930_1.html