あなたの毎月の給料から、ほんの4500円をスリランカの子供に仕送りすれば、その子は学校に行くことができ、その子の人生を劇的に変えることができるかもしれません。
あなたの貯金から、100万円をワーキングプアの方に与えれば、貧困から抜け出すチャンスをつかむかも知れません。
しかし、あなたは、そういう人たちを助けようとしない。*1 なぜですか?
自分よりも金持ちがいるから、まず金持ちからそれをすべきだから?
しかし、たとえば年収300万円の人は、世界的に見れば上位10%に入る富裕層です。*2 カンボジアの貧しい農民からみれば、まるで貴族のような暮らしです。 苦労して井戸から水をくみ上げなくても蛇口を捻れば水が出るし、薪を集めて割らなくてもガスコンロですぐに煮炊きできるし、病気になったら医者に診てもらうことができます。
これだけ贅沢な暮らしをする金持ちが、自分よりさらに金持ちがいるという理由で、貧困に苦しむ人々を救わないのは、欺瞞ではありませんか?
それに実際の所、大金持ちの多くは貧しい人々のために寄付や慈善事業をしています。 なのに小金持ちであるあなたは、なぜ自分のお金を貧しい人々に分け与えないのでしょう?
この疑問に、どう答えますか?
一つの回答を、この記事に書いてみました。 あなたの答えは、なんですか?
人は、自己犠牲教に、簡単に洗脳される
僕の父親は、典型的な自己犠牲教の信者でした。
子供の頃、父親と街に出かけると、彼はよく自分の昼飯をぬいて、昼飯代を募金箱に寄付していました。 いつでもおなかいっぱい食べられるぼくたちが、ろくにご飯を食べられない貧しい人たちのために、一食分を差し出すのはなんでもないことだと彼は言っていました。*3
子供だった私は、そんな父親の行為を、とても美しい行為だと思いました。 だから、ときどき彼のまねごとをして、駄菓子を買うのを我慢して、少ないおこずかいを募金箱に入れたりしました。 とてもいいことをしているような気分でした。
その影響で、大学生になって東南アジアの貧しい国々を旅行したときも、たいして手持ちに余裕があるわけでもないのに、よく物乞いにお金をあげました。
子供の頃のぼくは、すっかり自己犠牲教に洗脳されていたのです。
自己犠牲じゃ、たいした数の人を救えない
しかし、大人になると﹁自己犠牲による他人の救済﹂は、有名な仏法説話で、火の中に飛び込んだウサギと同じようなものだということが分かってきました。 ある寒い夜、やせ細って死にそうになった旅人が山の中をさまよっていた。その旅人を見つけたリスとタヌキとウサギが、なんとか助けようと頑張る。タヌキは薪を集めて火をおこし、リスは木の実を集めてきた。しかし、ウサギには何もすることがなかった。 ウサギは突然、﹁私の肉を食べて元気になってください。私にはこれしかできないのです﹂と叫んで火の中に飛び込む。
これは、お涙ちょうだいの感動的な話かも知れません。しかし実際には、そのうさぎは自己犠牲をしたために、たった1人の旅人しか助けられませんでした。 もしそのうさぎが自分を犠牲にせずに、美味しくて元気のでる野草や根っこをとって来る方法を後に身につけたなら、その後来る1000人の旅人の空腹を満たすことができたのではないでしょうか。
つまり、 実際には、自己犠牲を払わずに他人を助ける方が、 はるかに多くの人を助けられる のではないでしょうか。
そもそも自己犠牲と他人を助けるということは別の話です。
にもかかわらず、﹁自己犠牲をして一人の人間を助けること﹂の方が、 ﹁自己犠牲をせずに二人の人間を助けること﹂よりもはるかに崇高なことだとして語られることが、あまりにも多いのです。
人類史上最強の「人助け生産性」を誇るビジネス装置
ムハンマド・ユヌス氏は、自分の私財を貧しい人々に分け与えたから、ノーベル平和賞を受賞したわけではありません。 彼は、貧しい人々のための銀行を設立し、20〜25%という、やや高めの金利をとって、貧しい人々にお金を貸し、無担保にもかかわらず2%の貸し倒れしか起きないほど厳しい取り立てを行ったからこそ、膨大な数の貧困者を救うことができたのです。 つまり、彼は利益の上がる金貸しビジネスをやったからこそ、多くの人を救済できたのです。
ビジネスシステムというのは、それが利益を生み出す限り 無限に膨張できるという、永久機関のような性質を持っています。 だから、﹁貧者の救済﹂と﹁利益の創出﹂の二つの効果を生み出す ビジネス構造を組み立てれば、 自己犠牲によって貧困者を救う場合の何百万倍もの数の人々を 救うことが出来るわけです。
こういうビジネスシステムは、人類史上最強の貧者救出マシーンなのです。
もし、彼が単に自分のお金を貧しい人々分け与えてしまって文無しになってしまったら、それは美談として語られたかも知れません。 しかし、実際に彼が救った貧者の数百万分の1の人数しか救うことができなかったでしょう。
つまり、 人助けにおいて重要なのは、自己犠牲なんかじゃなく、 戦略と、ビジネスモデルと、効率と、生産性だ ということです。 通常のビジネスをするときに重要なことと、ほとんど変わりません。
そもそもビジネスモデルの基本はwin-winです。 関係者全員が得するような構造を組み立てることで、取引が成立し、利益が出始めます。
他人を助けるのも同じで、自分を削って分け与えるような安易な人助けは、lose-winであり、持続可能な構造が組み立てられません。 人助けをしたければ、自分も利益を得られるような﹁win-win取引﹂をするのが一番効果的なのです。
自分の体力を温存したまま、「生産性の高い人助け」をする
しかし、誰でもムハンマドユヌス氏になれるわけでもないので、もっと、ぼくたちでも気軽にできそうな例を挙げてみます。
以前、ある企業のホームページの制作を請け負っている女性が、顧客から大量の要求を押し込まれて﹁とてもこなしきれない。どうしよう。﹂と言って悩んでいました。話を聞いてみると、マネージメントや交渉が弱い人のようで、作業がカオスになっていました。デスマーチに近い状態です。 こういうとき、自己犠牲教の信者はその女性の仕事を徹夜で手伝ってやり、一緒に苦しんであげることこそが、美しく正しい行為だと考えるでしょう。それこそが﹁真の思いやり﹂のある人として、彼女の心に深い感銘を与えるのでしょう。
しかし、美しくも正しくもない薄情な私は、自己犠牲を払って、一緒に徹夜で仕事を手伝ったりなんかするつもりはありませんでした。 そのかわり、彼女に、顧客からの要求項目をリスト化させ、ToDoリストを洗い出させ、各項目の工数を見積もらせ、線表を引かせました。 それで、その線表をもとに、この線表では、とうていこなしきれない作業であることを、できるかぎり明快なロジックで顧客に説明し、交渉によって、要求のいくつかを顧客に諦めさせるための作戦を組み立ててあげました。 また、顧客からの追加要求があるときには、そのたびに線表を伸ばし、追加料金が発生する、ということを顧客に認めさせるように持っていく作戦も立てました。 ようは、このままではこのプロジェクトが破綻したり、品質が下がったり、スケジュールが遅れたりして、お互いの損になる。そもそもデスマーチで得する人は、顧客も含めて誰もいない。お互いwin-winになるには、このようにするのがよいだろう、って、そういう感じの平凡な説得ロジックで、﹁作戦﹂と言うほど大げさなものじゃなかったですが、少なくともその時の彼女はそれを必要としていたわけです。 ぼくとしては、たいした手間も時間もかけなかったけど、結果として、その女性の仕事は上手くいき、顧客も満足し、外注として使われていたその女性は顧客の会社の契約社員になりました。
こういう風に、ほとんど自己犠牲を払わずに人助けをすれば、より多くの人を、気軽に助けることができると思うのです。 自分の資産も、時間も、体力も、つねに温存したまま人助けをする方が、実際にははるかに多くの人を助けられると思うのです。
募金も、投資効果を十分に考えてやれば、何千倍もの人々の未来を変えられる
また、単にお金を与えるにしても、十分に投資効果を考えてやるべきだと思います。
たとえば、ネパールの山奥の村を尋ねたとき、 必要最小限のお金を残して、手持ちの現金のほとんどを入れてきたことがあります。 ﹁子供たちの教科書が買えなくて困っている﹂と書いてあったからです。
それは、見た目にはけっこうな札束でしたが、日本円にするとたかだか10万円くらいのものでした。 しかし、それでもネパールの山奥の子供たちにとっては、十分に意味のあるお金だとボクは考えました。 なぜなら、それによって教科書を買い、知識を得ることで、何人もの子供たちが将来よりよい職につき、よりよい人生を送ることができると思ったから。
その同じ10万円を、日本で失業中でお金が無くて困っている30代の男性にあげたとしたらどうでしょう? たしかに、彼は一時的に助かるかも知れません。 しかしそのお金は、彼の未来をそれほど劇的には変えないと思うのです。
だから、ぼくはそういうことはしません。 そんなお金があったら、東南アジアの貧しい孤児院や学校に寄付します。 実際、将来お金持ちになったら、東南アジアの貧しい地域に孤児院や学校を作ろうとか、わりと真剣に考えてたりします。 子供には、未来がたくさん詰まっているから。*4
これは、残酷なようですが、災害時におけるトリアージと同じです。 個人の与えられるリソースによって救える人など、ごくわずかでしかありません。 だから、そのリソースによって助かる人を優先して助ける。 これは、裏を返せば、手当を施してもあまり効果のなさそうな人を放置する、ということでもあります。 ぼくの手に負えない人は、ボク以外の誰か、もしくは、政府にでも助けてもらうしかありません。
生物学的な起源
京都大学の人類進化学教授の西田利貞氏が著作﹁人間性はどこから来たか﹂で議論しているような進化心理学的アプローチで考えるなら、人が﹁自己犠牲を伴うような人助け﹂を尊いと思う心理構造は、狩猟採取の時代に形成されたのではないかとも思えます。
狩猟採取の時代には、環境から取れる果物などのリソースは限られており、人助けするには、 ●自分の持っている食料を他人に分け与える ●自分の身を犠牲にして、外敵から他人を守る というような方法しかなく、いずれにしても、自己犠牲を伴わずに他人を助けることなどろくにできませんでした。
むしろ、自己犠牲の量が大きいほど、他人に与える恩恵も大きいというような、シンプルな関係にあったのではないでしょうか。 これにより、﹁自己犠牲による人助けが尊い﹂という感性が形成されたのではないかと考えることもできるのではないでしょうか。
しかし現在、われわれはアフリカの森の中に住んでいるわけでも、南シベリアでマンモスを追いかけながら暮らしているわけでもありません。とてつもなく高度に発達した文明の中で暮らすわれわれの場合、自己犠牲と人助けは、必ずしも一対一で対応しないどころか、むしろ自己犠牲をしない方がより多くの人を助けられるような、そんな別のゲームの中に生きているのです。
だから、自己犠牲を伴わない人助けは、直感的に、たいして尊いことのように感じられないのは当然ですが、だからと言って、いつまでもその本能に引きずられて人助けをすると、現代日本においては、単なる独り善がりになってしまうことが多いと思うのです。
「自分の富をふやす過程」と「その富を他者に分け与える過程」の二つの過程で他者を助ける
﹁他人から搾取することで蓄積した富﹂で人助けをするのでは、それはサトウキビが吸収したCO2を、バイオエタノールカーが燃焼させて進むようなもので、富の搾取と分配の収支はゼロになってしまいます。つまり、人助けになってません。
従って、他人を搾取するのではなく、あくまで関係者全員がwin-winになり、世界全体の富の総量が増えるように、ブルーオーシャンで新商品や新サービスを開発し、提供することで、自分の富を殖やしていくべき
そうすることで、自分の富を増やす過程で、価値を創造し、多くの消費者に価値を分け与え、多くの良質な雇用を創出して人々に分け与え、多くの利益を生み出すことで多くの税金を払って、福祉を通じて、多くの貧困者を救うことができます。
そうやって築き上げた富が、やがて自分1人では使い切れないほどになったら、それを使って困っている人を助ける、という別のフェーズへ移行することができます。 実際、そういう二つのフェーズをたどる起業家はたくさんいるようです。
ネット空間における人助け
おなかを空かしている人には、魚を与えるよりも、魚の釣り方を教えた方がいいと、よく言われます。 なので、ネットでは ﹁こういう風にすれば、自分で魚が釣れるよ﹂ ﹁実際に、魚はたくさんいるよ。自分で釣ろうという意思を持って望めば魚は釣れるよ。﹂ という記事がよく書かれます。
こういうネット記事の良い点は、ある人がその記事を使って助かったとしても、その記事は少しも減らないということです。 食べても食べても無限に元通りになる魔法のパイみたいなもので、限られたリソースを他人と奪い合わなくてもよいのです。
もちろん、こういう記事は、全ての人に役に立つわけじゃありません。 記事にもよりますが、良記事の場合、だいたい、2・6・2の法則が働く感じをイメージするのがいいですかね。
上位2割の人は、既に魚の釣り方を知っている人たちなので、この記事を読んでも役に立たない。 下位2割の人は、魚の釣り方を教えてもらっても、釣れるようにならないので、やはり役に立たない。 その中間にいる6割の人は、程度の差はあれ、そういう記事が役に立つ部分がある。
魚の釣り方を教えてもらっても魚が釣れるようにならない2割の人には、たとえば次のような人がいます。 ●日々の労働に疲れ果て、創意工夫によって現状を切り抜けるというところまで頭が回らない人。こういう人は、魚の釣り方を教えてもらっても、事態を改善するための余力がないので、生活は改善されません。 ●争いごとが心の底から大嫌いで、たとえ建設的な争い(交渉)であっても、それをすることができない人。交渉によって勝ち取るという行為自体が、醜悪な行為だという価値観を持っているため、交渉によって相手の取り分と自分の取り分をきちんと調整することができない人。こういう人に、交渉によって相手とwin-winの関係を築き、自分の取り分を確保しろ、と言っても、価値観が違うので、それが受け入れられることはありません。だから、魚の釣りを教えても無駄です。 ●性根まで徹底的に腐りきった邪悪な社員が大勢いるブラック会社にいて、win-win関係を築くどころか、建設的な交渉の余地がまるでなく、かつ、病気の親を抱えているなどの理由で、収入を途切れさせるわけにいかず、そこから脱出できない状態にある人。 ●自分の住んでいる地域の経済状態が最悪で、ろくな雇用にありつけない人。しかも、病気の親を抱えている上に、引っ越し費用もないので、その地方を脱出できない人。 ●鬱状態になっていて、自力で事態を改善する気力がまるで湧かない人。 ●かなり高齢になってしまって、気力・体力ともに衰え、いまから人生をやり直すのが困難な人。 ●生まれつき軽度の精神障害や知的障害を持っているため、自力で食い扶持を得るのが困難な人。 ●子供の頃から、悪いことが起きるとなんでも人のせいにして育ってきたので、会社で悪いことが起こったとしても、自分で事態を解決する、という発想には決してならない人。 ●上記の要因が、少しずつ重なり、複雑に絡み合った結果、魚の釣り方を教えてもらってもどうしょうもない状態の人 ●もちろん、日本に限定せず、対象を拡大すれば、もっといろいろ出てきます(あまり拡大すると、2割どころではなくなりますが)。たとえば、貧しくて学校教育を受けられず、文盲の人(主に日本国外の貧困国の人たち)に、ネットには無尽蔵のリソースがある、と言ってもまず役に立ちません。 ●ほかにもまだまだいろんなタイプの人がいるでしょう
﹁魚の釣り方﹂記事を書く人間の多くが、こういう2割の人たちがいるということが分からないほど世間知らずではないことは、彼らのブログの過去ログを読めば、感覚的に分かります。 このことから、そういう﹁魚の釣り方﹂記事を書く人間は、その2割ではなく、その記事が役に立つかも知れない6割の人間に向けて書いている、ということが分かるわけです。
そして、その2割の、どうやっても魚を釣れない人に必要なのは、魚の釣り方ではありませんから、その2割の人たちに関する提案やライフハックや考察は、別記事として、ベーシックインカム
ただ、これはあまり理解されないようで、結局の所、ネット空間で魚の釣り方を教えるという試みは、たくさんの偏見に覆われてしまい、そういう記事はあまり書かれなくなり、本来ならそれによって助かったはずの人に届かないままになってしまうような気がします。
また、もう一つの、そしてより深刻な問題は、そもそも、本当に魚の釣り方を必要としている人の多くは、そもそもネットにアクセスしない、ということです。
こういう構造があるため、ネットで魚の釣り方を知らせる記事を書くことで人助けをする、というのは、あまり効果をあげないかもしれません。
一方で、ネットで気軽に募金したり、ネットで募金先の情報を得たり、そういうボランティアサークルのSNSに加入したりと、そういう方面の可能性は大きいのではないかと思います。
おわりに
結局、効果的な人助けをやるには、何よりもまず、自分を強くすることだと思います。 より多くのスキル、人脈、資産を蓄積し、どんどん成長することです。 それも、パイの食い合いをするのではなく、みんなが豊かになるようなwin-winのビジネスモデルによって。
いまの手持ちの100万円をそのまま他人にあげてしまえば、 1人しか助けられません。 しかし、その100万円を1000万円に殖やし、 それを利回り10%で運用すれば 毎年1人ずつ助けられるようになります。 1000万円を1億円に殖やしてからなら、毎年10人ずつ助けられます。 1億円を10億円に殖やしてからなら、毎年100人ずつ助けられます。
スキルも同じです。 いまあるしょぼいスキルのまま、たくさんの時間を使って人を助けても、ごく限られた数の人しか助けられません。 いまよりもはるかに強力なスキルを身につけてから人助けをすれば、いつでも気軽に、頻繁に人助けをすることができます。
自己犠牲などして、自分を減らして人助けをするよりも、自分の力を温存し、むしろどんどん膨張させながら人助けをした方が、はるかに多くの人を助けられるのです。
もし、ハーバード大学にいたビルゲイツがマイクロソフトを作らずに、NPOでボランティア活動をする人生を選んだなら、これから彼に救われるであろう何千万人もの人々には、救いの手がさしのべられることもないまま暗く悲惨な人生を送ることになったかもしれません。
ここで興味深いのは、ビルゲイツ個人がどのようにしてその財を築いたか、ということです。昔のビルゲイツはやたらと独占にこだわっていたようです。実際、えげつないやり口のビジネスをたくさんやってきました。無理矢理買収攻勢をかけて、買うことが出来ないとなると、莫大な資金を投入して対抗製品を作り上げて、悪名高いembrace and extend戦略などのこすっからい仕掛けでシェアを奪い取り、相手を潰す。そうやって、無数の会社がマイクロソフトに吸収されたり、潰されたりしてきました。
しかし、そうまでして資産を築いても、結局、彼はその数%しか自分のために使っていません。そもそも、個人が使えるような額ではなくなってしまっているのです。 自分で使い切れない資産を持ったら、あとは他人のために使うしかない、というわけです。
実際、アジア通貨危機の﹁戦犯﹂とまで言われた妖怪ジョージ・ソロスも、結局、莫大な私財を慈善事業に投入しています。 金の亡者と叩かれまくった村上ファンドの村上さんも、結局、NPOに多額の寄付をしています。 ホリエモンや村上さんと戦った側のSBIの北尾さんも、恵まれない子供たちへの支援を行っています。
このように、世間から金の亡者と非難されているような人たちですら、現実には、膨大な私財を投じて慈善事業を行っているのです。
結局の所、多くの人は、十分に自分に価値を蓄えれば、やがて自分の中から価値があふれ出し、他人に分け与えられずにはいられなくなるのです。 コミュニケーション能力をウリにする人が醜悪な理由
ただし、この﹁起業によって個人では消費しきれないほどの富を創出することによって、多くの人助けをする﹂というのは、一つのモデルにしかすぎません。 しかも、俗に千三つと言われるように、このモデルを目指した人のうち、実際にそれほどの財を築くのは、1000人中3人という感じの確率です。 しかし、多くの偶然と、実力と、そのときの市場の状況など、複雑な要因が絡み合うので、現時点では誰がその3人になるかは分かりません。 だから、その3人を生み出すために、残りの997人の挑戦と挫折が必要不可欠なのです。起業による価値創造とは、本質的に多産多死のモデルなのです。 その意味で、3人の巨大な慈善家と同じぐらい、残りの997人の敗北者は、他者の救出に寄与しているとも言えるのです。
もちろん、だれもが、この997人のうちの1人になる覚悟をもって残り3人になることを目指さなければならないわけではありません。 とてもじゃないが、そんな無謀な挑戦をする気にはなれない、という人の方が、世の中の大半でしょう。 だから、これはたくさんある答えの一つにしか過ぎません。
しかし、それでも﹁今後の自分の人生でどうやって人助けをするか﹂という問いは残ります。 この問いに対する答えは、それぞれの人が、それぞれの価値観に基づいて、出さなければなりません。
その中には、﹁やはり自己犠牲なしに他人を助けるのは難しいから、私のモデルでは、自己犠牲は必要だ﹂という結論になるケースもあるでしょう。だから、一概に全ての自己犠牲が悪い、ということにはなりません。
そして、ここから先は、ぼくが口を出すようなところではありません。 あとは、あなたが自分で考えて、自分で答えなければならないことです。
あなたの答えは、何ですか?
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その子と手紙のやりとりもできます。プレゼントを贈ることも出来ます。その子に会いに行くことも出来ます!
支援金は、税金の寄付金控除の対象となりますから、確定申告すれば、寄付金の何割かは税務署から還付されます!
*1:すでにした人、すでにしようとしている人は、この記事の対象外です。
*2:自分のお金を貧困者に配ることを前提とするとき、為替レートが重大な意味を持つ。かりに、年収10万円のアフリカ人が購買力平価で日本人よりも豊かだったとしても、彼らはスリランカの貧しい子供に月々4500円を仕送りすることは極めて困難。購買力平価ではより貧しい年収300万円の日本人の方が、はるかにたやすく月4500円をスリランカの子供に仕送りできる。
*3:彼は宗教が大好きで、ボクの実家には、仏教やキリスト教の本がけっこうある。そもそも、ぼくはキリスト教系の幼稚園に行かされ、毎日神様の言葉を唱えて育った。食事の前には、天にまします我らの神よ云々と、神様といろんなものに感謝の言葉を述べてから、アーメンして食べ始めた。父親が定年退職後に教会を作りたいと言い出して、家族が困ったこともある。
*4:当然、そこでは、自分の力で自分の未来を切り開けるような子供に育てるつもり。