Kindle版もあります。
大学を中退し、夜の街で客引きのバイトをしている優斗。ある日、バイト中にはなしかけてきた大阪弁の女は、中学時代に死んだはずの同級生の名を名乗った。過去の記憶と目の前の女の話に戸惑う優斗はーー﹁違う羽の鳥﹂ 調理師の職を失った恭一は家に籠もりがちで、働く妻の態度も心なしか冷たい。ある日、小一の息子・隼が遊びから帰ってくると、聖徳太子の描かれた旧一万円札を持っていた。近隣の一軒家に住む老人からもらったという。隼からそれを奪い、たばこを買うのに使ってしまった恭一は、翌日得意の澄まし汁を作って老人宅を訪れるがーー﹁特別縁故者﹂ 先の見えない禍にのまれた人生は、思いもよらない場所に辿り着く。 稀代のストーリーテラーによる心揺さぶる全6話。
第171回直木賞受賞作。 近年の直木賞受賞作は、けっこう分厚い﹁大作﹂が多くて、僕自身は、積み本にしてしまっているものばかりなのです。 ︵そういえば、万城目学さんの﹃八月の御所グラウンド﹄は、ものすごく読みやすかった︶ fujipon.hatenadiary.com
この﹃ツミデミック﹄は、受賞決定数日後に近所のTSUTAYAに1冊だけあったのを見つけて、1日で読み終えてしまいました。 数年にわたる、COVID-19、新型コロナウイルスのパンデミックで、人生が変わってしまった人は、大勢いるはずです。 直接ウイルスに感染して命を落とした、という人はそんなに大勢ではなかったかもしれません。 実際にかかっても、そんなに大事には至らなかったけれど、人生で最長クラスの休みを取ることになってしまった人もいれば、﹁ずっと自宅にいる﹂ことで、子供たちは授業がオンラインになったり、修学旅行に行けなくなったり。同級生の顔をマスクが外れて、ようやく見ることができた、なんて話もありました。 大人にとっても、これまで﹁接する時間が限られていたからこそ、なんとか均衡を保てていた人間関係が、ステイホームによって破綻してしまったり、サービス業では仕事を失ったり、逆に﹁出社しなくても家で仕事ができる﹂ことがわかったり。 新型コロナウイルスのワクチンについての風評は、いまだに世界を覆っています。 通り過ぎつつある脅威︵とか書きながら、最近はまた感染者数が増えていて、予断を許さない情勢になってきているのですが︶に対しては、﹁あそこまでの警戒をする必要があったのか?﹂とか、﹁あの﹁自粛警察﹂とは一体なんだったのだろうか?﹂と冷静に振り返ることができるのですが、嵐の最中は、みんな本気で﹁自粛﹂していたのです。僕や家族も﹁医療関係者﹂というだけで、頼んでもいないのに拍手されたり、子どもの同級生の親から敬遠されたりしていました。 太平洋戦争中の日本国民の﹁非国民﹂への反応は、後世から振り返ると、﹁あの時代の人たちは、なんであんなことをやっていたんだ?﹂と思わずにはいられないのですが、コロナ禍での同調圧力を思うと、﹁どんなにAIが進化しても、危機を感じた時の人間の行動パターンは、1940年代も2024年もそんなに変わらない﹂のでしょう。 かなり余談が長くなってしまったのですが、この﹃ツミデミック﹄の登場人物、主人公は、コロナ禍で家庭生活にストレスを感じたり、仕事を失ったりして、人生を微妙に踏み外してしまった﹁どこにでもいる程度に愚かな、普通の人々﹂です。 なんかもう、悪意のかたまり、みたいな人物もいるのですが、そういう人も含めて、新型コロナ禍による閉塞感がなければ、そんな悪意を自分のなかに見出すことはなかったのではないか、とも思うのです。 いや、自分はコロナ禍でも、そんなに困らなかった、心が弱いから、だらしないから、そんなことになるんだ、などと、インドア野郎の僕は少し思ったのですが、あらためて考えてみたら、コロナの影響で失った、変わってしまった人間関係はたくさんあるし、職場の病院でも、たくさんの人が辞めていきました。 ﹁仕事に困らないだけマシ﹂と﹁リスクを押し付けられて批判され、敬遠される﹂という理不尽のあいだを、行ったり来たり。 この﹃ツミデミック﹄という短編集自体は、﹁大傑作!﹂というものではないと思います。 これが直木賞受賞作になったのも、浅田次郎さんが﹃蒼穹の昴﹄という大傑作で受賞できず、後年﹃鉄道員﹄という佳作︵ただ、この作品の映画は好きです。高倉健さんと広末涼子さんは、いま見てもなんだか泣きそうになってしまう︶で受賞したときのような﹁一歩遅い感、それじゃない感﹂はあるんですよ。 ただ、東日本大震災から何年かたって、﹁震災文学﹂と言われるような作品が出てきたのと同じように、﹁新型コロナウイルスによる、目に見えない脅威、むしろそれを受け止める人間側の狂騒が浮き彫りにされた、パンデミックの時代﹂もまた、われわれの歴史として、こうして﹁小説﹂になっていくのだな、という感慨はすごくありました。 読みやすくて、他者の善意と悪意に、少し癒されたり、怖くなったり。 小さな他者への悪意が積み重なっていくような後味の悪い作品もあれば、ちょっと良い話っぽく着地する話もあり、都市伝説っぽい、ある意味投げっぱなしのエピソードもあり。 6つの短編を読んでいると、球種が多くてコントロールが良いピッチャーを見ているような気分になってきます。 確執というには大げさな妻と母の距離感について娘に話したことはなかったが、ここまで察しているのなら隠す必要もないだろう。達郎は﹁ちょっとした行き違いだと思う﹂と打ち明けた。﹁ママの実家は遠いから、お前が生まれた後、おばあちゃんが手伝いに通ってくれてたんだよ。でも、産前産後って何かとナーバスになるみたいで、おばあちゃんのちょっとした言動に引っかかっちゃってなあ﹂ ﹁ちょっとしたって、たとえば?﹂ ﹁うーん……覚えてるのは、ママが﹃母乳の出が悪い﹄ってこぼしたら﹃あら、困ったわねえ﹄って相槌を打たれたのがいやだったんだって﹂ ﹁え、駄目なの?﹂ ﹁﹃粉ミルクでも発達は変わらないから大丈夫よ﹄って言ってほしかったらしい﹂ ﹁え〜? 察してちゃんすぎる!﹂ ﹁おばあちゃんが保育士なのも、却ってママのプレッシャーになったんだろうな﹂
あ、ああ……なんかいろいろ思い出すことがあって僕もつらくなってきました…… 著者のこういう言葉を拾い上げるセンスには脱帽です。 インターネット社会では、こういうやりとりの﹁正解﹂を出したがる人がいて、正解できない人は誠意がない、優しくない、そんな人とは別れたほうがいい、とか、どんどん話を悪い方にエスカレートさせてしまう。 ﹁そんなのおかしい﹂と言っている子どもも、大人になると、なぜか﹁察してちゃん﹂になってしまう。 眞鍋かをりさんの﹁ネット上のネガティブな書き込みは﹃見たら負け﹄﹂というのは、インターネット有史以来の真理なのだと思います。法的措置をとったとしても、こちらが受けるダメージほど、相手を傷つけることはできないし。 少しダークな物語とともに、自分にとっての新型コロナの時代について、思いを馳せずにはいられなくなる、そんな短編集です。 あれがなければ、もう少し、いろんなことがマシだったのかもしれない。 それでも、あんな﹁普通じゃない時期﹂を、こうして生き抜いてきたのは、実は、すごいことだったのではなかろうか。