『ONE PIECE』における正義と信念の問題
宇野常寛﹃ゼロ年代の想像力﹄︵早川書房、2008年︶を読んで私が感じた最大の不満は、同著が90年代後半以降のサブカルチャー作品を多数採り上げ、漫画﹃DEATH NOTE﹄を新時代の﹁決断主義﹂を象徴的に描いた作品として詳しく取り扱いながら、同時期に漫画界のトップランナーであり続けた作品であり、﹃DEATH NOTE﹄と同じ﹃週刊少年ジャンプ﹄に連載されている﹃ONE PIECE﹄への言及を全くと言っていいほど含んでいないことであった。
当ブログではこれまで﹃DEATH NOTE﹄と﹃20世紀少年﹄を採り上げ、ともに正義にまつわる問題との関連で論じたことがある。両作品を比すと、前者よりも後者の方が思想的な重要性が大きく、内容もより複雑であったが、﹃ONE PIECE﹄は内容において両作品よりも遥かに明快でありながら、思想的には最も尖鋭な領域にまで踏み込んでおり、三作の中で最重要の作品と言っていい。
それにもかかわらず、同作が思想や批評の文脈で重要な作品として位置付けられているようだとの話は、てんで聞かない。複雑な対象を取り扱うことが知的水準の高さを示すわけではないことが常識だとすれば、これは不思議な事態である。同作が架空の世界を舞台とする冒険活劇であって、他の二作品と比べてとりわけ年少者からの支持が厚いことなどから、内容が幼稚であると誤認しているのでもなければ、おそらくは単純に重要性への理解が足りていないということなのであろう。確かに微妙な仕分けが必要とされる部分もあるので、少々説明が要るようだ。
主人公である海賊ルフィと対立する﹁海軍本部﹂の将校たちが軒並み﹁正義﹂と大書されたマントを羽織っているように、﹃ONE PIECE﹄には序盤から一貫して﹁正義﹂の語が頻出する。だが、海軍が掲げる﹁正義﹂は、決して揺るぎの無いものではない。同作では海兵の真っ直ぐな正義感が無法な海賊によって踏みにじられる場面が繰り返し描かれる一方、海軍組織の最上部に位置する三人の﹁大将﹂は同時に海軍の﹁最高戦力﹂であるとされており、作品中の﹁正義﹂が力によって成り立ち、支えられているのだという現実が明確に示されている。 また、海軍が掲げる﹁正義﹂自体も、既存の秩序に対して不都合であったり危険であったりする人物や集団は組織的に虐殺することを厭わない一面を伴っており、そのことを知る将校たちの中には、組織が掲げるそれとは別に、独自の﹁正義﹂を行動原理とする者もいる*1。そのように個々独自に解釈された﹁正義﹂は、その名よりも﹁信念﹂と呼ばれるものの方に似てくるが、しかしなお﹁正義﹂として掲げられる限り、一般的な不偏性︵普遍化可能性︶――いついかなる時もどんな相手に対しても条件が同じならば同じ規範が適用されなければならない――が要求される点で、それは信念とは区別されなければならない。一人の海兵がある海賊を見逃し、別の海賊は斬り捨てたとすれば、海兵は自らの判断が一般的に正当であったこと――あらゆるケースに適用されるべき規範的観点からして無視できない不等性が二人の海賊の間に認められたこと――を明確な根拠に基づいて弁証する責務を負うのである*2。 現時点では詳細不明ながら、作中には﹁世界政府﹂に対する﹁革命軍﹂も存在しており、多数の﹁正義﹂秩序が支配的地位を巡って力で競い合っているその世界像は、かつて論じた﹃DEATH NOTE﹄と変わらない。現に親政府的な海賊ドフラミンゴは、海軍本部と白ひげ海賊団が全面衝突した戦闘中、﹁海賊=悪、海軍=正義﹂とする見方を嘲笑し、﹁頂点に立つ者が善悪を塗り替える﹂のだと言い放つ。そして﹁正義は勝つって!?そりゃあそうだろ﹂、﹁勝者だけが正義だ!!!!﹂と高らかに謳い、キラ≒L同様の相対主義的価値観を顕わにする。この限りにおいては、﹃ONE PIECE﹄と﹃DEATH NOTE﹄の正義観は同列である。
しかしながら、これはあくまでもドフラミンゴの見解であり、作中世界に流れる通奏低音ではあっても、ルフィの主張や作品全体のメッセージであるわけではない。﹁勝者だけが正義﹂であることの暴露に自足した﹃DEATH NOTE﹄に比して﹃ONE PIECE﹄が優れているのは、自らの足場をドフラミンゴ式の相対主義などには置かない主人公の言動を通じて、相対主義的世界像を基調にしながら相対主義の向こう側の景色を描くことに成功している点である。 名だたる海賊や凶悪犯が収容されている大監獄の副署長を務めるハンニャバルは、囚われた兄エースを救出するために侵入したルフィと対峙して、血だらけにされながらも何度も立ち上がり、使命感に満ちた啖呵を切る。曰く、海賊や謀反人のような﹁社会のゴミ﹂が﹁海へ出て存在するだけで﹂、﹁庶民は愛する者を失う恐怖で夜も眠れない!!!﹂。この監獄が破られては﹁この世は恐怖のドン底﹂になってしまうから、逃がすわけにはいかないのだ、と。誰もが一定の説得力を感じるであろう﹁正論﹂であるが、これに対してルフィは、﹁おれはエースの命が大事だ﹂から﹁どけ﹂、とシンプルで明快な答えを返すのみである。 このシーンに集約されているように、ルフィの行動は端的な﹁ワガママ﹂と見られて当然のものが多く、一般的に見て決して﹁正しい﹂ものではない。本人もそれを自覚しているように、彼はあくまでも海の無法者の一人でしかなく、信念を語ることはあっても、正義を掲げることはない。信念は規範ではない。それは行動に一定の一貫性を与えるものではあっても、規範に要求されるのと同水準の不偏性を伴うものではない。彼は欲しい物を欲しいと言い、嫌なことを嫌だと言うだけで、決して一般的な規範に従っているわけではない。自分なりの﹁正義﹂を掲げているわけではないのだ。その意味で、彼は﹃20世紀少年﹄のケンヂ︵あるいはクザン、スモーカー、たしぎ︶のような﹁正義の味方﹂ではない。
ルフィは自らの﹁正しさ﹂を主張しないし、概ね感情的に行動する。だが、読者は彼の言動に共感し、魅了される。それは、彼の振る舞いに迷いが無く、決して揺るがない圧倒的な意志に基づいているからである。伝説の大秘宝を手にして﹁海賊王﹂になるという夢への情熱をはじめ、仲間や友達・家族・恩人を大切に思う心と彼らを傷つけた者への怒り、他人の信念への尊重など、ルフィを突き動かしている行動原理の一つ一つに、読者は説得されてしまう。それが一般的には﹁正しい﹂と言えない行動であるとしても、彼の途方も無い意志に﹁ただしさ﹂を感じてしまうのである。 そのような﹁ただしさ﹂の発現は、﹃DEATH NOTE﹄には見出せないものである。誰もがキラやLの掲げる﹁正義﹂の中身――意思――に賛同したり反対したりすることはあっても、彼らの意志そのものに魅力を感じることは無かっただろう*3。彼らは有り体の﹁正義﹂観念に身を寄せているだけ相対的でしかないが、ルフィは自らの信念を頼りにするだけのエゴイストであるからこそ、絶対的で有り得るのである。﹃ONE PIECE﹄の重要性は、この作品が10年以上に渡って爆発的な人気を勝ち得ており、更には世界各国でも熱い支持を得ていることによって、無数の人々がルフィの﹁ただしさ﹂に魅せられ、説得されてしまっていることを実証している点にある*4。つまり﹃ONE PIECE﹄は、﹁この漫画が間違いなく面白いんだ﹂という作者・作品の圧倒的な意志――﹁ただしさ﹂――によって、その﹁正しさ﹂を現に説得せしめている実例なのである。
主人公である海賊ルフィと対立する﹁海軍本部﹂の将校たちが軒並み﹁正義﹂と大書されたマントを羽織っているように、﹃ONE PIECE﹄には序盤から一貫して﹁正義﹂の語が頻出する。だが、海軍が掲げる﹁正義﹂は、決して揺るぎの無いものではない。同作では海兵の真っ直ぐな正義感が無法な海賊によって踏みにじられる場面が繰り返し描かれる一方、海軍組織の最上部に位置する三人の﹁大将﹂は同時に海軍の﹁最高戦力﹂であるとされており、作品中の﹁正義﹂が力によって成り立ち、支えられているのだという現実が明確に示されている。 また、海軍が掲げる﹁正義﹂自体も、既存の秩序に対して不都合であったり危険であったりする人物や集団は組織的に虐殺することを厭わない一面を伴っており、そのことを知る将校たちの中には、組織が掲げるそれとは別に、独自の﹁正義﹂を行動原理とする者もいる*1。そのように個々独自に解釈された﹁正義﹂は、その名よりも﹁信念﹂と呼ばれるものの方に似てくるが、しかしなお﹁正義﹂として掲げられる限り、一般的な不偏性︵普遍化可能性︶――いついかなる時もどんな相手に対しても条件が同じならば同じ規範が適用されなければならない――が要求される点で、それは信念とは区別されなければならない。一人の海兵がある海賊を見逃し、別の海賊は斬り捨てたとすれば、海兵は自らの判断が一般的に正当であったこと――あらゆるケースに適用されるべき規範的観点からして無視できない不等性が二人の海賊の間に認められたこと――を明確な根拠に基づいて弁証する責務を負うのである*2。 現時点では詳細不明ながら、作中には﹁世界政府﹂に対する﹁革命軍﹂も存在しており、多数の﹁正義﹂秩序が支配的地位を巡って力で競い合っているその世界像は、かつて論じた﹃DEATH NOTE﹄と変わらない。現に親政府的な海賊ドフラミンゴは、海軍本部と白ひげ海賊団が全面衝突した戦闘中、﹁海賊=悪、海軍=正義﹂とする見方を嘲笑し、﹁頂点に立つ者が善悪を塗り替える﹂のだと言い放つ。そして﹁正義は勝つって!?そりゃあそうだろ﹂、﹁勝者だけが正義だ!!!!﹂と高らかに謳い、キラ≒L同様の相対主義的価値観を顕わにする。この限りにおいては、﹃ONE PIECE﹄と﹃DEATH NOTE﹄の正義観は同列である。
しかしながら、これはあくまでもドフラミンゴの見解であり、作中世界に流れる通奏低音ではあっても、ルフィの主張や作品全体のメッセージであるわけではない。﹁勝者だけが正義﹂であることの暴露に自足した﹃DEATH NOTE﹄に比して﹃ONE PIECE﹄が優れているのは、自らの足場をドフラミンゴ式の相対主義などには置かない主人公の言動を通じて、相対主義的世界像を基調にしながら相対主義の向こう側の景色を描くことに成功している点である。 名だたる海賊や凶悪犯が収容されている大監獄の副署長を務めるハンニャバルは、囚われた兄エースを救出するために侵入したルフィと対峙して、血だらけにされながらも何度も立ち上がり、使命感に満ちた啖呵を切る。曰く、海賊や謀反人のような﹁社会のゴミ﹂が﹁海へ出て存在するだけで﹂、﹁庶民は愛する者を失う恐怖で夜も眠れない!!!﹂。この監獄が破られては﹁この世は恐怖のドン底﹂になってしまうから、逃がすわけにはいかないのだ、と。誰もが一定の説得力を感じるであろう﹁正論﹂であるが、これに対してルフィは、﹁おれはエースの命が大事だ﹂から﹁どけ﹂、とシンプルで明快な答えを返すのみである。 このシーンに集約されているように、ルフィの行動は端的な﹁ワガママ﹂と見られて当然のものが多く、一般的に見て決して﹁正しい﹂ものではない。本人もそれを自覚しているように、彼はあくまでも海の無法者の一人でしかなく、信念を語ることはあっても、正義を掲げることはない。信念は規範ではない。それは行動に一定の一貫性を与えるものではあっても、規範に要求されるのと同水準の不偏性を伴うものではない。彼は欲しい物を欲しいと言い、嫌なことを嫌だと言うだけで、決して一般的な規範に従っているわけではない。自分なりの﹁正義﹂を掲げているわけではないのだ。その意味で、彼は﹃20世紀少年﹄のケンヂ︵あるいはクザン、スモーカー、たしぎ︶のような﹁正義の味方﹂ではない。
ルフィは自らの﹁正しさ﹂を主張しないし、概ね感情的に行動する。だが、読者は彼の言動に共感し、魅了される。それは、彼の振る舞いに迷いが無く、決して揺るがない圧倒的な意志に基づいているからである。伝説の大秘宝を手にして﹁海賊王﹂になるという夢への情熱をはじめ、仲間や友達・家族・恩人を大切に思う心と彼らを傷つけた者への怒り、他人の信念への尊重など、ルフィを突き動かしている行動原理の一つ一つに、読者は説得されてしまう。それが一般的には﹁正しい﹂と言えない行動であるとしても、彼の途方も無い意志に﹁ただしさ﹂を感じてしまうのである。 そのような﹁ただしさ﹂の発現は、﹃DEATH NOTE﹄には見出せないものである。誰もがキラやLの掲げる﹁正義﹂の中身――意思――に賛同したり反対したりすることはあっても、彼らの意志そのものに魅力を感じることは無かっただろう*3。彼らは有り体の﹁正義﹂観念に身を寄せているだけ相対的でしかないが、ルフィは自らの信念を頼りにするだけのエゴイストであるからこそ、絶対的で有り得るのである。﹃ONE PIECE﹄の重要性は、この作品が10年以上に渡って爆発的な人気を勝ち得ており、更には世界各国でも熱い支持を得ていることによって、無数の人々がルフィの﹁ただしさ﹂に魅せられ、説得されてしまっていることを実証している点にある*4。つまり﹃ONE PIECE﹄は、﹁この漫画が間違いなく面白いんだ﹂という作者・作品の圧倒的な意志――﹁ただしさ﹂――によって、その﹁正しさ﹂を現に説得せしめている実例なのである。
- 参考
- 「正しいのはオレだ」(2009年5月3日)
- 作者: 尾田栄一郎
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 1997/12/24
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