左派ってこれからどうするのか
選挙の前後に﹁左派︵左翼︶のこれから﹂についていろいろツイートしていた。ちょっといじったら一つの文章になりそうだったので、まとめ。
8−90年代の個人主義︵というか、反集団主義︶的なムーブメントが共同体主義をへて排外的なナショナリズムにつながっていく流れっていうのは、00年代の前半には見えてきていたかな、と思う︵このへんは、たとえば薬害エイズと拉致事件の言説分析などをやると面白い。同じフォーマットが左翼的な主張から右翼的な主張に転用される様子が実によくわかる︶。 こういう思考の特徴というのは﹁自己への愛﹂がそのまま﹁国家︵世界を包含する共同体︶への愛﹂につながっていることで、その先駆的で極端な形のとしてのオウムから﹁量産型﹂としてのセカイ系、ややマイルドなあり方としてのJリーグまで、色々な形がある。そこで問題なのは、対話が存在しないことだ。﹁敵﹂と話し合わないのはもちろんだが、﹁仲間﹂だってたまたま立場が同じだから隣に立っているだけで、理解や調整はない。立場が異なればもちろん容赦なく敵認定されるだけだ︵このへんはネットとか在特会とかみるとよくわかる。もちろん、これは70年代以来の左翼の行動様式でもある︶。 これは﹁若い奴がわるい﹂という話ではない。自立した個人が無媒介に連帯する、というのは誠に魅力的な枠組みだ。排除されてしまう人がいるなら問題だが、そこを克服できればOKではないか。僕自身もそういうものに期待をかけていた時期はある。たとえば福祉とか環境とかいったものを﹁共通する利害の基盤﹂として期待したのだが、3.11がそういうものを徹底的に打ち砕いてくれた。人は環境問題を挟んですら対立できるし、生活の基盤や場所ということを考えるとそこにも利害がからむのだ︵福祉がダメなのは世代間対立でわかった︶。 要するに90年代型のあれはもうだめなのだ。僕らはもっと別な方法を考えなければならない。 しかし、だからといって集団主義に戻ることももちろんできまい。僕は二つの方向性があると思っている。一つは、比較的小規模なコミュニティ。たとえば生協や直販のような、持続的な関係が維持できる形だ。もう一つは個人的なつながり。こういうものを幾つも持って、柔軟に使い分けていくというのがベストなのではないか。 いずれにしても、社会を﹁コインを放り込んだらすぐに結果が出てくる自販機﹂のように見なすやり方には限界があるし、僕らはすでにそれを辞めつつあると思う。たとえば、ツイッターを通じて。次の課題は、これを社会全体に広げていくことだ。 これだけの人数がいて、しかもSNSでつながっているのだから、﹁我々︵つまり高学歴の左派ってことだ︶が政治勢力になってしまう﹂ということは考える価値があるのではないかと思う。もちろん、自ら選挙に打って出るとか、そういうことを言っているのではない。我々はごく少数であるにすぎないことは選挙の結果が証明している。仮に、何かの間違いで議席を取れたとしても、そのあと国会で﹁世間はわしらと考え方が違う﹂に遭遇する羽目になるだけだ。だから、そっちに解決策はない。そうではなくて、僕らの考えていることを、世間に対して積極的に広めていくことはできないだろうか。 もちろん、既にシノドスがある。思想地図もある。しかし、あれだけで十分ということではないようにも思う。性急に﹁社会全体に訴える﹂ということを考える必要はなく、インテリ層の中で話を煮詰めていくということで十分だとは思うのだけど、とにかくツイートでちょこっと盛り上がる、というだけではない形で、何かやっていった方がよいのではないかと思う。大学進学率も、大学院進学率も確実に上がっているのだ。その層に対して働きかけ、そこからムーブメントを社会全体に広げていくという方法が絶対にあるはずだ。もちろんきちんと﹁面白く﹂﹁持続可能形で﹂やっていく必要があるのだけど。 左翼に関しては本当に何かを考えないといけない。労組の組織率がガタ落ち、残っているところも既得権益化、論壇も壊滅、という状況ではヨーロッパ的社民主義勢力なんかが生き延びられるはずがない。しかし、世界的に見えればそういう勢力はむしろ伸長しているわけなので、方針というよりは方法が間違っていると言えるのだと思う。何かやりようはあるはずだ。 現実はと言えば、要するに﹁マスに対する働きかけの面で左翼・リベラルは敗北した﹂ということだろう。じゃあそれをどうするのか。僕にはよくは分からない。ただ、一つ言えるのは、メディアや大衆に文句を言っているだけで何かができることにはならないだろう。﹁投票率が低いこと﹂﹁特定の社会階層に閉じていること﹂がリベラルの問題なのではないと思う。問題はその﹁投票に行った人﹂﹁インテリ層﹂の中ですら共感を広められないことだ。 そういう状況で左派/左翼/リベラルが﹁社会を動かせる﹂かというと、そりゃ無理というか、おこがましいというかでしょ、という感じがする。メディアの提示する図式を超えるとか、そういうのは難しい。というか、メディアの人自身が国民に絶望しちゃってるもの。僕がちょっと知っているメディアの人はまあ左翼・リベラル系のおじさんばかりなのだけど﹁そんなこと言っても売れないですよ﹂﹁みんながそういうのを望まないんですよ﹂的なことをおっしゃることが多い。こういう非・信念を説得によって覆すことは困難だ。 実は在阪某局のラジオ番組の打ち切りについて漏れ聞いたのだが﹁とにかく予算が足りない。ラジオで報道番組をつくることは不可能﹂という、分かりやすい話だった。それはもう納得するしかない。商売でやってて売れなかったらどうしようもない。 つまり、﹁大衆に訴えかける﹂﹁大衆を動かす﹂というモデルそのものがもう無理なのだ。ならば、その状況にあった方針でやるしかない。つまり、比較的小さな規模で、顔の見えるネットワークを使って、持続可能なやり方でやれるようにするしかあるまい。 言い換えれば、まず﹁リベラル﹂﹁左翼﹂の中で完結・成立できるようなことをやるのが先決だということだ。そこで食えるモデルをつくらないとどうしようもあるまい。それができて初めて、﹁世間一般に働きかける﹂ことができるようになる。今や、インテリは農家からアートまで幅広くカバーしているのだから、その中で自給経済圏wを確立することは不可能ではないと思う。マッチポンプと言われようがなんだろうがまずはそこからなんじゃないだろうか。
8−90年代の個人主義︵というか、反集団主義︶的なムーブメントが共同体主義をへて排外的なナショナリズムにつながっていく流れっていうのは、00年代の前半には見えてきていたかな、と思う︵このへんは、たとえば薬害エイズと拉致事件の言説分析などをやると面白い。同じフォーマットが左翼的な主張から右翼的な主張に転用される様子が実によくわかる︶。 こういう思考の特徴というのは﹁自己への愛﹂がそのまま﹁国家︵世界を包含する共同体︶への愛﹂につながっていることで、その先駆的で極端な形のとしてのオウムから﹁量産型﹂としてのセカイ系、ややマイルドなあり方としてのJリーグまで、色々な形がある。そこで問題なのは、対話が存在しないことだ。﹁敵﹂と話し合わないのはもちろんだが、﹁仲間﹂だってたまたま立場が同じだから隣に立っているだけで、理解や調整はない。立場が異なればもちろん容赦なく敵認定されるだけだ︵このへんはネットとか在特会とかみるとよくわかる。もちろん、これは70年代以来の左翼の行動様式でもある︶。 これは﹁若い奴がわるい﹂という話ではない。自立した個人が無媒介に連帯する、というのは誠に魅力的な枠組みだ。排除されてしまう人がいるなら問題だが、そこを克服できればOKではないか。僕自身もそういうものに期待をかけていた時期はある。たとえば福祉とか環境とかいったものを﹁共通する利害の基盤﹂として期待したのだが、3.11がそういうものを徹底的に打ち砕いてくれた。人は環境問題を挟んですら対立できるし、生活の基盤や場所ということを考えるとそこにも利害がからむのだ︵福祉がダメなのは世代間対立でわかった︶。 要するに90年代型のあれはもうだめなのだ。僕らはもっと別な方法を考えなければならない。 しかし、だからといって集団主義に戻ることももちろんできまい。僕は二つの方向性があると思っている。一つは、比較的小規模なコミュニティ。たとえば生協や直販のような、持続的な関係が維持できる形だ。もう一つは個人的なつながり。こういうものを幾つも持って、柔軟に使い分けていくというのがベストなのではないか。 いずれにしても、社会を﹁コインを放り込んだらすぐに結果が出てくる自販機﹂のように見なすやり方には限界があるし、僕らはすでにそれを辞めつつあると思う。たとえば、ツイッターを通じて。次の課題は、これを社会全体に広げていくことだ。 これだけの人数がいて、しかもSNSでつながっているのだから、﹁我々︵つまり高学歴の左派ってことだ︶が政治勢力になってしまう﹂ということは考える価値があるのではないかと思う。もちろん、自ら選挙に打って出るとか、そういうことを言っているのではない。我々はごく少数であるにすぎないことは選挙の結果が証明している。仮に、何かの間違いで議席を取れたとしても、そのあと国会で﹁世間はわしらと考え方が違う﹂に遭遇する羽目になるだけだ。だから、そっちに解決策はない。そうではなくて、僕らの考えていることを、世間に対して積極的に広めていくことはできないだろうか。 もちろん、既にシノドスがある。思想地図もある。しかし、あれだけで十分ということではないようにも思う。性急に﹁社会全体に訴える﹂ということを考える必要はなく、インテリ層の中で話を煮詰めていくということで十分だとは思うのだけど、とにかくツイートでちょこっと盛り上がる、というだけではない形で、何かやっていった方がよいのではないかと思う。大学進学率も、大学院進学率も確実に上がっているのだ。その層に対して働きかけ、そこからムーブメントを社会全体に広げていくという方法が絶対にあるはずだ。もちろんきちんと﹁面白く﹂﹁持続可能形で﹂やっていく必要があるのだけど。 左翼に関しては本当に何かを考えないといけない。労組の組織率がガタ落ち、残っているところも既得権益化、論壇も壊滅、という状況ではヨーロッパ的社民主義勢力なんかが生き延びられるはずがない。しかし、世界的に見えればそういう勢力はむしろ伸長しているわけなので、方針というよりは方法が間違っていると言えるのだと思う。何かやりようはあるはずだ。 現実はと言えば、要するに﹁マスに対する働きかけの面で左翼・リベラルは敗北した﹂ということだろう。じゃあそれをどうするのか。僕にはよくは分からない。ただ、一つ言えるのは、メディアや大衆に文句を言っているだけで何かができることにはならないだろう。﹁投票率が低いこと﹂﹁特定の社会階層に閉じていること﹂がリベラルの問題なのではないと思う。問題はその﹁投票に行った人﹂﹁インテリ層﹂の中ですら共感を広められないことだ。 そういう状況で左派/左翼/リベラルが﹁社会を動かせる﹂かというと、そりゃ無理というか、おこがましいというかでしょ、という感じがする。メディアの提示する図式を超えるとか、そういうのは難しい。というか、メディアの人自身が国民に絶望しちゃってるもの。僕がちょっと知っているメディアの人はまあ左翼・リベラル系のおじさんばかりなのだけど﹁そんなこと言っても売れないですよ﹂﹁みんながそういうのを望まないんですよ﹂的なことをおっしゃることが多い。こういう非・信念を説得によって覆すことは困難だ。 実は在阪某局のラジオ番組の打ち切りについて漏れ聞いたのだが﹁とにかく予算が足りない。ラジオで報道番組をつくることは不可能﹂という、分かりやすい話だった。それはもう納得するしかない。商売でやってて売れなかったらどうしようもない。 つまり、﹁大衆に訴えかける﹂﹁大衆を動かす﹂というモデルそのものがもう無理なのだ。ならば、その状況にあった方針でやるしかない。つまり、比較的小さな規模で、顔の見えるネットワークを使って、持続可能なやり方でやれるようにするしかあるまい。 言い換えれば、まず﹁リベラル﹂﹁左翼﹂の中で完結・成立できるようなことをやるのが先決だということだ。そこで食えるモデルをつくらないとどうしようもあるまい。それができて初めて、﹁世間一般に働きかける﹂ことができるようになる。今や、インテリは農家からアートまで幅広くカバーしているのだから、その中で自給経済圏wを確立することは不可能ではないと思う。マッチポンプと言われようがなんだろうがまずはそこからなんじゃないだろうか。