「現場をわかってない」にアカデミズムはどう対抗するか?
Twitterでも少し書いたけれど、再整理してみる。
覚えておきたい﹁橋下リテラシー﹂
http://d.hatena.ne.jp/vanacoral/20120115
予想するに、おそらく画面上で今後も大学教授や知識人は負け続けるだろうと思う。残念ながら﹁論理﹂や﹁実証﹂をもってしても、勝てる気がしない。たとえ議論で勝てることがあっても、テレビで勝敗を決めるのは視聴者なのだから。橋下氏は、あの口調であのテンポであの表情で余裕しゃくしゃくと上から下からしゃべり続ける。﹁自分は現場を知っている﹂と主張しながら。対戦相手は熱くなれば﹁痛いところを突かれたのだ﹂と視聴者に判断されるし、冷静であり続ければ﹁現場と同じ目線で物を見ていない﹂と判断される。どう転んでも、負けた印象はぬぐえない。
反橋下の人たちが考えたほうがよいと思うのは、これから国政も含めての彼の﹁暴走﹂にブレーキをかけたいのであれば、世間の多くの人たちに﹁この首長の方法では、本当に困っている人が泣くことになるのではないか﹂と思わせなければいけないわけで、﹁優秀な対戦相手をぶつけて、議論に勝つ様子をテレビ等で見せつける﹂ことを目標にするならば、たぶんその目標設定は間違っているし、果たされることもないし、むしろ逆向きの結果を招くだろう。
テレビ局のマッチメイクに応えた学者が﹁オレは勝ってみせる﹂と考えて丁寧な準備をしたところで﹁大学教授が間違っているというのだから、きっと橋下市長の言うことは間違っているのだろう﹂なんて判断を視聴者はしない。今や橋下氏は自分を﹁大阪﹂についての﹁当事者﹂として示すことに成功してしまいつつある。アカデミックな立場からの議論は、主張の優位性というよりも﹁当事者﹂対﹁研究者﹂というポジションの対立図式に移行させられてしまったのだ。この対戦において﹁当事者﹂がいかに観衆から温かく見守られるのかは、よく知られていることだろう。
これからテレビで大学教授や知識人が対戦カードを組まされるたびに、ますます橋下氏の無敵っぷりが視聴者には感受される。彼が﹁敵﹂として一番に設定して掲げているのは﹁能力がないのに多くの利益を得ている者﹂である。﹁現場の当事者の声を知る能力がない者﹂という意味で、反橋下の知識人も大学教授もここに包括されてしまう。
これまでに彼と戦って﹁善戦﹂あるいは﹁勝利﹂したと観衆に判断された、あるいは﹁勝たせたい﹂と観衆が思った相手があっただろうか。思い返すと、自分にはひとつしか浮かばない︵大阪府民ではないので、大阪関連の報道に見落としはたくさんあるだろうが︶。それは﹁私学助成の打ち切り﹂をめぐる高校生たちとの議論である。女子高生が涙を流しながら府知事に意見する動画はずいぶん放映された。youtubeなどで探すと、むしろ親橋下派のキャンペーンに使われたりもしているが、一般的な視聴者はどう見ただろうか。
その後、少しの時間をおいてから高校は無償化されたわけで、この議論において橋下氏は内容的にも﹁負けた﹂と言ってよいのかもしれない。しかし、その事実以上に注目すべきは、この議論の様子が﹁政治が本当に困っている人たちを苦しめる方向に進んでいるのかもしれない﹂印象を視聴者に与えうるものであったことだ。これこそが本来的な意味での﹁当事者の声﹂の価値である。
大阪の﹁当事者﹂としてのポジションに立ち始めた彼とまともに戦えるのは、その政治によって現に追い詰められるおそれがある﹁当事者﹂しかいない。きっとこの﹁当事者﹂対﹁当事者﹂の対戦は数多く実現しているのだろうが、マスメディアを通じては伝えられない。﹁私学高校生﹂のような象徴的なシーンを生み出し、それを流布させる方法を探らなければ、﹁改革﹂から負の影響を受ける者たちが運動として今の流れに歯止めをかけられることもないだろう。
一方で、この話が問うているのは﹁当事者﹂と向き合うときの﹁アカデミズム﹂の姿勢であり、政治や運動との距離でもある。自分にはいま﹁大学教授﹂が橋下と戦って観衆から軍配をあげられる様子がイメージできない。ハシズム的手法があちこちの地域や国政レベルでこれから行使されはじめたら、対立する主張をもつ研究者はいかに行動すべきか。いずれ差し迫るかもしれない問題としてシミュレーションしたほうがいい人たちはたくさんいるはずだ。﹁徹底的に無視﹂が正解ならば簡単そうだが、どんな学問領域でも政策提言に関わる人についてはそれで済むとも思えない。無視を続ければ今度は﹁逃亡者﹂呼ばわりが待っているのだから。
※以前に書いた関連記事
まちづくりワークショップで聞いたハシズム待望論
http://d.hatena.ne.jp/lessor/20111217/1324142401