生きづらさを「程度の問題」として捉えること
別の本について何か書こうと思っていたのだけれど、さっき風呂の中で一気に読んだコミックエッセイに考えさせられたので、そちらを。良いマンガだった。
今日もかるく絶望しています。 落ち込みがちガールの日常コミックエッセイ (メディアファクトリーのコミックエッセイ)
- 作者: 伊東素晴
- 出版社/メーカー: KADOKAWA/メディアファクトリー
- 発売日: 2014/01/17
- メディア: 単行本
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書店で表紙や帯などを目にした限り、ああ社会の中で生きていくのが苦手なタイプの人の話なのだろう、と思ったのだ。個人的に心をつかまれたのは帯に描かれた﹁疑心暗鬼がデフォルトです﹂というコマだった。﹁この人どうしてこんなに楽しそうに喋ってくれてるんだろう……内心私と話しててもつまんないって思ってたらどうしよう﹂。
﹁相手から自分はどう思われているか﹂について深く考えすぎる。それも悪い方に考えすぎる、という経験は多くの人にあるだろう。実際、amazonでこのマンガのレビューを読むと﹁あるある﹂的な共感を示して評価するものが多い︵今のところ全部で4件しかないけど︶。サブタイトルも﹁落ち込みがちガールの日常コミックエッセイ﹂である。ノリが軽い。
ところが、読み進めていくとちょっとずつ印象が変わってくる。
たとえば、入学式で新たな人間関係に脅え、早々と友達を作っていく幼なじみをうらやみ、友達の友達と何を話していいかわからず、わからないことを他人に聞くが回答がずれていても﹁聞きたいことはそうじゃなくて﹂とは言えない。疲れきって家に帰り、しばらく人に会わず引きこもりたい、と布団にもぐりこむくらいの描写までは﹁私にもある生きづらさ﹂として共感できる人が多いかもしれない。
しかし、学食の2階で友人と食事をしようとするときに、もし階段で転んで自分のもっているうどんを友人にぶちまけてしまったら大変だと想像して﹁わ 私っっあっちで食べるから…﹂とひとり離れたり、﹁考えるとわからなくなること﹂として﹁まばたきのタイミング﹂﹁呼吸のタイミング﹂﹁階段の降り方﹂を挙げたり、人混みでの﹁人酔い﹂について﹁特定の空間にひとがぎっしりごちゃごちゃしてて、その全員にそれぞれの日常があって家族があって人生があると思うと、スケールが壮大すぎて不気味な気持ちになる…﹂というのは、もうかなりの生きづらさである。全編を通じて、﹁あるある﹂で済むエピソードの中にそれでは済まないようなエピソードがときおり混在しながら進む。
読みながら思い出したのは、マンガ﹃私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い﹄だ。昨年、主人公が﹁社交不安障害﹂であるように思われるが日本ではそのように読まれていない、と海外で指摘されて話題になっていた︵※2/23 ﹃社会不安障害と向き合う﹄の管理人様からご連絡をいただき、リンク先を修正しました︶。このマンガの受け止められ方は、それに似てくるのかもしれない。
この生きづらさを﹁障害﹂として指摘すると、マンガに﹁あるある﹂と共感した人たちからはどう評価されるだろうか。きっと不要な﹁ラベリング﹂として嫌われるのではないか。人とうまくコミュニケーションをとって生活を送れないことを﹁障害﹂と呼ぶのは大げさだと。﹁障害者﹂扱いされることで排除されるという懸念も生まれるだろう。もう少し理屈っぽい人は、問題が過度に医療化・個人化されることで、社会のあり方が問われなくなると言うかもしれない。
ある種の﹁生きづらさ﹂を﹁障害﹂と呼ぶのは、問題を本人や医師に押し付けるためではない。むしろ問題を社会に開くために﹁生きづらさ﹂を﹁障害﹂と呼ばねばならないのだが、生きづらさにはグラデーションがある。﹁今の世の中で生きづらくない人なんて、いない﹂と言われてしまえば、すべては﹁甘え﹂とされてしまう。﹁考え方﹂の偏りが問題とされるような特性は、﹁ネガティブな人﹂と地続きだ。
そして、このマンガの主人公は就職活動を機にして自分の﹁考え方﹂を変えることで前を向こうとしている。主人公に﹁いろいろ深く考えすぎ﹂と感じていた読者は﹁それしかないよね﹂と思うかもしれない。﹁みんなそうやって生きていくんだ﹂と。
しかし、﹁考え方﹂を変える、のは誰の力によって可能なのだろう。自力で変えられるだろうか。そもそも﹁考え方を変える﹂という﹁考え方﹂ができるのかどうか。主人公は人生における喜びを感じられる機会をたくさん得られてもいるようだし、大学での友人関係にはとても恵まれているように思えた。同じような特性に悩まされている人たちが、同じように﹁考え方﹂を変えられるようになるかどうかはわからない。
固有名詞以外で呼ばれたくない人を﹁社交不安障害﹂と呼ぶ必要はないと思う。ただ、﹁生きづらさ﹂が個人の力ではどうにも乗り越えられずに、医療の力や周囲の理解も含むような強いサポートが必要とされる事態はある。それは生きづらさにおける﹁程度の問題﹂なのだろう。
この﹁程度の問題﹂という便利だけれどひどく曖昧な表現にもっと具体的なガイドラインを設けていくことが、精神医療の中ではなく﹁世の中﹂に求められているのではないかと思う。どこからどこまでが個人の﹁考え方﹂で解決できるような問題ではないのかを、正しく啓発していくためには、﹁自分の力﹂で生きづらさが解決されていったように見える過程を丁寧に観察したい。﹁考え方﹂の転換はよく自覚されていない恵まれた環境が支えているのかもしれない。