国家生き残り戦略としての日本語リストラ
我が家の息子たちが、﹁日本語を母国語として勉強する学校﹂から﹁外国語として習う学校﹂に移ってから2ヶ月。いろいろ目から鱗なことがあって、面白い。
そこでつらつら考えるに、ニッポンの﹁国語なんたら審議会﹂には刺客を送り込まれ、全国の国語の先生たちからはカミソリを送られてきそうなことなのだが、﹁国家百年の計﹂を考えると、ここでおもいっきり、日本語の言語体系を大幅リストラして簡素化することが、国家戦略として正しいんじゃないかと思えてきた。
なぜかというと、このままで行けば、ありとあらゆる面で日本は中国に負けることはまちがいない。あちらのほうが人口多いし、それは仕方ないんだけど、そのあと﹁成熟国﹂としてこの先どうまともに生きて、1億もいるぜいたくに慣れた人口︵この先減るにしても︶を養っていくかと考えると、やっぱり﹁ブランド維持﹂が必要。そのためにすべきことはいろいろあるんだけど、﹁対中国語﹂という言語コンペティター戦略で考えると、日本語は﹁かな﹂を持っているだけで大幅に有利だから、﹁日本語できる非日本人﹂を増やすことが、中国語よりもやりやすいという点が生かせないか、と考えるわけだ。
人種が入り混じってしかもアジア人人口が多いカリフォルニアでも、中国系以外の人が中国語を習うのはなかなか大変。いきなり漢字しかない上、母音が多く発音も難しい。日本語は世界で一番難しいのだ!と息巻く人もいるだろうが、日本語は母音が5つしかなくて発音がスペイン語やイタリア語と似ているし、表音文字があるので、入り口の敷居は必ずしも高くない。どちらがニワトリでタマゴだかは知らないが、非中国語系米人に中国語を教える先生や学校も多くない。
今のところまだ、フランス語やスペイン語と比べ、日本語は﹁趣味と実益﹂の両面で優位︵もうすぐ同じぐらいになるだろうけど︶だし、﹁難易度﹂からいって中国語よりとっつきやすい。日本語のできる外国人が増えれば、ただでさえ人口で負けている中国に対して、﹁グローバルな人脈の広がり﹂という点でも、﹁親しみをもってもらう、日本というブランドに親しんでもらう﹂という意味でも、長期的なメリットが大きいと思う。︵もちろん、今は﹁英語の世紀﹂だから、日本人が英語を習う必要性はそれによりいささかも減じないのだが。︶
日本語習得の最初の敷居はそういうわけでそれほど高くない。日本語と英語の﹁読み書き﹂をほぼ同時に習ったうちの子達も、﹁ひらがな﹂はむしろ、﹁英語のスペル﹂よりやさしかった。﹁あ﹂の名称は﹁あ﹂で、読み方も﹁あ﹂しかない。でも、英語の﹁A﹂の名称は﹁エイ﹂で、読み方は﹁あ﹂だったり﹁えい﹂だったり他とくっつくと﹁おー﹂の一部になったり、もうしっちゃかめっちゃかで本当に大変だ。英語のスペルを覚えるのは、日本語の漢字を覚えるのをちょっと易しくしたぐらいなものだ。
しかし、その後極めるにつれ、難しくなる。昔の﹁階級社会﹂では意味があったけれど、今ではあまり意味をなさなくなった規則、なんでそうなっているか意味不明な規則、日本ですらワケわかんないからあまりきちんと使われなくなった表現とかがいろいろあるので、そういうものをバッサリやめてしまって簡素化し、なるべく﹁ルール・ベース﹂にしたら、外国人にもっと親しんでもらえるだろう。捨てた部分は、現在﹁古文﹂として習うものと同じカテゴリーに入れて、﹁昔の本を読むときには必要な知識﹂として、上級者だけが習うようにすればいい。
たとえば、こんな感じ。
(一)敬語のうち、﹁尊敬語﹂と﹁丁寧語﹂だけ残し、﹁謙譲語﹂は廃止。これって、日本人でも本当にわかりづらく、この誤用のために﹁ファミレスの店員の日本語がなっていない﹂といった、無用な文化摩擦を引き起こすし、百害あって一利なし。昔の複雑な身分制度があった時代に必要な言語体系だったのはわかるけれど、今は﹁相手を尊敬する、丁寧に言う﹂だけがあれば、相対的に自分を﹁謙譲﹂していることになるので、それでいいじゃないかと。
(二)ひらがなだけを残し、カタカナは廃止。カタカナは外国語由来の言葉に使うっていったって、どれがそうなのかいちいち覚えなければいけないし、またなんで区別する必要があるのか、意味不明。水村美苗さんの本だったか、﹁かつてカタカナは、漢文を読み下すのに使われていた文字で、男・権威のある人が使うカナであったのに対し、ひらがなは女子供の文字だった﹂という話を読んで納得した。そういえば、明治憲法はカタカナで書いてある。その﹁外国からはいってきたものの権威﹂が、戦後残滓として残ったのが、﹁外国語はカタカナ﹂ということじゃないかと思う。だったら、もういいじゃん、いまどきそういうのなくても。全部ひらがなで統一しちゃおうよ。本当に外国語であることを強調する必要があるなら、アルファベットでそのままスペルする。アラビア語とかでもアルファベット表記に統一しちゃう。そのほうが、﹁これってスペル何?﹂といちいち調べる必要がなくて楽。
(三)ひらがなによる長音表記はすべて﹁−﹂で統一。﹁おおかみ﹂と﹁おうさま﹂はどうして表記が違う??どうして﹁お﹂と発音するのに﹁う﹂なのか、どれとどれだけ例外の﹁お﹂表記なのか、どうしてそうなるのか、子供に聞かれても説明不能。どっちも﹁おーかみ﹂﹁おーさま﹂でいいじゃん。助詞の﹁は﹂とか﹁へ﹂とかも、音どおりに統一したほうが簡単。
(四)一枚、一匹、一羽、一本とか、数え方の数が多すぎて覚えられない。﹁謙譲語﹂と同じ問題を引き起こす。これも、大幅にSKUを減らす。
(五)﹁簡素化﹂というと真っ先に槍玉にあがる漢字については、日本人の﹁対中国語戦略﹂の一環としてむしろあまり減らさないほうがいいので、外国人の人には頑張って習ってもらおうかな・・・これについては少々まだ迷いあり。習うのは大変だが、いざとなれば中国語で書いてあるものが読めるというのは、いろんな意味で便利でもあり、日本語習得者の優位にもなるので・・・
言葉そのものの意味や文法体系などの根本的なところはそのままで、表記の部分と﹁敬語﹂という特殊な体系だけを簡素化するだけでも、だいぶ違うのではないかと思う。そして、日本語が﹁欧米語と中国語の中間に位置する言語﹂として位置するようになり、﹁中国語は大変だけど、とりあえず日本語やっとこうか*1﹂﹁それで漢字も習っておくと、中国人の書いた文書で、何が書いてあるかだいたいわかるので、役にたつし﹂という感じになったらいいのでは、と思うわけだ。
ついでに、外国人が日本語を習うための教科書や教材にもっと競争を導入して、いろんな年齢層や背景の人が使いやすいように種類を増やしてほしいな、とも思う。
簡素型日本語に慣れるにはちょっと時間がかかるだろうし、高齢者を中心に反発は多いだろうけれど、明治や戦後に同じようなフェーズを経てきたわけだ。そのときは﹁外国のものを習って、追いつき追い越す﹂ための言語体系変更だったのだが、今なら﹁別の戦略﹂をベースにしてモデルチェンジしてもいい時期ではないか、などと愚考する。
*1:本当に日本と中国の区別がつかず、最初中国語を勉強するつもりで実は日本語だった、という達人も知っている