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はてなブックマーク - ﹃会田誠 天才でごめんなさい﹄展への抗議関連の議論 - Togetter
上記以外でもいろいろな論点が出てきているので、ここではなるべくそれらと違うことを書きたいと思うが、重なるかもしれない︵この記事はどちらかの立場を支持することを表明するものではありません *1 ︶。 会田誠個展にはまだ行っていないけれども、﹁問題﹂となっている一連の作品は10年以上前にアート・フェアか何かで見たことがあり、﹁自分のオナニーに対してずいぶん露悪的なんだなぁ﹂﹁ちょいあざとく見えるのはテクニックのせい?﹂﹁描写に芸大油画の匂いがするわー﹂というのが第一印象だった。 その時たいして不快にも﹁この表現は許せん﹂ともならなかったのは、一瞬自分の好きな月岡芳年や佐伯俊男や丸尾末広を思い出したというのは別として、アートの世界に長年どっぷり浸かっていたのでそこそこリテラシーを身につけてしまっていたのと、﹁問題視されそうな表現にあえて踏み込むのはアートのお家芸﹂という例の︵もういい加減古びた︶認識が頭にこびりついていたからだと思う。
﹁アート﹂という眼鏡を掛けて見ることで、目の前の表現に一定の”補正”がかかる。こうしたことはアートに関心のない人や素人を自認する人にも起こり得ることだと思う。不快だけどアートとして表現されているのだから単なる差別表現じゃないんだろう、自分にはわからないけどアートとして提出されているのだから批評性があるんだろう‥‥などと。 こうなってしまう”責任”の半分は、アート︵業界︶の方にある。﹁アート=よいもの、すばらしいもの、必要なもの﹂という見方を社会の隅々にまで徹底し行き渡らせることを通して、近代以降の芸術の制度︵美術館と学校教育︶は成立してきたのだから。しかし、表現について考えたりアートに関わっていたりする人々の発話がいまだに﹁問題視されそうな表現にあえて踏み込むのはアートのお家芸﹂﹁アート=よいもの、すばらしいもの、必要なもの﹂という結論に帰着するしかないようなものなのなら、それはもはや一種の思考停止に他ならないだろう。
たしかに過去、さまざまな作品がまさしく﹁問題視されそうな表現にあえて踏み込んでいた﹂ことをもって、最終的にはその毒性、危険性込みで﹁アート=よいもの︵以下略︶﹂という価値観、観念にじんわり吸収されていった。その過程では、今回のような反発、抗議、軋轢を引き起こし、時には法による断罪がなされてきた。一方、性差別やそれに伴う性表現問題については近年何かと話題に上り、認識の更新が促される傾向が世界的に強まってきた。その流れを見れば今回の抗議も、その内容や抗議理由、論の立て方にはかなり疑問があるが、出てくるべくして出てきたものだ。*2 従って、何であれ昨今の傾向に無頓着でいるわけにはいかないアートというジャンルにおいても、その場所が公の性格を持つものであればあるほど、ヤバめのものは引っ込めておくかゾーニングしましょうということになる。事実、森美術館では﹁18禁部屋﹂が作られているようだし、展覧会サイトにも以下のような断りが出ている。 本展には、性的表現を含む刺激の強い作品が含まれています。いずれも現代社会の多様な側面を反映したものですが、このような傾向の作品を不快に感じる方は、入場に際して事前にご了承いただきますようお願い致します。なお、とくに刺激が強いと思われる作品は、18歳未満の方の入場をご遠慮いただいている特定のギャラリーに展示されています。 http://www.mori.art.museum/contents/aidamakoto_main/about/index.html
ここまで配慮しているのに何が問題なの?という声をネット上でいくつか見た。しかしこのケースの場合、どれだけ念入りにゾーニングをし念入りにお断りを入れて鑑賞者をふるいにかける配慮をしても、抗議が上がってくるのを止めることはできない。それは、﹁問題﹂の表現がコンビニや書店やコミケではなく、都心の有名な美術館で芸術作品として展示されているということに尽きる。 このようなものが、同人誌にこっそり掲載されているのではなく、森美術館という公共的な美術館で堂々と展示され、しかも、各界から絶賛されているというのは、異常としか言いようがありません。すでにNHKの﹁日曜美術館﹂で肯定的に取り上げられ、最新の﹃美術手帖﹄では特集さえ組まれています。 http://paps-jp.org/action/mori-art-museum/
ああした﹁児童ポルノ﹂﹁性的虐待﹂﹁商業的性搾取﹂﹁差別行為﹂︵いずれも抗議文より︶をアートとして祭り上げ、鑑賞し、アートとして論じるに価するものだとする世界がこの社会の中にあるということ自体が、抗議側には看過できないことなのだ。*3 ここには﹁アート=よいもの︵以下略︶﹂という前提がはっきりとある。 つまり抗議側にあるのは、﹁性差別表現がアートとして堂々と提示されているからこそ一層問題である﹂という考えだ。一方アート︵美術館︶側にあるのは、﹁性差別的に見えたとしてもアートとして批評的に成立しているから評価されるべき﹂という考えだろう。 向いているベクトルは正反対だが、﹁アート=よいもの︵以下略︶﹂という観念を信仰している点では同じである。*4 どちらも一種の思考停止状態を共有した上で、﹁許されない﹂﹁許される﹂という対立になるとしたら、なんとも退屈な光景だ。 では会田誠の作品について考える際にはど真ん中の最重要ポイントとなり、おそらく森美術館にも予想された通り抗議が上がった性の問題について、この展覧会企画ではどういうアプローチをしているのかというと、美術批評家の椹木野衣氏のtweetによれば﹁展覧会の図録の論文では、会田誠を扱えば避けられるはずもない﹁性﹂をめぐる突っ込んだ言及は見られない﹂という。それを知ってますますこの話、退屈に思えてきた。*5
おそらくこの議論は両者決して交わらない上に、アート側に﹁公序良俗や政治的正しさに反するという形でしか表現できない重要なものもある﹂といった信念︵﹁表現の自由﹂における錦の御旗︶がある限り、抗議側の真正面からのあらゆる疑義、訴えは﹁そんなの織り込み済みだし﹂となり、抗議が大きいほど会田誠という作家の”日本アート界における特異性”とその個展開催に踏み切った森美術館の”英断”は評価、賞賛されることになるだろう。アート業界とその周辺では。 だがそもそも性の問題でもエロ・グロでも暴力でも、アートが﹁問題﹂を求めて踏み込んでいく場所は、既にずっと以前にさまざまなジャンルの表現によって踏み込まれ、踏み荒らされて︵一通り表現され尽くされて︶いるのではないか。﹁問題視されそうな表現にあえて踏み込む﹂ことが﹁アートだけのお家芸﹂とはなっていない現在において、﹁問題﹂表現がアート業界・経済圏を幾分”活性化”させアートファンを喜ばせる効果は持ち得ても、そうしたアートワールドからもっとも遠いところにいる人々も含めた社会に対して楔を打ち込むような力を発揮するようには、私には思えない。﹁不快﹂なものは単に回避されるだけだし、回避できるような配慮をアート側自らやっているのだから。 そうした中での﹁許される﹂﹁許されない﹂対立。退屈な上に倒錯していると感じる。
●追記 会田誠について書いたものがなかったかなと思って探したら、短い記事があった︵作品評ではない︶。今回の件と直接関係するものではないが、参考までに。 デュシャンの﹃泉﹄についての会田誠の発言
上記以外でもいろいろな論点が出てきているので、ここではなるべくそれらと違うことを書きたいと思うが、重なるかもしれない︵この記事はどちらかの立場を支持することを表明するものではありません *1 ︶。 会田誠個展にはまだ行っていないけれども、﹁問題﹂となっている一連の作品は10年以上前にアート・フェアか何かで見たことがあり、﹁自分のオナニーに対してずいぶん露悪的なんだなぁ﹂﹁ちょいあざとく見えるのはテクニックのせい?﹂﹁描写に芸大油画の匂いがするわー﹂というのが第一印象だった。 その時たいして不快にも﹁この表現は許せん﹂ともならなかったのは、一瞬自分の好きな月岡芳年や佐伯俊男や丸尾末広を思い出したというのは別として、アートの世界に長年どっぷり浸かっていたのでそこそこリテラシーを身につけてしまっていたのと、﹁問題視されそうな表現にあえて踏み込むのはアートのお家芸﹂という例の︵もういい加減古びた︶認識が頭にこびりついていたからだと思う。
﹁アート﹂という眼鏡を掛けて見ることで、目の前の表現に一定の”補正”がかかる。こうしたことはアートに関心のない人や素人を自認する人にも起こり得ることだと思う。不快だけどアートとして表現されているのだから単なる差別表現じゃないんだろう、自分にはわからないけどアートとして提出されているのだから批評性があるんだろう‥‥などと。 こうなってしまう”責任”の半分は、アート︵業界︶の方にある。﹁アート=よいもの、すばらしいもの、必要なもの﹂という見方を社会の隅々にまで徹底し行き渡らせることを通して、近代以降の芸術の制度︵美術館と学校教育︶は成立してきたのだから。しかし、表現について考えたりアートに関わっていたりする人々の発話がいまだに﹁問題視されそうな表現にあえて踏み込むのはアートのお家芸﹂﹁アート=よいもの、すばらしいもの、必要なもの﹂という結論に帰着するしかないようなものなのなら、それはもはや一種の思考停止に他ならないだろう。
たしかに過去、さまざまな作品がまさしく﹁問題視されそうな表現にあえて踏み込んでいた﹂ことをもって、最終的にはその毒性、危険性込みで﹁アート=よいもの︵以下略︶﹂という価値観、観念にじんわり吸収されていった。その過程では、今回のような反発、抗議、軋轢を引き起こし、時には法による断罪がなされてきた。一方、性差別やそれに伴う性表現問題については近年何かと話題に上り、認識の更新が促される傾向が世界的に強まってきた。その流れを見れば今回の抗議も、その内容や抗議理由、論の立て方にはかなり疑問があるが、出てくるべくして出てきたものだ。*2 従って、何であれ昨今の傾向に無頓着でいるわけにはいかないアートというジャンルにおいても、その場所が公の性格を持つものであればあるほど、ヤバめのものは引っ込めておくかゾーニングしましょうということになる。事実、森美術館では﹁18禁部屋﹂が作られているようだし、展覧会サイトにも以下のような断りが出ている。 本展には、性的表現を含む刺激の強い作品が含まれています。いずれも現代社会の多様な側面を反映したものですが、このような傾向の作品を不快に感じる方は、入場に際して事前にご了承いただきますようお願い致します。なお、とくに刺激が強いと思われる作品は、18歳未満の方の入場をご遠慮いただいている特定のギャラリーに展示されています。 http://www.mori.art.museum/contents/aidamakoto_main/about/index.html
ここまで配慮しているのに何が問題なの?という声をネット上でいくつか見た。しかしこのケースの場合、どれだけ念入りにゾーニングをし念入りにお断りを入れて鑑賞者をふるいにかける配慮をしても、抗議が上がってくるのを止めることはできない。それは、﹁問題﹂の表現がコンビニや書店やコミケではなく、都心の有名な美術館で芸術作品として展示されているということに尽きる。 このようなものが、同人誌にこっそり掲載されているのではなく、森美術館という公共的な美術館で堂々と展示され、しかも、各界から絶賛されているというのは、異常としか言いようがありません。すでにNHKの﹁日曜美術館﹂で肯定的に取り上げられ、最新の﹃美術手帖﹄では特集さえ組まれています。 http://paps-jp.org/action/mori-art-museum/
ああした﹁児童ポルノ﹂﹁性的虐待﹂﹁商業的性搾取﹂﹁差別行為﹂︵いずれも抗議文より︶をアートとして祭り上げ、鑑賞し、アートとして論じるに価するものだとする世界がこの社会の中にあるということ自体が、抗議側には看過できないことなのだ。*3 ここには﹁アート=よいもの︵以下略︶﹂という前提がはっきりとある。 つまり抗議側にあるのは、﹁性差別表現がアートとして堂々と提示されているからこそ一層問題である﹂という考えだ。一方アート︵美術館︶側にあるのは、﹁性差別的に見えたとしてもアートとして批評的に成立しているから評価されるべき﹂という考えだろう。 向いているベクトルは正反対だが、﹁アート=よいもの︵以下略︶﹂という観念を信仰している点では同じである。*4 どちらも一種の思考停止状態を共有した上で、﹁許されない﹂﹁許される﹂という対立になるとしたら、なんとも退屈な光景だ。 では会田誠の作品について考える際にはど真ん中の最重要ポイントとなり、おそらく森美術館にも予想された通り抗議が上がった性の問題について、この展覧会企画ではどういうアプローチをしているのかというと、美術批評家の椹木野衣氏のtweetによれば﹁展覧会の図録の論文では、会田誠を扱えば避けられるはずもない﹁性﹂をめぐる突っ込んだ言及は見られない﹂という。それを知ってますますこの話、退屈に思えてきた。*5
おそらくこの議論は両者決して交わらない上に、アート側に﹁公序良俗や政治的正しさに反するという形でしか表現できない重要なものもある﹂といった信念︵﹁表現の自由﹂における錦の御旗︶がある限り、抗議側の真正面からのあらゆる疑義、訴えは﹁そんなの織り込み済みだし﹂となり、抗議が大きいほど会田誠という作家の”日本アート界における特異性”とその個展開催に踏み切った森美術館の”英断”は評価、賞賛されることになるだろう。アート業界とその周辺では。 だがそもそも性の問題でもエロ・グロでも暴力でも、アートが﹁問題﹂を求めて踏み込んでいく場所は、既にずっと以前にさまざまなジャンルの表現によって踏み込まれ、踏み荒らされて︵一通り表現され尽くされて︶いるのではないか。﹁問題視されそうな表現にあえて踏み込む﹂ことが﹁アートだけのお家芸﹂とはなっていない現在において、﹁問題﹂表現がアート業界・経済圏を幾分”活性化”させアートファンを喜ばせる効果は持ち得ても、そうしたアートワールドからもっとも遠いところにいる人々も含めた社会に対して楔を打ち込むような力を発揮するようには、私には思えない。﹁不快﹂なものは単に回避されるだけだし、回避できるような配慮をアート側自らやっているのだから。 そうした中での﹁許される﹂﹁許されない﹂対立。退屈な上に倒錯していると感じる。
●追記 会田誠について書いたものがなかったかなと思って探したら、短い記事があった︵作品評ではない︶。今回の件と直接関係するものではないが、参考までに。 デュシャンの﹃泉﹄についての会田誠の発言
*1:ちなみに2010年の﹁ドブス写真集﹂事件では私は明確に批判側だった。あれは特定個人への人権侵害以外の何ものでもなく、アートとして論じるべき問題ではないと捉えている。詳しくはここ。この件については﹃アーティスト症候群﹄の文庫版のあとがきでも触れた。
*2:フェミニストの間でも多様な意見があるだろう。私の見ているフェミ系MLでは数日前に﹁抗議すべき﹂というメールが投稿され﹁問題だ﹂﹁不快だ﹂という投稿が相次いだが、別の見方を示す意見もあり、今のところ議論が盛り上がっているというところまでは行っていない。●追記‥と思っていたら若干盛り上がってきた。抗議派、容認派が半々のような印象。女性の身体が著しく傷つけられている図像において、画家がそこに﹁快楽﹂を見出していると判断できるか否かが一つの論点として出ている︵これも解釈次第となりそうで難しい︶。
*3:その視点から見たら、日本のアート界とその周辺は芸能界やエロ・コンテンツ業界と同じく、少女への性的搾取という問題に鈍感な極めて意識の遅れた業界ということになろう。
*4:追記‥もちろん各々の立場にとっての﹁よいもの︵以下略︶﹂の位相が食い違うのは言うまでもない。ブコメでアートの側が﹁アート=よいもの﹂と思っているのか疑問だとの意見を見たが、その毒性や危険性︵と彼らが認識するもの︶も含めてアートはそれについて思考するに価するよいもの、重要なものだとの前提がなければ会田誠の個展も開催されないはずだ。言わずもがなのことかと思ったが、追記しておく。
*5:そう言えば、同展覧会キュレーターによる図録論文の剽窃疑惑問題︵椹木野衣氏の代表的な著作から︶もあったんだった‥‥。http://togetter.com/li/442956