小谷野敦さんに実名を晒された件/および匿名と顕名の擁護
実名にこだわっておられるらしい小谷野敦さんが、以前予告していた通り、自分のブログで私の本名に関する情報を公開している模様。その情報を受け、一部ブログや2ちゃんねる等で既に私の本名が多数書き込まれています。﹁匿名批判は卑怯﹂という小谷野さんの﹁考え﹂を私に押し付けないでほしいと再三お願いし、エントリー公開後も削除するよう依頼のメールも送りましたが*1、聞き入れてはいただけなかったようです︵しかも本人は﹁ちょっとだけ明かすことにする﹂と、譲歩したつもりらしい。なんだこのりくつ︶。メールの内容に間接的にであれ勝手に言及しないでくれとも言ったのですが、それも華麗にスルー。残念です。ちなみに私が書いたのは﹁ぐずぐず﹂ではなく﹁ぐだぐだ﹂です︵笑︶。
小谷野さんには、実名を晒さないようお願いした際、自分は顧客と直接やりとりをする立場であるため、本名を書かれることで職場に何かしらの迷惑をかける可能性を懸念していると伝えましたが、﹁覚悟﹂の問題としてスルーされました*2。個人的にはその他にもいくつかの理由があったのですが、そもそも﹁困る理由﹂を説明できなければ晒されるという状況が問題だと思ったため、伝えませんでした。もし伝えたとしても、今回のように﹁荻上は●●という可能性を恐れているらしい﹂と書かれる可能性がありましたし。
元々、﹁ウェブ上での批判は実名でなされなければならない﹂という主張に社会的なコンセンサスが得られていない現在で、また、私の本名自体にほとんど社会的価値がない現在で、小谷野さんの私的満足のためだけに私の名前等の情報が利用されることが端的に不快でした。小谷野さんが﹁道徳/卑怯﹂なる理由付けによって私の実名を晒したとしても、その﹁暴露﹂や﹁揉め事﹂自体が、一部読者のゴシップ的関心や、一部﹁論敵﹂による悪意の表明にしか使われないのは目に見えていましたし。
例えばおそらく今後、私を批判する際に﹁荻上チキ︵本名はうんたら︶﹂とわざわざ書く人も出てくるでしょう。実際それらしきことをしている人が既にいますし、小谷野さん自身も以前論争した方の本名などをあちこちに記してまわったという前例があります。そこには﹁道徳﹂という建前とは無関係な、﹁不快な気分にさせてやる﹂﹁現実生活に出来る限り迷惑をかけてやる﹂という悪意しか感じ取れない。小谷野さんの﹁表明している意図﹂がどうあれ、そういう“まったく﹁道徳的﹂でない”連鎖が起こることは容易に想像できたわけです。
にもかかわらず、自分の﹁道徳観﹂を優先することでそのような状況を招くこと。それが﹁道徳﹂的には許されるとは到底思えず、むしろデメリットのほうが大きく思えます。そのあたりは小谷野さんと私とでは価値観がまったく異なるのでしょう*3。
私は匿名批評、顕名批評は原則OKという立場です。今後私が実名を自ら公開し、一方で匿名の人に叩かれたとしてもそれは変えません。匿名批評、顕名批評がそれ自体として卑怯なのではなく、アンフェアな形で行われる匿名批評、顕名批評があるという認識だからです。匿名の自由と、皆が実名で書くことを望む自由とは、自由への積極度に関して大きな差があるため難しい問題ではあります。が、基本的に私は多くの方が匿名・顕名で発言することが出来る場はこれからも守り続けたいと考えております。
また、自由の問題とは別に土台の設計についての問題があるかと思いますが、しかし実名が言論の質、および言論空間の土壌を確保してくれるとは私は思いません︵小谷野さんの議論が﹁ぐだぐだ﹂だったように︶。むしろ多くの者が匿名であり続ける状況で、特定の人だけを思いつくままに晒すことによる弊害の方が問題でしょう。そもそも私たちの社会は、オフラインであっても常に﹁固有名﹂の存在であるわけではありませんし、一方でウェブにおいては実名でないと議論が成り立たないというコンセンサスもありません。
小谷野さんは﹁余程の理由が無いのなら実名で書け﹂と主張しますが、私は﹁余程の理由が無いのなら、何を名乗るかは個人の自由﹂と考えます*4。その他もろもろ、今回晒されたのが私自身でなかったとしても、今回の小谷野さんの手法や立場にはいくつもの疑問が残ります。
私個人は、今後も本名とペンネーム、その他ハンドルネーム、匿名などを場面によって使い分けていくつもりです。荻上チキ名義の言論に対しては、もちろん荻上名義で応答していきます。
今後小谷野敦-chiki 以外の場合で同様のケースも起こるのだろうなと思います。その際は、広められた側が本当に本名を晒したくない場合、晒した側は相手の選択肢を奪い、一定以上の不愉快な思いを与えることになるでしょう。晒された側がそのエントリーに批判を書いた場合、その批判や削除要求自体が、不都合なその情報を広めることに加担してしまいますし、﹁本名を書かないでください﹂と書くことなども、それが事実であるという文脈的な肯定をもたらしてしまうばあいもある。そのような状況を一方が強引に作り、晒された側は嫌々ながらもその土壌にあがらなくてはならないということ。その内容に反論があったとしても、それを公然と批判しがたい状況を作ること。そのような論法こそ私は﹁卑怯﹂であると考えます。その人が実名であろうが否が、﹁道徳﹂を掲げていようが露骨な悪意であろうが。
#そんなこんなで応答してみましたが、今回の騒動自体はとてもつまらないもので、関わってもまったく生産性が無いと思われ。ネット上での匿名性をめぐる一サンプルとして、それぞれ何かを持ち帰ってくださいませ>皆様 #あと一点。﹁最初に実名をフルで書いたのは私ではないし、音羽君でもない。2ちゃんねらーである﹂←これは間違い。タイムスタンプを見る限り、最初に書いたのは﹁音羽君﹂で、ついで2ちゃんねらーという流れです。もちろん、元々﹁誰が最初に実名をフルで書いたか﹂ということを問題にしているわけではないのだけれども。他、細かな間違いがたくさんあるけれど、反論やリンクをすることで議題を温存するのもアレなので、とりあえず以上。
︻補足︼ なお、﹁筑摩書房から聞いたと思ったらしいが、それは個人情報保護法違反だから、ない﹂と書いていましたが、これについては補足を。ある日、筑摩の編集の方から突然電話がかかってきて、﹁小谷野さんとチキさんは仲が良いのですか?﹂と聞かれたので、﹁いえ、ネットで数回やりとりしただけで、お会いしたこともありません﹂と答えました。すると、﹁実はとある編集者の方に、﹃小谷野さんから連絡があって自分はチキさんのことは良く知っている﹄といわれ、名前を知りたがっているようなのですが﹂と言われました。そこで私は﹁小谷野さんが私の情報を探しているのだなぁ﹂と判断し、﹁﹃よく知っている﹄という仲ではまったくありませんので、小谷野さんにくれぐれも何も教えてないでください﹂とお返事し、小谷野さんにも﹁編集者に、私のことをよく知っているので名前などを教えてほしい、という趣旨のことを伺ったか﹂と何度か尋ねましたが、スルーされました。情報元が封筒であろうが、編集者経由で私のことを何か探ろうとしていたのは事実のようですし、実際こうやって暴いているわけで、ぜんぜん威張れるほどのことではないでしょうそれ︵汗︶。
小谷野さんには、実名を晒さないようお願いした際、自分は顧客と直接やりとりをする立場であるため、本名を書かれることで職場に何かしらの迷惑をかける可能性を懸念していると伝えましたが、﹁覚悟﹂の問題としてスルーされました*2。個人的にはその他にもいくつかの理由があったのですが、そもそも﹁困る理由﹂を説明できなければ晒されるという状況が問題だと思ったため、伝えませんでした。もし伝えたとしても、今回のように﹁荻上は●●という可能性を恐れているらしい﹂と書かれる可能性がありましたし。
元々、﹁ウェブ上での批判は実名でなされなければならない﹂という主張に社会的なコンセンサスが得られていない現在で、また、私の本名自体にほとんど社会的価値がない現在で、小谷野さんの私的満足のためだけに私の名前等の情報が利用されることが端的に不快でした。小谷野さんが﹁道徳/卑怯﹂なる理由付けによって私の実名を晒したとしても、その﹁暴露﹂や﹁揉め事﹂自体が、一部読者のゴシップ的関心や、一部﹁論敵﹂による悪意の表明にしか使われないのは目に見えていましたし。
例えばおそらく今後、私を批判する際に﹁荻上チキ︵本名はうんたら︶﹂とわざわざ書く人も出てくるでしょう。実際それらしきことをしている人が既にいますし、小谷野さん自身も以前論争した方の本名などをあちこちに記してまわったという前例があります。そこには﹁道徳﹂という建前とは無関係な、﹁不快な気分にさせてやる﹂﹁現実生活に出来る限り迷惑をかけてやる﹂という悪意しか感じ取れない。小谷野さんの﹁表明している意図﹂がどうあれ、そういう“まったく﹁道徳的﹂でない”連鎖が起こることは容易に想像できたわけです。
にもかかわらず、自分の﹁道徳観﹂を優先することでそのような状況を招くこと。それが﹁道徳﹂的には許されるとは到底思えず、むしろデメリットのほうが大きく思えます。そのあたりは小谷野さんと私とでは価値観がまったく異なるのでしょう*3。
私は匿名批評、顕名批評は原則OKという立場です。今後私が実名を自ら公開し、一方で匿名の人に叩かれたとしてもそれは変えません。匿名批評、顕名批評がそれ自体として卑怯なのではなく、アンフェアな形で行われる匿名批評、顕名批評があるという認識だからです。匿名の自由と、皆が実名で書くことを望む自由とは、自由への積極度に関して大きな差があるため難しい問題ではあります。が、基本的に私は多くの方が匿名・顕名で発言することが出来る場はこれからも守り続けたいと考えております。
また、自由の問題とは別に土台の設計についての問題があるかと思いますが、しかし実名が言論の質、および言論空間の土壌を確保してくれるとは私は思いません︵小谷野さんの議論が﹁ぐだぐだ﹂だったように︶。むしろ多くの者が匿名であり続ける状況で、特定の人だけを思いつくままに晒すことによる弊害の方が問題でしょう。そもそも私たちの社会は、オフラインであっても常に﹁固有名﹂の存在であるわけではありませんし、一方でウェブにおいては実名でないと議論が成り立たないというコンセンサスもありません。
小谷野さんは﹁余程の理由が無いのなら実名で書け﹂と主張しますが、私は﹁余程の理由が無いのなら、何を名乗るかは個人の自由﹂と考えます*4。その他もろもろ、今回晒されたのが私自身でなかったとしても、今回の小谷野さんの手法や立場にはいくつもの疑問が残ります。
私個人は、今後も本名とペンネーム、その他ハンドルネーム、匿名などを場面によって使い分けていくつもりです。荻上チキ名義の言論に対しては、もちろん荻上名義で応答していきます。
今後小谷野敦-chiki 以外の場合で同様のケースも起こるのだろうなと思います。その際は、広められた側が本当に本名を晒したくない場合、晒した側は相手の選択肢を奪い、一定以上の不愉快な思いを与えることになるでしょう。晒された側がそのエントリーに批判を書いた場合、その批判や削除要求自体が、不都合なその情報を広めることに加担してしまいますし、﹁本名を書かないでください﹂と書くことなども、それが事実であるという文脈的な肯定をもたらしてしまうばあいもある。そのような状況を一方が強引に作り、晒された側は嫌々ながらもその土壌にあがらなくてはならないということ。その内容に反論があったとしても、それを公然と批判しがたい状況を作ること。そのような論法こそ私は﹁卑怯﹂であると考えます。その人が実名であろうが否が、﹁道徳﹂を掲げていようが露骨な悪意であろうが。
#そんなこんなで応答してみましたが、今回の騒動自体はとてもつまらないもので、関わってもまったく生産性が無いと思われ。ネット上での匿名性をめぐる一サンプルとして、それぞれ何かを持ち帰ってくださいませ>皆様 #あと一点。﹁最初に実名をフルで書いたのは私ではないし、音羽君でもない。2ちゃんねらーである﹂←これは間違い。タイムスタンプを見る限り、最初に書いたのは﹁音羽君﹂で、ついで2ちゃんねらーという流れです。もちろん、元々﹁誰が最初に実名をフルで書いたか﹂ということを問題にしているわけではないのだけれども。他、細かな間違いがたくさんあるけれど、反論やリンクをすることで議題を温存するのもアレなので、とりあえず以上。
︻補足︼ なお、﹁筑摩書房から聞いたと思ったらしいが、それは個人情報保護法違反だから、ない﹂と書いていましたが、これについては補足を。ある日、筑摩の編集の方から突然電話がかかってきて、﹁小谷野さんとチキさんは仲が良いのですか?﹂と聞かれたので、﹁いえ、ネットで数回やりとりしただけで、お会いしたこともありません﹂と答えました。すると、﹁実はとある編集者の方に、﹃小谷野さんから連絡があって自分はチキさんのことは良く知っている﹄といわれ、名前を知りたがっているようなのですが﹂と言われました。そこで私は﹁小谷野さんが私の情報を探しているのだなぁ﹂と判断し、﹁﹃よく知っている﹄という仲ではまったくありませんので、小谷野さんにくれぐれも何も教えてないでください﹂とお返事し、小谷野さんにも﹁編集者に、私のことをよく知っているので名前などを教えてほしい、という趣旨のことを伺ったか﹂と何度か尋ねましたが、スルーされました。情報元が封筒であろうが、編集者経由で私のことを何か探ろうとしていたのは事実のようですし、実際こうやって暴いているわけで、ぜんぜん威張れるほどのことではないでしょうそれ︵汗︶。
*1:一応はてなにもメールしてみました。
*2:後ろ暗いことをしていなければ問題ないという他の方のコメントもありましたが、そういうレベルの話じゃないでしょ︵汗︶。ご本人にも﹁自分自身の発言に後ろ暗くなくても、顧客に先入観を持たれてしまうことで、仕事に障害を与えてしまうことがあります﹂とは明記したのですが…。
*3:小谷野さんはメールで、自分の拘りは道徳や“宗教”の問題と書いておりました。私はそれも含めて趣味の問題︵暴露趣味やスキャンダリズム︶、あるいは﹁道徳﹂というよも、単に﹁気に食わない﹂あるいは﹁全員オレ並に恥をかけ﹂だと思っています。逆に居直られても困り者ですが。
*4:こちらに書いているとおり、私はこれまで性別も明かしては来ませんでした。そのことに対する批判的な?トラックバックをいただきましたが、普通に意味が分からなかったので誰か解説してください><