男マスダ︵定職就任おめ︶激奨につきこうてみた。まだ半分くらいしか読んでいないのだが、頭を抱える。
確かに随所に
﹁ナショナリズムはのっぺりと国民全部に拡散するのではなく、人種や階級といった、国内における立場の違いを、色濃く反映するのがふつうなのではないだろうか。﹂︵20頁︶
とか、
﹁日本の責任にすべてを還元し、それに都合のよい相手方の声だけ輸入を企てるという論法には、むしろ日本の覇権主義へのノスタルジーを感じる。﹂︵24頁︶
といった卓見が見られ、文化研究者としてのセンスを感じさせるのだが、いかんせんその背景をなすところの第1章の労働市場論というか、高度成長・経済発展についての記述につっこみどころが満載。これではたとえ第2章以下のカルスタの部分がよくできてても、本の価値が半減だ。
例えば
﹁石油危機を契機に、次のような事情が明らかとなった。大量生産品から多品種少量生産への移り変わりは、移り気な消費者の嗜好に合わせ、製品をすばやく転換することが求められることを意味していた。そのために生産ラインも、かつてのように一定のものをずっと作り続けるのではなく、流行に合わせて変動させねばならない。このために、企業にとっては、一つの技術に特化した熟練労働は必要がなくなり、それを育成する人的投資の必然性は、低まっていった。﹂︵29頁︶
﹁話が単純すぎる﹂とかいってもしょうがない。議論には単純化も必要だ。しかしここでの単純化はつぼを外しすぎ。﹁一定のものをずっと作り続ける﹂場合こそ、機械化・自動化によってむしろ熟練労働の必要度が低まる。むしろ生産ラインが絶えず変化を続けているような状況でこそ、少なくともラインの基幹における熟練労働の長期雇用への依存度は高くなる、という議論だって展開可能。
また政治学・社会学の人にありがちなことだが、村上泰亮の﹁開発主義﹂論を真に受けすぎだし、﹁日本的経営﹂﹁会社主義﹂を良くも悪くも過大評価しすぎ。産業政策なんてその実体も定かではないし、日本的経営は意図的に設計されたもんじゃないよ。その﹁成功﹂は﹁怪我の功名﹂だし、その﹁失敗﹂はおおむね、デフレ不況という外的要因によるものだ。︵そもそもデフレ不況ってなんだか分かってる? それは経済の構造転換などとは何の関係もないよ。クルーグマンのケインズ解説http://cruel.org/krugman/generaltheoryintro.htmlを読みなさい。︶
また財界や政府・官庁のマニフェストと経済・企業の現場の実体との間にある乖離に、ほぼ全く想像力が及んでいない。だから
﹁なぜ﹁敵﹂が、若者や団塊世代など特定の世代、あるいは中国を初めとする他国など、見えやすいものばかり選ばれるのだろうか。その不満を投げかけるべき相手とは、かつての日本の開発主義の主導層ではないのだろうか。﹂︵89頁︶
などという、相も変わらぬ悪者探しに話が落ちてしまって、﹁開発主義の既得権益が、効率よく解体されていくように、かつその権益が特定の層へと残存することのないように、監視を続ける﹂︵同上︶などという左翼精算主義そのもののダメダメな処方箋が出てきてしまうのだ。
確認しておきますが、日本経済の成功も失敗も、通産省のおかげでも何でもないよ! もちろん経団連や日経連のおかげでもない。︵失敗はかなりの程度日銀のおかげだが。︶
この手の議論を前もって封じるために﹃経済学という教養﹄を書いたつもりなんですが、読んでませんかそうですか。とりあえず読みなさい。それがいやなら岩田規久男﹃日本経済を学ぶ﹄︵ちくま新書︶と増田悦佐﹃高度成長は復活できる﹄︵文春新書︶でもよんどきなさい。
追記‥なんか第2章以降もバリバリのシバキ主義ですよう。