身の振り方を考えるついでに、日本語について考えた
Google を辞めてから、頭を冷やすためにゆっくり休んで、その間にいろいろ考えた。
辞めた時に勢いで書いた記事には﹁IME の会社を受けてみたい﹂と書いたけれど、それでいいのか確信もなかった。
だって、IME の会社というと、某国産 IME *1を作っている*2徳島の会社ってことになるんだけど、はっきり言うと…斜陽の匂いがするっていうか…。
一方で、ネットの日本語表記に対する違和感のようなものが、だんだんと自分の中でふくらんでいた。やたらと漢字が増えててムカツク…。
自分で N-gram かな漢字・漢字かな変換のような実験的なものは書いてみたけど、頑張って IME にしたところで ATOK ほどの使い勝手にならないのはわかってるし…。
頭の中で、こうしたゴチャゴチャした思いが渦巻いていた。こういう時に行動を起こしても、いい結果にならない。Google に行ってしまったのは不幸なミスマッチだったけれど、もちろん受けた自分には責任の半分がある。考えのない行動をとって、ぶつかって初めて気がつくこともあるけれど、二回連続でそういうことをやったらただのバカだ。一回失敗したら、そこで立ち止まって考えないといけない。
まずは、身の回りの日本語に気をつけることから始めた。新聞をはじめ、新書や技術書、それに小説・漫画などの紙媒体によるもの。Twitter やブログ、ネットニュースといったネット媒体のもの。
「何故」
唐突だが、﹁何故︵なぜ︶﹂という言葉について。最近、どういうわけかこの漢字のことを目障りに感じるようになってきていた。
変な話だ。﹁何故﹂という表記は昔からあるし、ぼくも見慣れている。本棚にある小説を何冊か見てみても、新しいものにも古いものにも、﹁なぜ﹂と書くものも﹁何故﹂と書くものもある。
それでは、どうして最近になって気になり始めたのだろうか。
印刷の日本語
小説には、﹁なぜ﹂を使っているものもあれば、﹁何故﹂のものもある。前者のほうが多いが、後者も少なくはない。
しかし、新書を見てみると、﹁何故﹂はまったく出てこない。技術書・専門書・実用書でも、ほとんど出現しない*3。それぞれ別々の著者によって書かれているのに、なんで統一されているのだろう。
印刷物として出てくる日本語は、編集者や校正者といった専門職の目を通っているものだ。新書や技術書でも、小説やエッセイでも、その点では同じ。つまり、後者では﹁何故﹂が通され、前者では通されていないということになる。どうしてそうなるのだろうか。
「媒体」と「作品」
ここで気がついたのが、それらの中で日本語が占める役割の違い。新書や技術書・専門書では、まず伝えるべき情報があって、日本語はそれを伝える﹁媒体﹂だ。それに対し、小説やエッセイでは、日本語は﹁作品﹂そのものと不可分なものになっている。
それらの日本語を比べてみると、その他の点でも新書や技術書などの表記は均質で、小説やエッセイの表記は多様だということに気づく。小説では、﹁質問する﹂という意味での﹁きく﹂を書くのに、﹁聞く﹂と書く人もいれば、﹁訊く﹂と書く人もいる。それに対し、新書や技術書では、著者や出版社にかかわらず、大部分が﹁聞く﹂だ*4。
ここでは、小説などに見られる多様な日本語表記を﹁小説スタイル﹂に対して、新書や実用書などに見られる均質性の高い日本語表記を仮に﹁実用スタイル﹂と呼び、後者について考えてみる。
実用スタイル
﹁実用スタイル﹂は、ひとつの標準的な規範があるわけではなく、細かく見るといろいろな違いがあるが、ゆるく共有されているものがあるように見える。
いくつか特徴を挙げると、
●形式名詞︵〜すること、〜するため、〜するはず 等︶は仮名書きする。
●副詞︵ようやく、しばらく、まず、なぜ、ほとんど 等︶は仮名書きする。
●接続詞︵つまり、しかし、または 等︶は仮名書きする。
●補助用言︵〜しやすい、〜しにくい、〜してみる 等︶は仮名書きする。
●当て字︵彷徨う、可笑しい 等︶は、なるべく使わない。
●人によって使用・不使用が一定しない用言の書き分け︵﹁解る﹂と﹁判る﹂、﹁覚える﹂と﹁憶える﹂、﹁聞く﹂と﹁訊く﹂ 等︶は、なるべく使わない。
●漢語は常用漢字でないものも漢字で書く。
など。
ネット上の文章の中で、このスタイルで書かれたものの例としては、有名な﹁森のくまさんの謎﹂がある。
上の特徴は原則で、例外は多くある。形式名詞の中で、﹁〜する事﹂はほぼ存在しないが、﹁〜する時﹂は多少ある*5。副詞の中で、漢語で、漢字で書く習慣のあるもの︵﹁結構﹂﹁実際﹂等︶は漢字でも平仮名でもいい。用言の書き分けも、著者によっては少しある。
﹁実用スタイル﹂の均質性は、原則によるものだけではない。単語ごとに、何を漢字書きして何を仮名書きするかがある程度決まっている。たとえば、常用漢字表外の漢字や読みでも、﹁歪める﹂は使われることもあるが、﹁喚︵わめ︶く﹂はほとんど使われない*6。
これらの工夫により、﹁実用スタイル﹂で書かれた書籍は高い均質性を持っている。このことは、手近にある新書や実用書でも確認できる。﹁言語の興亡﹂︵R. M. W. ディクソン 著、大角 翠 訳︶、﹁論文捏造﹂︵村松秀 著︶、﹁日本語入力を支える技術﹂︵徳永 拓之 著︶といった、ばらばらのジャンルのもので比べても、目につくほどの書き方の違いはない。
この均質性は、情報の効率的な伝達を目的としているように見える。小説やエッセイと違い、新書や実用書・技術書のようなものは飛ばし読みをすることが多い。そのためには、主要な情報を担う部分が漢字書きされ、そうでない部分が仮名書きされていれば、メリハリが利いて読みやすい。また、同じ言葉は常に同じように書かれているほうが認識しやすい。
このスタイルは、時代とともに洗練され、少なくとも 1970年代には落ち着いてきていたようだ。1950年代の本、たとえば﹁いかにして問題をとくか﹂︵G. ポリア 著、柿内 賢信 訳︶では、上で挙げたような原則にのっとらないものがしばしば見られる。副詞や接続詞・補助用言などに漢字が残る一方で、今では見ないような平仮名書きもある。たとえば、﹁おちいり易い﹂のようなものはその一例だ。しかし、﹁微積分のはなし﹂︵大村 平 著︶という 1972年の本では上の原則が守られていて、2012年現在の本とほとんど同じように読める*7。意外にも、ワープロ出現以前である 1970年の時点で、当用漢字表はすでにあまり顧みられていない。ワープロよりも、経済成長に伴う教育レベルの向上のほうが影響が大きかったのだろうか。
ぼくが﹁何故﹂に違和感を持ったのは、ネットニュースでそれを見た時だった。以前であれば、ニュースは﹁実用スタイル﹂であるため、﹁何故﹂は出てこなかったところだ。
ぼくは印刷の日本語に関わったことがないので、﹁実用スタイル﹂の実態については書籍として出ているものから推測することしかできない。だが、推測した分については実例に見る実用文のスタイルにまとめた。なぜ素人の自分がこのような記事を書くのかについては、後で述べる。
日本語表記の変化
ぼく自身の個人的な体験としては、ふだん目にする日本語は大きく変わった。
それは、分解すると二つになる。一つは、読む日本語の大部分を占めるものが、印刷の日本語からネットの日本語に移ったという、対象の﹁交替﹂。もう一つは、ネットの日本語そのものの﹁変化﹂。
対象の交替は、ネットをする人の多くが経験していると思う。ぼくの場合は、ふだん見る文章のかなりの部分が、Twitter や、それ経由で紹介されてくるまとめサイトや個人ブログになっている。
ネットの日本語そのものの変化には、たとえば漢字の増加というものがある。これは、意識しないと気づきにくい。漢字は徐々に増えるからだ。しかし、昔のネットと比べると違いがわかる。
ひとつの例が﹁弄︵いじ︶る﹂。Twitter をやっている人は、たいてい目にしたことがあるだろう。だが、少し昔のネットでも、この書き方は少なかった。*8
それでは、なぜネットの日本語は変化するのか。また、なぜ印刷の日本語はあまり変化してこなかったのか。当たり前のことのようだが、改めて考えてみる。
ネット以前の日本語表記
ネットが出現する前は、日本語表記の主導権を持っているのは、日本語のプロフェッショナルだった。多くの人を対象とした文章は印刷物に限定され、それは作家・記者・編集者・校正者といった専門職によって独占されてきた。
スタイルで分けると、上で挙げた﹁実用スタイル﹂﹁小説スタイル﹂に﹁新聞スタイル﹂を加えた三つとなる。
この構造は、構成するメンバーが替わっても維持されてきた。
﹁新聞スタイル﹂は、新聞社に所属する記者が訓練を受けて書くのだから、当然スタイルが引き継がれる。時代に合わせてスタイルを変化させることはあるが、自律的には変化しない。
﹁実用スタイル﹂は、著者は様々だが、編集者や校正者といったプロの目を通っているものだ。著者にこだわりがあれば個人的なスタイルが残ることもあるが、全体的な傾向としては、かなり均質になる。これも、自律的な変化は起こりにくい。
﹁小説スタイル﹂は、小説家などによって受け継がれるのだが、彼らは普通、先人の小説やエッセイなどを多く読んでいるので、大枠ではあまり変化しない。時代とともに好まれる用字の傾向が変わることはあっても、それは何十年といったデータを見てはじめてわかるような、ゆっくりとしたものだ。
一般人が使う﹁個人スタイル﹂は、ほぼこの三つからの影響によって決まっていた。一対多のメディアと一対一の私信では、前者が圧倒的にあふれることになるからだ。どのスタイルからの影響をどれだけ受けるかという比重は、個人個人がどれを多く読むかによって違っていた。
ネット時代の日本語表記
この図式を大きく変えたのがインターネットだ。
ネットの出現によって、無名の個人にも複数人を対象として情報を発信する機会が与えられた。途中にいろいろな段階はあったものの、今のネットでは、無名の一個人が書く文章を 1000人以上が読むということが珍しくない*9。Twitter では毎日そういうことが起きている。
このことで、一般人が読む日本語の中で大きな割合を占めるものが﹁新聞スタイル﹂﹁実用スタイル﹂﹁小説スタイル﹂から﹁個人スタイル﹂に移行した。
それによってもたらされるのが、﹁個人スタイル﹂の独自進化だ。
以前であれば、一般人が使う﹁個人スタイル﹂はその人一代限りのもので、お互いに与え合う影響はゼロに等しかった。
それが今では、あるAさんが好きな小説で見た表記を使い、それがAさんの友達やフォロワーに広がるということが大規模に起こるようになった。
その中で、それぞれの表記が遺伝子のように繁殖・淘汰を繰り返すことになる。
この生態系の中では、﹁読みやすさ﹂はあまり繁殖力に影響を与えない。﹁難しさ﹂のほうが、かえって繁殖に有利に働く。
ひとつの例として、ある Q&Aサイトでのやりとりを見てみる。﹁手が悴んでしまって思うように作業が出来ないとき皆様はどうしますか?﹂という質問だ。﹁悴む﹂は﹁かじかむ﹂と読むが、これは伝統的にはほとんど使われてこなかったものだ。
青空文庫という、著作権に問題のない古い作品を主に公開しているサイトで、平仮名の﹁かじかんで﹂を検索 すると、29件の検索結果があり、その中にはよく知られた作家の名前もある。しかし、﹁悴んで﹂は 0件だ。もちろん青空文庫が過去のすべてではないが、少なくとも﹁かじかんで﹂と﹁悴んで﹂では前者のほうが多く使われていたということはわかる。みんなが知っているようなものでないことは確かだ。
だが、上の質問に対する24件の回答の中に、﹁読めない﹂と言う声はひとつもない。何らかの手段で読みを調べたのだろうが、それは表面に表れない。回答一覧を見ると、﹁﹃悴む﹄を﹃かじかむ﹄と読むということはみんな知っている﹂ように見える。
﹁難しさ﹂がプラスの要因として働きがちな生態系の中では、時間の経過とともに、今まで使われなかったような難しい表記が増えていく。また、表記が完全に淘汰されるということもなかなか起こらず、同じ意味を表す表記が並立し、使い分けがランダム︵無作為︶になっていく。
次から、表記の﹁難解化﹂と﹁ランダム化﹂のそれぞれについて考えてみる。
表記の難解化
日本語にはもともと、多くの難しい訓読みや当て字がある。ネットで適当に探してみたら、﹁訓の訓え﹂や﹁熟字訓・当て字﹂というページなどが見つかった。これらの中に、どれだけ慣れ親しんだものがあるかは人によって違うだろう。
昔から、個人個人の知識量には大きな開きがあった。これらの表にあるものでも、もっともよく知られたものを少し読めるだけの人もいれば、ほとんど全部読める人もいた。
じゃあ、なぜ今になって問題になるのか。
ポイントは、﹁ネットのクラスタ化による﹃普通﹄の変化﹂と﹁﹃公﹄と﹃私﹄の曖昧化﹂の二点。
ネットのクラスタ化による「普通」の変化
﹁クラスタ﹂というのは、似たような趣味や好み・専門などを持った人の集まりぐらいの意味で、ネット上で形成されやすい。これは、いろいろなレベルで起こる。
たとえば、Twitter の中ではIT技術者はIT技術者とつながり、言語好きは言語好き同士で集まるなどして、それぞれのゆるいクラスタができる。また、Twitter をする人は、2ch をする人などと対比して、全体でひとつのクラスタと見ることもできる。そういったいろいろなクラスタを描写したのがここで紹介されている画像︵下品なものがあるので注意。また、少し古い︶。これはネットのヘビーユーザー向けの内輪ネタなので、そうでない人にはピンとこないと思うが、それぞれ違う雰囲気のものとして描かれているのがわかると思う。またネット自体も、全体としてひとつのクラスタだ。
長時間ネットをする人は、自分が属するクラスタの文章を読むことが多くなる。昔、﹁ネットサーフィン﹂という言葉があり、いろいろなウェブサイトを次から次へ移動するさまを描写していたが、これはほとんど死語になっている。ぼく個人でいうと、ふだんネットでしているのは Twitter と、そこで紹介される記事の閲覧、そのはてブ*10チェックが大部分だ。同じクラスタの人は似たようなことをしているだろうし、別のクラスタの人はそこを巡回しているだろう。
このクラスタ化によって、﹁普通﹂という感覚が個別化される。ある人にとって、その人が属するクラスタ内の人がみんな知っていること・使っている言葉・表記のしかたが当たり前のものとなる。
﹁普通の個別化﹂は単語でも表記でも起こりえるが、単語の場合は知識の違いを意識しやすい。たとえば、ネット上で﹁誰得﹂という言葉を覚えた若い人は、それがネット上のものだと知っているので、ネットをしない人に使って通じるとは思わないだろう。
表記に関しては、﹁普通﹂のずれに気づきにくい。たとえば、﹁捗︵はかど︶る﹂というものがある。これは 2ch・Twitter・はてブ などのネットクラスタでは常識だろう。しかし、非ネットクラスタにとってはそうではない。
中納言︵要登録︶という、現代の日本語をバランスよく収録することを目的としたデータベースを検索できるサイトで、ネットのものを除外して検索すると、﹁はかどる﹂の 107件に対し、﹁捗る﹂は23件しかない。Twitter でよく見る﹁仰︵おっしゃ︶る﹂も、﹁おっしゃる﹂の 4,792件に対し62件だけだ。他にも、﹁貶︵けな︶す﹂﹁虐︵いじ︶める﹂﹁喚︵わめ︶く﹂﹁弄︵いじ︶る﹂なども、ネットでは漢字をそれなりに見るが、ネット以外では平仮名書きが主流だ。
これらの中には、上で挙げた﹁悴む﹂のように、昔から平仮名書きの伝統があったものもある。たとえば、青空文庫で﹁けなす﹂と﹁貶す﹂を検索すると、5:1 ぐらいで仮名書きのほうが多いことがわかる。﹁いじめる﹂と﹁虐める﹂・﹁苛める﹂でも、﹁いじめる﹂の 124件に対し、漢字はそれぞれ8件と13件しかない。
このように、ネットをする人としない人・またネットをする人でもクラスタによって、漢字の知識︵IME から発掘されたものを含む︶に大きく開きができ、またそれに無自覚になりやすい。ネット上でたとえば﹁貶︵けな︶す﹂という書き方を知った若い人は、それが自分のおじいさんやおばあさんには読めない、あるいはひいひいおじいさんにも普通は読めなかったとは想像できないんじゃないだろうか。
「公」と「私」の曖昧化
携帯もないような昔にも、クラスに漢字オタクがいて、そいつが書くものを見たら﹁所謂︵いわゆる︶﹂だの﹁忽︵たちま︶ち﹂だの漢字ばっかり――という光景は日常的にあった。もちろん、それは本人の趣味なので、特に尊敬されることもないが軽蔑されることもなく、普通に共存していた。自作小説を読まされるといったことでもない限り、誰にも何も影響を及ぼさないからだ。個人が書く文章は、何の公的な役割も持っていなかった。
それが SNS︵Facebook や Twitter のような、ネット上で人と人とがつながるサービスのこと︶によって変わってきている。﹁地震発生時に﹁役に立った﹂、ツイッター79%、フェイスブック62%﹂という調査があるように、私的なものである SNS が、現実的に﹁役に立つ﹂ということが増えている。
こうなると、それらをしないことが実際的な不利益をもたらすことになり、﹁しなければしないでいいじゃないか﹂の一言ですませられなくなってくる。携帯電話の出現によって公衆電話が激減し、また人と会う約束をする時には携帯を持っていることが前提になったため、持たないままの人がそれまでよりも不便になったように、Twitter や Facebook が多くの人をカバーするようになると、それらに参加しない人はそれまでよりも不便・不利になる。
SNS がそういう公共的な性質を帯びると、個人の表記が純粋にその個人で閉じるものではなくなってくる。本人が文字をどう書くかは自由という原則の一方で、他人に通じにくい書き方をすることが実際的な不都合を引き起こすという可能性が出てくる。また、デジタル化のために漢字を書くことの障壁がずっと下がっている上、表記の繁殖・淘汰という生態系の中で、難しい漢字が増殖しやすい環境が整っている。さらに、﹁普通の個別化﹂によって、昔の漢字オタクであればわかっていたような、﹁普通の書き方とはどういうものか﹂ということがわかりにくくなる。
表記のランダム化
ネット上の日本語表記は、以前よりもずっとランダム︵無作為︶に近いものとなっている。以前であれば、小説家Aの作品を読むと一貫して﹁何故﹂が使われていて、小説家Bの本では一貫して﹁なぜ﹂と書かれているというように、一定時間の読書中には統一した表記を見ることになっていた。それが Twitter では、たとえば書籍10ページ分の文章を読む間に、5個の﹁何故﹂と3個の﹁なぜ﹂、2個の﹁何処﹂と4個の﹁どこ﹂を目にするというようなことが当たり前になっている。
複数の表記を日常的に見ていて、そのニュアンスの違いが薄れてくると、文章を書く時にもそれらを混在させやすくなる。たとえば、id:shi3z さんの﹁6歳から60歳まで、幅広い年齢層にゲームプログラミングを教えてみた ﹂の記事を例にとると、﹁躓︵つまず︶かせる﹂﹁つまずく﹂﹁つまづく﹂がそれぞれ1回ずつ出てくる。仮名遣いの問題は置いておくとしても、ひとつの文章中で同じ単語を漢字と仮名で書いている︵この﹁躓く﹂は難解化の象徴でもある︶。別の例では、個人的によく読む技術ブログをサイト内検索して﹁なぜ﹂と﹁何故﹂の個数を数えてみたところ、45件 対44件と、ほぼ拮抗していたということがある。詳しく見ても、使い分け基準があるということもなかった。ほぼ完全にランダムということだ。どちらが﹁普通﹂という意識がないということだろう。
またネット上の文章は、日本語のプロの目を通っていないので、伝統的な使い分けもいい加減なものが多い。Twitter はもちろん、ブログなどでもそうだ。﹁うざいおっさんの話﹂から例をとると、﹁実力を図る﹂︵正しくは﹁実力を測る﹂︶、﹁憎まれ口を聞いて﹂︵﹁憎まれ口を利いて﹂︶のような間違いがある*11。もともとアマチュア*12が書く文章というのは、頭がいい人や文章力がある人でも、文字の使い分けなど細かいところがしっかりしていないことが多いので、そういうエッセイのようなものが印刷物として世に出る時にはプロによるチェックが入っていたのだが、ブログではそのまま出てしまう。文章としての質はともかく、日本語の書き方としてお手本にはならない。
このように、ネット上ではニュアンス・意味の両面で使い方がバラバラなものを継続的に目にすることになる。
それぞの表記が持つニュアンス・意味の両面に鈍感になると、上で述べた﹁媒体﹂と﹁作品﹂の両方に影響が及ぶ。
媒体の日本語は、再生産が難しくなる。媒体としての日本語では、均質性や平易さが重視されているのだが、ふだんから基本となるような均質な日本語に接していないと、どの書き方が一般的で平易なものかがわからなくなる。ここで仮に﹁実用スタイル﹂と呼んでいるような表記というのは、もともと人工的に維持されてきたものなのだが、一般人が目にする表記がそれから離れるにつれ、維持することがますます困難になる。
作品の日本語では、その消費に影響が及ぶ。小説を書く人は、それぞれの言葉をどう書くかに気を遣っていることが多い。﹁なぜ﹂と書くか﹁何故﹂と書くか、﹁聞く﹂と書くか﹁訊く﹂と書くかといった細かいことが、その作品の雰囲気に関わってくるからだ︵これは、﹃﹁聞く﹂と﹁訊く﹂の使い分け﹄という別記事にまとめた︶。しかし、それらを同じようなものとして消費されると、著者が作品にこめてきた雰囲気の一部が失われてしまう。
このように、表記のランダム化は、﹁効率﹂﹁味わい﹂の両面で、これまでの日本語の仕組みに影響を与えることになる。
ネット時代の日本語入力
﹁難解化﹂・﹁ランダム化﹂には、日本語入力システムも関わってくる。
パソコンでの伝統的な IME や、いわゆるガラケーのような﹁変換キー﹂のあるシステムでは、表記は比較的統一されやすい。
仮名やローマ字を入れて変換キーを押すと、まず第一候補に変換される。この時、たとえば﹁行って﹂と変換したいのに﹁言って﹂が出てきたら、誰でも正しいものを選ぼうとする。しかし、たとえば﹁携帯いじってた﹂と変換されたものを、﹁いじってた﹂から﹁弄ってた﹂に選び直すという人は、それほど多くないだろう。伝統的な入力システムは、﹁実用スタイル﹂に近い、均質性の高い日本語を第一候補として出すようになっているため、自然とこれまでの日本語に近いものが入力されやすかった。
この構図を変えたもののひとつが Google 日本語入力だ。
Google 日本語入力は、ネット上の混沌とした日本語表記をそのまま反映している。たとえば、﹁ほとんどいない﹂で変換キーを押すと﹁ほとんどいない﹂のままであるのに対し、﹁ほとんどない﹂は﹁殆ど無い﹂になる*13。伝統的な入力システムでは、ひとつの単語に対して、安定しない複数の表記を出すことが許されるという発想はなかったところだ。もちろんその変換結果は、それ以前から混乱していたウェブ上の日本語を元にしているのだろうが、それを再生産することになる。
その他には、Google 日本語入力には﹁活用形を通した一貫性﹂というものもない。﹁けなす﹂という動詞を例にとると、﹁けなす﹂﹁けなさない﹂で変換するとそのまま﹁けなす﹂﹁けなさない﹂となる一方、﹁けなして﹂﹁けなした﹂は﹁貶して﹂﹁貶した﹂になる。同じ言葉に対して、その活用形によって違う表記を出してくる*14。
これは、﹁伝統的に使われてきた漢字・平仮名の使い分けをしたい﹂という人や、﹁同じ言葉には同じ表記を一貫して使いたい﹂という人には使いにくい。難しい漢字が最初の候補として出てきたりする上に、一貫性を持たせようと思うといちいち選び直さないといけない。しかし、難解化・ランダム化といったネット時代の風潮にはよく合っている。Google 日本語入力の隆盛は、ネット上で日本語を使う人の中に、平易さ・一貫性などよりも、﹁単語がどれだけ入っているか﹂ということのほうが重要だと思う人が多いということを反映している。
もっとも、日本語表記に与える影響が Google 日本語入力よりももっと大きいものがある。それはスマートフォンの日本語入力だ。
スマートフォンで日本語を入力する時、第一候補という概念はないに等しい。どの入力システムでも、﹁なぜ﹂と﹁何故﹂は横に並んで提示され、どちらかをタップして選択する*15。
これはランダムな表記を再生産する。﹁なぜ﹂と﹁何故﹂から受けるニュアンスの違いを感じないユーザーが使うと、これらはその時々で無作為に選ばれやすい。
スマートフォンの日本語入力は、難解化も促進する。﹁かじかむ﹂と平仮名で入力すると、﹁かじかむ﹂﹁悴む﹂が並んで出てくる。本で﹁かじかむ﹂という表記を見たことがない人は、﹁自分が知らないだけで﹃悴む﹄が正しい表記なのだ﹂と思うこともありえる。
このように、Google 日本語入力やスマートフォンの入力といったものにも支えられて、難解化とランダム化が進んでいくことになる。
今後の日本語表記
日本語表記の難解化・ランダム化は、今後も継続しそうに思える。スマートフォンの増加は続いているし、Google 日本語入力のユーザーも増えているだろう。日本語表記の未来がこれまでと違うコースになる兆候は見えない。
この流れが変わることはあるだろうか。流れには入力方式が関わっているので、それが変わるなら、ないこともない。可能性は大きくないように思えるが、二つの候補を考えてみる。
ひとつは音声認識による入力。日本語を書く時に、機械に向かってしゃべったら漢字仮名交じり文になって出てきて、その中で間違っている部分・気に入らない部分を直すというやり方になる。
音声認識では、第一候補が大きな影響力を持つことになる。それが﹁実用スタイル﹂に近いものであれば、書き方にこだわりのない人は統一性のある読みやすい日本語を、こだわりのある人は一手間かけて味わいを加えた日本語を書くことができる。
しかし、音声認識は現時点でもかなりの精度を誇っているのに、使われる場面は少ない。メールやツイートに使うには、いろいろな障壁がある。記号や顔文字の入力が面倒だというのもその一つだろう。音声認識の精度が 100% になったとしても、道を歩きながら携帯に向かって﹁やったー びっくり﹂とか﹁よかったね おんぷ﹂などとしゃべりながらメールを入力する光景は想像しにくい。
もうひとつは、一応検討しておくと、脳波による入力だ。頭の中で入力したい音をイメージすると、テキストとして認識してくれるというもの。これなら、記号や顔文字などの入力もスムーズにできるようになるかもしれない。
これは理想的だが、今の世代でまじめに検討できるようなものじゃないだろう。
未来のことは誰にもわからないが、無難な予測としては、今後も難解化・ランダム化という流れは変わらないというものじゃないだろうか。
「実用スタイル」は必要なくなるのか
それでは、今後﹁実用スタイル﹂のような均質な日本語は必要なくなっていくのだろうか。長期的にはわからないが、短期的にはそうではないと考えている。
ネットで日本語表記が変わりつつあるといっても、これまでの日本語表記をAとして、それが統一されたBに変化しているというわけではない。A'・A''・A'''…というように、個人によっていろいろな方向に進化している。だからネット上でも、みんなによって共有されていて、読みやすいと感じる日本語表記は、相変わらずAに近いものじゃないだろうか。上で挙げた﹁森のくまさんの謎﹂のようなものは、どのクラスタの人にとっても、またネットをしない人にとっても読みやすいものだと思うが、どうだろうか。
長期的には、新たな安定状態に収束するのかもしれない。小学生のうちから Twitter 的なものに触れる層と、テキストメッセージぐらいしか使わない層との分離が固定化して、前者にとって読みやすいものと、後者が読めるものとのずれが決定的になるということも考えられる。
しかし、今はまだその段階ではなく、﹁実用スタイル﹂のような日本語は誰にとっても読みやすいものだろう。
「実用スタイル」のアピール
﹁ネットのクラスタ化﹂によって、﹁何が普通か﹂ということがわかりにくくなっているということは、上で書いた通り。
こうなると、﹁誰にとっても読みやすい文章を書く﹂ということは難しくなる。以前であれば、﹁自分の周りの人に読みやすそうな文章を書く﹂と心がけていれば、読みやすい文章は書きやすかった。たとえ自分が漢字オタクであっても、﹁クラスメートが普通に読めるような書き方﹂というものは意識できた。しかし今では、ある人にとっての﹁自分の周りの人﹂は、ネットで漢字の知識を大量に身につけた人たちかもしれない。読みやすいように書こうと心がけていながら、﹁所謂﹂﹁忽ち﹂のような書き方をするということが起こりえる。その人にとっては、周りの﹁みんな﹂が読めるからだ。しかしそれは、公立小中学校でのクラスメートが普通に読めるようなものではないかもしれない。
誰にとっても読みやすい文章を書くことが難しくなっているということは、ネット上でアピールしていく必要があるんじゃないだろうか。今のネットでも、ある程度まとまった文章は﹁読みやすさ﹂を意識していることが多い。完全ではないにせよ、副詞や接続詞の仮名書きなどは行われている。そういう土台があるところなら、このことを意識化してもらうことで、より注意して書くきっかけになるかもしれない。
もともと、書き言葉というのは人工的なものだ。言葉が自然に話せるようになるのと違って、自然と書けるようにはならない。Twitter のようなものは別として、ネットに実用的な文章を公開する時には、その参考になるようなものがあったほうがいいんじゃないだろうか。
そう思ってまとめたのが、﹁実例に見る実用文のスタイル﹂。印刷業界に関わったこともない自分がこういうものを書くのは僭越︵せんえつ︶としか言いようがないのだが、﹁印刷とネットのギャップ﹂を埋める中間程度のものが必要だと思ったので、とりあえず公開してみた。不完全なものでも、これが刺激になって、もっといいものが出てきてくれればと願っている。
日本語表記を守る意義
日本語表記が大きく変わってしまうと、過去とのつながりも弱くなってしまう。いま40年前の本が違和感なく読めるのは、その間ずっと、高度に均質な日本語表記が維持されてきたからだ。
戦後の国字問題では、﹁効率﹂対﹁伝統﹂というのが大きな論点だったようだ。これまでの表記は難しすぎたから効率的にしようという意見と、これまでの表記を大切にしようという意見だ。結局、効率のために伝統をある程度犠牲にするという国字改革が行われた。その後、音読みの漢字熟語は表外字でも使うようになるなどの微調整が続き、時間の経過とともに、この対立は自然消滅に近い状態になっている。
いま起こっているのは、﹁効率﹂対﹁伝統﹂という対立ではない。
表記の難解化に伴って、﹁何時︵いつ︶﹂と﹁何時︵なんじ︶﹂、﹁拘︵かかわ︶らず﹂と﹁拘︵こだわ︶らず﹂、﹁擦︵す︶る﹂と﹁擦︵こす︶る﹂、﹁捻︵ねじ︶る﹂と﹁捻︵ひね︶る﹂のような曖昧性が増える。これは効率的とはいえない。また、﹁貶︵けな︶す﹂や﹁虐︵いじ︶める﹂のような、戦前から平仮名で書く伝統があったようなものまで漢字表記が増えたりする。これは伝統的でもない。二重の意味で望ましくないことになる。
表記のランダム化も、もちろん﹁効率﹂と﹁伝統﹂の両方を同時に損なう。バラバラな表記が区別せずに使われるようになると効率的な認識を妨げる上、文章の中では一貫した表記を使うという伝統からも外れる。
誰が困るのか
日本語表記が難しくなり、またランダムになっていくことで、誰が困ることになるだろうか。
情報処理能力の高い人は、ネット的な日本語表記の変化に困らされることは少ないだろう。中でも、本を書くような人は、上で述べたような印刷でのスタイルを身につけていることが多い。Twitter などで同じクラスタの人たちをフォローしていたら、これまで通りの読みやすい日本語が多くを占めることになる。たまに別のクラスタで自分の知らない漢字を目にしても、ネットで多くの文章を読んでいれば、推測したり調べたりしながら漢字の増加に余裕を持ってついていくことができる。
じゃあ中間層はどうか。もともと漢字の知識がそれほどでもなく、ネットで読む文章の量もあまり多くない人は、かろうじて変化についていくことになる。上の Q&A サイトでのように、難しい漢字が出てきたらその場で調べて、﹁正しい書き方﹂の知識に追加する。そして、自分でも難しい漢字を再生産することになる。
そういう中で、情報処理能力の低い人が、ただでさえ文字に弱いところに追い打ちをかけられるんじゃないだろうか。最近、﹃元ヤン・元ギャル30代の6割が﹁SNSをまったく利用しない﹂﹄という調査*16があったが、そこで言われているような格差が促進されることになる。
たとえば、成績が中の下ぐらいの高校生が SNS のことを知って、成績が中の上ぐらいの同級生のページを見に行ったとする。そこでの記事が、たとえば﹁最近ゲームに嵌ってて、その所為で寝不足気味﹂とか﹁何時訊いても答えてくれなくて苛々する﹂のようなものばかりだったら、入っていけないんじゃないだろうか。読めない字の割合が高いと、調べるのが追いつかない。そうなると、SNS の有用な面からも取り残されてしまう。
この仕組みの難しいところは、困っていると言う人・言える人・言って聞いてもらえる人がいないというところだ。情報処理能力の高い人は、そもそも困らない。中間層は、困っていても困っていないふりをする。情報処理能力の低い人は、困っていると言ったとしても相手にされず、﹁漢字が読めない大学生﹂といった、中間層が下を見て安心するネタとして消費されてしまう。
最近、漢字が読めないと発言して、袋叩きに遭っている例を実際に見た。
ある日、買った本に読めない漢字が多いと苦情を言っている人がいます……。という@tomomachiさんのツイートがリツイート︵拡散︶されてきた。﹁別冊映画秘宝アメコミ映画完全ガイド ダークヒーロー編﹂という本のようだ。そのレビューには、﹁356 人中、10人*17の方が、﹁このレビューが参考になった﹂と投票しています。﹂とある。346人が、﹁参考にならなかった﹂をわざわざクリックしたということだ。
読まないで何かを言うのもなんなので、ふだん買わないようなこの本を購入して、中身をじっくり見てみた。さすがに印刷物なので、簡単な言葉を難しい漢字で書いてあるところは多くない。どちらかというと語彙が難しいと言ったほうがいいもので、書いた人や実際に読んだ人から見たら、確かに見当外れなところはあるだろう。
怖いのは、これがふだん映画を見ない*18ぼくに届くぐらいに拡散され、Amazon で 300人以上に袋叩きにされるということだ。その中で、この本を実際に買って読んで﹁これは別に難しくないのに難しいと言っている﹂と思った人が何人ぐらいで、本を読んでもいないのに﹁漢字が読めないなんて言っているバカがいる﹂と叩いた人が何人ぐらいいるんだろう。まあ、346人全員、読んだ人なのかもしれないけど。
本離れ
印刷の日本語は、今でもほとんど変わっていない。今年買った﹁日本語入力を支える技術﹂︵徳永 拓之 著︶や﹁閉じこもるインターネット﹂︵イーライ・パリサー著︶で使われているスタイルも、ここで﹁実用スタイル﹂と名付けたような均質なものだ。
ネット上で、表記の難解化とランダム化が自律的に進行する背景には、印刷の日本語が﹁基準﹂として有効に機能していないということもあるんじゃないだろうか。
実際に、本は以前よりも読まれないようになっている。﹁1か月読書せず50%…20歳代の﹁本離れ﹂に歯止めかからず 読売世論調査﹂という 2ch まとめがあるが、そのコメントを見ても、﹁ネットで文字を読んでるからいいじゃないか﹂というものが多い。
本離れは、下流層だけで起こっているとは限らない。個人的には、次のような経験をしたことがある。
以前、某企業*19に入った当初、ネット上の定番ネタが通じることに感銘を受けた。古典的なぬるぽ・ガッや台風コロッケなどからその時々の流行ネタに至るまで、まあ詳しいことは忘れたしどうでもいいけど、とにかく何でも通じた。
しかしある時、何かの拍子で﹁唯々諾々︵いいだくだく︶﹂という言葉の話になって、この単語をほとんど誰も知らないということがわかった。愕然とした。なんか変なパラレルワールドに迷い込んだかと思った。
いや、そりゃみんなが知っているような言葉じゃないけど、その場に来るような人なら知っているような単語だと思っていた。新書などを読んでいたら出てくるはずだ。読んでいても取りこぼすことはあるかもしれないが、一人や二人のことじゃない。
この﹁唯々諾々﹂という単語そのものが特に必要というわけではないが︵﹁唯々諾々と︵して︶従う﹂は﹁はいはいと従う﹂と言っても同じことだ︶、その背景にある︵だろうとぼくが推測した︶読書離れに驚いた。ぼくのそれまでの常識では、そこにいるような人は、本をある程度は読んでいるはずだった。
これは時代の変化なんだろうか。﹁教養主義﹂という言葉は耳にしたことがあるけど、その時代の学生に比べたら、ぼくが読んでいるような薄っぺらい新書なんて、ものの数にも入らないだろう。いま起こっているのも、それと同じことなんだろうか。
本とネット
ぼく自身の日常生活を振り返ってみると、毎日ネットで大量の情報を見ている。Twitter がメインで、最近は Gunosy も始めた。その中には、これに出会えてよかったと思うものもある。平田オリザ講演会﹃コミュニケーション教育に役立つ演劇ワークショップ﹄もその一つだ。20ページ以上あるので、ネット上のものとしてはかなり長いけれど、他の人にも一読を勧めたいものの一つだ。ネットが重要な情報源だという人は多いだろう。
考えてみれば、書籍というのは、あの長さ・あのクォリティである必要はあるんだろうかとも思う。プロクルステスのベッドのように、必要とされる長さに合わせて伸ばしているという部分はないだろうか。
本というものを、オーバースペック︵求められているレベルよりも高すぎる︶に感じることもある。上で触れた﹁閉じこもるインターネット﹂は、日本語訳で 300ページもある。エピソード満載で、注や参考文献もきっちりしていて、日本語訳も昔ながらの﹁実用スタイル﹂だ。どれだけの労力と金がかかっているか、想像もつかない。
300ページもある本を読むというのは大変だ。毎日残業して、ネットでの情報に遅れないようにしながら、休日は勉強会なんていう生活をしていたら、なかなかその時間を確保できないだろう。
一方で、ネット上で流れてくるものの中で既存媒体以外のものは、ほとんどが本でいうと10ページ分もなく、質もピンキリだ。校正がされていないのはもちろん、推敲や見直しも足りないことが多い。
高価・高品質な印刷物と、無料・低品質なネット上コンテンツとの間のギャップを埋めるようなものが、今は少ない。有料メルマガに端を発したネットのオープン論争というのがあったけれど、﹁推敲して*20長文書いてネットに出しても金にならない﹂っていうところで、なんとかしようとするとメルマガということになってしまうという話だろう*21。
あふれる情報の中で、本を読んでいられないというのはあるにしても、今のネットは、それだけ読んで物事を考えられるような質にはないんじゃないだろうか*22。
量だけで言えば、ネットは圧倒的だ。2009年の﹁Google検索進化の方向性、メイヤー副社長が語る﹂という記事によると、Web 上のコンテンツは その5年前の5エクサバイトから、2009年には 281エクサバイトにまで急増したそうだ*23。5年以上前の情報なんてわずかなものだ。
だが、情報の価値は、もちろん量だけではない。ぼくが好きな本に、ミヒャエル・エンデの﹁モモ﹂というものがあるけれど、これはただの数百キロバイトのデータじゃない。消費してそれでおしまいというものではなく、時間をかけて体験するためのものだ。
媒体は何でもいいけれど、昔の人が考えたことをじっくり読んで、日単位の時間をかけて考えるということは、やはり必要なんじゃないだろうか。
ネット上の情報を処理するだけで何でもわかった気になっていると、﹁気前がよくてフレンドリーで、うすっぺらい善意に満ちているが、考えが浅く、無神経で、 パワーさえあれば世界中の問題は解決できると信じて﹂しまうような人間になってしまうんじゃないかなぁ。
語彙力と思考力
本離れは、語彙力の低下をもたらす。
いや、そう断言していいのかわからない。どの世代だって、先人の語彙をすべて受け継いでいるわけではない。ぼくも、最近になってやっと﹁濫觴︵らんしょう︶﹂とか﹁渇仰︵かつごう︶﹂などの言葉を知ったが、自分で使うことはないだろう。今の世代も、時間経過とともに自然に失われていく程度に古い語彙を失っているだけで、本の代わりにネットで新しい語彙を獲得していて、そのバランスは変わっていないのかもしれない。
だから、﹁もし語彙力が低下したら﹂という仮定の話にする。
もし語彙力が低下したら、それはコンピュータに補ってもらうわけにはいかない。人間が平仮名で書いた文はコンピュータで漢字にできるが、少ない語彙で書いた文を、コンピュータに豊かにしてもらうことはできない。
でも、世間では﹁漢字力=国語力﹂のような考えを見ることがある。象徴的なのが、このページで紹介されている﹁僕の妹は漢字が読める﹂というライトノベルだ。
この中で、
ゆうべ、夜遅くまで動画サイトを見たのがまずかった。すっかり寝坊してしまった。
が、
どうがサイトみてたら ねぼすけ←だめっこ
になっている未来が描かれている。
いや、それは﹁語彙力﹂と﹁思考力﹂の衰退であって、﹁漢字﹂の衰退じゃないだろう。
この文を
動画サイト見てたら寝坊助←駄目っ子
に変換したって、幼稚な思考の断片であることには変わりがないじゃないか。
もちろん、書いた人はわかった上でネタでやっているんだろうけど、怖いのは、著者がターゲットにしている﹁漢字力=国語力﹂という一般通念だ。
国語教育で大事なのは、何をおいても言語による思考力と、それを支えるための語彙じゃないんだろうか。
上で挙げた平田オリザ講演会﹃コミュニケーション教育に役立つ演劇ワークショップ﹄に、
﹁国語という科目をつくるということは、まず言語を意識化させるということなんです。特に話し言葉の場合は垂れ流しているわけですから、それをいったんせき止めて、自分がどういう言葉を普段使っているかということをちゃんと意識化させるということが重要だと思っていますし、この授業の一番の目的はそこにあるわけです。
とある。
ぼくも、考えを文字にして整理するたびに、このことを実感している。
何ができるか
ネットで続く日本語表記の難解化とランダム化に対して、何かできることはあるんだろうか。
きっと、どうにもできないというのが答えなのかもしれない。この流れは、どこかに悪者がいるというわけではなく、Twitter の流行・スマートフォンの増加といった状況の中で自然に起きる、表記の繁殖・淘汰というメカニズムによるものだからだ。もしこれが、どこかの万能感あふれる会社がいい加減な IME を出して日本語を破壊している、というような単純なシナリオであれば対処のしようもあるかもしれないが、ここで書いたようなことは、iPhone の日本語入力や ATOK for Android などを使っていても同じように進んでいく。
この流れが自然なメカニズムによるものである以上、一時的に少し動かすことはできても、すぐに押し戻されてしまうだろう。もしこの記事が Twitter やはてブといったネタ消費の場で一時的にちょっとだけバズった︵流行した︶としても、あっという間に忘れ去られてしまう。
それに、いくらバズったって、クラスタ外には届かない。以前、辞めましたエントリを書いた後に、ちょっと合コンっぽい飲み会に友達に誘われて行った時*24、友達が女の子に﹁こいつが書いた記事がネットでバズって…﹂みたいなことを言い出した。女の子はキョトンとしている。ぼくは恥ずかしくてたまらなかった。普通の人が﹁バズる﹂なんて知ってるわけないじゃないか。
以前であれば、一般に読まれる日本語の発行元は新聞社や出版社などに限られていて、それらが日本語の表記を左右していた。しかし今では、それらが司る﹁印刷の日本語﹂のカバー範囲そのものが狭くなってきている。
ネットや SNS の出現によって、ネットでの日本語表記は、ネット上で日本語を読み書きできる人みんなによって決められるようになった。これは、いいことのように見える。
ただ、その結果として日本語表記が動き出した方向は、いい方向なんだろうか。だんだんハードルが上がっていく、難しさのチキンレースのようなものになっているんじゃないか。
中には、ふだん使う漢字は今までと同じぐらいの難しさでいい、難しい漢字は小説の中だけでいいと思っている人もいるだろう。まあ、もっと難しくなってほしい人もいるかもしれないから、どちらが多いかはわからないが。
問題は、﹁難しくなってほしくない﹂と思う人が多数だとしても、このメカニズムの進行が止まらないんじゃないかということ。一人一人が﹁普通﹂だと思う漢字を使っているうちに、その﹁普通﹂のハードルが上がっていっているんじゃないだろうか。
でも、考えてみたら、こういうことは世の中にいろいろある。上で触れた﹁モモ﹂という本は、﹁余裕のある生活の大切さにみんなが気づけば、世の中は変えられる。そのことを考えてほしい﹂というメッセージを持っている。でも、実際のところは﹁余裕のある生活の大切さにみんなが気づいていたとしても、メカニズムとしてそうでない方向に行ってしまう﹂という﹁メカニズム支配﹂なのかもしれない。
日本語表記のランダム化・難解化というのも、いろいろなところで起こる﹁メカニズム支配﹂の一端なんじゃないだろうか。
どう対処するか
この流れが変えられないとしたら、どうしたらいいんだろうか。
ITというのも、万能薬になるとは思えない。振り仮名をつけるにしても、現状でさえ間違いがあるのに、難解化・ランダム化によって﹁何時︵いつ︶・何時︵なんじ︶﹂﹁拘︵かかわ︶らず・拘︵こだわ︶らず﹂のようなものが増えてくるとますます難しくなる。入力時の仮名を使うにしても、編集したら乱れてしまう。使ってもらえるかどうかという問題もある。戦前の書籍にもこのような曖昧なところは多かったが、それは印刷物であって、ルビをつける手間がかけられていた。今のような、個人によって大量生産される文章で、そういうことは難しい。
学校で教えるべきものなんだろうか。以前であれば、﹁欠片︵かけら︶﹂﹁悪戯︵いたずら︶﹂﹁眩暈︵めまい︶﹂﹁欠伸︵あくび︶﹂のような熟字訓などが読めなくても、本を読まない人なんだなと思われるぐらいで、社会生活で不利になるということはなかった。しかし、SNS を使う層には、こういうものを書くことはすでに常識になってきている。﹁仰る﹂﹁貶す﹂﹁虐める・苛める﹂﹁拘る﹂のような、これまで平仮名で書かれることが多かった用言も漢字で書かれることが増えている。見るうちに慣れるということもあるだろうけれど、知らないものの割合がある程度低くないと、入り口ではじかれてしまうんじゃないだろうか。
教えるにしても、教育に割ける時間は無限じゃない。上で書いたように、国語教育には漢字以外にもいろいろとすることがある。
漢字教育が読み優先にシフトしたら、負担は抑えられるかもしれない。実際、今の生活で漢字を手書きすることは少ない。今回常用漢字に入った﹁鬱﹂が手書きできてもほとんど生活の役に立たないが、﹁捗る﹂﹁仰る﹂等が読めないと現実的な不利益がある。
じゃあ、教育が手書きの比重を減らして読みを重視する方向に変わるかというと、すぐには無理だろう。
結局、今と同じように、﹁学校で教わらない漢字は自分で好奇心を持って積極的に調べてください﹂ということになる。
でも、それができるのって、いわゆる﹁文化資本﹂のある家の子供なんじゃないのかなぁ。
中学校卒業までに常用漢字の読み書きはだいたい習うことになっているけれど、そのころには、学校で教わらない漢字の知識に大きな差がついてしまうんじゃないだろうか。
まさかとは思うけど、こういう﹁学校で教わらない漢字﹂が読めないような子供というのは、ぼくの想像上の存在にすぎないんだろうか。ぼくは教育のことは全然知らないし、ひょっとしたら今の子供はみんなITガジェットに触れていて、上のような漢字ぐらい高校生ぐらいまでには全部読めるようになっているのかもしれない。どうなんだろう。
ATOK
日本語表記の未来を考えると、やはり ATOK*25の未来は明るくないように思えてきた。
最近 ATOK は Android で売れていると聞くけれど、それはあんまり ATOK の本質的な強みじゃないように思う。
スマートフォンの入力は、﹁いまから/がっこう/いくね﹂のように、﹁文節﹂単位のブツ切りで変換することが多いため、参入障壁が低い。それでも ATOK がうまくやっているのは、UIを頑張って使いやすくしているというような要因があるんだろうけど、それは他の会社にもできる。規模の大きなところが本気で参入してきたら危うい。
ATOK の強みはやはり、ある程度の長さの仮名列を一度に変換する﹁連文節変換﹂だ。ATOK で変換すると、変換効率が高いのはもちろん、表記の均質性・一貫性・平易さといったものが考慮された結果が第一候補として出てくる。
しかし、日本語の舞台がネットに移るにつれて、この長所が目立たなくなってくる。﹁なぜ﹂と﹁何故﹂が同じように見えるなら、一貫していてもしていなくても同じことだろう。さらに、ネットクラスタの一部は、﹁はかどる﹂﹁おっしゃる﹂はもちろん、﹁いじる﹂﹁けなす﹂なども、変換キーを押したら最初から見慣れた漢字にしてほしいと思うかもしれない。しかし、公共性や過去とのつながりということを考えると、ATOK はそう簡単に従うわけにはいかない。今はまだそういう単語は多くないかもしれないが、増えることはあっても減ることはないだろう。
ジャストシステムは危機感を持っているんだろうか。
気になるのが、ATOK の若者離れ。新聞の若者離れなんて話があったけど、ATOK拡張辞書シリーズのラインナップを見ていると…なんか…若者離れしてないかなぁって…。
これも、クラスタ化という現象の一面のように思える。ATOK の顧客になるような、わざわざ日本語入力にお金を払うような層というのは、年齢層が比較的高く、ここで書いてきたような日本語の変化ともあまり縁がないんだろう。
まあ、そうやって上得意を相手にしていれば、すぐに大コケ︵←なぜか変換できない︶することはないんだろうけど。
でも、ぼくとしてはもっと若年層にもアピールしてほしい。印刷の日本語に代表されるこれまでの日本語表記には、背景にそれなりの理由があったはずなので、それを伝えてほしい。
少なくともぼくにとっては、ATOK にそう簡単に衰退してもらっては困る。撤退戦にしても、もっと悪あがきしてほしい。
身の振り方
ここで、﹁身の振り方﹂というテーマに戻ってくる。
いろいろ考えた結果、やっぱりぼくは、ここ数十年の日本語表記を擁護するサイドにつきたい、そのための仕事をしたいと思った*26。
考えてみると、ぼく自身もその恩恵に浴しながら育ってきた。均質な表記は新書や技術書などでの素早い情報収集を助けてくれたし、それが基本としてあったからこそ、小説やエッセイの日本語も引き立てられていた。できれば、この構造を守るために何かしたい。
老害っぽいけど、結局のところ、好きなものの側につく仕事じゃないと続かないよなぁと思う。もう、﹁猫好きな人が、猫を処分する職場で働く﹂ような仕事はしたくない。
前の記事にも書いたとおり、ぼくは技術に関しても日本語についても中途半端だけど、赤魔道士的な立場でできることはないか考えていきたい。
出発点は個人的な好き嫌いだけど、こうして考えてみると、日本語表記を守ろうとすることに意義がないこともないかなと思えてきた。
まとめ
簡単にまとめてみる。
まず、日本語表記について。
ネットのクラスタ化に伴って、日本語表記の難解化とランダム化が起こっていて、前者は日本語話者の分断と階層化を招き、後者はこれまで﹁実用スタイル﹂と﹁小説スタイル﹂で分担されていた日本語の効率性と雰囲気を損なうんじゃないか、そしてそれはどうにもできないんじゃないだろうか、ということ。
そして、身の振り方について。
日本語表記が難解化・ランダム化するにつれて、ATOK の持つ平易さ・一貫性といった強みはありがたみが薄れてきて、長期的には苦しいかもしれないけれど、それで生まれ育ったぼくとしては、やっぱりそちら側の仕事に魅力を感じるなぁ、と。
いま起こっていることはまだまだ小規模だし、大げさと言われたらそうかもしれない。ぼく個人が主に見るものが Twitter という短さが有利に働く場なので、特に先鋭的なものが目につくということもある。 しかし、難解化・ランダム化は、メカニズムとして確実に進行している。ネットの各クラスタもそれぞれ完全に独立なものではなく、影響を及ぼし合っている。 何かできるのか、何もできないにしてもどう対処していくのかを考えていきたい。
というわけで、身の振り方を考えるにあたって、必要に迫られて考えたのが以上のようなこと。 ﹁個人的な身の振り方﹂という、他人にはどうでもいいであろうことと、﹁日本語表記について﹂という、他人にも読んでほしいことが一緒くたになっていて変な感じだけど、そういうところはネット的な適当さでいいんじゃないかと思ってそのままにした。
考えすぎて疲れた。これを公開したら、また趣味のプログラミングに戻ろうかな。
おまけ
いま起こっていることはまだまだ小規模だし、大げさと言われたらそうかもしれない。ぼく個人が主に見るものが Twitter という短さが有利に働く場なので、特に先鋭的なものが目につくということもある。 しかし、難解化・ランダム化は、メカニズムとして確実に進行している。ネットの各クラスタもそれぞれ完全に独立なものではなく、影響を及ぼし合っている。 何かできるのか、何もできないにしてもどう対処していくのかを考えていきたい。
というわけで、身の振り方を考えるにあたって、必要に迫られて考えたのが以上のようなこと。 ﹁個人的な身の振り方﹂という、他人にはどうでもいいであろうことと、﹁日本語表記について﹂という、他人にも読んでほしいことが一緒くたになっていて変な感じだけど、そういうところはネット的な適当さでいいんじゃないかと思ってそのままにした。
考えすぎて疲れた。これを公開したら、また趣味のプログラミングに戻ろうかな。
おまけ
●﹁平田オリザ講演会﹃コミュニケーション教育に役立つ演劇ワークショップ﹄﹂を再掲します。時間がある方はぜひ読んでみてください。
●姉妹記事として、﹁実例に見る実用文のスタイル﹂﹁﹃聞く﹄と﹃訊く﹄の使い分け﹂というものを書きました。ここで書いたような﹁実用スタイル﹂と﹁小説スタイル﹂の使い分けにも関係しています。
●今は貯金でプラプラ偽ノマド︵無職︶やってます。ちなみに、前の前の職場を辞めた時も、その時までに貯めたお金で似たようなことをしてました。
*1:某/国産で、某国/産ではない。
*2:もちろん、それだけでないことは知っている。
*3:確認には﹁現代日本語書き言葉均衡コーパス﹂︵以下 BCCWJ︶を使った。ネット上にも﹁少納言﹂というサイトが用意されており、ジャンル指定をして文字列を検索できる。
*4:これも BCCWJ で傾向を確認できる。
*5:この文では﹁〜する時﹂を使っている。
*6:これも BCCWJ で確認できる。
*7:50〜60年代は青空文庫や BCCWJ の範囲から外れるので網羅的には調べられていない。この他にも何冊かの本を参照して、傾向としてはこうなっていると判断したが、間違っていたら指摘してほしい。
*8:このことは、期間指定のできるテキスト検索を使うと調べられる。 たとえば、Yahoo! 知恵袋はその機能を持っている。Google にもあるが、検索結果数が概数なので、実態に近い結果を得るためには細かいノウハウが必要となる。
*9:この文章も、Twitter でのフォロワーに読んでもらえるだけでそのぐらいになる。
*10:はてなブックマーク。実質的に、ウェブページに対するコメントのように機能している。
*11:このような用言の書き分けは、日本語を無理に漢字に合わせるものなので、個人的には平仮名で書いてもいいと思っている。
*12:ぼくもアマチュアなので、この記事もプロが見たらツッコみどころ満載だろうけど。
*13:ここでの変換結果は、執筆時の最新安定版である GoogleJapaneseInput-1.5.1109.1 に基づいている。
*14:こういうことを書くと、お前は何かできなかったのかと言われそうだが、ぼくが Google のどこで働いていたかということはこれまで書いていない。また一般論として、設計思想に根ざした部分は変えにくいものだ。
*15:第一候補から順番に選択できるボタンがあっても、初心者はあまり使わない。
*16:元ヤン・元ギャルの特定方法が面白い。
*17:執筆時。
*18:ぼくは感覚が古く、映画を﹁観る﹂というのが﹁小説スタイル﹂と感じられるため、使っていない。
*19:一応、ぼくがこれまで働いた場所は二か所ある。
*20:﹁有料メルマガだと、けっこうすごい内容が書けると思ういくつかの理由﹂に、﹁短く省略して書くと誤解されて無駄に炎上しがちなこと﹂は、全部省かなきゃならない。﹂という箇所があったけれど、これはぼく自身これを書いていても実感する。ネットをやってると、ツッコミが入りそうなところが前もってわかってくるので、予防線を張るのがしんどい。ネットはツッコミが入れられるのがいいところだけど、反射的・刹那的なツッコミは減ってほしいと思っている。
*21:個人的なアイデアとしては、ブログの文章の 95% ぐらいが公表されてて、それだけで論評できて、課金ボタンを押すと残り 5% ぐらいの余談っぽいものが読めるようなシステムでもあればいいと思うけれど、ネットでは課金が難しいんだろう。
*22:ネットが読書の代わりになるかということについては、﹁ネット・バカ﹂という本があるので、本を読まない人にも読んでほしいところなのだが。
*23:もちろん、彼女は情報の量こそすべてだと言ってはいないし、彼女を批判しているわけではない。
*24:ぼくは既婚者なのだが、合コン度の低いものを想定して行ったら、実際はそれより高かった。
*25:上で某国産 IME とか書いておいて、結局名指ししてしまった。
*26:この表記システムは伝統的でない・非合理的だという人もいるけれど、戦後育ちのぼくにとってリアルなものはこれしかない。