http://agora-web.jp/archives/1531745.html
ユニクロが安売り拡大路線をとったために、競合相手のほうが雇用を減らしてるわけですが。
イトーヨーカドーの衣料部門が不振だったり、地元デパートが潰れたり。
つまり、アパレル業界全体として見た場合、ユニクロ一社という狭い範囲で雇用拡大するために、その他の﹁非効率﹂︵つまりブラックじゃないぐらいな働き方で回転させてた程度の︶な雇用形態によって、雇用を維持していた競合他社の雇用枠が破壊されて、結果、雇用が激減してるんだろうなと、想像されるわけですが。
守らなきゃいけないルールがあった場合、ルールを無視したやつはルール守ってるやつを出し抜くことができるけど、それを常時やらかしてたら誰もルールを守らなくなり、ルールによって維持しようとしていた公共というやつを破壊することになるわけです。
http://digimaga.net/2013/04/blogger-must-fight-with-an-anonymous-person
これ。
コンビニ店長に匿名でなく粘着して直接会いに行くために某半島のローソンを徹夜で20件ぐらい訪問しまくった俺の扱いはどうなるんでしょうね、てのはさておき。
なんでコンビニ店長がうざかったかといえば、あれが﹁公共を理解しない人﹂だからです。
自称してましたからそこんとこは異論がないと思いますが、公共を理解しないというのは、ユニクロの社長さんやライブドアの元社長さんの言動が典型ですね。
コンビニ店長が彼の文章でもって提示したのは、﹁俺と同じ意見になれ﹂という価値観でした。だから﹁俺﹂という一人称を多用し、ガードを張りつつ、共感に訴えることを道筋としました。﹁書きたいことを書いている﹂と彼がいうとき、彼は自分の書いていることを少しでも異なる価値観から見直すという行為に意味を見出しませんでした。彼にはそんなことをする必然性がなかったんです。
﹁自分と同じ価値観になれ﹂て、ユニクロ社長さんと同じです。なんでそうなったか。
コンビニ店長は、よく﹁孤独な魂﹂てフレーズを使いました。
彼は昔孤独で、ネットやって仲間ができたとゆー話ですが、もちろん仲間ができた時点で孤独じゃありません。結婚したし職場で人も使ってるし。ついでに言えばネットの人気者だし。彼はとっくに孤独じゃないわけですが、彼の思考は﹁自分は孤独である/あった﹂という自身の位置づけを求めていて、彼の文章はしばしば、それに依拠する傲慢さがにじみました。
私はこれを﹁リリカルなのは症候群﹂とでも呼んであげようかと思います。
﹁リリカルなのは﹂はTVアニメのシリーズ作品です。
1作目は、﹁孤独な魂﹂の持ち主である幼い少女フェイトに共感して、その孤独を共有しようとした主人公なのはの物語でした。それが人気を博してシリーズ化し、シリーズ3作目で、主人公なのはは、当初の小学生から成長して成人女性となり、そのもって生まれた才能から異例の出世を遂げ、後進を育成する教官となりました。
教官となった彼女はどうなったか。こんな感じに、体罰をふるうようになりました。
体罰シーンも酷いものですが、このシーンに続く次の回も酷いです。前回の体罰シーンを受けて、ヴィータ︵シリーズ2作目でなのはのライバルとなり、のちに親友となった人物︶が、体罰を受けた生徒たちに対し、ひたすら﹁なのはの魂の高潔さ﹂について説明し、なのはがいかに素晴らしい人物であるかを主張し、生徒に共感を求める。ただそれだけなのです。 どうしてこうなった。 理由は簡単です。なのはは、1作目の小学生の頃と同じ思考・言動のまま、体と立場だけが大人になってしまった。逆に言えば、立場が変わったのに成長しなかった。 小学生の頃、彼女たちの﹁孤独な魂﹂は、理屈でなく共感を通じてのみかろうじて繋がるものだったから、大人に理解されずそれゆえに強く無理にでも主張しないと伝わらないものだったから、それを強引に押し通すのは、美しき反抗、でした。 ですが、それと同じことを、仲間ができて他人に指図できる立場になっても行っていれば、それは単なる傲慢でしかありません。 なんでか。小学生の少女であった当時のなのはは、世界で最弱の存在でした。弱者がちょっとかみついても、他人はあんまし傷つきません。なんせ弱いから。 大人になったなのはは、世界最強と呼んでも差支えない存在となりました。強者が殴ったら、人が死んだり、あるいは追いつめられて自殺したりする可能性があります。だって強くて誰も逆らえないから。 大人のなのはは、自分の共感する﹁孤独な魂﹂を守ろうとして、それ以外の他人を容赦なく罰します。彼女の共感する以外の﹁孤独な魂﹂の形だって、いくらでもあるのに、彼女はそれらを踏みにじり一顧だにしない。自分の理解できる・共感できる形でしか﹁孤独な魂﹂の存在を認めません。 ﹁弱者の論理﹂を振りかざす強者ほどたちの悪いものはありません。 が、世の中、﹁少数派﹂が﹁多数派﹂を弾圧し踏みにじるなんてのは、ありがちなパターンです。ホロコーストの被害者であるユダヤ人がユダヤ国家を建設したらパレスチナを占領し人権侵害にいそしんだりしますでしょ。 コンビニ店長はギャルゲーマーでした。﹁リリカルなのは﹂の元となった﹁とらいあんぐるハート﹂のような少女語りが大好きな類でした。その少女語りに共感する語り口からネットの文章を練り上げていきました。少女語りは﹁少数派﹂﹁社会に理解されない弱者のつぶやきであること﹂としてあります。そこに依拠した経験があだになってる。 だから私たちがやらなけばいけないことは、彼が孤独という物言いに寄り掛かるのを否定してあげることか、もしくは彼の存在自体を徹底的に否定してあげることで彼を再び孤独にしてやることの、どちらかになります。 それ以外の態度を彼に対しとるのは、彼を弄んでいるに等しいと私は断じます。
体罰シーンも酷いものですが、このシーンに続く次の回も酷いです。前回の体罰シーンを受けて、ヴィータ︵シリーズ2作目でなのはのライバルとなり、のちに親友となった人物︶が、体罰を受けた生徒たちに対し、ひたすら﹁なのはの魂の高潔さ﹂について説明し、なのはがいかに素晴らしい人物であるかを主張し、生徒に共感を求める。ただそれだけなのです。 どうしてこうなった。 理由は簡単です。なのはは、1作目の小学生の頃と同じ思考・言動のまま、体と立場だけが大人になってしまった。逆に言えば、立場が変わったのに成長しなかった。 小学生の頃、彼女たちの﹁孤独な魂﹂は、理屈でなく共感を通じてのみかろうじて繋がるものだったから、大人に理解されずそれゆえに強く無理にでも主張しないと伝わらないものだったから、それを強引に押し通すのは、美しき反抗、でした。 ですが、それと同じことを、仲間ができて他人に指図できる立場になっても行っていれば、それは単なる傲慢でしかありません。 なんでか。小学生の少女であった当時のなのはは、世界で最弱の存在でした。弱者がちょっとかみついても、他人はあんまし傷つきません。なんせ弱いから。 大人になったなのはは、世界最強と呼んでも差支えない存在となりました。強者が殴ったら、人が死んだり、あるいは追いつめられて自殺したりする可能性があります。だって強くて誰も逆らえないから。 大人のなのはは、自分の共感する﹁孤独な魂﹂を守ろうとして、それ以外の他人を容赦なく罰します。彼女の共感する以外の﹁孤独な魂﹂の形だって、いくらでもあるのに、彼女はそれらを踏みにじり一顧だにしない。自分の理解できる・共感できる形でしか﹁孤独な魂﹂の存在を認めません。 ﹁弱者の論理﹂を振りかざす強者ほどたちの悪いものはありません。 が、世の中、﹁少数派﹂が﹁多数派﹂を弾圧し踏みにじるなんてのは、ありがちなパターンです。ホロコーストの被害者であるユダヤ人がユダヤ国家を建設したらパレスチナを占領し人権侵害にいそしんだりしますでしょ。 コンビニ店長はギャルゲーマーでした。﹁リリカルなのは﹂の元となった﹁とらいあんぐるハート﹂のような少女語りが大好きな類でした。その少女語りに共感する語り口からネットの文章を練り上げていきました。少女語りは﹁少数派﹂﹁社会に理解されない弱者のつぶやきであること﹂としてあります。そこに依拠した経験があだになってる。 だから私たちがやらなけばいけないことは、彼が孤独という物言いに寄り掛かるのを否定してあげることか、もしくは彼の存在自体を徹底的に否定してあげることで彼を再び孤独にしてやることの、どちらかになります。 それ以外の態度を彼に対しとるのは、彼を弄んでいるに等しいと私は断じます。