プロレスファンが見た「世紀末オカルト学院」 - 1999年のマウントポジション
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■1999年のマウントポジション
1999年。果して、自分が何をしていたか? 何が起こった年だったか? 自分の記憶はとにかく曖昧で、﹁世紀末オカルト学院﹂というアニメ作品の時代背景に対するリアリティも、非常にボンヤリとしたものでした。 ところが、ある一場面が目に飛び込んできた瞬間に、一気に﹁あの頃﹂の風景が甦ってきました。![f:id:tunderealrovski:20100723235149j:image f:id:tunderealrovski:20100723235149j:image](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/t/tunderealrovski/20100723/20100723235149.jpg)
有名プロレスラーが、しかも、﹁魅せる﹂要素が強いショースタイルではなく、格闘色の強いスタイルを追求していたハズの高田が、ブラジル人柔術家の前にアッサリと敗北をする。 プロレスこそが最強であるという言説が、プロレスラーの強さが…そんな、プロレスファンがプロレスラーに抱いていた夢と希望とロマンが一瞬で瓦解をした瞬間でした。
■1999年のヒクソン・グレイシー
当時﹁最強﹂と呼ばれていた、ヒクソン・グレイシー。![f:id:tunderealrovski:20100724002436j:image f:id:tunderealrovski:20100724002436j:image](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/t/tunderealrovski/20100724/20100724002436.jpg)
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﹁世紀末オカルト学院﹂で、女子高生がマウントポジションの体勢から顔面を殴りつけられていた1999年は、ヒクソンが高田のリマッチを制し、そして船木を締め落として最強のままリングから離れる、正に﹁合間﹂の年であり、即ちそれは格闘技のメインストリームがプロレスからMMAへと移り変わる橋渡し的な年であったのです。 そして、マウントポジションは凄まじい説得力を持った格闘技の必勝術であり、この時代を象徴するキーワードであり、アクションでした。
■1999年のプロレスファン
プロレスファンにとって、1999年は最低最悪な年だったと言っても、決して過言ではないでしょう。 取りあえず、自分の語彙力では他に適当な言葉が見つからなかったので、手っ取り早く﹁最低最悪﹂という言葉を使いましたが、とにかく﹁1999年﹂という言葉に付ける形容詞は、ネガティヴで陰惨な言葉なら何でも結構だと思います。どんなに、自虐的で暗い言葉を使い尽くしても、プロレスファンの当時の気持ちと時代性を表現するのは不可能です。 とにかく、最低最悪な年でした。 ﹁平成の格闘王﹂とまで呼ばれていた高田延彦が同じ相手に二度破れ、重苦しい空気を残したまま迎えた新年度は早々に、日本のプロレス界の象徴的存在である、ジャイアント馬場の逝去という最大級の悲劇が飛び込んできました。 馬場が社長を務めていた全日本プロレスは、エースの三沢光晴らを中心とした新体制での再出発を図りますが、次第にフロントと選手間での対立が表面化、ネガティヴなニュースや憶測が専門誌で度々報じられ、結果、三沢を始めとする有力選手・スタッフの大多数が翌年離脱をし、新団体﹁Pro Wrestling NOAH﹂がスタートします。 そして、馬場と同じく日本のプロレス界の象徴であるアントニオ猪木は、1999年、突如、自身が作ったハズの新日本プロレスに牙を剥きます。この年、恒例となっている正月のドーム興行で、猪木率いる格闘技団体﹁UFO﹂と新日本プロレスの抗争が勃発。その対抗戦の中で、新日本プロレスのスター選手だった橋本真也は、オリンピック柔道銀メダリストの小川直也とシングルマッチを行い、小川のプロレスの枠を逸した猛攻の前に何もできないまま敗北。新日本の強さを体現していた橋本のショッキングな敗戦は、以降のプロレス界に大混乱を巻き起こします。 <新日本プロレス 橋本真也 vs. 小川直也>以降、小川に負けた橋本は過酷な運命に振り回され波乱万丈のプロレス人生を送り、MMAに友好的なアプローチを取ったアントニオ猪木は、新日本プロレスの格闘技路線を突き進め、その歪は数年後、武藤敬司や小島聡といった有力選手の同団体からの離脱を招き、完全に主軸を失った新日本プロレスは長らく続く迷走状態へと陥ることになります。 こうした純粋なプロレス団体だけでなく、格闘技寄りの団体に目を向けてみれば、新日本プロレス出身者で格闘技団体﹁RINGS﹂を率いていた前田日明は、﹁霊長類最強の男﹂アレクサンダー・カレリンとの試合を最後に、やはり1999年に現役を引退。 同年、RINGSは、それまでのプロレス的な枠組みを取り払った﹁真剣勝負﹂によるトーナメント﹁KOKトーナメント﹂を開催。翌年に掛けて行われた同トーナメンを勝ち抜いて優勝したのは、山本宜久や金原弘光といったプロレスラーではなく、アメリカのアマチュア・レスリングの実力者﹁アメリカン・トップ・アスリート﹂ダン・ヘンダーソンでした。 どうやら、時代は凄まじいスピードで動き始めていました。総合格闘技は、プロレスが元来持っていたテリトリーを侵食し始め、プロレスはその意義を急速に失いつつあったのです。 MMAからの侵略行為、あるいはプロレス側からの無謀な挑戦という形で、プロレスラー vs. 総合格闘家の試合は、90年代後半から2000年代の頭に掛けて、各団体・イベントで行われましたが、そのほとんどがプロレスラーの惨敗に終わり、より一層、重苦しい雰囲気とネガティヴなイメージを残す結果となりました。 1999年は、プロレスファンにとって、暗いニュースとアクシデントが立て続けに起こった年であり、﹁マウントポジション﹂に象徴されるバーリ・トゥードがプロレスの意義を全て消し去る…私たちは、ひたすら﹁リアル・ファイト﹂に押しつぶされ苦しみ、鬱々とした気持ちで日々を過ごしていました。それが、1999年、当時のプロレスファンのメンタリティーだったのです。