2月16日深夜のTBSラジオ﹁爆笑問題カーボーイ﹂に稲川淳二がゲスト出演していました。
この番組には毎回リスナーから送られる﹁稲川淳二の怪談風を装ったちっとも怖くない話﹂を太田光が稲川のものまね風に語るコーナーがあって、それが今回のゲスト出演につながってます。
そんな具合に今、稲川淳二をフィーチャーしている番組に、リスナーから質問が送られてきました。
稲川淳二さんとはもともと何をされている方なのでしょうか?
ぼくは今18歳で、物心ついたときから稲川さんはテレビで怖い話をする人という認識だったのですが、よく考えてみると稲川さんの肩書きがはっきりしません。
さらに最近買った﹁ひょうきん族﹂のDVDを見ていると、怖い話をしているはずの稲川さんが、ひもで吊され、壁にぶつけられているではありませんか!
稲川さんとはいったい元々何をやられている方で、どういう経緯で怪談をするようになったのか。不勉強で申し訳ないのですがぜひ教えてください
この若者の﹁素朴な疑問﹂に答えるかたちで、稲川淳二は自分が芸能界に入ったいきさつを語っていたのです。
今回の更新には﹁あなたの知らない稲川淳二﹂という新倉イワオ的な座りのいいタイトルをつけましたが、むしろ本音は﹁ぼくの知らなかった稲川淳二﹂。とりあえずあまり知らなかったのは﹁稲川淳二はめちゃくちゃ饒舌だ﹂ということです。
・デザイナー志望のはずが役者に 田中 稲川さんっていちばん最初のきっかけというのは何だったんですか 稲川 わたしは本当は工業デザイナーだったんです。今もそうなんですけど 田中 それはもう有名ですよね 稲川 ﹁芸能美術﹂というのをしたかったわけですよ 太田 舞台美術ですね 稲川 舞台美術。セットなんかやる。 有名な浅倉摂先生というのがいらっしゃったんですけど、この先生のまわりには何人もガードしてて近づけないわけですよ。それであたしは自分でもってデザインの世界に行ってやってたんだけど、﹁やっぱり芸能美術がしたいなー﹂と。 そんなときに、たまたまあるテレビ局の美術室の親玉に紹介されて会ったんですよ。で、実際にやりに行くったってそうそういい仕事が来ないから、どっかの劇団関係のセットを作りに行くんで、顔出しに行ったわけですよ。そこにお手伝いに行った。 マネージャーがいなかったんですあまり。そこの劇団の連中が﹁オーディションに行くんだけど、稲川さん代わりに行ってくれないか?﹂と。ほら一応スーツ持ってるし 田中 あー、“マネージャーとして”ね? 太田 口がうまいし 田中 そのときは﹁やだなーやだなー﹂って思わなかったんですか? 稲川 ちょっとやだったなー。だってマネージャーのほうが喋るんだもん。普通はもっと喋るでしょう本人たち、劇団の人のほうが。ねじこまないんだもん全然。台本見りゃ黙っちゃうしさー! 一同 笑 稲川 それで﹁しょーがねーなー﹂と思いながら帰ってきたの。終わって帰ろうと思ったら、そこにひゅっと顔を出したのが、わたしの知り合いだったんですよ 田中 ほー! 稲川 ある出版社のお偉いさんだったんだけど。﹁あ、来たの?﹂って。あたしマネージャー代わりだったんだけど、﹁おいちょっとちょっと、まだひとりいるよ﹂って呼ばれたんですよ 田中 え、オーディションのほうに呼ばれちゃったんですか? 太田 マネージャーとして行ったのに 稲川 ﹁この人おもしろいよ、飲むと﹂って、ほらしょっちゅう騒いでたから 田中 ﹁飲むと﹂なんだね︵笑 稲川 ﹁飲むとおもしろい﹂って呼ばれてたの。こっちはハナから﹁なんだこんなもん﹂って。 それはどういうの︵オーディション︶かというと、新聞を読んでね、5つくらいネタがあって、事件があって、たいした事件じゃないんだけど、子どもにわかりやすく小道具を使って説明しなさいと 田中 そういうオーディションだったんですね 稲川 ﹁あそこはこうやるのに!﹂と思ってたわけだよハタから見ながら。﹁情けないなー﹂と。だって何もやんないんです 太田 またひどい劇団でしたね 稲川 ひどい。やっぱり現代劇はひどい。で、あたし言われたからしょうがない。やったんですよ。こっち受けるつもりなかった。いつもの酒飲んでる席の人がいるから。 …みんな笑ったな 一同 笑 稲川 で、上から声がして﹁稲川さんでしたねー、ちょっとお待ちください﹂って言うんですよ。わたしは出してないんだから書類もなんにも。そしたらプロデューサーって人が来て、その時初めて﹁あ、プロデューサーって人はあんな上から降りてくるんだ﹂って思ったんだ 田中 あー、上から降りてきてね 稲川 ﹁稲川さんの秋からのスケジュールどうなってます?6時15分から月金なんですけど﹂っていうのが始まりなんですよ 太田 それで役者としてデビュー マネージャーとして付いていった劇団のオーディションの審査員がたまたま酒の席の知り合いで、その人たちを笑わせて合格。そのまま役者の道を志すことになった、という巡り合わせがあったそうです。それから松平健と公園で酒を飲んだりする時代を過ごしたそう。
・﹁オールナイトニッポン﹂への抜擢 太田 そこから役者としてやっていて? 稲川 いや役者じゃなかったんだ。ハナからそこへ行こうと思ってなかったから。子ども番組が終わったから﹁もうやめよう﹂と思ってるときに、たまたま結婚式で司会やって失敗しちゃったんだ、おもいっきり 太田 あら 田中 怖い話しちゃったんですか? 稲川 うん、ちょっとね︵笑 そこにドリフターズかなんか書いてる作家の加藤まなぶさんという方がいらしていて。知らないから。突然来て﹁今のはみんな稲川さんのネタですか?﹂っていうから﹁すいません﹂って謝ったんですよ、しょうがないから。そしたら﹁連絡しますから﹂って。 である日突然電話がきて﹁稲川さん今日夜遅くどうなってます?﹂って言うの。﹁酒飲み会かなー?﹂って思ったわけ 田中 うん﹁飲み会かなー﹂ってね 稲川 ﹁何時ですか?﹂﹁1時か2時には来てもらえないか﹂って言うんですよ 太田 いい時間ですね 稲川 有楽町の放送局のほう呼ばれて 田中 ニッポン放送! 太田 あらららら 稲川 中川さんというお偉いさんがいて﹁中川と申しますが、稲川さん、おなか空いてますか﹂って言うから﹁空いてません﹂。﹁ぼく食べてもいいですか﹂って言うから﹁どうぞどうぞ﹂。中川さんカレー食いながら﹁稲川さんどれくらい喋ります?﹂って言うから﹁え、4時間も喋ればいいですか?﹂って言ったの 太田 4時間? 稲川 ﹁いや、いいいい、2時間でいい﹂って言ったの。﹁今日喋っていって﹂って言ったの 田中 それ﹁オールナイトニッポン﹂なんですか? 稲川 そう 太田 え、いきなりですか? 稲川 そうそう 太田 そんな決まり方するの? 稲川 オールナイトニッポンおかしいのは、ぼく﹁︵担当期間の︶何年から何年まで﹂って数がね、違ってるんですよ。なぜかっていうとそれまでは﹁レギュラー﹂って言われないんですよ。毎週電話来るわけ。 ﹁稲川さん、金曜日どうなってます?﹂﹁稲川さん今日どうなってます?﹂って 太田 その日に決める!? 稲川 少し前だとか、何日か前に電話がかかってくる。夜中あいてるじゃん?ふつう 田中 そりゃあいてます! 稲川 で毎回行ってたんですよ 田中 じゃ来週あるかどうかわからないまんまやってたわけですね 稲川 だから﹁レギュラー﹂って言わないの。それが続いてたある日﹁レギュラーです﹂って言われたんですよ 田中太田 へー! 稲川淳二のオールナイトニッポンの放送期間は1976年4月から1977年9月まで。本人によると﹁レギュラー﹂の期間が曖昧だそうですが。その語り部としての始まりは結婚式の司会でのスカウトだったんですね。
・おすぎとの出会い 稲川 ﹁稲川さん、会わせたい人がいるんですよー﹂っていうの、映画の大久保さんって人がね。﹁ちょっとね、クセがある人なんだけど、音楽評論やってる人でもって﹂って言うから。﹁あ、そうですか。お名前は?﹂﹁“おすぎ”っていう人なんだけど﹂ 太田 あーそうかそうか 田中 そこでおすぎさんと出会うんですね 稲川 それでTBSで待ち合わせしたんですよ。どんな人かわかんないから。そしたら向こうで、﹁♪ジューンジーィ﹂って言うの。﹁なんだ?﹂って思ったら、そしたら柱の向こうから、変な奴がじーっとこっち見てんの 田中 アハハハ! それこそ霊ですよね︵笑 稲川 ﹁♪ジューンジーィ﹂っていうの。ふっと見たら、また来んのよ。だんだんだんだん近寄って来んの。﹁イヤだなー、あいつじゃないだろうなー、イヤだなー﹂って思ったの 一同 笑 稲川 わかります? 太い柱の右側。ぼくは左側なんだ。ズコッと顔出して﹁あ、コイツだ!﹂ 田中 来た来た!︵笑 稲川 で、そばに来て﹁淳二? おすぎョ﹂っていうの。それが初めでした 田中 それが出会いなんですね︵笑 稲川 だからみんな不思議に思うんですよ、ちゃんと段取り踏んでないから人生が 太田 みんな向こうから 田中 急にパッと頼まれたりとか 太田 不思議ですねー。そのときピーコはどうしてたんですか? 稲川 あとで来ました。おすぎだけだってさビックリするのに、あんたが問題あること言ってるのに、もうひとり来ちゃったっていう 田中 そのときはまだおすぎさんだけだからね。ちょっと早いからね 太田 映画評論でね 田中 そのときはピーコさんはまだ働いてたからね 稲川 ある日来たんですよねー局へさ。驚いちゃった 太田 驚いちゃった? 稲川 そりゃだって似たようなやつがふたり来たら 太田 どっちもオカマだし︵笑 ﹁稲川淳二のオールナイトニッポン﹂におすぎが映画評論コーナーを持ってたんですね。で、このラジオをとっかかりに﹁11PM﹂など深夜のテレビに出るようになり、﹁ほとぼりが冷めたらいつかやめよう﹂と思っているうちにタレントとして人気が出てきてしまった、と。
・怪談話を始めたきっかけ 太田 当時は僕ら子どもの頃はね、稲川さんといえば熱湯風呂入ったり 田中 いわゆる﹁リアクション芸人﹂。出川さん始めダチョウ倶楽部とか。いちばん最初が稲川淳二さんだった 太田 ﹁弱ったなー﹂ってね 田中 テレビで見る度に﹁痛い痛い痛い痛い!﹂﹁熱い熱い熱い熱い!﹂ 太田 元祖ですよね ︵中略。稲川出演﹁アフタヌーンショー﹂の懐かし話の後︶ 太田 そこから、でも突然なんかそのね 田中 怖い話 太田 ﹁人形﹂の話でしたよね最初 稲川 怖い話は実はそのニッポン放送にいたときに、︵オールナイトニッポンが︶﹁2部﹂でしょ?3時から始まるわけですよ。そうすると人が来てて、あたしの仲間内も観に来てて。時間つぶしに﹁聞かせろ聞かせろ﹂と来るわけですよ。あたしけっこう誰にでも話してたから 太田 あ、そうかー 稲川 始まる前にもう終電の関係があるから、深夜に入っちゃってるわけですよ。本番前にはあたし﹁作家の方つけますか?﹂って言うから﹁いらないです﹂ってやってたもんだから、みんな来ちゃうんですよ。︵※作家不在で自分の言葉で話してたとの意でしょうか︶ それで話をしているうちに…あのー、昔はさ、放送局に遅い時間に有名な歌手の方なんかね、﹁音﹂を入れに来るんですね、デモテープかなんか作るんで。いろんな方が来てるんです、歌手とかマネージャーとか。銀座に遊びに行ってたけっこうお偉いさんとか戻ってくるんですね、おねーちゃん連れて。みんな集まってきてスタジオで賑やかにやってたんです 田中 そっかー。楽しそうだ 稲川 そしたら﹁面白そうだから、やらない?﹂って話になったんですよ。そんなときにたまたまやったら、すげー葉書が来ちゃって。手紙が来るようになったら、みんな驚いたのが﹁2部ってもっとね、子供かと思ったら、大人︵からの葉書︶も随分あるな﹂﹁怖い便りが随分あるね﹂っていう中に﹁赤い袢纏︵はんてん︶﹂の話があったんですよ。 それで﹁どうする?﹂っていうから、そのまま使えないんで、すこーしあたしなりに話の順序を変えたりしながら怖そうにして﹁あかーい袢纏……﹂ってやったら、﹁当たった﹂んですよね 太田 へー! 田中 そうだったんだ 稲川 で、﹁その話テレビでやっていい?﹂って言われて昼のテレビやなんかでもってやるようになって、新倉先生に知り合うようになって 田中 新倉イワオさんね 稲川 素晴らしい方で。あの方とご一緒に﹁笑点﹂かなんかやってる人が、私のお世話になってる先輩の親友だったもんですから、そういうお付き合いがあって﹁こういう話いいですかー?﹂ってやってるうちに﹁出て、話してくれませんか?﹂っていうようになったんですよ 太田 はー、不思議! 稲川 もちろん怪談で食おうなんて思ってなかったですよ 田中 その頃はそうですよね、別にね 太田 我々もまさか稲川さんを怪談の人になるとは思ってなかったですからね 稲川 だいたいね、当時なんて怪談やると、ちょっと私も好きだから、やりに行くでしょ。するとね﹁そんな話をしちゃダメよ!﹂ってそばで言うんですよ。﹁そんな話しちゃダメだ﹂って﹁おかしい﹂って思って。せっかく気に入ってオッケー取ってるのに、その︵客の︶親だとか兄弟が﹁ダメそんな話違う違う﹂﹁あれ気のせいだと思うんですけどね﹂って。出来ないですよね、時代がね。だいぶ経ってからですよ、やっと 太田 稲川さんが変えたわけですね? 改革者というか 稲川 すこーしだけですよね 田中 でも本当にいわゆる昔の落語家さんとかの怪談話ってあったけど、怖い話をする人っていうのが… 太田 現代の怖い話の語り部というのがね 田中 稲川さんとか、そのあとはいろいろ出てきましたけどね 太田 それがまた﹁芸﹂の域まで水準を上げたっていうのがね、たいへんですよね 稲川 どうしよう、今日死んだ親に手を合わせてきてよかったなー 太田 笑 稲川 頂点の二人にねー、これほどのお墨付きはないですよ本当に 稲川淳二の来歴を知ることができたことも収穫ですが、それ以上に今回の放送でぼくが嬉しかったのは、ここ十数年ほどすっかり怪談が専業のようになっていて、かつてのようなタレントとしての快活さやおとぼけ具合が失われていたかのように見えた稲川淳二のお笑い魂が、未だに健在だと知った事です。単純に語り口が面白い。 これら一連の来歴語りのあとも、稲川淳二は怪談からちょっとした小話まで、おどろおどろしさとおとぼけ具合のブレンドが絶妙なトークを展開。なにより爆笑問題がふたりとも大ウケで、一タレントとしての稲川淳二を﹁怪談の人﹂というだけに留めておくにはもったいないなー、と感じました。
・デザイナー志望のはずが役者に 田中 稲川さんっていちばん最初のきっかけというのは何だったんですか 稲川 わたしは本当は工業デザイナーだったんです。今もそうなんですけど 田中 それはもう有名ですよね 稲川 ﹁芸能美術﹂というのをしたかったわけですよ 太田 舞台美術ですね 稲川 舞台美術。セットなんかやる。 有名な浅倉摂先生というのがいらっしゃったんですけど、この先生のまわりには何人もガードしてて近づけないわけですよ。それであたしは自分でもってデザインの世界に行ってやってたんだけど、﹁やっぱり芸能美術がしたいなー﹂と。 そんなときに、たまたまあるテレビ局の美術室の親玉に紹介されて会ったんですよ。で、実際にやりに行くったってそうそういい仕事が来ないから、どっかの劇団関係のセットを作りに行くんで、顔出しに行ったわけですよ。そこにお手伝いに行った。 マネージャーがいなかったんですあまり。そこの劇団の連中が﹁オーディションに行くんだけど、稲川さん代わりに行ってくれないか?﹂と。ほら一応スーツ持ってるし 田中 あー、“マネージャーとして”ね? 太田 口がうまいし 田中 そのときは﹁やだなーやだなー﹂って思わなかったんですか? 稲川 ちょっとやだったなー。だってマネージャーのほうが喋るんだもん。普通はもっと喋るでしょう本人たち、劇団の人のほうが。ねじこまないんだもん全然。台本見りゃ黙っちゃうしさー! 一同 笑 稲川 それで﹁しょーがねーなー﹂と思いながら帰ってきたの。終わって帰ろうと思ったら、そこにひゅっと顔を出したのが、わたしの知り合いだったんですよ 田中 ほー! 稲川 ある出版社のお偉いさんだったんだけど。﹁あ、来たの?﹂って。あたしマネージャー代わりだったんだけど、﹁おいちょっとちょっと、まだひとりいるよ﹂って呼ばれたんですよ 田中 え、オーディションのほうに呼ばれちゃったんですか? 太田 マネージャーとして行ったのに 稲川 ﹁この人おもしろいよ、飲むと﹂って、ほらしょっちゅう騒いでたから 田中 ﹁飲むと﹂なんだね︵笑 稲川 ﹁飲むとおもしろい﹂って呼ばれてたの。こっちはハナから﹁なんだこんなもん﹂って。 それはどういうの︵オーディション︶かというと、新聞を読んでね、5つくらいネタがあって、事件があって、たいした事件じゃないんだけど、子どもにわかりやすく小道具を使って説明しなさいと 田中 そういうオーディションだったんですね 稲川 ﹁あそこはこうやるのに!﹂と思ってたわけだよハタから見ながら。﹁情けないなー﹂と。だって何もやんないんです 太田 またひどい劇団でしたね 稲川 ひどい。やっぱり現代劇はひどい。で、あたし言われたからしょうがない。やったんですよ。こっち受けるつもりなかった。いつもの酒飲んでる席の人がいるから。 …みんな笑ったな 一同 笑 稲川 で、上から声がして﹁稲川さんでしたねー、ちょっとお待ちください﹂って言うんですよ。わたしは出してないんだから書類もなんにも。そしたらプロデューサーって人が来て、その時初めて﹁あ、プロデューサーって人はあんな上から降りてくるんだ﹂って思ったんだ 田中 あー、上から降りてきてね 稲川 ﹁稲川さんの秋からのスケジュールどうなってます?6時15分から月金なんですけど﹂っていうのが始まりなんですよ 太田 それで役者としてデビュー マネージャーとして付いていった劇団のオーディションの審査員がたまたま酒の席の知り合いで、その人たちを笑わせて合格。そのまま役者の道を志すことになった、という巡り合わせがあったそうです。それから松平健と公園で酒を飲んだりする時代を過ごしたそう。
・﹁オールナイトニッポン﹂への抜擢 太田 そこから役者としてやっていて? 稲川 いや役者じゃなかったんだ。ハナからそこへ行こうと思ってなかったから。子ども番組が終わったから﹁もうやめよう﹂と思ってるときに、たまたま結婚式で司会やって失敗しちゃったんだ、おもいっきり 太田 あら 田中 怖い話しちゃったんですか? 稲川 うん、ちょっとね︵笑 そこにドリフターズかなんか書いてる作家の加藤まなぶさんという方がいらしていて。知らないから。突然来て﹁今のはみんな稲川さんのネタですか?﹂っていうから﹁すいません﹂って謝ったんですよ、しょうがないから。そしたら﹁連絡しますから﹂って。 である日突然電話がきて﹁稲川さん今日夜遅くどうなってます?﹂って言うの。﹁酒飲み会かなー?﹂って思ったわけ 田中 うん﹁飲み会かなー﹂ってね 稲川 ﹁何時ですか?﹂﹁1時か2時には来てもらえないか﹂って言うんですよ 太田 いい時間ですね 稲川 有楽町の放送局のほう呼ばれて 田中 ニッポン放送! 太田 あらららら 稲川 中川さんというお偉いさんがいて﹁中川と申しますが、稲川さん、おなか空いてますか﹂って言うから﹁空いてません﹂。﹁ぼく食べてもいいですか﹂って言うから﹁どうぞどうぞ﹂。中川さんカレー食いながら﹁稲川さんどれくらい喋ります?﹂って言うから﹁え、4時間も喋ればいいですか?﹂って言ったの 太田 4時間? 稲川 ﹁いや、いいいい、2時間でいい﹂って言ったの。﹁今日喋っていって﹂って言ったの 田中 それ﹁オールナイトニッポン﹂なんですか? 稲川 そう 太田 え、いきなりですか? 稲川 そうそう 太田 そんな決まり方するの? 稲川 オールナイトニッポンおかしいのは、ぼく﹁︵担当期間の︶何年から何年まで﹂って数がね、違ってるんですよ。なぜかっていうとそれまでは﹁レギュラー﹂って言われないんですよ。毎週電話来るわけ。 ﹁稲川さん、金曜日どうなってます?﹂﹁稲川さん今日どうなってます?﹂って 太田 その日に決める!? 稲川 少し前だとか、何日か前に電話がかかってくる。夜中あいてるじゃん?ふつう 田中 そりゃあいてます! 稲川 で毎回行ってたんですよ 田中 じゃ来週あるかどうかわからないまんまやってたわけですね 稲川 だから﹁レギュラー﹂って言わないの。それが続いてたある日﹁レギュラーです﹂って言われたんですよ 田中太田 へー! 稲川淳二のオールナイトニッポンの放送期間は1976年4月から1977年9月まで。本人によると﹁レギュラー﹂の期間が曖昧だそうですが。その語り部としての始まりは結婚式の司会でのスカウトだったんですね。
・おすぎとの出会い 稲川 ﹁稲川さん、会わせたい人がいるんですよー﹂っていうの、映画の大久保さんって人がね。﹁ちょっとね、クセがある人なんだけど、音楽評論やってる人でもって﹂って言うから。﹁あ、そうですか。お名前は?﹂﹁“おすぎ”っていう人なんだけど﹂ 太田 あーそうかそうか 田中 そこでおすぎさんと出会うんですね 稲川 それでTBSで待ち合わせしたんですよ。どんな人かわかんないから。そしたら向こうで、﹁♪ジューンジーィ﹂って言うの。﹁なんだ?﹂って思ったら、そしたら柱の向こうから、変な奴がじーっとこっち見てんの 田中 アハハハ! それこそ霊ですよね︵笑 稲川 ﹁♪ジューンジーィ﹂っていうの。ふっと見たら、また来んのよ。だんだんだんだん近寄って来んの。﹁イヤだなー、あいつじゃないだろうなー、イヤだなー﹂って思ったの 一同 笑 稲川 わかります? 太い柱の右側。ぼくは左側なんだ。ズコッと顔出して﹁あ、コイツだ!﹂ 田中 来た来た!︵笑 稲川 で、そばに来て﹁淳二? おすぎョ﹂っていうの。それが初めでした 田中 それが出会いなんですね︵笑 稲川 だからみんな不思議に思うんですよ、ちゃんと段取り踏んでないから人生が 太田 みんな向こうから 田中 急にパッと頼まれたりとか 太田 不思議ですねー。そのときピーコはどうしてたんですか? 稲川 あとで来ました。おすぎだけだってさビックリするのに、あんたが問題あること言ってるのに、もうひとり来ちゃったっていう 田中 そのときはまだおすぎさんだけだからね。ちょっと早いからね 太田 映画評論でね 田中 そのときはピーコさんはまだ働いてたからね 稲川 ある日来たんですよねー局へさ。驚いちゃった 太田 驚いちゃった? 稲川 そりゃだって似たようなやつがふたり来たら 太田 どっちもオカマだし︵笑 ﹁稲川淳二のオールナイトニッポン﹂におすぎが映画評論コーナーを持ってたんですね。で、このラジオをとっかかりに﹁11PM﹂など深夜のテレビに出るようになり、﹁ほとぼりが冷めたらいつかやめよう﹂と思っているうちにタレントとして人気が出てきてしまった、と。
・怪談話を始めたきっかけ 太田 当時は僕ら子どもの頃はね、稲川さんといえば熱湯風呂入ったり 田中 いわゆる﹁リアクション芸人﹂。出川さん始めダチョウ倶楽部とか。いちばん最初が稲川淳二さんだった 太田 ﹁弱ったなー﹂ってね 田中 テレビで見る度に﹁痛い痛い痛い痛い!﹂﹁熱い熱い熱い熱い!﹂ 太田 元祖ですよね ︵中略。稲川出演﹁アフタヌーンショー﹂の懐かし話の後︶ 太田 そこから、でも突然なんかそのね 田中 怖い話 太田 ﹁人形﹂の話でしたよね最初 稲川 怖い話は実はそのニッポン放送にいたときに、︵オールナイトニッポンが︶﹁2部﹂でしょ?3時から始まるわけですよ。そうすると人が来てて、あたしの仲間内も観に来てて。時間つぶしに﹁聞かせろ聞かせろ﹂と来るわけですよ。あたしけっこう誰にでも話してたから 太田 あ、そうかー 稲川 始まる前にもう終電の関係があるから、深夜に入っちゃってるわけですよ。本番前にはあたし﹁作家の方つけますか?﹂って言うから﹁いらないです﹂ってやってたもんだから、みんな来ちゃうんですよ。︵※作家不在で自分の言葉で話してたとの意でしょうか︶ それで話をしているうちに…あのー、昔はさ、放送局に遅い時間に有名な歌手の方なんかね、﹁音﹂を入れに来るんですね、デモテープかなんか作るんで。いろんな方が来てるんです、歌手とかマネージャーとか。銀座に遊びに行ってたけっこうお偉いさんとか戻ってくるんですね、おねーちゃん連れて。みんな集まってきてスタジオで賑やかにやってたんです 田中 そっかー。楽しそうだ 稲川 そしたら﹁面白そうだから、やらない?﹂って話になったんですよ。そんなときにたまたまやったら、すげー葉書が来ちゃって。手紙が来るようになったら、みんな驚いたのが﹁2部ってもっとね、子供かと思ったら、大人︵からの葉書︶も随分あるな﹂﹁怖い便りが随分あるね﹂っていう中に﹁赤い袢纏︵はんてん︶﹂の話があったんですよ。 それで﹁どうする?﹂っていうから、そのまま使えないんで、すこーしあたしなりに話の順序を変えたりしながら怖そうにして﹁あかーい袢纏……﹂ってやったら、﹁当たった﹂んですよね 太田 へー! 田中 そうだったんだ 稲川 で、﹁その話テレビでやっていい?﹂って言われて昼のテレビやなんかでもってやるようになって、新倉先生に知り合うようになって 田中 新倉イワオさんね 稲川 素晴らしい方で。あの方とご一緒に﹁笑点﹂かなんかやってる人が、私のお世話になってる先輩の親友だったもんですから、そういうお付き合いがあって﹁こういう話いいですかー?﹂ってやってるうちに﹁出て、話してくれませんか?﹂っていうようになったんですよ 太田 はー、不思議! 稲川 もちろん怪談で食おうなんて思ってなかったですよ 田中 その頃はそうですよね、別にね 太田 我々もまさか稲川さんを怪談の人になるとは思ってなかったですからね 稲川 だいたいね、当時なんて怪談やると、ちょっと私も好きだから、やりに行くでしょ。するとね﹁そんな話をしちゃダメよ!﹂ってそばで言うんですよ。﹁そんな話しちゃダメだ﹂って﹁おかしい﹂って思って。せっかく気に入ってオッケー取ってるのに、その︵客の︶親だとか兄弟が﹁ダメそんな話違う違う﹂﹁あれ気のせいだと思うんですけどね﹂って。出来ないですよね、時代がね。だいぶ経ってからですよ、やっと 太田 稲川さんが変えたわけですね? 改革者というか 稲川 すこーしだけですよね 田中 でも本当にいわゆる昔の落語家さんとかの怪談話ってあったけど、怖い話をする人っていうのが… 太田 現代の怖い話の語り部というのがね 田中 稲川さんとか、そのあとはいろいろ出てきましたけどね 太田 それがまた﹁芸﹂の域まで水準を上げたっていうのがね、たいへんですよね 稲川 どうしよう、今日死んだ親に手を合わせてきてよかったなー 太田 笑 稲川 頂点の二人にねー、これほどのお墨付きはないですよ本当に 稲川淳二の来歴を知ることができたことも収穫ですが、それ以上に今回の放送でぼくが嬉しかったのは、ここ十数年ほどすっかり怪談が専業のようになっていて、かつてのようなタレントとしての快活さやおとぼけ具合が失われていたかのように見えた稲川淳二のお笑い魂が、未だに健在だと知った事です。単純に語り口が面白い。 これら一連の来歴語りのあとも、稲川淳二は怪談からちょっとした小話まで、おどろおどろしさとおとぼけ具合のブレンドが絶妙なトークを展開。なにより爆笑問題がふたりとも大ウケで、一タレントとしての稲川淳二を﹁怪談の人﹂というだけに留めておくにはもったいないなー、と感じました。