群がる「親」という名の感謝乞食たち
きゃあー、燃え上がってもうたわ http://anond.hatelabo.jp/20110904145941
あれ、何か増田で場外乱闘状態になってる(笑)。まぁ、私が前回記事﹃自分が嫌われないために気を遣う人は、身内を潰す。﹄のコメント欄で書いた >あなたが道を踏み外さず、これだけの文章を書ける真っ当な人間に育ったこと。 これは母の功績ではなく、私が自分で努力した結果で、私の功績ですので。 この部分がお気に召さない人がかなりいたってことだよね。これについては、私が以前書いた﹃﹁辛い経験は糧になる﹂という言葉に感じる違和感﹄の中に、私の気持ちが書いてある。 冗談じゃない。加害者がやったことはただのいじめだ。そこを乗り越えて立ち上がったのは被害者の功績である。こともあろうに加害者は、この言説によって、厚かましくも他人の功績を横取りしようとする。加害者ばかりでなく第三者が、﹁その人のおかげで今のあなたがあるってことなんでしょ﹂などと言う。 私自身、いじめや親の抑圧などを経験して、そこから色々考えるようになって、それは今の私の重要な要素のひとつになっていることは確かだが、だからといって、いじめや親の抑圧を肯定したりはしない。 自分の人生を肯定することと、自分がされたことを肯定することとは違う。 http://d.hatena.ne.jp/yuhka-uno/20110613/1307956620 特に、オシムさんの ﹁悲惨な隣人殺しの戦争や艱難辛苦によって、現在のオシム監督が得たものが大きかったのでは?﹂ ﹁確かにそういう所から影響を受けたかもしれないが……。ただ、言葉にする時は影響は受けていないと言ったほうがいいだろう。 そういうものから学べたとするならば、それが必要なものになってしまう。そういう戦争が……。﹂ ︵﹁オシムの言葉﹂より︶ という言葉は、何かしらの﹁被害﹂を受けて、そこから何かを獲得してきた者にとっては、心に沁みる名言だと思う。 あと、私の文章能力については、父の遺伝によるところが大きいと思う。父の、絵が上手い、文章能力がある、数学が苦手といった要素は、兄弟の中で私に一番現れた。私自身、小さい頃から国語が得意で、読書が好きだった。 今回、コメント欄やトラバ先で、色々な人から﹁文章が上手い﹂と言われて、ちょっと嬉しかった(笑)。国語の成績は良かったとは言っても、自分じゃどれくらい文章力があるのかについては、客観的にはわからないからね。﹁あ、私もしかして、自分で思ってるより、文章能力あったの?﹂と思いました(笑)。 コメント欄では端的に﹁私の功績﹂と書いたけど、正確にはちょっと違う。強調したかったのは﹁母の功績ではない﹂ということ。 私は、人は﹁自分を産んだ人﹂ではなく﹁自分に﹃生まれてきて良かった﹄と思わせてくれた人﹂に感謝するものだと思っている。大抵の人は、親がその二つの要素を持っているから、親に感謝するけれど、私みたいな人間は、前者の人と後者の人が違う。それどころか、母に﹁死にたい﹂と思わされたしね。 私みたいな人間にとって、﹁自分に﹃生まれてきて良かった﹄と思わせてくれた人﹂は、親ではなく他人。友達とか学校の先生とかカウンセラーとか。親が精神的支えになってくれなかったどころか、精神的に搾取されてきた私にとっては、そういう他人の存在を精神的支えにして生きてくしかない。だから私は、自分に人生について教えてくれたり、自分の成長を助けてくれたり、自分に愛情を与えてくれる人は、皆私の﹁親﹂だと思って生きていくことにした。 だから、私自身が自分で立ち上がってきた、私の功績でもあるけれど、そういう﹁他人﹂のおかげでもあると思っている。私はそういう人たちには、本当に感謝している。 ﹁子は親のみにて育つにあらず﹂とは言うけれど、本当にそうだと思う。どんなに良い親でも、完璧な親なんていない。子供は、色々な人と関わり合うことによって、親に欠けた部分を補っていくものだと思う。﹁子供は社会で育てるもの﹂という言葉は、そういう意味でも正しい。 ただ、私みたいな育てられ方をした者にとっては、この他人と関わり合うことすら難しくなる。何せ﹁他人に迷惑をかけてはいけない﹂と教え込まれているから。とにかく、他人への﹁迷惑度﹂を0に近づけることしか知らない。他人にどの程度甘えて良いのかがわからない。 あと、特に目上の人との接し方について、親から後で細かく﹁注意﹂を受けて育つので、そういう面倒臭いことにならないために、最初からなるべく関わらないようにするという行動パターンを身に付けてしまう。﹁私は、他人と上手く関われないんだ﹂と思い込まされる。他人に助けを求めないといけない立場なのに、他人に助けを求めにくい思考を植え付けられるんだよね。 幼稚園時代に一人で別の教室で絵を描いていた件については、担任の先生は私の両親に、﹁この子はとても良いものを持っていますよ。この子の個性を大切にして下さいね﹂と言ったそうだ。このエピソードは父から聞いた話だが、父はこれを聞いてとても嬉しかったという。父もまた﹃甘やかされているようで全然甘えられていない子供たち﹄で書いたように、色々と問題のある人だったが、子供たちの適性を見抜く目は的確だった。 私は後日、この話を母にして、﹁一人で絵を描いている私を見て、どう思った?﹂と尋ねた。﹁別に…この子はこういう子なんやなぁと思った﹂﹁じゃあなんで、私を﹃面倒見の良いお姉ちゃん﹄にさせようと思ったん?﹃こういう子﹄には、明らかに向いてないと思うけど﹂﹁そりゃあ…うーん…そやなぁ…﹂何とも的を射ない返事が返ってきた。 母は、そもそも相手の適性など見ておらず、自分の理想像を勝手に当てはめただけのように思う。結果、私の個性や長所を潰し、全く向いていない生き方をさせるという愚策に出てしまった。そもそも母は、父と結婚する時点で、この﹁相手の現実を見ず、自分の理想像を当てはめる﹂をやっていたらしい。後に父と母が離婚したのは、当然の結果と言える。 ちなみに、小学生以降は、そういうエピソードはない。まぁ、幼稚園時代にそうだったからといって、その後も全く同じままだとは限らないわけだからね。 文章やら、思考の多面性やらを﹁母のおかげ﹂とか言われたら、 むかつくのは、よくよくわかるので感情的には同意するけれども、 2ch的論争を想定すると、 ﹁経済的その他には、まったく感謝していないとまでは言いません﹂︵…が、しかし、そういう言い方をされるとむかつく、︶ という一文で繋いであると、ガードが堅いかなぁ。 http://anond.hatelabo.jp/20110904154135 この﹁ガードを堅くする﹂というのは、つまりは﹁世の親たちの﹃子供を育てる苦労をわかって、感謝してほしい。ちゃんと育ったのは親のおかげだと言って欲しい﹄っていう要望に答えてあげる姿勢を見せていれば、叩かれなくて済んだのに﹂ってことだよね。 そんな要望に答えてあげる義理はないし、なんでよりによって﹁私﹂に要求するかね、って思うよ。これまで散々実の母に﹁お父さんもお母さんも働いてて大変なんやから、わかってよ〜﹂と言われて、罪悪感を植え付けられて、色々なもの押し付けられたのに。あの頃は、私は家の手伝いを十分にできていない、ぐうたらな子だと思っていたけれど、それは母の要求が高すぎただけで、今から振り返れば、私は自分にできる限りで、一生懸命母親を助けていたと思う。 だからもう、そういう親たちのご要望にお答えして差し上げるのは、いい加減うんざりなんだよね。親の苦労をわかって欲しければ、私以外の人に言って下さい。私はあなたがたのカウンセラーではありません。 私みたいな人間は、まず実の親から﹁わかってわかって﹂攻撃を受けて育つ。そして、こうして自分が親からされてきたことを語ると、また世の親たちから﹁わかってわかって﹂攻撃を受けることになる。わかって欲しい親たちから、群がられるんだよね、ハイエナみたいに。 まぁ世の中には、そういうことをしない、ちゃんとした親もいるんだってことは、知識としては知っている。ちゃんとした親たちは、私みたいな人間を見ると、何も要求せずに、黙っていてくれるんだろう。たぶん、そういう親たちがサイレントマジョリティで、わざわざ私に対して﹁わかってわかって﹂と言ってくる親たちが、ノイジーマイノリティなんだろう。 でも、私の立場から見れば、﹁わかってわかって﹂と要求してくる、感謝乞食な親ばかりを見ることになるんだよね。 まぁ、私に﹁親の苦労﹂や﹁親の気持ち﹂とやらを、ご親切にも教えたがる親御さんたちは、﹁あなたは、親になったことがないのでしょう。親の苦労や気持ちなんてわからないのでしょう。だから私があなたに教えてあげる﹂と思うのかもしれない。けれどそれなら、私だって﹁あなたは、アダルトチルドレンな私の母のやり口について知らないでしょう。私の母が、いかに私を誘導し、洗脳し、搾取し、私の人生を奪い取ってきたか、わからないのでしょう。それともあなた、私の母と同じタイプの人ですか﹂と言いたいね。 世間の人たちは、虐待というと、特にひどい親が、特にひどいことをすると思っているのだろう。自分はああいう親とは違う、まっとうな親なのだと思って、自分は大丈夫だと、勝手に安心する。 でも、虐待は誰でもする可能性があるものだ。なぜなら人間は、自分でも知らないうちに、あるいは良かれと思って、誰かを傷つけてしまうことがあるのだから。これが他人同士なら、大抵はその場限りのことで済む。しかし、これが親子だと、この関係が持続してしまう。 更に、人は誰だって、良かれと思ってしてあげた自分の気持ちを、相手にわかってほしいという欲望を持ってしまうものだ。﹁相手の立場に立って考える﹂とはよく言うが、これはとても難しい。 これが重なると、子供のためを思った行動で、子供を傷つけ続け、更に子供に対して、そういう親の気持ちをわかってくれと要求し、子供の気持ちを無視する親ができあがる。 親ならば誰しも、子供に対して、﹁感謝して欲しい﹂﹁尊敬して欲しい﹂﹁言うことをきいて欲しい﹂﹁苦労をわかって欲しい﹂﹁自分自身を、良い親だと思いたい﹂﹁子供にも自分を、良い親だと思って欲しい﹂という欲望を、多少は持ってしまうものだろう。虐待する親は、これらの欲望が特に強いだけだ。つまり、子供を虐待する親とまともな親との欲望の中身は、同じものなのだ。ただ単に欲望の程度が違うだけで。 だから、虐待を受けた子供に対して、つい言いたくなるこれらの言葉は、既にその子が自分の親から散々言われ求められた言葉であり、その子がそれまで必死で答えようとしてきた要求なのである。 世間には、﹁どんな親でも、子供を愛している﹂﹁親子は、いつかわかりあえるもの﹂という幻想が存在している。この幻想を強固に持っていたい人にとって、私のような存在は、自分の幻想をぶち壊し、見たくない現実を突きつける存在なのだろう。私はこういう幻想にしがみつく人を見ると、﹁この人は、児童虐待のニュースを見ていないのだろうか﹂と思う。おそらく、﹁見て﹂いるだけで、﹁考えて﹂いないのだろう。そして、幻想にしがみつく人ほど、実は虐待親のメンタリティに近い。なぜなら、幻想にしがみつく人は、現実の子供を無視し、子供に幻想を押し付けるからだ。 今の日本社会では、﹁今現在虐待されている子供を、どうやって助けるか﹂というテーマで語られることが多い。もう一歩、﹁虐待された子供が、どうやって立ち直るか﹂を考える段階まで進んで欲しいと思うのだが、これを考える上で二次被害は避けて通れない問題だ。 だが人々は、前者には熱心になっても、後者にはあまり熱心にはならない。なぜなら、前者はある意味、自分が善人でいられる話だが、後者は、自分が加害者になる話なのだから。自分の認めたくない内面を見つめる作業になる。 だが、﹁虐待は誰でもする﹂﹁私もする可能性がある﹂という視点に立たないと、虐待はなくならないだろう。 それにしても、前回の記事は、﹃相手のための気遣いと、自分が嫌われないための気遣い﹄について、﹁理屈はわかるけど具体例がほしい﹂という意見を頂いたので、具体例になる部分をいくつか抽出して説明しただけのものなのに、あのエントリに書いたことだけが、私が親にされた全てだと思ってしまう人がいるものなのだな。なんというか、見えない部分、書かれていない部分に対する想像力って、大事だよなぁと、あらためて思った。 自分が嫌われないために気を遣う人は、身内を潰す。→その通り! -自由人PENGの再チャレンジ日記- http://peng30.blog78.fc2.com/blog-entry-207.html トラバ頂いた。これはもう、まさしくその通り。私の記事とこちらの記事を、合わせて読んで頂ければと思う。 [追記] 続きを書きました。 自分が嫌われたくない人の気遣いは、﹁いじめ防衛的気遣い﹂