「子離れ」とは、親の期待を跳ね除ける子供に逆ギレすることではない
SYNODOS JOURNAL : 新春暴論 ――﹁幸福﹂な若者を見限ろう 山口浩 私は過去に﹃いち若者の立場から、若者が何も主張しない理由を主張してみる﹄﹃若者は何も言わず、ただ去るのみ﹄という一連の記事の中で、今の日本社会は機能不全家庭の構造と共通していて、機能不全社会だということを述べたが、こちらの記事の内容は、まさに機能不全家庭の親の思考回路そのもので、非常に興味深かった。あくまでも﹁暴論﹂だそうなので、ここはひとつ﹁ネタにマジレス﹂してみようと思う。 曰く、年輩者による若者論は、都合のよい批判対象である若者を使った自分語りであると。若者を心配するふりをしながら、実際には不安なのは彼ら年輩者であり、閉塞感が蔓延する現在の状況がさらに進んだとしても、困るのも彼ら自身ではないか、と。何せ自分たち若者は、ニコ動とモバゲーと、あとは日々食える程度の収入と仲間がいれば幸福と感じることができるのだから、将来が不安ならば、社会を変えたければ、若者に頼らず自分たちでやれ、と。 不安感が強い親は、子供に自分の不安を埋め合わせてくれることを求める。子供自身にとって良い行動には興味がなく、親自身の不安を埋め合わせるような行動をしてくれるかどうかにしか興味がない。しかし、えてしてこういう親は、自分のエゴには無自覚であり、自分自身の不安を﹁子供を心配する親心﹂にすり替えてしまう。そして、子供に対して﹁あなたのためなのよ﹂という、親のための押しつけをする。このような親の子供への関わり方は、一見すると過保護に見えるが、内実は、甘えてくる親を子供があやしてあげるという、親子関係が逆転した状態になっている。 こういう親が子供に向ける期待は、子供が自分自身の生き方を見付けて幸せになることではなく、親の不安感や喪失感や承認欲求を満たしてくれることだ。当然、子供は親の期待を跳ね除けることになるのだが、親は﹁子供のために苦労して、あんなこともこんなこともしてあげたのに、愛情を注いであげたのに、子供に裏切られた! もうあんたのことなんか知らない!﹂と叫ぶ。 年長者の﹁若者の○○離れ﹂﹁内向きな若者﹂﹁なぜ若者は立ち上がらないのか﹂といった若者語りは、とどのつまり、﹁俺たちが抱えている不安感を、若者が埋め合わせてくれない!﹂ということである。内田樹氏は、若者が立ち上がらない理由を、﹁若者が﹃連隊の作法﹄を失ってしまったから﹂と仰ったが、理由はもっと単純で、年長者の若者に対する﹁立ち上がれ﹂という期待が、本当は若者自身のためではなく、若者の気持ちを無視して﹁俺たちのために立ち上がってくれよ!﹂と言っているだけの、極めて無責任な期待に過ぎないからだ。子供というものは、親がそういった身勝手な期待を投げかけると、うんざりして全く逆の行動を取ってしまうものである。 考えてみれば、これまでわたしたちは、若者たちのことを心配しすぎ、かまいすぎてきたのだろう。親子の関係になぞらえれば、過保護な親のような状態だったわけだ。しかし、10代やそれ以下の子どもたちはともかく、20代はもう大人だ。自分たちのことは自分で決め、行動できる。彼らはすでに充分幸福を感じており、いまある安価な幸福以上のものを望んでいない。おせっかいなおじさんおばさんたちが、彼らの将来を心配し、いろいろ応援しようとしても、いっしょにやろうと手を差し伸べても、その真意を疑われ、よけいなお世話と疎まれ、偉そうにすんなと拒否されるだけだ。わたしたちは、﹁子﹂の﹁親離れ﹂を心配するよりまず、﹁親﹂自身の﹁子離れ﹂を考えるべきなのだ。 親子の関係になぞらえれば、この思考回路は、まさしく﹁子供に裏切られた!﹂と叫ぶ機能不全家庭の親そのものではないか。﹁裏切られた!﹂と叫ぶ段階になって、それまで﹁あなたのため﹂というポーズの下に隠していた﹁自分のため﹂という本音をモロに露呈させるのも、この手の親にありがちな態度だ。 ﹁﹃親﹄自身の﹃子離れ﹄を考える﹂というのは、まさしくその通りなのだが、このような親はえてして、本当の意味での﹁子離れ﹂が困難だ。というよりも、精神的自立が困難なのだ。精神的に自立していなかったからこそ、今まで子供に精神の埋め合わせを期待していたわけで、最早子供がそのような期待には答えてくれないのだとわかると、親はまるで、思い通りにならない玩具を放り出して喚き散らす駄々っ子のように、﹁あんたなんかいらない!﹂と叫ぶ。それは﹁子離れ﹂とは言わない。 親自身が抱えている不安感や喪失感や承認欲求は、親自身が何とかするべきものだ。その埋め合わせを子供に求めて、子供に自分のお守りをさせてしまわないように、自分自身に向き合い、どう折り合いをつけていくのかを考え、自分で自分のお守りができるようになるのが、本当の意味での精神的自立であり、﹁子離れ﹂だ。 素直に﹁もともと持っていた夢を奪われたわたしたちの方が不幸です﹂﹁老後を支えたのに自分たちは支えてもらえそうにないわたしたちの方が不安です﹂ということを認めればいいのだ。﹁若者の将来が心配だ﹂とか﹁持続可能性のある制度設計を﹂みたいな、かっこつけた物言いはもうやめよう。もっと﹁本音﹂でいこうではないか。 子供の前で﹁お前なんかより俺のほうがずっと不幸なんだ!﹂と逆ギレするのも、機能不全家庭の親にありがちな態度だ。もちろん、そのような態度は、およそ﹁子離れ﹂などというものではなく、それどころか子供に対して甘えている態度だ。 だが、かっこつけた物言いはやめて﹁本音﹂でいこうという部分には同意だ。私は常々、﹃なぜ、若者と見れば﹁甘やかされている﹂と思ってしまうのか﹄で書いた通り、年長者は若者に対して、自分の対面を保っておこうとするような、つまらないプライドは捨てて、もっと素直に自分の気持ちを語れば良いのにと思っている。いくら体面を保とうとしても、﹁俺のプライドを満たしつつ甘えさせてくれ!﹂という本音は透けて見えるものだ。偉そうにお説教を垂れ流す人よりも、素直に﹁褒められたい﹂と言ってしまえる人の方が気持ちが良い。 というわけで、﹁これも古市氏に倣って、あくまで通俗的世代論のスタイルで。﹂﹁相手の話に乗っかって悪乗りしてみせる﹂などという、かっこつけた物言いはもうやめて、それこそご自分の言葉で﹁本音﹂をぶっちゃけてみてはいかがかと思いますね。 ︻社会︼東大エリートの﹃名誉若者﹄論に巻き込まれるのは御免です | ブロガーハックBusidea こんなこと言ったら﹁そっかー、最近の若者一般はこれから給料増えなくても別に不幸じゃないんだ、じゃあウチもこのままでいっか﹂と、自分に都合良く解釈する経営者が居ないわけがあるまいよ。勘弁してくれ。 年長者が若者に言う﹁かわいそう﹂と、健常者が障害者に言う﹁かわいそう﹂は、似ている気がする。障害者のことをひとくくりに﹁かわいそう﹂という目でしか見ない健常者は、障害者のことを全く理解していない。それに対して障害者が﹁かわいそうじゃない!﹂と反論したら、理解する気のない健常者は、障害者を取り巻く社会制度や差別などの問題まで、ないもの扱いしてしまう。 若者かわいそう論についてもこれと同じで、若者が﹁かわいそうじゃない!﹂と反論したら、若者のことを理解する気のない年長者は、若者を取り巻く経済的、社会制度的な問題まで、ないもの扱いしてしまいかねない。私自身、﹁価値観的には良い時代になってきている。今の時代に生まれて良かった﹂と思っているのだが、決して、若者を取り巻く環境に問題がないなどとは思っていない。 [追記] 続きを書きました。 ﹁若者が﹂﹁外国人労働者が﹂ではなく、﹁自分が﹂という意識を持って欲しい ︻関連記事︼ いち若者の立場から、若者が何も主張しない理由を主張してみる 若者は何も言わず、ただ去るのみ ﹁若者像﹂が存在した時代から、曖昧になった時代へ なぜ、若者と見れば﹁甘やかされている﹂と思ってしまうのか