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仁科 芳雄
(1890〜1951︶
我国の﹁原子物理学の父﹂仁科芳雄は明治23年︵1890年︶に浅口郡里庄村浜中で仁科存正の四男として出生した。
明治34年︵1901年︶新庄尋常小学校を卒業し、明治38年︵1905年︶生石高等小学校から岡山中学校に入学。明治43年︵1910年︶岡山中学校を首席で卒業。第六高等学校に入学したが、明治44年に肋膜炎のため休学。大正3年︵1914年︶第六高等学校を首席で卒業。東京帝国大学工科大学電気工学科へ入学し、肋膜炎再発のために留年を余儀なくされている。しかし大正7年︵1918年︶首席で卒業し、恩賜の銀時計を拝受。理化学研究所研究生となり、東大大学院にも入学した。
大正10年︵1921年︶ヨーロッパに留学、理化学研究所研究員に任命される。ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所のE・ラザフォード教授のもとでガイガー尖端計数管を用いてX線のコンプトン散乱の反跳電子についての研究を行う。大正11年︵1922年︶ドイツのゲッチンゲン大学に留学し、続いてデンマークのコペンハーゲン大学のN・ボーア教授の許で研究を行った。昭和2年︵1927年︶にパリに遊学、さらにドイツのハンブルク大学でI・I・ラビ博士と共同研究を行い、﹁量子論によるX線吸収係数﹂という論文をI・I・ラビ博士とともに著している。再びコペンハーゲン大学に戻り、昭和3年︵1928年︶O・クラインと共同して有名な﹁クライン・仁科の公式﹂を導き出した。その後アメリカの諸大学を歴訪して同年12月に帰国した。
昭和4年︵1929年︶理化学研究所で長岡半太郎研究室に属し、量子力学についての研究を行った。この年に芳雄は39歳で名和美枝と結婚する。昭和5年︵1930年︶理学博士となり、昭和6年︵1931年︶に理化学研究所に仁科研究室を創設する。昭和7年︵1932年︶仁科研究室に朝永振一郎らが参加して、ディラックの理論に基づきγ線による陰陽電子対創生の計算などを行っていた。
昭和11年︵1936年︶に小サイクロトロンの設計に着手し、昭和12年︵1937年︶に完成した。サイクロトロンとは加速器のことで、加速性能を高めるためにさらに大サイクロトロンの建設を進め、昭和19年︵1944年︶に大サイクロトロンを使って約16ミリオンヴォルトの重水素イオンを得ることに成功する。
宇宙線研究では宇宙線強度の観測を行い、さらに昭和12年︵1937年︶に大ウィルソン霧箱により宇宙線中間子︵後にミュー粒子と判明︶の質量を測定した。
原子核研究と宇宙線研究の推進は湯川秀樹の理論の実証的根拠の強化につながっていった。
芳雄は新しい実験結果が出るごとに湯川に報告し、度々討論会を開いて湯川学派を応援した。
昭和20年︵1945年︶宇宙線研究により朝日文化賞受賞、昭和21年︵1946年︶文化勲章を受章し、理化学研究所所長となる。昭和23年︵1948年︶理化学研究所解散後、�渇ネ学研究所を創設し社長に就任した。日本学士院会員、日本学術会議副会長を歴任し、放射性アイソトープの輸入にも尽力した。昭和26年︵1951年︶60歳で病没。
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【参考文献】
「原子力と私」(仁科芳雄著学風書院S25) |