≪略年譜≫ 竹久夢二・不二彦 & 辻潤・まこと 

 当データは、2011年2月3日に、馬込早苗の会の例会(於南馬込文化センター)にて、「ライフスタイルについて」と題してお話させていただいた時のレジュメを調整したものです。  © 品川洋子


 竹久不二彦と辻まことが、大田区馬込などを拠点として親交したことは、近年、注目されています。彼らそれぞれの父親、竹久夢二、辻潤は、類いまれな才能を持った作家であり、大正期を代表する自由人でした。同時代を生きた二組の二代にわたる文化人の軌跡とライフスタイルをうかがいます。



  <竹久>

  <辻>


(1884)

明治17



9月16日、竹久夢二(本名、茂次郎、岡山県邑久郡本庄村(現、瀬戸内市)の酒屋に生まれる。


(1884)

明治17




10月4日、辻潤、東京市浅草区柳原町(現、台東区浅草橋)の裕福な下級官吏の家に生まれる。




明治
25


父が三重県庁に転勤し、津市に三年間住む。


明治28

開成中学に入学するが、家の都合でやがて退学する

明治32

神戸中学に入学するが中退。
明治31

初代荒木竹翁に、尺八を習う。

明治34


夏、父親には無断で上京する
(1900)
明治33年

英語を独習、小説を乱読する。

明治35年






9月、早稲田実業に入学。苦学する。






明治
36







正則国民英学会などで学んだ後に、日本橋区(現、中央区)の千代田尋常高等小学校の助教員となる。この頃より、『平民新聞』を購読する。




明治37年


10月、千代田尋常高等小学校の専科正教員となる。

(1905)
明治38年






早稲田実業専攻科に在学中、『中学世界』で一等賞となった投稿のコマ絵に初めて夢二の署名がある。『直言』『光』などにも社会諷刺画を発表。



明治39年



『社会主義の詩』(堺利彦編)に、「絵筆折りてゴルキーの手をとらんにわあまりに細き我腕かな」の歌を収録。


明治40年



岸他万喜(たまき)と結婚、牛込区(現、新宿区)に住む。



明治41年


2月、長男虹之助生まれる。小石川区(現、文京区)に住む。

明治41

浅草区の精華高等小学校で教える。

明治42年






5

12 
 
明治42



ロンブロオゾオの著作の翻書『天才論』を準備し始める。

 



(1910)
明治43年




『夢二画集 夏の巻』『夢二画集 冬の巻』ほか刊。夏には千葉県銚子町海鹿島で、長谷川賢(おしまさん)と会う。



(1911)
明治44年




1月、大逆事件の判決と処刑に衝撃を受ける。

5月1日、次男、不二彦生まれる。

明治44


4月、下谷区桜木町(現、台東区)の上野女学校の英語教師となる。伊藤野枝が4年生として編入してくる。
(1912)
明治45/
大正元年









6

710稿29

11
 

明治45









退

6

11
 

大正2年




11月、『絵入小唄集 どんたく』刊。三行詩「宵待草」発表。


(1913)

大正2年






スタンレイ・マコウアの「響影」を野枝の名前で訳し『青鞜』に掲載する。

9月、長男、まこと(本名、一)生まれる。


大正3年










4月、『草画』刊。

10


 

大正3年










『天才論』出版され、版を重ねてやがてベストセラーとなる。この頃、アナーキスト大杉栄と辻夫妻が出会う。





(1915

大正4年





9月、『絵入歌集』『三味線草』刊。



大正4年






1

7

8

大正5年













2

3

11

12

大正5年















 
 






大正6年









6

大正6年







京都の比叡山で禅坊暮らしをする。






大正7年












4

9



11


 

大正7年











訳書(スタンレイ・マコウア著)『響影-狂楽人日記』刊。

知人宅に居候するなど生活は転々とする。

 







大正8年














2



8

10



(1920)

大正9年






123

2



大正10




初夏より渋谷町宇田川(現、渋谷区)の借家でお葉と住む。


大正10




神奈川県川崎町砂子に移住。

12月、『自我経』(全訳)行。



大正11




8月、不二彦と富士登山する。

12月、『あやとりかけとり』刊。


大正11




6月、『浮浪漫語』刊。

9月、「ダダの話」を『改造』に発表する。


大正12











8

9
 

大正12











2

9




大正13







8月、『婦人グラフ』の表紙・挿絵を機械刷木版によって受け持つようになる。

12月、東京府下荏原郡松沢村松原(現、世田谷区)にアトリエ付き住居「少年山荘(山帰来荘)」を建設し、お葉と息子たちと住む。


大正13








2月、野枝の事件について述べた「ふもれすく」を『婦人公論』に発表する。

7月、『ですぺら』刊。

東京市外蒲田新宿に移り住む。




(1925)

大正14






5月、山田順子の小説『流るゝままに』を装幀したことから恋愛関係となる。お葉去る。まもなく順子とも別れる。

大正14




9月、「辻潤後援会」発足。




(1926)

大正15/昭和元年






12月、『童話 春』『童謡 凧』刊。前書の「はしがき」には、「私の手許から」小学校や中学へ通った子供の成長に合わせて作品を書いたとある。




昭和2年















5~9月、自伝絵画小説「出帆」を『都新聞』に連載する。冒頭は、不二彦に相当する子供の誕生日である5月祭を回想。











(1928

昭和3年















1

退
 



昭和4年

1月、帰国する。大岡山に住む。

(1930)

昭和5年









5月、「榛名山美術研究所建設につき」の産業美術宣言文を、島崎藤村、藤島武二、有島生馬、森口多里ら知人文化人の賛同で発表する。年末には、榛名湖畔(群馬県)に榛名山荘が完成する。

昭和5年








11



2
 



昭和6年






5月、アメリカへ向けて、秩父丸にて日本を立つ。

6月、ハワイ経由で、アメリカ西海岸に着く。サンフランシスコでの画会は不振だった。





昭和7年












モントレイ、ロサンゼルスなどで展覧会を開催。枕屏風<青山河>制作。

9月、欧州へ向けて、タマコ号にてアメリカを立つ。

10月、ハンブルグ着。欧州各地を歩く。







昭和7年
















2

4

6

姿

9
 

昭和8年













6

9


 

昭和8年











7

8

退
 

(1934)

昭和9年



























1

9149
 
 

10

11
 


昭和9年
























4月、慈雲堂病院を退院。宮城県石巻の松巖寺に招かれて滞在する。以降、次々に友人宅に居候する。

9月、「辻潤君全快を祝う会」が催される。


























西



昭和10















5

8

11

12





昭和11









6

退Z-


昭和12







まこと、福田了三の友人と共に金鉱探しに東北地方の山に行く。まことが諦めても、福田と一緒に朝鮮半島の山まで行ったとされる。




昭和12








6西






1045

 



 




(1938)

昭和13






4月、「まだ生きている」を『詩歌文学』に発表。

菅笠姿で放浪生活が続く。

まことは、潤の親友、武林無想庵の娘イヴォンヌと結婚。





昭和14


8月、大森区新井宿(現、大田区)のまこと宅に同居する。



(1940)

昭和15



まことに長女、野生(のぶ)生まれる。



昭和16






12月、気仙沼(宮城県)の菅野宅に居候。

同月8日、真珠湾奇襲を聞いて「日本必敗」を予言して「降参党バンザイ」を叫ぶ。



昭和17









潤は、不二彦宅で、孫である野生を可愛がった。








昭和17












4宿

11
 



昭和18






まこと、陸軍に徴用され、報道班員として従軍する。その後は青島支社に転じ、妻イヴォンヌと次女イブとともに人類学者赤堀英三の食客となる。



(1944)

昭和19

















1宿

6

7112460西
 

(1945)

昭和20















915使使
 

(1945)

昭和20











まこと、年頭に父の死の後始末のために一時帰国。再び天津で現地招集される。戦後は抑留され、復員事務に使役される。








昭和22

帰国する。




昭和23





離婚し、イヴォンヌは次女イブを連れて去る。草野心平主宰の詩誌『歴程』同人となり、短文、カットなどの発表を継続する。

昭和24










日高門別の富川中学校の美術教師を務め、校章デザインをする。同じ頃、富川高等学校の校章もデザインした。

当地には、10年ほど住む。

 

帰京後、デザイナーとして勤務。



昭和24










松本良子と結婚する。










(1957)

昭和32





マクリーン作・平井イサク訳『ナヴァロンの要塞』ほか、ハヤカワノヴェルズのカバーデザインをする。

昭和29



諷刺画文「虫類画譜」を『歴程』に連載。娘、直生(なお)、生まれる。





昭和33

山の雑誌『アルプ』に「ツブラ小屋のはなし」を寄稿し、若いころの交流について記す。

昭和37




「父の死の秘密」を『本の手帖』211月)に掲載する。


昭和39



3月末より2ヶ月、欧州旅行。

『虫類図譜』刊。



昭和41



『猫 竹久夢二木版豆本』(加藤版画研究所)の編集をする。

(1965)

昭和40





「余白の余白」を『歴程』に連載する。


(1967)

昭和42



妻、百登枝、急逝。


昭和43

日本画廊で油絵の個展を開催。



昭和46

『山の声』刊。



昭和47

胃癌の手術を受け、療養する。



(1975)

昭和50










画文「すぎゆくアダモ」を『同時代』に寄稿する。

1219日、死す。(享年62歳)

1221日、草野心平を委員長とする歴程葬が百草団地集会所で営まれた。



昭和51



「松沢村の家」を、『別冊週刊読売 特集夢二』(1月)に掲載する。

昭和51



1月、妻良子死す。娘直生は、両親の墓を福島県双葉郡川内村長福寺に建てる。


昭和52



『別冊太陽 日本の心 特集竹久夢二』(9月)に、「手づくりのデザイン」を掲載。



(1985)

昭和60





「父の思い出-夢二と、わたしの『母たち』」を、『夢二美術館1』(5月)に書く。



昭和62








「父・夢二と私-竹久不二彦氏に聞く-」が、『弥生美術館だより№2』(3月)に載る。昭和59年開館の弥生美術館では、理事長、鹿野琢見に依頼されて館長を務め、後に姉妹館竹久夢二美術館開設に尽くす。



(1990)

平成2年




竹久夢二美術館(文京区)の名誉館長となる。



(1994)

平成6年






4月19日、肺炎のため急逝。(享年82歳)

4月24日、カトリック洗足教会(大田区上池台)にて葬儀









注:人名における敬称は略しました。
竹久夢二については、『初版本復複刻竹久夢二全集』「年譜(長田幹雄編)(ほるぷ出版社)を参照し、不二彦については、とくに年譜が作成されてないため、簡略に記載しました。
辻潤については、『辻潤エッセイ選』「年譜(高木譲編)」(講談社文芸文庫)を、まことについては、矢内原伊作編の「年譜」を参照。『辻まこと・父親辻潤』折原脩三著(平凡社ライブラリー)も参考にしました。
不二彦と辻一家との交流については、近年、次のような文章で注目されています。
*「竹久家の昭和 夢二のまわりから(その一~六)」竹久みなみ(掲載『現代女性文化研究所ニュースNo.22~27』2009年1月~2010年9月)
*「なにものでもなかったひと 辻まこと伝 第三回 辻潤家と竹久夢二の子どもたち②」駒村吉重(掲載『新潮45』2010年9月)



<レジュメ >




 

1

 退



 

2



 

 

3


           

 


           
   

 


           


       
  

 

4