東アジア討論室
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槌田 鉄男さんのスレ
-
1:管理人
:
2024/06/05 (Wed) 09:36:28
https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1717547789.gif
.
︵FB談話室からの転載・紹介です。︶
槌田 鉄男
10時間 ·2024年06月04日︵火︶22‥13
投稿が少ないようなので自作のYouTube動画の
紹介をさせてもらいたいと思います。
多くのコメントをお願いします。
40‥石見介:
2024/06/24 (Mon) 22:17:46
米田さん
日本のような、島国であれば、1万人もの、﹁徒食の徒﹂がいても、何とか国を保てますが、精々,山河が、異種族との境界である高句麗で、それは不可能です。忽ち、近隣の騎馬狩猟民の、略奪、侵略の餌食となってしまいます。
高句麗が、近隣諸族に﹁強面﹂できるのは、その文化ではなく、将に、軍事力あればこそです。
日本の中世についても、京で、徒食できるのは、ほんのわずかな、皇族や瀬菅家などの家族の一部に過ぎず、高級公卿当主は、政争に忙しく,﹁陣の定め﹂のような。定例の公事があります。
殿上人や地下人は、官職についていれば、その仕事があり、無ければ,猟官運動で奔走しています。
皇族と言っても、皇位継承候補や内親王等で、帝や上皇などの講演が無ければ、荘園の寄進もなく、猟官運動や嫁ぎ先を探すしかありません。
昔読んだ本に、院政期か鎌倉初期に、難波の江口の、五世の王孫の遊女がいた、という話がありました。京で食えないからこそ、源平藤橘の諸氏の多くが、地方に移住し、武士化したのです。
39‥米田
:
2024/06/23 (Sun) 09:47:29
┌︵米田︶
│﹁徒食するだけの者が一万余人﹂についての記述です。
│彼ら支配者は、﹁徒食﹂するだけの、﹁雲の上人﹂なのです。
└
┌
│Re: 槌田 鉄男さんのスレ - 石見介 2024/06/23 (Sun) 00:03:12
│
│しかし、大河ドラマの藤原道長を、高句麗の徒食者と、
│同じ扱いをするのは、流石に、無理だと思います。摂関家の
│出で、10名そこそこしかいない、公卿の一員ですから。
│大河ドラマで不満なのは、恋愛物にしたためか、
└
︵私は、恋愛こそ公卿の一番の仕事だろうと、考えています。︶
︵訂正です。︶
‥藤原道長は、﹁殿上人﹂だと思っていましたが、下記のように
‥実際には、藤原道長は、﹁公卿﹂でした。失礼しました。
︵ここまでが、訂正・修正です。︶
‥さて、﹁徒食﹂の、﹁雲の上人﹂がどうなったか、です。
_︵高句麗に残っていた﹁徒食﹂は、没落していきます。︶
‥その一部は、百済︵辰国・伽耶︶に移ってきます。
_︵これが﹁正見母主﹂を中心とした﹁加耶﹂です。︶
‥さらに、その一部が出雲︵北部九州︶に移ってきます。
‥さらに、時代が下って、平安時代になります。
‥﹁天皇﹂+﹁公卿﹂+﹁殿上人﹂=﹁徒食の人﹂と
‥考えてみます。
‥高天原の神様たちが、出雲に人を差し向けたように、
‥京都の貴族は、国司を各国々に差し向けます。
‥平安時代の京都の人口から見て、貴族︵皇族︶が
‥どのくらい、住んでいたのか、私には分かりませんが、
‥3%とか5%とか、その位ではないかと、想像しています。
︵つまり、平安時代の貴族・皇族は、高句麗の徒食の支配者
_たちと、同じだろうと考えています。︶
‥
‥そして、清少納言の父親は、国司になることを目指し、
‥国司は、食料などを都に送っています。
‥公卿︵皇后の兄弟・親戚︶たちは、自分の娘を皇后に
‥なるように、日々努力しています。
‥
‥﹁高天原の神様たち︵出雲の神様たち︶﹂と同じですね。
‥
‥ここからは、私の系図解読の話になりますが、先代旧事本紀の
‥﹁食国政申大夫は今の大連である。亦は大臣とも云う。﹂の
‥解釈が、ここで云う﹁公卿﹂に当たるのだ、と考えています。
‥この辺りが、私の系図解読の根本になっています。
︵‥皇后の同母兄弟は﹁大臣﹂、皇后の父親は﹁大連﹂だろう︶
︵‥この定義が、どこまで正確かは分かりませんが、・・・。︶
*****
﹁殿上人︵てんじょうびと︶﹂︵ウィキペディアより︶
‥殿上人とは、9世紀以降の日本の朝廷において、天皇の
‥日常生活の場である清涼殿の殿上間に昇ること︵昇殿︶を
‥許された者︵三位以上は原則全員、四位・五位の一部︶の
‥中から﹁公卿﹂を除いた四位以下の者を指す。
*****
﹁公卿︵くぎょう︶﹂︵ウィキペディアより︶
‥公卿は日本の律令の規定に基づく太政官の高官で、
‥国政を担う最高の職位をさす。
‥
‥すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・内大臣・大納言・
‥中納言・参議ら︵もしくは従三位以上︵非参議︶︶の
‥高官を指す︵総称して議政官という︶。
‥
‥平安時代に、﹁公﹂は大臣、﹁卿﹂は参議または三位以上の
‥廷臣を指すことから、合わせて、公卿と呼ばれるようになり、
‥京都御所に仕える上級廷臣を指した。
‥
‥公卿は、国政の公務に準ずる職位として、
‥政所・荘園を持つことが許された。
︵黒木華の財産の出所が分からなかったのですが、︶
︵これですね。今回、初めて知りました。収穫でした。︶
*****
先代旧事本紀‥﹁巻第七 天皇本紀﹂より
‥
‥二年二月二日 天皇は功績を定めて賞された。
‥宇摩志麻治命に詔をして﹁云々﹂と仰られた。宇摩志麻治命と
‥天日方奇日方命︵あめのみかたくしひかたのみこと︶は共に
‥食国政申大夫︵おすくにのまつりごともうすまえつきみ︶と
‥なった。
‥食国政申大夫は今の大連︵おおむらじ︶である。
‥亦は大臣︵おおおみ︶とも云う。
‥天日方奇日方命は皇后の兄で大神︵おおみわ︶君の先祖ある。
‥道臣命に詔をして︵云々︶。
︵‥皇后の同母兄弟は﹁大臣﹂、皇后の父親は﹁大連﹂だろう︶
38‥石見介:
2024/06/23 (Sun) 00:03:12
米田さん
高句麗の徒食者の数の訂正、有難うございます。
私のコメントは、編集しましたが、引用後なので、訂正せずに、2万のままに、しておきました。
しかし、大河ドラマの藤原道長を、高句麗の徒食者と、同じ扱いをするのは、流石に、無理だと思います。
摂関家の出で、10名そこそこしかいない,公卿の一員ですから。
大河ドラマで不満なのは、恋愛物にしたためか、次代の担い手である,﹁兵︵つわもの︶の家﹂、武家貴族や六位の﹁侍品﹂の、登場者が無く、後の清和源氏の祖の、源満仲やその三子、頼光,頼親、頼信ぐらいは、出しても良いのに、と思う程度です。
﹃後漢書﹄郡国志からの人口推計等、感嘆しました。以前.﹃漢書﹄地理志で、似たようなことを試みて、途中で断念したことがあり、敬意を表します。
前後漢の盛時に比し、三国時代の人口は激減し、ほぼ1/10になったとも言われ、三国各国の人口が、後漢盛時の大郡一郡程度だと言われますが、是には、人口捕捉率の低下も大きいと言う反論もあります。
県城以外に散在する集落や狩猟民などの移動人口は、特に、辺境の非漢族居住地域では、把握出来ず、低く見積もられていたと、思われます。
他に、米田さんは、高句麗族と、濊族や沃祖の関係を、﹁郡﹂の支配下にあっても、同時に高句麗族の支配下にあり、せっせと食料などを、貢いでいたようにお考えのようですが、それは、戦国時代の日本の国人衆とは異なり、基本的に、﹁郡﹂存在時には、群に従い、貢納し、高句麗族には、付け届け程度の関係だったと思われます。
戦国時代の国人衆は、基本的に、戦国大名には従っても、京や鎌倉の公方に、貢納を出すのは、戦国大名の了承があり、官職等の見返りがある場合ぐらいでした。
勿論,郡が機能し無くなれば、当然、高句麗に貢納し、群には、何も出さないことになりますが。
37‥米田
:
2024/06/22 (Sat) 10:06:07
┌
│Re: 槌田 鉄男さんのスレ - 石見介 2024/06/22 (Sat) 00:01:35
│
│高句麗の﹁徒食者2︵←﹁1﹂︶万人﹂は、有名ですが、
│遊んでいるわけではなく、おそらくは、騎馬戦闘訓練等を
│行い、狩猟採集や、農耕などは一切、行わない、
│当時としては珍しい﹁常備兵﹂集団だったのでしょう。
└
‥漢書地理志‥楽浪郡。
‥戸数は6万2812、人口は40万6748人である。県数は25である。
‥玄菟︹郡︺と楽浪︹郡︺は、武帝の時に、
‥朝鮮・濊貊・︹高︺句驪らの蛮夷の地域に置かれた。
‥後漢書郡国志
‥楽浪郡。18城、6万1492戸、25万7050人がいる。
‥︵1城平均‥約3416戸、約14280人。︶
‥玄菟郡。6城、1594戸、4万3163人がいる。
‥︵1城平均‥約2665戸、約7184人。︶
‥︵2郡24城での平均‥約2626戸、1万2509人。︶
‥晋書地理志
‥楽浪郡。統県は6。戸数は3700。
‥玄菟郡。統県は3。戸数は3200。︵高句麗県を含む︶
‥帯方郡。統県は7。戸数は4900。
<高句麗の支配者階級、徒食1万人について>
‥三国志魏の時代の統県と人口は、分かりませんが、
‥後漢書の数値︵楽浪郡と玄菟郡︶を使って考えてみます。
‥24城は、︵城壁都市ですので︶24県とほぼ同義です。
‥1万人が24城に分散しているとすると、平均約417人。
‥417÷12509×100≒3.3%
‥
‥このように見てくると、各城︵県︶に約3.3%の徒食の
‥支配者︵貴族︶が住んでいたことになります。
‥次に別の史料から見ていきます。
‥﹃三国志魏書濊伝﹄
‥二郡は、戦争をするとき、
‥︹濊から︺貢物を取り、使役に供給させている。云々。
‥﹃三国志魏書高句麗伝﹄
‥下戸が遠くから五穀・魚・塩などを担い運んできて、
‥︹主家に︺供給する。
‥沃沮・東濊はみな︹高句麗に︺臣属している。
*****
‥濊が貢物などを送る相手は、二郡︵楽浪郡・帯方郡︶であり、
‥高句麗なのです。
‥もちろん、戦争の時には、郡の太守の命令になりますが、
‥普段から、食料などを各城︵県︶に供給していることが
‥分かります。
‥これは、
‥﹁朝鮮・濊貊・︹高︺句驪らの蛮夷の地域﹂と
‥﹁玄菟郡・楽浪郡・帯方郡﹂の地域が、実際には、
‥重なっていることを表しています。
‥
‥これは、真田氏などの信濃の国人たちと徳川家康の
‥主従関係に似ていると思っています。
‥国人たちは、地域を支配しているが、戦争の時には
‥戦国大名の支配下に入るようなものです。
‥普段は、高句麗の支配者として生活していて、
‥何かあると、郡の太守の指示︵支配︶に従う。
‥
‥徒食の支配者たちは、平安時代の貴族に似ているのかも
‥知れません。
‥大河ドラマの﹁藤原道長﹂を﹁常備兵﹂集団とは
‥いわないでしょう。
36‥石見介:
2024/06/22 (Sat) 00:01:35
米田喜彦さん
誤記修正前のコメントに、編集未済、構築中などの注記を付けず、編集中に、コメント内容が、抽象的に過ぎると思ったので、欧州などでの、特に子孫集団に於けるY-DNAデータに影響しそうな現象を、追加した為、その間に、米田さんのレスがあり、申し訳ありませんでした。
最近の視力障害の進行は、著明で、施設入所が必要な段階にあり、殆ど本は読めず、処分に手間取っています。記憶頼りの 投稿になるので、事実確認は、wiki.に頼っていますが、寄付要求で、しばしば断念している状況です。投稿失敗の頻度が、更に上昇し、誤記誤変換の修正も、失敗が続くため、以前のような翌日の一回の編集では済まず、何回も、少しずつ修正を行って、完成させるパターンに、なっています。
日本の天皇家を含む公人は、欧米と異なり、Y-DNA等のデータを公表していない為、遺伝人類学データの歴史学への応用が、大きく制限されています。
しかし、公表されている現代日本人男性の、Y-DNAデータと、核ゲノムデータの比較からだけでも、縄文系主流のY-D1a2系統という、男性不妊の頻度が高いハンデを有するグループが、社会的選択を受けて、頻度を高めた事は、明白です。
この事実を無視した、歴史像の組み立ては、科学ではなく、信仰としか、言いようが、有りません。
残念ながら、槌田鉄男さんや米田さんの論考にも、この観点が、欠如しています。
米田さんの系譜復元で、まず、最初に私が疑問に感じるのは、松野連などの、﹁呉王夫差の子孫﹂等の﹁自称﹂を、批判せずに、そのまま受容されている様に、思えることです。
中国の史書を読む限り、呉王夫差とその子らは、越王句践に因って、滅亡したとしか、思えません。
東漢氏の後漢霊帝の子孫云々や秦氏のそれ等も、信頼性は、無いと思われます。
異国で、好き勝手に、法螺を吹いている、と私は、判断していますが。
徐福集団も、日本に来たのか、不明で、私は、新羅の国号﹁徐伐﹂から、新羅には移住した可能性はある、と考えています。
新羅3王姓中の、朴氏と昔氏は、倭種ですが、列島の氏族との関係は、判断が、難しい。
慶州金氏は、法興王の名﹁慕︵募︶泰(秦︶﹂という、中国史書の記述から、慕韓出自の、扶余系~韓系の氏族の可能性が高いと思われます。
まあ、半島中南部には、何処にでも倭種がいたので、倭種かも知れません。
高句麗の﹁徒食者2万人﹂は、有名ですが、遊んでいるわけではなく、おそらくは、騎馬戦闘訓練等を行い、狩猟採集や、農耕などは一切、行わない、当時としては珍しい﹁常備兵﹂集団だったのでしょう。
35‥米田
:
2024/06/20 (Thu) 23:09:04
https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1718892545.png
┌
│Re: 槌田 鉄男さんのスレ - 石見介
│2024/06/20 (Thu) 02:17:27
│
│支配層と支配下の属民の、種族、部族、民族
│︵主に言語で判断︶が、異なる事は、よくありますが、
│﹁支配層﹂と、配下の被支配部族、被支配民族の相違は、
│厳然たるものがあり、それを無視して、﹁多民族国家﹂
│﹁多民族構成﹂などというのは、無意味でしょう。
│
│即ち、高句麗﹁国﹂には、同系のツングース系諸族や
│古アジア語族、或いは漢民族、朝鮮語族、日琉語族等に
│属する被支配層各種族がいても、支配層の﹁五部﹂は、
│貊族であり、その身分差は、厳然としています。
└
‥石見介さんの主張は、ひとつの考え方としては、理解できる
‥のですが、朝鮮半島や倭国には、この考え方は、あまり
‥当てはまらないのではないか、と考えています。
‥考えがまとまっていないので、思いつくままに書きます。
︵その1︶
‥BC5世紀の夫差︵松野連の祖︶・BC3世紀の徐福などの移住、
‥AD400年前後︵応神天皇の時代︶の半島からの流入など。
‥部族としてまとまった人数による、移住が多いのです。
‥他国を支配して云々というよりも、
‥大陸や半島で、負けた連中が、日本に渡って来て、移住・入植
‥して、争いの少ない理想郷を作っているように見えるのです。
‥日本列島にも奴隷はいましたが、どちらかと云うと、少なく、
‥家に付属の奴隷が多かったように感じています。
︵その2︶
‥﹁朴氏﹂の扱いです。
‥新羅の始祖、﹁赫居世﹂は、倭国出身の﹁朴氏﹂です。
‥辰韓六部︵6村︶のひとつの長は、朴氏です。
‥その子孫が阿達羅王になります。私の考えでは、
‥阿達羅王=御食津臣命で、梨迹臣命︵難升米︶の祖父です。
‥この子孫が、渤海につながっていくのだろうと思います。
︵その3︶
‥九州の北西部にあった︵吉野ケ里のような︶ミニ国家群は、
‥AD1~2世紀にかけて、出雲族に支配されていった。
‥これには、支配と被支配の関係があったように思います。
‥それに比べて、遠賀川︵文化︶の︵東方への︶拡散・拡張は、
‥支配というよりも、入植・定着という感じを強く持ちます。
┌
│﹁支配層﹂と、配下の被支配部族、被支配民族の相違は、
│厳然たるものがあり
└
︵まとめ︶
‥倭国出身の赫居世︵朴氏︶や、大国主命︵金首露‥42年生︶
‥の子孫が、4世紀以降、倭国&半島の支配者になっていった。
‥これをどう説明してよいのか分かりませんが、
‥もちろん、
‥倭人伝に出てくる﹁はだしで海に潜っている倭人﹂が、
‥支配者になれたとは思いませんが、
‥日本列島で生まれ育った人物︵朴・金︶が、その後、
‥高句麗の徒食していた連中の上に立つ︵支配者になる︶ことは
‥あったと思っています。
34‥米田
:
2024/06/20 (Thu) 23:06:03
https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1718892363.png
┌
│Re: 槌田 鉄男さんのスレ - 石見介
│2024/06/20 (Thu) 02:17:27
│
│扶余や貊族は、本格的な騎馬遊牧民なのか、半狩猟民なのか、
│どうもハッキリしませんが、﹁騎馬隊﹂を有する種族や
│国家と、﹁騎馬民族﹂は、明らかに、異なった概念です。
│それを認識した上で、敢て﹁騎馬民族﹂という、
│言葉を使用しないのであれば、私にも、理解できます。
└
※‥理解して頂き、ありがとうございます。
※‥なお、少し気になっている点は、下記のように、高句麗で
_‥﹁徒食するだけの者が一万余人﹂についての記述です。
_‥彼ら支配者は、﹁徒食﹂するだけの、雲の上人なのです。
_‥彼らは、騎馬遊牧民でもなく、半狩猟民でもなく、兵士でも
_‥ありません。彼らは、前漢時代の貴族のように見えます。
_‥彼らを見ていると、﹁高天原の神様たち﹂に見えて来ます。
﹃三国志魏書高句麗伝﹄
‥︹高句驪には︺古くから五族があった。
‥高句麗の支配階級は耕作しない。
‥︹したがって︺徒食するだけの者が一万余人もいる。
‥
‥下戸が遠くから五穀・魚・塩などを担い運んできて、
‥︹主家に︺供給する。
‥沃沮・東濊はみな︹高句麗に︺臣属している。
﹃三国志魏書濊伝﹄
‥二郡は、戦争をするとき、︹濊から︺貢物を取り、
‥使役に供給させている。云々。
33‥石見介:
2024/06/20 (Thu) 02:17:27
米田喜彦さん
私は、元来、欧州の民族移動に興味を持ち、大学卒業時から、日本古代史に、関心が移った経緯があり、その為、移動集団の種族差やその構成には、常に、注意しています。
支配層と支配下の属民の、種族、部族、民族(主に言語で判断︶が、異なる事は、よくありますが、﹁支配層﹂と、配下の被支配部族、被支配民族の相違は、厳然たるものがあり、それを無視して、﹁多民族国家﹂﹁多民族構成﹂などというのは、無意味でしょう。
欧州の場合は、特に、ゲルマン民族のローマ帝国侵入時には、双方とも、宗派の相違はあっても、おおむね、キリスト教徒化しており、一夫一婦制で、被支配層の下層民も,子孫を残しやすい状況にあり、東部ユーラシアや中央アジアのような、一夫多妻制社会では、有りませんでした。
また、非キリスト教徒だった古ザクセン族などでは、貴族、自由民、解放奴隷の、身分別の議会=三部会が存在したりして、大きく、東アジアや中央アジアとは、Y-DNAの子孫集団の分布に、与える社会的条件が、異なっています。
また、印欧語族は、南アジアの所謂﹁カースト制](ヴァルナ︶では、各ヴァルナやカースト間の、通婚の制限があり、これも、下位カースト民が、子孫を残しやすい社会システムとなっています。
一方、東アジアや中央アジアでは、状況が、異なります。
中国史書に、﹁扶余系﹂と一括して、記述されている集団も、実際には、扶余本族、濊貊、沃祖がありますが、濊族には、河野六郎、伊藤英人氏らの、﹁濊倭同系論﹂があり、日琉語族に属していた可能性も、あり得ます。﹁濊貊﹂と一括されていても、貊族は、扶余族同様、ツングース語族であり、高句麗族は、貊族です。﹃後漢書﹄李賢注に高句麗の﹁五部﹂の高句麗語名の音写が、記されていますが、何れも、ツングース語系の﹁方向語﹂です。
即ち、高句麗﹁国﹂には、同系のツングース系諸族や古アジア語族、或いは漢民族、朝鮮語族、日琉語族等に属する被支配層各種族がいても、支配層の﹁五部﹂は、貊族であり、その身分差は、厳然としています。
高句麗の次代王遂成の﹁倭山田猟﹂記事からは、倭種の祭祀の地であったらしい山名もあり、この地域の倭種の存在の記憶が、窺われます。
扶余や貊族は、本格的な騎馬遊牧民なのか、半狩猟民なのか、どうもはっきりしませんが、﹁騎馬隊﹂を有する種族や国家と、﹁騎馬民族﹂は、明らかに、異なった概念です。それを認識した上で,敢て﹁騎馬民族﹂という、言葉を使用しないのであれば、私にも、理解できます。
尚、高句麗王家が、Y-C2b系統だと言うのは,Y-DNAハプログループの旧分類時代(Y-C系統が,C1からC6まであった︶に、何と日本の高麗王氏の子孫から得たデータとして、紹介されていました。
まあ、モンゴル族や満州族の主要Y-DNAとも一致するので、信頼性は高い、と考えています。
編集‥6月20日23時、
誤記誤変換の訂正と、欧州インドなどの事例を、追加いたしました。
32‥米田
:
2024/06/17 (Mon) 07:11:40
┌
│Re: 槌田 鉄男さんのスレ - 石見介
│2024/06/16 (Sun) 00:13:56
│
│ 槌田さんのお説の内、
│①倭国の最初の遣使が、景初2年との説には、同意致します。
│
│②扶余系騎馬民族による、邪馬台国建国説については、
│そもそも、現代日本人男性のY-DNAハプログループのデータ
│から、日本の支配層の主流に、扶余系のY-DNAと考えられる
│Y-C2b系統が、極めて少ない事から、狗奴国東遷説をも含め
│た、騎馬民族征服~渡来王朝説は、成立困難だと考えます。
│私は、来たのは、王様ではなく、馬飼部だ、と言っています。
└
‥①の景初2年の説については、ここでは省略します。
┌
│②扶余系騎馬民族による、邪馬台国建国説について
└
︵その1︶
‥夫余国︵高句麗︶は、﹁五族︵云々︶﹂のように、多民族の
‥集合体です。その中で誰が日本の支配層の主流になったかは、
‥︵正確には︶分からないだろう、というのが、私の考えです。
‥それは、新羅の始祖﹁︵朴氏︶赫居世﹂が、倭人であることも
‥関係しています。
‥
‥﹁馬飼部﹂は、﹁朴堤上﹂の子孫だろうと考えています。
‥﹁朴堤上﹂は、ニギハヤヒ︵黒速︶の子の猪手の子孫だろう。
‥
‥﹁騎馬民族征服﹂とありますが、楽浪郡の兵隊は、騎馬兵
‥です。また、
‥﹁三国史記・高句麗本記﹂には、次のような記事もあります。
‥太祖大王69年︵121年︶12月、王は馬韓・濊・貊の軍隊1万
‥余騎を率いて進撃し、云々。夫餘王は、子の尉仇台を派遣し、
‥2万の軍を率いて、漢の軍隊と協力してふせぎ戦った。云々。
‥つまり、後漢の時代の、高句麗王は、馬韓・濊・貊に、
‥1万余騎の騎馬兵を集めることが出来た、ということです。
‥つまり、半島中南部にも、騎馬兵は、いたということです。
‥もちろん、軍隊の中には、水軍もいたでしょうが、
‥陸戦の兵士は、騎馬兵です。また、
‥記紀の神代に出てくる﹁スサノオ﹂は、馬に乗っています。
‥
‥私としては、夫余国︵高句麗︶は、多民族の集合体です。
‥ですので、征服王朝としての、﹁騎馬民族﹂という
‥︵単一の︶民族は、存在していないと考えています。
‥以上が、私が﹁騎馬民族﹂という言葉を使わない理由です。
31‥米田
:
2024/06/17 (Mon) 06:17:07
https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1718572627.gif
┌
│白石南花
│討論はもう終わりとのことで、これは
│槌田さんへのレスというわけではなく、
│私見として述べておきたいことです。
└
﹁三国志 ︵さんごくし、歴史書︶﹂︵ウィキペディアより︶
‥﹃三国志﹄は、中国三国時代について書かれた歴史書。
‥構成
‥紀伝体の歴史書であり、
‥﹁魏志︵魏書︶﹂30巻︵﹁本紀﹂4巻、﹁列伝﹂26巻︶、
‥﹁蜀志︵蜀書︶﹂15巻、﹁呉志︵呉書︶﹂20巻
‥の計65巻から成る。
*****
‥私も、私見を述べたいと思います。
‥まず、﹁景初2or3年問題﹂は、約4年ぶりに取り組みました。
‥4年前は、魏書・晋書のテキストが手に入らなかったために、
‥︵というか、私のライフワークは、系図の研究ですので、︶
‥分からない部分は、保留にしていました。
‥今回、魏書の現代訳が、ネットで手に入るようになったことで
‥改めて、自分なりの追及が出来るようになりました。現代訳の
‥おかげで、明帝の死亡時期を修正することが出来ました。
‥
‥さて、どうしても、﹁景初2or3年問題﹂の話になりますが、
‥﹁PDCA﹂という考え方があります。
‥この﹁PDCA﹂を﹁公孫氏討伐﹂に当てはめようと思います。
┌
│PDCAとは, Plan(計画), Do(実行), Check(検証), Act(処置)の
│英文の頭の文字を取ったものであり,
│事業活動において生産管理や品質管理などの管理業務を
│計画通りにスムーズに進めるための手法のひとつです.
└
Plan(計画),
⇒司馬懿の騎兵と楽浪・帯方からの水軍による挟み撃ち。
Do(実行),
⇒﹁100日×3﹂の作戦で、景初2年8月公孫氏滅びる。
┌
│08月﹃三国志﹄︵魏書・公孫度伝︶に付された﹁公孫淵伝﹂
│壬午︵じんご︶の日︵23日?︶
│魏の大軍はこれを急襲し、︵云々︶公孫淵父子を斬り殺した。
│公孫淵の首は洛陽に送られ、遼東・帯方︵たいほう︶・
│楽浪︵らくろう︶・玄菟︵げんと︶の4郡は、
│ことごとく魏に平定された。
└
Check(検証),
⇒08月﹃正史 三国志8﹄の年表
‥魏の司馬懿が襄平を陥し、梁水のほとりで公孫淵父子を斬る。
‥これにより遼東・帯方・楽浪・玄菟の4郡は、
‥みな魏に帰属した。
‥︵帯方郡を平定したのは、﹁劉昕﹂。︶
‥︵帯方郡平定を報告したのも、﹁劉昕﹂ではなかろうか。︶
Act(処置)
┌
│︻11月︼﹃三国志﹄︵魏書・明帝紀︶
│魏の曹叡が、公孫淵討伐の勲功の大小に応じ、太尉の司馬懿
│以下に領邑︵りょうゆう︶の加増や封爵を行う。
│
│★このくだりでは、公孫淵討伐に送り込む兵力や、
│司馬懿が遼東に到着した後、長雨に遭っていたときの
│曹叡と臣下たちとのやり取りが出てくる。
└
‥そもそも、帯方郡の太守︵﹁劉昕﹂︶は、﹁太守﹂いう任務
‥よりも、﹁公孫氏討伐﹂の水軍の将軍の面が強いです。
‥
‥そして、﹁公孫淵討伐の勲功の大小に応じ﹂とありますから、
‥この時︵11月︶に、帯方郡の太守﹁劉昕﹂が、異動になった
‥可能性が高いと思われます。新しい帯方郡太守は﹁劉夏﹂です。
*****
‥私も、私見を述べたいと思います。
┌
│白石南花
│YouTubeを見ていて思うことは、YouTuberの漢籍の
│取り扱いには、総じて問題が多いと思います。
│まず校勘に関して、そのやり方や結果に関して異論があると
│いうレベルではなく、そもそも何故校勘が必要になるのか
│分かっていないと思われることです。
└
┌
│校勘(コウカン)とは? - コトバンク[名](スル)
│古典などの複数の写本や刊本を比較検討して、
│本文の異同を明らかにしたり正したりすること。
│﹁諸本を校勘して定本を作る﹂
└
‥私自身の専門は系図の研究ですから、海外の史料については、
‥東洋文庫﹁東アジア民族史1﹂と﹁三国史記︵1~4︶﹂、
‥の計5冊を︵少なくとも︶揃えていました。
‥参考文献︵参考本︶は、ほかにもありますが、メインは、
‥この5冊でした。足りないところは、ネットで調べるくらい
‥で、ほぼ足りていました。
‥逆に云うと、中国の正史まで調べるほどの、深入りは、
‥今までは、︵出来なかったし、︶しないようにしてきました。
‥︵分からないものは、不明のままに、してきました。︶
‥
‥その意味で、﹁校勘﹂云々以前の問題として、
‥否定するにしても、肯定するにしても、上記5冊は、最低限、
‥読んで考察するくらいは、必要だろうと感じています。
30‥︵管理人︶
:
2024/06/17 (Mon) 00:22:17
︵FB談話室からの転載です。︶
白石南花 7時間·2024年06月16日︵日︶14‥11
討論はもう終わりとのことで、これは槌田さんへのレスと
いうわけではなく、私見として述べておきたいことです。
YouTubeを見ていて思うことは、YouTuberの漢籍の
取り扱いには、総じて問題が多いと思います。
まず校勘に関して、そのやり方や結果に関して異論があると
いうレベルではなく、そもそも何故校勘が必要になるのか
わかっていないと思われることです。
漢籍を色々見ていると、直感的にその文面が時代とともに、
しだいに誤りを累積していったことが理解できます。
だからこそ元の文面がどうだったかの検討が、必須になって
くるのですが、当然そこで重要なのは書物の成立年代ではなく、
実際に印刷されたり、書写された実物の年代になるのです。
その他逸文の取り扱いにも問題が多いです。
逸文は全体の一部分が残されているのですから、元の本に
何が書いて有ったかについては論じるこちができても、
原則として何が書いてなかったかはわからないのですが、
魏略の逸文をもとに魏略にはこれが書かれていなかったと
いうような議論がまかり通っています。
また何かの文に対してつけられた、註にみえる逸文については、
中間を大きく省略して繋げた例や、原文の意味だけをとって、
文面を大きく変えている例などがあり、逸文をもとに原文の
文面を再現するのにも限界があります。
例えば﹃漢書﹄巻二十八下地理志燕地には下記の文があります。
倭在帶方東南大海中,依山島為国,度海千里,復有国,皆倭種。
(倭は大帯東南大海中にあり、山島によって国を為す。
海を渡ること千里にまた国があり、皆倭種である。)
倭人伝では後半部分の海を渡ること以下は、
一通り倭人について語った後に出てきます。
しかし逸文では途中を大きく省略することがあるので、
これをもとに﹃魏略﹄では倭人伝と、記述の構成が違う
とは言えないのです。
下記に例を挙げます。
﹃隋書﹄卷十二礼儀七 史記曰‥平原君誇楚,為玳瑁簪。
(史記に曰く。平原君は楚に夸ろうとして、タイ・マイを 髪飾りとした。)
﹃史記﹄卷七十八春申君列伝
趙平原君使人於春申君,春申君舍之於上舍。趙使欲夸楚,
為瑇瑁簪,刀剣室以珠玉飾之,請命春申君客。
(趙の平原君は人を春申君に使わした。
春申君は之を上舎にやどらせた。
趙の使いは楚に夸ろうとして、タイ・マイを髪飾りとし、
刀剣のさやは珠玉で飾り、命を春申君の客に請うた。)
文の途中を省略し、必要なところだけつまんで繋げるような
ことをしているのです。
さらに厄介なのは、何々に曰くとしてあっても、
それが原本からの引用でなく、原本を引用した別の書物からの
又引きの場合もあり得るのです。
魏略の倭人伝に関係する逸文の場合は、翰苑という類書と
呼ばれる書物にあります。類書は様々な書物から引用して、
辞書的に多くのことを掲載した書物ですが、引用元が
怪しいものや、原文の用語などを書き変えたものが多く、
うかつに利用することができません。
もっとも逸文が引用文の場合は、本文の何に対しての引用かを
見ることによって、引用元の内容を確定できる場合はあります。
卅九年、是年也太歲己未。魏志云
﹁明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、
求詣天子朝獻。太守鄧夏、遣吏將送詣京都也。﹂
これは日本書紀神功紀の例ですが、太歳己未に対する註なので、
後に出てくる年は、己未年以外にあり得ず、
引用元も景初三年であったことが確定できます。
さらにこの条文には本文がなく、註だけとなっているので、
日本書紀編纂時のものであり、八世紀初頭にこの朝貢が
景初三年であったとする文面が存在したことが確定できます。
しかしこの場合でさえも、この引用が魏志からとったものか
どうかは分かりません。
日本書紀の場合でも、多くの漢籍による潤色についての
研究から、底本として華林遍略のような類書を用いている
ことが分かっていて、この引用も魏志を引用したのではなく、
魏志を引用した類書からの又引きの可能性があるのです。
実際﹁明帝景初﹂のように、年号の前に制定した皇帝の名前を
冠するやり方は、私見では六世紀ごろから目につくように
なるような気がします。
ただ類書だからと言って、元の史書の文面を全く無視する
わけではなく、もとの文書を確認して訂正していることも
確認できます。
太平御覧に引く倭人伝相当部分をみると、翰苑や梁書に引く
文とのつながりが強く疑われるのですが、一方で現在に
伝わる三国志の文面の書き方で修正もしているのです。
何故類書の文面が、後発の類書や正史などにも、底本として
使われるのかと言うと、多くの文を引用する類書では、全文を
そのまま載せず、内容を省略し、用語や文型を調節して、短く
統一的な分かりやすい文面に改めているからと思われます。
同じ要件のある後世の書物では、すでに整理され短くなった
文面を用いたほうが労力の削減になるのです。
類書は一般に膨大な文書量になりますし、後世の史書では
前史は本来の対象でなく、まとめて伝えたいからでしょう。
しかし文面を短くまとめるのには労力を有しますが、単に原文
を参照して確認するのは、それほど大きな労力を伴いません。
したがって太平御覧などは、底本として先行類書を引きながら、
三国志も参照して訂正しているのでしょう。
類書の文面だからと言って、軽視はできないのです。
景初二年説は、南宋刊本までしか遡れなかった盧弼が、
決定打をつかめず三国志集解に書いた議論にたいする批判から
出ています。
冊府元亀の南宋刊本をみれば、詳細部分までまったく
三国志と一致しているので、おそらく北宋刊本でも
景初二年とあったのでしょう。
しかし今や我々は、八世紀初頭に遡って、景初三年の証拠を
知っていますから、この問題はすでに決着したと考えています。
槌田 鉄男 5時間·2024年06月16日︵日︶16‥15
情報ありがとうございます。しかし、おっしゃる内容では
未だに景初3年で決着できるのか理解できません。私の中
では依然として景初2年の可能性が高いと考えています。
29‥石見介:
2024/06/16 (Sun) 00:13:56
私には、FB談話室の方が、投稿しにくいので、この討論室の方で、コメントさせていただぉます。
槌田さんのお説の内、
①倭国の最初の遣使が、景初2年との説には、同意いたします。
②扶余系騎馬民族による、邪馬台国建国説については、そもそも、現代日本人男性のY-DNAハプログループのデータから、日本の支配層の主流に、扶余系のY-DNAと考えられるY-C2b系統が、極めて少ない事から、狗奴国東遷説をも含めた、騎馬民族征服~渡来王朝説は、成立困難だと考えます。
私は、来たのは、王様ではなく、馬飼部だ、と言っています。
①の景初2年説の根拠は、白石南花さんと髙川博さんの、お説の影響を受けていますが、根本的には、﹃三国志﹄の編者陳寿の編纂姿勢が、中立ではなく、彼のいわば、スポンサーである、張華や杜預の意向に従って、西晋の帝室司馬氏の祖である、司馬懿の顕彰目的で、その﹁魏書東夷伝﹂が、撰述された、という観点からです。
即ち、遼東の公孫氏討伐の現地軍総司令官は、司馬懿ですが、公孫氏討伐と倭国の招諭などの対東夷外交を含めた﹁大戦略﹂は、明帝曹叡と大将軍曹爽が立てた、という考えで、これは、白石南花さんのお説です。
高川博さんは、魏の倭国に対する厚遇は、半島の諸韓国の背後の倭国に、魏の韓族統治協力のために、倭国の半島出兵を求めたのではないか?というお説でした。
半島南部には、倭種の居住地域もあり、半島の倭地にも影響力のある列島の倭国の出兵の政治的影響は、それが、例え,数百の少数でも、政治的効果は、極めて大きいと考えられます。
高川さんのお説を検討中に、魏の曹操一族には、後漢末に、曹胤のように、会稽郡太守を勤めた者もおり、安徽省亳県の﹁会稽曹君墓﹂出土の﹁倭人字磚﹂等の資料から考えて、曹操一族には、倭人,倭種に対する知識が、伝えられていた可能性が高く、明帝と曹爽は、前漢時、会稽郡に献見していた東鯷人も、倭種であり、倭国と連携すれば、呉の背後を、脅かすことも可能だと考えて、公孫氏討伐を行うと同時に、半島の2郡を先に占領し、倭国との接触を図ったのではないか?即ち、めったに人と合わない祭祀王の卑弥呼の﹁外交﹂ではなく、魏が倭国に、接触を求め、対中外交の窓口であった﹁奴国﹂の王族の﹁難升米﹂が、結果的に、卑弥呼の﹁使節﹂として、史書に名を遺すことになったのではないか?と考えるに至りました。
尚、﹁難升米﹂を、奴国の人ではないか?としたのは、護博達氏の説です。
﹁倭人字磚﹂については、中央公論社の﹁日本の古代﹂シリーズ第一巻﹃倭人の登場﹄で、護浩一氏が、紹介しています(森氏紹介の李燦氏の解釈には、私は、従いません︶。
﹁倭人字磚﹂の出土した、﹁会稽曹君墓﹂は、曹操一族の会稽郡太守であった者の、墳墓である事は間違いないと考えられていますが、当初の李燦氏の説のように、後漢末の霊帝時の会稽郡太守曹胤︵曹操の養祖父の兄弟の孫︶の墓とは、確認出来ず、他の一族の可能性もあり、﹁会稽曹君墓﹂と呼称されておます。
他の字磚から、墳墓建設に動員された者たちの中に、黄巾道の信徒の存在が知られ、﹁倭人字磚﹂の作者が、倭人との盟約の可能性を、云々
28‥︵管理人︶
:
2024/06/13 (Thu) 19:58:41
︵FB談話室からの転載です。︶
米田喜彦 16時間·2024年06月13日︵木︶01‥33
槌田鉄男さんへ
米田の投稿は、討論室の方に投稿しています。
お読みください。
ここ﹇新談話室・fakebook﹈での討論は、
そろそろ読みづらくなってきています。
討論の続きは、ぜひ、﹇討論室・FC2﹈の方で、
お願いします。
槌田 鉄男 1時間·2024年06月13日︵木︶16‥00
本件については、お二人の考えも大体分かったので
そろそろ終了します。
相変わらず﹇討論室・FC2﹈のやり方がよく分かりません。
27‥米田
:
2024/06/13 (Thu) 17:47:23
┌
│Re:スレ - 米田 2024/06/10 (Mon) 17:46:34
│
│槌田鉄男さんの主張には、
│帯方太守﹁劉昕﹂︵景初2年︶、︹帯方郡︺太守の﹁劉夏﹂
│帯方太守﹁弓遵﹂︵正始元年︶の3人の太守に関する考察が
│抜けています。
└
以下、﹁劉夏﹂の任官に絞って考察を書いていこうと思います。
┌
│槌田 鉄男 1時間·2024年06月11日︵火︶11‥54
│
│ちょっと誤解もあるようなので
│景初2年説も時系列でまとめてみました。
│
│景初2年︵238年︶6月__司馬懿と公孫氏の戦いが始まる
│同年6月︵238年︶難升米が帯方郡に到着、太守・劉夏と会う
│景初2年︵238年︶8月__公孫氏滅びる
└
┌
│槌田 鉄男 1時間·2024年06月12日︵水︶22‥51
│_①
│景初3年説の場合でも帯方郡に着いたのは
│︵景初3年︶6月と言うことでいいですね?
│
│海路ではなく、陸路を取ったと言うことですか。
│そうなると、かなり大回りになります。その前に使者を送って
│やりとりするとなると更にプラスアルファになります。
│ギリギリ同年12月に間に合うかどうか?
│余裕は全くなくなります。
│呉軍は遼東を荒らし回って帰ったとあります。
│_③
│喪が明けたこの正始元年正月に多くの国からの使節が来て
│います。景初3年12月ではおかしいので晋書は難升米の朝献も
│この時のことだと思って正始元年正月としたと考えます。
│しかし、景初2年だったらそう言う考えも必要ありません。
└
﹁魏書・明帝紀﹂の中に、﹁劉夏﹂の任官の話は出て来ません。
景初2年︵238年︶ですと、公孫淵討伐のあとの11月に、
恩賞や任官の記事があります。
景初3年︵239年︶ですと、2月・3月に任官の記事があります。
公孫氏の滅亡︵8月︶以前に、戦死でもしない限り、帯方郡の
太守が、異動になることはないと、思います。
そして、異動があるとすれば、帰還後の恩賞の11月や、
翌年2・3月の任官記事と同時に異動が行われたと考えます。
・明帝崩御の報は、すぐに太守﹁劉夏﹂のもとに届くであろう。
・さらに、崩御の翌年正月に、即位の式典が行われるという事。
・できるだけ多くの国外の支配者︵使者︶を、式に参列させる。
そうすると、太守は、外国の使者を引率して、即位の式典
︵引見︶に参列して︵立ち会って︶いるはずです。
このように見てくると、槌田さんの下記の考察は、無理だろう。
というのが、私の結論です。
┌
│景初2年︵238年︶6月__司馬懿と公孫氏の戦いが始まる
│同年6月︵238年︶難升米が帯方郡に到着、太守・劉夏と会う
│景初2年︵238年︶8月__公孫氏滅びる
└
26‥米田
:
2024/06/13 (Thu) 16:03:16
ホーム>正史年表>239年
︵魏の景初3年・蜀の延熙2年・呉の赤烏2年︶の主な出来事
︻01月︼﹁曹叡の崩御︵ほうぎょ︶と曹芳の即位﹂
丁亥︵ていがい︶の日︵1日︶
魏︵ぎ︶の曹叡が早馬を出し、遼東の公孫淵︶討伐を終え、
河内︵かだい︶まで戻っていた司馬懿︵しばい︶を召し寄せる。
曹叡は危篤状態の中、司馬懿に後事を託し、曹爽︵そうそう︶と
ともに幼い息子︵曹芳︶を補佐するよう命じ、その日のうちに
嘉福殿︵かふくでん︶で崩御した。このとき36歳だった。
﹃三国志﹄︵魏書︿ぎしょ﹀・明帝紀︿めいていぎ﹀︶
⇒丁亥の日﹃三国志﹄︵魏書・斉王紀︿せいおうぎ﹀︶
魏の曹叡が危篤になり、斉王の曹芳を皇太子に立てる。
⇒丁亥の日﹃三国志﹄︵魏書・斉王紀︶
魏の曹芳が帝位に即き、大赦を行い、曹叡の郭︵かく︶皇后に
皇太后の尊称を奉る。大将軍︵だいしょうぐん︶の曹爽と
太尉︵たいい︶の司馬懿が、曹芳の補佐にあたった。
⇒丁亥の日﹃三国志﹄︵魏書・斉王紀︶
魏の曹芳が詔︵みことのり︶を下す。﹁現在造営中の宮殿の
工事については、先帝の遺詔に従って中止とし、官庁に属する
60歳以上の奴婢︵ぬひ︶を解放して平民とする﹂というもの。
⇒01月
魏の暦が改訂され、前年の12月30日を景初3︵239︶年の元日
とし、その日に曹叡が崩御。その際、曹叡は後事を司馬懿と
曹爽に託した。
﹃正史三國志群雄銘銘傳 増補・改訂版﹄︵坂口和澄著
潮書房光人社︶の﹃三国志﹄年表
︻01月︼﹃三国志﹄︵魏書・明帝紀︶
癸丑︵きちゅう︶の日︵27日︶
魏の曹芳が、曹叡を高平陵︵こうへいりょう︶に葬る。
︻02月︼﹃三国志﹄︵魏書・斉王紀︶
魏の曹芳に、西域から火浣布︵かかんぷ︶が献上される。
曹芳は、大将軍︵曹爽︶と太尉︵司馬懿︶に詔を下し、
その効果を試す実験に立ち会わせ、百官に披露した。
︻02月︼﹃三国志﹄︵魏書・斉王紀︶
丁丑︵ていちゅう︶の日︵21日︶
魏の曹芳が詔を下し、太尉の司馬懿を太傅︵たいふ︶に任ずる。
節︵せつ。権限を示すしるし︶を持って軍を統率し、内外の
諸軍事を取り仕切ることに関しては、今まで通りとした。
︻03月︼﹃三国志﹄︵魏書・斉王紀︶
魏の曹芳が、征東将軍の満寵︵まんちょう︶を太尉に任ずる。
︻03月︼﹃三国志﹄︵呉書・呉主伝︶
呉の孫権が、使者として羊衜︵ようどう︶と鄭冑
︵ていちゅう︶、さらに将軍の孫怡︵そんい︶を遼東に遣わし、
魏の張持︵ちょうじ︶と高慮︵こうりょ︶らを討たせ、
その配下の男女を捕虜にする。
︻06月︼﹃三国志﹄︵魏書・斉王紀︶
遼東の東沓県︵とうとうけん︶の官民が海を渡って、
魏の斉郡︵せいぐん︶の辺境に住みつく。このため曹芳は、
もとの縦城県︵しょうじょうけん︶を新沓県︵しんとうけん︶
として、それらの移民を住まわせた。
︻07月︼﹃三国志﹄︵魏書・斉王紀︶
魏の曹芳が初めて朝会に出席し、公卿︵こうけい︶の上奏を聴く。
︻08月︼﹃三国志﹄︵魏書・斉王紀︶
魏の曹芳が大赦を行う。
︻12月︼﹃三国志﹄︵魏書・斉王紀︶
魏の曹芳が詔を下す。﹁烈祖︵れっそ。曹叡︶は正月に天下を
見捨てられ︵正月に崩御したという意味︶、臣下や子どもらは
いつまでも、そのご命日の哀しみを抱き続けている﹂とし、
﹁それゆえ、再び夏︵か︶王朝の暦を使用せよ﹂というもの。
これにより、建寅︵けんいん︶の月︵1月︶を正始︵せいし︶
元年正月とし、建丑︵けんちゅう︶の月︵12月︶を
﹁後の12月﹂とすることになった。
25‥米田
:
2024/06/13 (Thu) 16:00:21
ホーム>正史年表>238年
︵魏の景初2年・蜀の延熙元年・赤烏元年︶の主な出来事
︻01月︼﹃三国志﹄︵魏書︿ぎしょ﹀・明帝紀︿めいていぎ﹀︶
魏︵ぎ︶の曹叡が詔︵みことのり︶を下し、太尉︵たいい︶の
司馬懿︵しばい︶に軍を統率させ、遼東︵りょうとう︶への
攻撃を命ずる。
★﹃志記﹄…このとき毌丘倹が司馬懿の副将に選ばれた。
⇒01月﹃正史 三国志8﹄︵ちくま学芸文庫︶の年表
魏の曹叡が、司馬懿を遼東の討伐に向かわせる。
公孫淵︵こうそんえん︶は呉︵ご︶に救援を求めた。
︻02月︼﹃三国志﹄︵魏書・明帝紀︶
癸卯︵きぼう︶の日︵11日︶
魏の曹叡が、太中大夫︵たいちゅうたいふ︶の
韓曁︵かんき︶を司徒︵しと︶に任ずる。
★この年も前年に引き続き、魏の暦が、蜀や呉の暦より
1か月繰り上がっている点に注意が必要。以下に
出てくる蜀や呉の記事についても、載せる位置が難しい。
︻04月︼﹃三国志﹄︵魏書・明帝紀︶
庚子︵こうし︶の日︵9日︶ 魏の司徒の韓曁が死去する。
︻04月︼﹃三国志﹄︵魏書・明帝紀︶
壬寅︵じんいん︶の日︵11日︶
魏の曹叡が、沛国︵はいこく︶から︵云々︶の10県を分割し、
汝陰郡︵じょいんぐん︶を設置する。
また、︵云々︶の両県を併せて沛国とした。
︻06月︼﹁公孫淵伝﹂
魏の太尉の司馬懿の軍勢が遼東に到着する。
﹃三国志﹄︵魏書・公孫度伝︿こうそんたくでん﹀︶に付された
⇒06月﹃正史 三国志8﹄の年表
魏の司馬懿が遼東に至り、襄平で公孫淵を包囲する。
︻06月︼﹃三国志﹄︵魏書・明帝紀︶
魏の曹叡が、︵云々︶を廃止し、再び安楽県を設置する。
︻夏︼﹃三国志﹄︵呉書・呉主伝︶
呉の呂岱︵りょたい︶が、廬陵︵ろりょう︶の反徒を
討伐し終え、軍を還して陸口︵りくこう︶に戻る。
︻08月︼﹃三国志﹄︵魏書・明帝紀︶
焼当︵しょうとう︶の羌王︵きょうおう︶の芒中︵ぼうちゅう︶
や注詣︵ちゅうけい︶らが魏に背く。涼州刺史︵りょうしゅう
しし︶が、諸郡の兵をひきいて討伐にあたり、注詣を斬った。
⇒08月﹃三国志﹄︵魏書・公孫度伝︶に付された﹁公孫淵伝﹂
丙寅の日︵7日?︶
夜、長さ数十丈もある大流星が、首山︵しゅざん︶の東北から
襄平城の東南の方向へ落ちる。
⇒08月﹃三国志﹄︵魏書・公孫度伝︶に付された﹁公孫淵伝﹂
壬午︵じんご︶の日︵23日?︶
公孫淵の軍勢が総崩れとなる。
公孫淵は息子の公孫脩︵こうそんしゅう︶とともに、
数百の騎兵をひきいて魏軍の包囲を突破し、東南へ逃亡した。
魏の大軍はこれを急襲し、ちょうど丙寅の日︵8月7日?︶の
夜に流星が落ちた地点で、公孫淵父子を斬り殺した。
公孫淵の首は洛陽に送られ、遼東・帯方︵たいほう︶・
楽浪︵らくろう︶・玄菟︵げんと︶の4郡は、
ことごとく魏に平定された。
⇒08月﹃正史 三国志8﹄の年表
魏の司馬懿が襄平を陥し、梁水のほとりで公孫淵父子を斬る。
これにより遼東・帯方・楽浪・玄菟の4郡は、みな魏に帰属した。
★﹃三国志﹄︵魏書・公孫度伝︶に付された﹁公孫淵伝﹂の
ふたつの記事は、魏の暦と合っていないと思う。ただ、
これを1か月繰り上げて解釈し直すと、今度は﹃三国志﹄
︵魏書・明帝紀︶のいう丙寅の日の解釈が難しくなる。
ここは謎が残った。
︻08月︼﹁呉の改元﹂﹃三国志﹄︵呉書・呉主伝︶
呉の孫権のもとに、﹁武昌︵ぶしょう︶で麒麟が現れた﹂との
報告が届く。先に孫権が、宮殿の前庭で赤い烏︵カラス︶を
見ていたこともあり、﹁嘉禾﹂を﹁赤烏﹂と改元した。
︻09月︼﹃三国志﹄︵魏書・明帝紀︶の裴松之注に引く﹃魏書﹄
蜀︵しょく︶の陰平︵いんぺい︶太守の廖惇︵りょうとん︶が
謀反を起こし、魏の守善羌侯︵しゅぜんきょうこう︶の
宕蕈︵とうしん︶の陣を攻める。
魏の雍州刺史︵ようしゅうしし︶の郭淮︵かくわい︶が、
広魏太守︵こうぎたいしゅ︶の王贇︵おういん︶と南安太守
︵なんあんたいしゅ︶の游奕︵ゆうえき︶を遣わし、
廖惇の討伐にあたらせた。
郭淮の上奏を受けた曹叡は、魏軍がふた手に分かれて敵を包囲
していることを知り、配置を変えるよう詔を下したものの、
その詔が届く前に游奕は廖惇に敗れ、王贇も流れ矢に当たって
戦死していた。
︻11月︼﹃三国志﹄︵魏書・明帝紀︶
魏の曹叡が、公孫淵討伐の勲功の大小に応じ、太尉の司馬懿
以下に領邑︵りょうゆう︶の加増や封爵を行う。
★このくだりでは、公孫淵討伐に送り込む兵力や、
司馬懿が遼東に到着した後、長雨に遭っていたときの
曹叡と臣下たちとのやり取りが出てくる。
︻11月︼﹃三国志﹄︵魏書・明帝紀︶壬午の日︵24日︶
魏の曹叡が、司空︵しくう︶の衛臻︵えいしん︶を司徒に、
司隷校尉︵しれいこうい︶の崔林︵さいりん︶を司空に、
それぞれ任ずる。
︻閏10月︼﹃三国志﹄︵呉書・呉主伝︶
戊子︵ぼし︶の日︵1日︶
呉の孫権の夫人である歩氏︵ほし︶が死去する。
孫権は、歩氏に皇后の位を追贈した。
★﹃三国志﹄︵呉書・孫権歩夫人伝︶の記事から日付を補っておく。
︻閏11月︼﹃三国志﹄︵魏書・明帝紀︶
月が心宿の中央の大星を犯す。
︻12月︼﹃三国志﹄︵魏書・明帝紀︶
乙丑︵いっちゅう︶の日︵8日︶
魏の曹叡が病の床に就く。
︻12月︼﹃三国志﹄︵魏書・明帝紀︶
辛巳︵しんし︶の日︵24日︶
魏の曹叡が、郭氏︵かくし︶を皇后に立てる。
この際、天下の男子に爵位を2等級ずつ授け、鰥夫︵やもめ。
妻と死別した男性︶、寡婦︵やもめ。夫と死別した女性︶、
孤児、子のいない老人に穀物を下賜した。
︻12月︼﹃三国志﹄︵魏書・明帝紀︶
辛巳の日
魏の曹叡が、燕王の曹宇︵そうう︶を大将軍に任ずる。
甲申︵こうしん︶の日︵27日︶
魏の曹叡が、大将軍の曹宇を罷免し、武衛将軍
︵ぶえいしょうぐん︶の曹爽︵そうそう︶を大将軍に任ずる。
24‥︵管理人︶
:
2024/06/13 (Thu) 01:11:35
https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1718208696.gif
︵FB談話室からの転載です。︶
槌田 鉄男 1時間·2024年06月12日︵水︶22‥51
いつもコメントありがとうございます。
_①
景初3年説の場合でも帯方郡に着いたのは
︵景初3年︶6月と言うことでいいですね?
海路ではなく、陸路を取ったと言うことですか。
そうなると、かなり大回りになります。
大軍ではありますが、司馬懿は往路に100日、
帯方郡から遼東までをその半分としてトータル150日は
かかることでしょう。
その前に使者を送ってやりとりするとなると更に
プラスアルファになります。
ギリギリ同年12月に間に合うかどうか?
余裕は全くなくなります。
呉軍は遼東を荒らし回って帰ったとあります。
陸路は海路以上に危険なのではないでしょうか?
呉軍が遼東にいる間は通過できなかったと思えるので、
先ほどの期日にさらにプラスアルファになり、
かなり無理筋だと思います。
劉昕も劉夏も遼東にいる公孫氏を避けて海路を取って
帯方郡に着任したはずです。難升米一行も
海路を取って魏に連れていった可能性が高いと思います。
そうなると景初2年説の方が成り立ちやすくなります。
_②
明帝が生存中であれば詔を周囲の人間が作成する必要はありま
せん。でも周囲の人間が詔に影響したことは否定できません。
特に動画でも述べているように詔の中に司馬懿の影響が見いだ
せると思うのですが、それはいかがですか。
_③
景初3年12月が正始元年正月だったとするのは推論ですね。
正始元年だったら、魏志倭人伝にもそう書いたのではないかと
思います。喪が明けた
この正始元年正月に多くの国からの使節が来ています。
景初3年12月ではおかしいので晋書は難升米の朝献も
この時のことだと思って正始元年正月としたと考えます。
しかし、景初2年だったらそう言う考えも必要ありません。
ウィキペディアを見ると魏は景初元年から﹃景初歴﹄と言う
ものを使い始め日月食の開始時刻を正確に推算できる方法を
初めて確立したとあります。
改暦の評判は悪かったのかも知れませんが、正確さの点では
評価は高いようです。247年3月24日に玄界灘辺りで
皆既日食があったようです。
魏の使節の目的の一つに卑弥呼にこの日食の確認をさせる
ことがあったのではないかとも思っています。
白石南花さんの歴史の流れでは別に景初2年であっても
差し支えないように思えるのですが、なぜこれほど景初2年は
成立たないとすることにこだわられるのでしょうか。
そのことに非常に興味があります。
白石南花 8分·2024年06月12日︵水︶23‥56
┌
│>ギリギリ同年12月に間に合うかどうか?
│余裕は全くなくなります。
└
帯方郡を黄海道に取っているので、距離については異論あります
が、景初三年後十二月説では、帯方から洛陽まで七か月です。
┌
│>呉軍は遼東を荒らし回って帰ったとあります。
└
三月に住民を捕虜にして帰っただけのようですが。
┌
│>劉昕も劉夏も遼東にいる公孫氏を避けて海路を取って
│帯方郡に着任したはずです。
└
魏は公孫氏を滅ぼしたあと、遼東の襄平に東夷校尉を置いて
帯方を含む平州の支配をしています。
山東半島で呉の使者が捕まった記録もあり、
呉からの継続的な兵站能力もありません。
呉の遼東出兵は襄平にいたらず、公孫淵が滅んで後では、
一時的なかく乱に過ぎません。
それも三月です。
┌
│>正始元年だったら、
│魏志倭人伝にもそう書いたのではないかと思います。
└
いや改暦して三年十二月になっているから
十二月と書いただけでしょう。
┌
│>なぜこれほど景初2年は成立たないとすることに
│こだわられるのでしょうか。
└
景初三年は校勘の結果です。
そして魏晋朝の外交の動きがよく理解できます。
23‥︵管理人︶
:
2024/06/12 (Wed) 22:33:37
︵FB談話室からの転載です。︶
白石南花 3分·2024年06月12日︵水︶22‥15
┌
│>﹃何か問題ありますか?﹄⇒
│Aが﹃司馬懿が公孫氏を滅ぼしたから卑弥呼が朝貢した﹄
│ことを書いた。それを見たBが宣帝記に朝貢年を入れた。
│恐らくAは魏志倭人伝を見てこの文章を書いたと思います。
│それを見たBは何で紀年がないのかと思い紀年を入れた。
│その時、公孫氏が滅んでいたことに着目し景初3年とした。
│そんな風に想像しました。
└
┌
│>晋書だからと言って晋で書かれて訳ではありません。
│唐の時代の人間がなぜこんな配慮をしたのでしょうか。
└
AとかBとか言う人物は、唐の時代の人物なのですか?
全部適当に想像して晋書を書いたということですか。
史書の編纂は過去の記録をもとに行われるものです。
もちろん想像で書いた部分もあるでしょうが、
基本的には過去の文献をもとにしているのでしょう。
例えば起居中というのは皇帝の日誌のようなもので、一般に
六朝以降の歴史書では、帝紀の編纂に用いられるようです。
旧唐書経籍上には晋の起居中が載っていますから、
唐初には利用できたはずです。
三国志には王沈の魏書や魏略のような原史料があるようです。
王沈の魏書はもともと、魏の同時代史として作成されたものを
もととしています。
晋書に先行する史書が有ったことは確認できませんが、
晋の時代に魏晋断限の議論が有ったことからすると、
記録を残す気満々です。
当然司馬氏にとって都合の良い記録を残そうとするものが
いたはずです。
そのような史料の取捨選択を行って、史書を撰述していくのが
普通です。
晋書の場合その史料の選択がまずいところはあるようですが、
何にも見ないで書いているわけではないでしょう。
AとかBとかはもともと晋の時代に、何らかの意図をもって
書かれたものがもとになっていると思いますよ。
┌
│>﹃魏の東夷外交は東夷伝を見ればわかるように、
│正始八年で途絶しています﹄以降の文章は別に
│景初2年でも十分理解できます。
└
どう説明できますか。
なぜ親魏倭王を与えた司馬氏が実権をにぎってから、
東夷外交は途絶してしまうのでしょうか。
ちなみに三国志帝紀は、王沈の魏書との関係が深いという
研究があり、王沈は曹髦の挙兵を司馬昭に密告した人物で
司馬氏に近く、そのせいか三国志帝紀には、曹爽政権時代の
東夷外交が、ごくわずかしか書かれていません。
親魏倭王卑弥呼も倭国女王俾弥呼となっていて、
景初の朝貢には触れず、正始四年の一回のみ記録しています。
親魏倭王の称号には触れたくないようです。
22‥︵管理人︶
:
2024/06/12 (Wed) 20:26:32
https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1718192916.png
︵FB談話室からの転載です。︶
白石南花 2時間·2024年06月12日︵水︶18‥10
┌
│①‥呉の援軍が遼東を荒らし回っている時、
│_帯方郡から魏に行けるか︵呉軍はかなりの
│_大軍で黄海は呉軍の船で満ち溢れていたはずです︶
└
晋書地理志‥
[魏置東夷校尉,居襄平,而分遼東、昌黎、玄菟、帯方、楽浪
_五郡為平州,後還合為幽州。及文懿滅後,有護 東夷校尉,
_居襄平。咸寧二年十月,分昌黎、遼東、玄菟、帯方、楽浪等
_郡國五置平州。]
すなわち魏は公孫淵(文懿)を滅ぼして後、遼東の襄平に
東夷校尉をおいて、帯方を含む五郡を平州としてその配下に
置いています。
したがって常識的には、帯方太守はまず襄平に使者を送り、
そこから洛陽に届けたはずでしょう。
黄海(当時は渤海とよぶ)を通らなかったと思われます。
晋書には司馬懿が遼東まで行きに百日ほどと答えており、
帯方から遼東経由で洛陽までなら、どこかで時間待ちする
ぐらいに余裕が有ったでしょう。
ちなみにその後平州は幽州に統合されたとありますが、
幽州の中心は右北平で現在の北京あたり。
これは魏の東方拠点の後退です。
咸寧二年(276年)に再び平州が分治されたとありますが、
晋書に見える東夷諸族の朝貢は、倭を除いてその後に始まる
ことが、この拠点の移動が東方政策と密接に絡んでいることを
示します。
三国志東夷伝の年次記録が、正始八年で途絶しているのは、
単に史料上の問題ではないことを示します。
そしてそれが高平陵の変で司馬氏が実権を握ったタイミングの
直前に当たるのです。
┌
│②‥8歳の曹芳が魏志倭人伝にあるような巧妙な詔を
│_発することができるか
└
幼帝が子供っぽい詔を発するとしたら、中国史に数多く登場
する幼帝はまともに政治が行えなかったことになりますね。
とうぜん周囲が作成するでしょう。
だから幼帝が登場すると取り巻きが権力を左右することに
なるのでしょう。
┌
│③‥明帝崩御した景初3年の一年間は喪中のはず、
│_喪中に外国の朝献を受けるか
└
︵晋書の著者はそのこともあって景初3年はあり得ないと考え
_正始元年とした可能性あり︶
卑弥呼の使者が到着したのは、景初三年後十二月の事だろうと
思います。
これは本来正始元年正月のはずでした。
晋書によれば正始元年正月には、倭以外にも多くの民族が
やって来ています。
つまり本来正始の改元に際して、それを言祝ぐためのもの
だったのでしょう。
ところが景初三年十二月になって突然改暦となったのです。
十二月のいつなのかは分かりません。
景初暦は明帝が強引にたてた暦で評判が悪かった上、
何かの占いでも出たのでしょうか。
結果的に事務方は大混乱に陥ったでしょうね。
正始元年で準備していて変更が間に合わなかったグループ、
改元だけ延期になったとして景初四年としたグループ、
正しく景初三年と理解したグループなどです。
21‥米田
:
2024/06/11 (Tue) 16:40:18
https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1718204289.gif
︵補足︶
┌
│景初2年︵238年︶12月__難升米が明帝に朝献
└
・下記のように、景初2年︵238年︶12月前後の魏書には、
_倭国の朝献の記事は、ありませんでした。
*****
ホーム>正史年表>230年代
238年︵魏の景初2年・蜀の延熙元年・
︿呉の嘉禾7年﹀→赤烏元年︶の主な出来事
︻08月︼﹁呉の改元﹂﹃三国志﹄︵呉書・呉主伝︶
呉の孫権のもとに、﹁武昌︵ぶしょう︶で麒麟︵きりん︶が
現れた﹂との報告が届く。先に孫権が、
宮殿の前庭で赤い烏︵カラス︶を見ていたこともあり、
﹁嘉禾﹂を﹁赤烏﹂と改元した。
︻11月︼﹃三国志﹄︵魏書・明帝紀︶
魏の曹叡が、公孫淵討伐の勲功の大小に応じ、太尉の司馬懿
以下に領邑︵りょうゆう︶の加増や封爵を行う。
★このくだりでは、公孫淵討伐に送り込む兵力や、
司馬懿が遼東に到着した後、長雨に遭っていたときの
曹叡と臣下たちとのやり取りが出てくる。
︻11月︼﹃三国志﹄︵魏書・明帝紀︶壬午の日︵24日︶
魏の曹叡が、司空︵しくう︶の衛臻︵えいしん︶を司徒に、
司隷校尉︵しれいこうい︶の崔林︵さいりん︶を司空に、
それぞれ任ずる。
︻閏10月︼﹃三国志﹄︵呉書・呉主伝︶
戊子︵ぼし︶の日︵1日︶
呉の孫権の夫人である歩氏︵ほし︶が死去する。
孫権は、歩氏に皇后の位を追贈した。
︻閏11月︼﹃三国志﹄︵魏書・明帝紀︶
月が心宿の中央の大星を犯す。
︻12月︼﹃三国志﹄︵魏書・明帝紀︶
乙丑︵いっちゅう︶の日︵8日︶
魏の曹叡が病の床に就く。
︻12月︼﹃三国志﹄︵魏書・明帝紀︶
辛巳︵しんし︶の日︵24日︶
魏の曹叡が、郭氏︵かくし︶を皇后に立てる。
この際、天下の男子に爵位を2等級ずつ授け、鰥夫︵やもめ。
妻と死別した男性︶、寡婦︵やもめ。夫と死別した女性︶、
孤児、子のいない老人に穀物を下賜した。
*****
ホーム>正史年表>230年代
239年︵魏の景初3年・蜀の延熙2年・呉の赤烏2年︶
の主な出来事
︻01月︼﹁曹叡の崩御︵ほうぎょ︶と曹芳の即位﹂
丁亥︵ていがい︶の日︵1日︶
魏︵ぎ︶の曹叡が早馬を出し、遼東︵りょうとう︶の公孫淵
︵こうそんえん︶討伐を終え、河内︵かだい︶まで戻っていた
司馬懿︵しばい︶を召し寄せる。
曹叡は危篤状態の中、司馬懿に後事を託し、曹爽︵そうそう︶
とともに幼い息子︵曹芳︶を補佐するよう命じ、その日のうち
に嘉福殿︵かふくでん︶で崩御した。このとき36歳だった。
﹃三国志﹄︵魏書︿ぎしょ﹀・明帝紀︿めいていぎ﹀︶
⇒丁亥の日
魏の曹叡が危篤になり、斉王の曹芳を皇太子に立てる。
﹃三国志﹄︵魏書・斉王紀︿せいおうぎ﹀︶
⇒丁亥の日
魏の曹芳が帝位に即き、大赦を行い、曹叡の郭皇后︵かくこう
ごう︶に皇太后の尊称を奉る。大将軍︵だいしょうぐん︶の
曹爽と太尉︵たいい︶の司馬懿が、曹芳の補佐にあたった。
﹃三国志﹄︵魏書・斉王紀︶
⇒丁亥の日
魏の曹芳が詔︵みことのり︶を下す。﹁現在造営中の宮殿の
工事については、先帝の遺詔に従って中止とし、官庁に属する
60歳以上の奴婢︵ぬひ︶を解放して平民とする﹂というもの。
﹃三国志﹄︵魏書・斉王紀︶
⇒01月
魏の暦が改訂され、前年の12月30日を景初3︵239︶年の
元日とし、その日に曹叡が崩御。
その際、曹叡は後事を司馬懿と曹爽に託した。
﹃正史三國志群雄銘銘傳 増補・改訂版﹄︵坂口和澄
︿さかぐち・わずみ﹀著 潮書房光人社︶の﹃三国志﹄年表
︻01月︼
癸丑︵きちゅう︶の日︵27日︶
魏の曹芳が、曹叡を高平陵︵こうへいりょう︶に葬る。
﹃三国志﹄︵魏書・明帝紀︶
20‥米田
:
2024/06/11 (Tue) 16:05:37
https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1718089538.png
┌
│①‥呉の援軍が遼東を荒らし回っている時、
│_帯方郡から魏に行けるか︵呉軍はかなりの大軍
│_で黄海は呉軍の船で満ち溢れていたはずです︶
└
下記史料により、
・赤烏2年︵239年︶3月に遼東に到着したが︵云々︶。
・奇襲部隊を派遣して様子を見させ︵云々︶
とあるので、遅くとも5月頃までには、撤退したと思われます。
ですので、6月の難升米には、影響はないと思われます。
┌
│②‥8歳の曹芳が魏志倭人伝にあるような巧妙な詔を
│_発することができるか
└
・下記のように﹁8歳の曹芳﹂の名前で、詔を発しています。
┌
│時に3人の皇帝が幼少であったため、補佐の大臣が
│政治を行ったが、国家の大事についてはすべて
│まず郭太后︵かくたいこう︶にお伺いを立ててから施行し、
│毌丘倹︵かんきゅうけん︶や鍾会︵しょうかい︶らが反乱を
│起こした時も、みな郭太后︵かくたいこう︶の命令に
│仮託︵かたく・かこつけること︶して理由づけが行われた。
└
┌︵wikiより︶
│239年︵景初3年︶に曹叡が病床に伏すと、
│曹爽は大将軍の位を賜り、司馬懿と共に猶子で皇太子の
│曹芳︵一説では曹彰の孫︶の補佐をすることを命じられた。
└
┌
│③‥明帝崩御した景初3年の一年間は喪中のはず、
│_喪中に外国の朝献を受けるか
└
・﹁一年間は喪中﹂は、翌年正月の即位式典につながります。
・景初4年1月は、翌年正月に当たります。
・正始元年の正月も、翌年正月に当たります。
︵実際に、どちらを採用したかは、私には分かりません。︶
つまり、﹁一年間は喪中﹂というのは、死んだその年の間、
ということです。
︵日本書紀は、この﹁翌年正月即位﹂を採用しています。︶
︵資料参考︶
https://www.seisaku.bz/sangokushi.html
﹁孫怡︵そんい︶﹂︵ウィキペディアより︶
孫怡︵生没年不詳︶は、中国三国時代の呉の武将。
赤烏元年︵238年︶、遼東半島に割拠する公孫淵は魏の侵攻を
知ると、呉に救援を要請した。
呉の人々はかつて公孫淵に送った使者を斬られた経験から、
来訪した使者を斬ろうとしたが、羊衜の﹁奇襲部隊を派遣して
様子を見させ、魏が敗れれば追撃して恩を売り、膠着状態と
なれば近隣の郡を略奪して帰れば彼らへの罰となります﹂と
いう提案が採用されることとなった。そうして派遣された
羊衜・鄭胄・孫怡らは赤烏2年︵239年︶3月に遼東に
到着したが、その時には既に公孫淵は滅んでいた。
そこで魏の守将である張持・高慮を攻撃して撃ち破り、
住民を捕虜として帰還した。
︵ネットより︶
﹁今日も三国志日和﹂︵史実と創作からみる三国志の世界︶
ホーム>正史年表>230年代
239年︵魏の景初3年・蜀の延熙2年・呉の赤烏2年︶の
主な出来事
︻03月︼
呉の孫権が、使者として羊衜︵ようどう︶と鄭冑
︵ていちゅう︶、さらに将軍の孫怡︵そんい︶を遼東に遣わし、
魏の張持︵ちょうじ︶と高慮︵こうりょ︶らを討たせ、
その配下の男女を捕虜にする。
﹃三国志﹄︵呉書・呉主伝︶
https://sangokushi-biyori.com/chronological-table-239
︻07月︼﹃三国志﹄︵魏書・斉王紀︶
魏の曹芳が初めて朝会に出席し、
公卿︵こうけい︶の上奏を聴く。
︻08月︼﹃三国志﹄︵魏書・斉王紀︶
魏の曹芳が大赦を行う。
︻10月︼﹃三国志﹄︵魏書・斉王紀︶
魏の曹芳が、鎮南将軍︵ちんなんしょうぐん︶の
黄権︵こうけん︶を車騎将軍︵しゃきしょうぐん︶に任ずる。
︻12月︼﹃三国志﹄︵魏書・斉王紀︶
魏の曹芳が詔を下す。
﹁烈祖︵れっそ。曹叡︶は正月に天下を見捨てられ
︵正月に崩御したという意味︶、臣下や子どもらはいつまでも、
そのご命日の哀しみを抱き続けている﹂とし、
﹁それゆえ、再び夏︵か︶王朝の暦を使用せよ﹂というもの。
これにより、建寅︵けんいん︶の月︵1月︶を正始︵せいし︶
元年正月とし、建丑︵けんちゅう︶の月︵12月︶を
﹁後の12月﹂とすることになった。
★後の12月について、﹃正史 三国志1﹄
︵今鷹真︿いまたか・まこと﹀、井波律子︿いなみ・りつこ﹀
訳 ちくま学芸文庫︶の訳者注によると、
﹁明帝︵曹叡︶は景初3︵239︶年の正月に崩じ、斉王︵曹芳︶
は翌年に暦を変更し、その正月に即位した。
新暦の正月は、旧暦では2月にあたる。
したがって、旧暦の正月と新暦の正月が重なることになり
具合が悪い。そのため旧暦の正月を﹃後の12月﹄として、
12月を二度置いたのである﹂という。
19‥︵管理人︶
:
2024/06/11 (Tue) 15:56:03
https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1718089327.png
︵FB談話室からの転載です。︶
槌田 鉄男 1時間·2024年06月11日︵火︶11‥54
ちょっと誤解もあるようなので
景初2年説も時系列でまとめてみました。
景初2年︵238年︶6月__司馬懿と公孫氏の戦いが始まる
同年6月︵238年︶_難升米が帯方郡に到着、太守・劉夏と会う
景初2年︵238年︶8月__公孫氏滅びる
景初2年︵238年︶12月__難升米が明帝に朝献
景初3年︵239年︶1月__明帝崩御8歳の曹芳が皇帝に即位
景初3年︵239年︶___呉の援軍が遼東に襲来 荒らしまわる
正始元年︵240年︶太守・弓遵、建中校尉・梯儁等を倭国に派遣
正始4年︵243年︶_伊声耆、掖邪狗等8名が倭国から魏に朝貢
正始6年︵245年︶____帯方郡で難升米に黄幢を仮綬
正始8年︵247年︶____太守王頎が卑弥呼と狗奴国の
____________男王・卑弥弓呼との相攻撃を告げる
____________塞曹掾史 張政等を倭国に派遣
正始8年~9年頃____卑弥呼死ぬ
公孫氏との戦時下に明帝が帯方郡に送った太守が劉昕で
難升米が会った太守が劉夏なのが景初2年説の難点ですが
正始元年には新太守・弓遵が着任しており、太守は
めまぐるしく変わっています。劉昕と劉夏は
同一人物または同族の人間ではなかったかと思っています。
一方で景初3年説にはこれまで議論した日程的な疑問以外に
次のような疑問もあります
_① 呉の援軍が遼東を荒らし回っている時、
__帯方郡から魏に行けるか︵呉軍はかなりの
__大軍で黄海は呉軍の船で満ち溢れていたはずです︶
_②8歳の曹芳が魏志倭人伝にあるような巧妙な詔を
__発することができるか
_③ 明帝崩御した景初3年の一年間は喪中のはず、
__喪中に外国の朝献を受けるか
︵晋書の著者はそのこともあって景初3年はあり得ないと
_考え正始元年とした可能性あり︶
18‥︵管理人︶
:
2024/06/11 (Tue) 06:27:05
︵FB談話室からの転載です。︶
槌田 鉄男 42分·2024年06月10日︵月︶23‥12
随分拘っていますね。申し訳ありませんが、
何をおっしゃりたいのかはよく理解できません。
ただ白石南花さんが朝貢年の1年の違いによって歴史が
大きく変わると認識されていることだけは伝わってきます。
﹃何か問題ありますか?﹄⇒
A が﹃司馬懿が公孫氏を滅ぼしたから卑弥呼が朝貢した﹄
ことを書いた。
それを見たBが宣帝記に朝貢年を入れた。
恐らくAは魏志倭人伝を見てこの文章を書いたと思います。
それを見たBは何で紀年がないのかと思い紀年を入れた。
その時、公孫氏が滅んでいたことに着目し景初3年とした。
そんな風に想像しました。
﹃倭使が洛陽で朝見した時、司馬懿はそこにいなかったか﹄⇒
このことは大変重要です。
私は司馬懿は朝貢に立ち合ったと思っています。
ひょっとすると重病だった明帝に代わって立ち会ったかも
知れないと考えています。
公孫氏との戦いが終わったのが8月、朝貢は12月ですから
ちょうど100日くらい。
戦いを前に司馬懿が明帝に話した100日と合致します。
朝貢は司馬懿が帰るのを待って行われた可能性があります。
景初2年でも﹃正始﹄にした理由は変ですね。
17‥︵管理人︶
:
2024/06/10 (Mon) 23:40:51
︵FB談話室からの転載です。︶
米田喜彦 1時間·2024年06月10日︵月︶21‥30
槌田鉄男さんへ
さっそくの回答、ありがとうございます。
詳しくは、討論室の方に書きましたので、ご覧ください。
白石南花 1時間·2024年06月10日︵月︶21‥31
>晋書は倭人伝の部分に朝貢年の記載がありません。
>晋本来朝貢年は倭人伝にあるべきです。
>倭人伝と宣帝記を書いた著者は異なっていた可能性があります。
何か問題ありますか?
三国志は帝紀には正始四年の一回しか記録されていませんし、
宋書などは帝紀と蛮異伝でまちまちです。
三国志も複数の原史料を集めて記述していますから、
記述はバラバラです。倭人伝では﹁親魏倭王卑弥呼﹂、
帝紀では﹁倭国女王俾弥呼﹂になっていますね。
>単に宣帝が公孫氏を平らげると遣使して朝貢したと
_あるだけです。
一方で正始元年とあるのは宣帝記です。
>ウィキペディアにも晋書は正確性に批判的な評価が多いとされ
_倭人伝には年次を追って、朝貢使とそれにたいする応答使の
_やりとりが記録されています。
このように特定民族との外交記事だけを、細かく記録した
ものは、私の知る範囲で他にありません。
このような記録に正始元年の倭人朝貢が書かれていないところ
から、ある種のフェイクでしょう。
晋書が原史料の取捨選択に問題があるのは間違いないよう
ですが、これはもともとの原史料が怪しいのでしょう。
しかしなぜこんな史料が残ったのかが問題です。
>宣帝記にある正始元年の朝貢は梁書に景初3年とある
_朝貢と同じです。
明らかに景初の朝貢を正始にしていますが、これは西晋時代に
あった魏晋断限の議論が影響しているのでしょう。
つまりいつからを晋の歴史とし、いつまでを魏の歴史とする
かという議論で、一時期正始を晋の始まりとしたことが
有ったのです。
つまり正始としたのは、宣帝に結びつけるためであり、
倭伝においても宣帝と結び付けているのです。
西晋の暦を俎上させてまで、倭人朝貢を宣帝に結びつけようと
したということです。
このため現在でも、倭人朝貢を司馬懿に結びつけることが
多いのですが、実際景初三年ならその時実権を握っていた
のは、曹爽ですから、司馬懿ではなくその政敵の功績だった
ことになります。
┌︵wikiより︶
│239年︵景初3年︶に曹叡が病床に伏すと、
│曹爽は大将軍の位を賜り、司馬懿と共に猶子で皇太子の
│曹芳︵一説では曹彰の孫︶の補佐をすることを命じられた。
└
魏の東夷外交は東夷伝を見ればわかるように、正始八年で
途絶しています。
それが再開されるのは、晋書倭伝によれば司馬昭が相国に
なった263年のことです。
しかしなぜ東夷外交が途絶していたのかが問題になります。
正始十年に高平陵の変と呼ばれる政変があり、司馬氏は
政敵の曹爽を倒し一族皆殺しにしています。
もし倭人朝貢が司馬懿の功績なら、そんなことにはならな
かったでしょう。
263年には対蜀征討もめどがつき、魏王朝は260年の甘露の
変でまったく司馬氏の傀儡となっています。
つまり政敵がいなくなったので、東夷外交を再開したのです。
その目的は三年後の晋王朝開始後の北郊南郊の儀式に、
倭人を呼び寄せるためと思われます。
これは後漢光武帝が、建武中元二年の北郊の儀式に倭人を
呼び寄せたことに倣ったものでしょう。
>景初2年の方がストーリー的には無理がないと思います。
つまり景初三年とすると、魏晋期の東夷外交の変遷を
史料に従って理解できるのです。
倭使が洛陽で朝見した時、司馬懿はそこにいなかったか、
いたとしたら冷ややかな目で見ていたことでしょう。
倭人朝貢は、司馬懿に比べて実績で劣る曹爽が、大月氏の
朝貢を実現し親魏大月氏王の称号を与えて、その評価を
たかめた父の曹真に倣って、呼び寄せて親魏倭王の称号を
あたえたものだったからです。
いまだ蜀も呉も健在の時点であり、司馬懿には曹爽の
スタンドプレーにしか見えなかったと思われます。
16‥米田
:
2024/06/10 (Mon) 17:46:34
https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1718090365.png
ここまで書いてきて、変更を含め、分かったことを書きます。
‥晋書 高祖宣帝懿紀を読むと、明帝の没年月日は、
‥公孫氏︵公孫淵︶の滅亡のすぐ後であることが分かりました。
‥時系列で流れを見ていきます。
・景初2年︵238年︶6月ころ、
_この頃、帯方太守﹁劉昕﹂を派遣し、海を渡って、云々。
・紹漢2年8月26日︵238年8月23日︶﹁公孫淵﹂の没年月日。
_︵紹漢は、公孫氏の元号ですが、景初と同じです。︶
・﹁景初三年正月丁亥朔﹂は、ユリウス暦で、239年1月22日。
︵明帝の没年月日は、この日が正しいようです。︶
・景初3年6月、倭の女王は、大夫難升米を云々。
_︹帯方郡︺太守の﹁劉夏﹂は、云々。
_︵﹁劉夏﹂は、景初3年に、任官されたと考えます。︶
・計算上の﹁景初四年正月朔﹂は、西暦で、240年1月12日。
_︵これは、あとで、景初三年後十二月になります。︶
_︵はじめは、景初4年1月1日を予定していたと思います。︶
・郭太后︵かくたいこう︶と司馬懿︵宣帝・仲達︶らの
_話し合いで、正始元年1月1日︵ユリウス暦240年2月10日︶
_に、改暦・改元をした。︵これで、呉の暦と合致しました。︶
・正始元年﹇二四〇年﹈春正月、東倭が複数の通訳を介して
_朝貢してきた。
_焉耆・危須等の諸国、弱水以南の地方、鮮卑の名王が、
_みな使者を遣わして来貢した。
_皇帝はこの威風を宰相の功によるものとし、宣帝に増封した。
┌
│時に3人の皇帝*2が幼少であったため、補佐の大臣が
│政治を行ったが、国家の大事についてはすべて
│まず郭太后︵かくたいこう︶にお伺いを立ててから施行し、
│毌丘倹︵かんきゅうけん・ぶきゅうけん︶や鍾会︵しょうかい︶
│らが反乱を起こした時も、みな郭太后︵かくたいこう︶の
│命令に仮託︵かこつけること︶して理由づけが行われた。
└
┌
│︵槌田鉄男︶
│しかし、景初2年でも魏に行くことは可能だし、
│景初3年や正始元年に朝貢があったとすると正始元年に
│魏の使節が日本に来ることは無理だと考えました。
│魏志倭人伝の文章だけで考えると何の矛盾もありません。
└
槌田鉄男さんの主張には、
帯方太守﹁劉昕﹂︵景初2年︶、︹帯方郡︺太守の﹁劉夏﹂
帯方太守﹁弓遵﹂︵正始元年︶の3人の太守に関する考察が
抜けています。
また、正始元年に魏の使節が日本に来ることの方が、
正しいにも関わらず、これを無理として、否定するところは、
理解に苦しみます。
景初3年の一年間は、郭太后の意向として、明帝が生きている
ことにしたかったのか、それとも、司馬懿︵宣帝・仲達︶の
意向なのか、﹁仮託﹂を乱用した、皇太后の政治が続いたよう
です。︵それは、皇太后没年の263年まで続いたようです。︶
少なくとも、景初3年の1年間は、混乱の中にあったようです。
一部変更︵修正︶が出て来ましたが、
倭国の朝貢は、﹁景初3年6月﹂の出発で、
正始元年︵or景初4年1月︶の朝貢のままで良いと思いました。
15‥︵管理人︶
:
2024/06/10 (Mon) 16:46:52
https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1718005904.png
︵ネットの紹介と抜粋︶
*****
晋書 高祖宣帝懿紀 訳出担当 田中 愛子/辰田 淳一
はじめに
﹃晋書﹄は、晋︵西晋・東晋あわせた︶の歴史を記した史書で
ある。二十四正史の一であり、形式は紀伝体。
唐の太宗李世民の勅のもと、房玄齢らが撰した。それまでに
存在した十八の晋代史をもとに編纂されたものである。
晋書 宣帝紀
宣帝は、諱を懿、字を仲達という。河内郡温県孝敬里の
出身で、姓は司馬氏である。
景初二年﹇二三八年﹈、牛金や胡遵ら、歩兵・騎馬あわせて
四万を率い、都を出立した。皇帝自ら西明門から送り出した。
皇帝は、宣帝の弟の司馬孚と宣帝の子の司馬師に詔し、
宣帝を温県︵註33︶まで見送らせた。
公孫淵は南側の包囲に攻撃を加え脱出しようとしたが、
宣帝は兵を送りこんでこれを打破し、梁水のほとり、
流星が落ちたところで公孫淵を斬った。
そして軍を率いて帰還した。皇帝は使者を遣わして薊で軍を
労い、宣帝に、元の二県に加えて昆陽を食邑として増封した。
直筆の詔には、こう書かれていた。
﹁この頃は息も絶え絶えにそなたの到着を待っている。
到着したらすぐに、通用門からでよいから入ってきて、
顔を見せよ﹂。宣帝は大急ぎで、追鋒車に乗り昼夜兼行して、
白屋から都への四百里あまりの道を一泊のみで走りきった。
嘉福殿の寝所の中に駆け込み、寝台の側に寄った。
宣帝が涙を流して体の具合を聞くと、皇帝は宣帝の手を握り、
斉王﹇曹芳﹈を見ながら言った。
﹁後のことは任せる。死は致し方のないことであるが、そなた
を待ちわびたままで死ぬのは耐え難いことであると思っていた。
今そなたと会うことが出来て、もう思い残すことはない﹂。
そして、宣帝は大将軍曹爽とともに、幼君を輔弼してゆくよう、
最後の詔を受けた。
斉王が即位すると、転任して
侍中兼持節兼都督中外諸軍兼録尚書事となった。
正始元年﹇二四〇年﹈春正月、東倭が複数の通訳を介して
朝貢してきた。
焉耆・危須等の諸国、弱水以南の地方、鮮卑の名王が、
みな使者を遣わして来貢した。
皇帝はこの威風を宰相の功によるものとし、宣帝に増封した。
*****
﹁明元皇后郭氏﹂︵ウィキペディアより︶
‥郭皇后︵かくこうごう︶は、三国時代の魏の曹叡︵明帝︶の
‥2番目の皇后。諡号は明元皇后。涼州西平郡の出身。
‥父は郭満。母は杜氏。叔父は郭立。従弟は郭徳・郭建。
‥
‥景初2年12月︵239年1月︶に曹叡の病が篤くなると、
‥皇后に冊立された。
‥数日後曹叡は死去し、曹芳︵斉王︶は即位後、
‥郭氏を尊んで皇太后とし、永寧宮と称した。
*****
﹁もっと知りたい三国志﹂というサイトを調べていたら、
下記のような記述がありました。︵以下、抜粋です。︶
*****
郭皇后︵かくこうごう︶︵明元郭皇后‥めいげんかくこうごう︶
生年不詳〜魏の景元︵けいげん︶4年︵263年︶12月没。
涼州‥りょうしゅう︵雍州‥ようしゅう︶・
西平郡︵せいへいぐん︶の人。父は郭満︵かくまん︶。
代々河右︵かゆう︶︵河西‥かせい︶の豪族︵大族︶であった。
魏の黄初︵こうしょ︶年間︵220年〜226年︶、
雍州︵ようしゅう︶・西平郡︵せいへいぐん︶で反乱が
起こったため、身分を剥奪されて後宮に入れられた。
明帝︵めいてい︶︵曹叡‥そうえい︶が即位すると非常に寵愛
されて夫人となり、明帝︵曹叡そうえい︶が危篤に陥った際に
ついに皇后に立てられた。
斉王︵せいおう︶︵曹芳‥そうほう︶が即位すると、
斉王︵曹芳︶は郭皇后︵かくこうごう︶を尊重して皇太后
︵こうたいごう︶とし、永寧宮︵えいねいきゅう︶と呼んだ。
時に3人の皇帝*2が幼少であったため、補佐の大臣が
政治を行ったが、国家の大事についてはすべて
まず郭太后︵かくたいこう︶にお伺いを立ててから施行し、
毌丘倹︵かんきゅうけん・ぶきゅうけん︶や鍾会︵しょうかい︶
らが反乱を起こした時も、みな郭太后︵かくたいこう︶の
命令に仮託︵かこつけること︶して理由づけが行われた。
魏︵ぎ︶の景元︵けいげん︶4年︵263年︶12月に亡くなり、
景元5年︵264年︶2月に高平陵︵こうへいりょう︶﹇明帝
︵めいてい︶︵曹叡‥そうえい︶の陵墓﹈の西に埋葬された。
脚注*2
斉王︵せいおう︶︵曹芳‥そうほう︶←‥従弟の曹楷の子という
高貴郷公︵こうききょうこう︶︵曹髦‥そうぼう︶
元帝︵げんてい︶︵曹奐‥そうかん︶の3人の皇帝。
https://three-kingdoms.net/31959
14‥︵管理人︶
:
2024/06/10 (Mon) 16:39:45
https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1718005186.png
︵FB談話室からの転載です。︶
米田喜彦 1分·2024年06月10日︵月︶01‥28
槌田鉄男さんへ
┌
│﹃宣帝が公孫氏を平らげると﹄に惑わされて
│同様の間違いを犯した可能性があると思います。
└
︵1︶﹃宣帝が公孫氏を平らげると﹄とは何ですか?
︵2︶﹃宣帝が公孫氏を~﹄に惑わされて、とは、何をですか?
︵3︶﹁同様の間違いを犯した﹂とはどんな間違いでしょうか?
︵4︶﹁宣帝﹂は、皇帝ですか?
槌田鉄男さんの文章を読んでいて、分からなくなりました。
私の質問に、回答をいただけるとありがたいです。
槌田 鉄男 1時間·2024年06月10日︵月︶10‥59
宣帝は司馬懿のことです。
晋は司馬炎が初代皇帝ですが、司馬懿は司馬炎の祖父であり、
司馬炎は司馬懿を大変尊敬し、司馬懿を始祖としてあがめて
宣帝としています。
本来、卑弥呼が魏に朝貢したことは司馬懿の大きな功績であり
魏志倭人伝にそのことを書かねばなりませんでした。
しかし、魏志倭人伝ではそれを書いていません。
だが事情を知らない梁書や晋書の著者は書かなければならない
と思い司馬懿が公孫氏を滅ぼしたから卑弥呼は朝貢に行けた
と書いたのだと思います。
その結果、そのことに惑わされてしまい景初3年とした
︵晋書宣帝記では正始元年とした︶のです。
しかし、景初2年でも魏に行くことは可能だし、
景初3年や正始元年に朝貢があったとすると正始元年に
魏の使節が日本に来ることは無理だと考えました。
魏志倭人伝の文章だけで考えると何の矛盾もありません。
*****
米田︵投稿者︶・06月10日︵月︶10‥59
槌田鉄男さんへ
さっそくの回答、ありがとうございます。
┌﹁曹叡﹂︵ウィキペディアより︶
│魏志倭人伝において景初2年︵238年︶に邪馬台国女王
│卑弥呼の使者が明帝への拝謁を求めて洛陽に到着したとあり、
│これが事実であれば、拝謁した皇帝は曹叡ということになる。
└
﹁晋書宣帝紀﹂を読む限り、皇帝︵明帝・曹叡︶は、病床に
あって、拝謁など無理な状態であることがわかります。
┌
│﹁晋書宣帝紀﹂
│﹁この頃は息も絶え絶えにそなたの到着を待っている。
│到着したらすぐに、通用門からでよいから入ってきて、
│顔を見せよ﹂。宣帝は大急ぎで、追鋒車に乗り昼夜兼行して、
│白屋から都への四百里あまりの道を一泊のみで走りきった。
│嘉福殿の寝所の中に駆け込み、寝台の側に寄った。
└
13‥︵管理人︶
:
2024/06/10 (Mon) 12:23:46
https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1717989827.png
︵ネットの紹介︶
﹁晋書 宣帝紀﹂で検索を掛けていたら、
晋書の現代訳のサイトをネットで見つけました。
漢籍訳出プロジェクト﹁漢々學々﹂というサイトです。
http://strawberrymilk.gooside.com/text/shinjo/01-1.html
︵以下、おまけです。︶
﹁宣帝︵せんてい︶﹂︵ウィキペディアより︶
‥宣帝は、東アジアの皇帝の諡号の一つ。
・晋の高祖宣帝 - 司馬懿への追諡。司馬炎︵武帝︶による。
﹁司馬懿︵しばい︶﹂︵ウィキペディアより︶
‥司馬懿︵光和2年︵179年︶ - 嘉平3年8月5日︵251年︶︶
‥は、中国後漢末期から三国時代にかけての武将・政治家。
‥字は仲達︵ちゅうたつ︶。
‥魏において功績を立て続けて大権を握り、西晋の礎を
‥築いた人物。
‥西晋が建てられると廟号を高祖、諡号を宣帝と追号された
‥ため、﹃三国志﹄では﹁︵司馬︶宣王﹂と表記されるが、
‥独立した伝は立てられていない。
﹁曹爽︵そうそう︶﹂
‥曹爽︵? - 正始10年正月10日︵249年2月9日︶︶は、
‥中国三国時代の魏の武将、
‥239年︵景初3年︶に曹叡が病床に伏すと、
‥曹爽は大将軍の位を賜り、司馬懿と共に猶子で皇太子の曹芳
‥︵一説では曹彰の孫︶の補佐をすることを命じられた。
12‥︵管理人︶
:
2024/06/09 (Sun) 23:58:21
︵FB談話室からの転載です。︶
白石南花
1時間·2024年06月09日︵日︶20‥50
ですから卑弥呼の朝貢が景初三年後十二月なら、
全く矛盾しないでしょ。
景初二年十二月なら変です。
景初三年と断定してよいでしょ。
現存最古の文献によるという文献勘考の常道からして、
景初三年ですから、景初三年で断定できます。
景初二年説は不成立です。
槌田 鉄男
28分·2024年06月09日︵日︶22‥04
晋書は倭人伝の部分に朝貢年の記載がありません。単に
宣帝が公孫氏を平らげると遣使して朝貢したとあるだけです。
一方で正始元年とあるのは宣帝記です。
晋書には複数の著者がいたとあります。
本来朝貢年は倭人伝にあるべきです。
倭人伝と宣帝記を書いた著者は異なっていた可能性があります。
宣帝記にある正始元年の朝貢は梁書に景初3年とある朝貢と
同じです。
晋書は梁書とほぼ同時期に書かれています。
﹃宣帝が公孫氏を平らげると﹄に惑わされて同様の間違いを
犯した可能性があると思います。
ウィキペディアにも晋書は正確性に批判的な評価が多いとされ
景初二年説は不成立とするまでには至らないと思います。
一方で2つの動画で述べているように
景初2年の方がストーリー的には無理がないと思います。
11‥︵管理人︶
:
2024/06/09 (Sun) 21:32:47
︵FB談話室からの転載です。︶
槌田 鉄男 3時間·2024年06月09日︵日︶17‥35
魏志倭人伝では正始元年に魏から倭国に使節が送られたと
あり矛盾します。
晋書と魏志倭人伝どちらを信用するかと言う問題でしょうか?
難升米の朝貢が景初2年で魏から倭国への使節が正始元年と
言うことで魏志倭人伝の中では矛盾しないと思っています。
白石南花 7分·2024年06月09日︵日︶20‥50
ですから卑弥呼の朝貢が景初三年後十二月なら、
全く矛盾しないでしょ。
景初二年十二月なら変です。
景初三年と断定してよいでしょ。
現存最古の文献によるという文献勘考の常道からして、
景初三年ですから、景初三年で断定できます。
景初二年説は不成立です。
米田︵投稿者︶21時32分
‥
‥景初4年1月1日︵ユリウス暦240年1月12日︶に、
‥朝貢は、したかもしれないが、明帝の病・死去の為、延期。
‥︵後に、景初4年1月は、景初三年後十二月に変更された。︶
‥
‥﹁景初三年正月丁亥朔﹂に明帝が亡くなったのであれば、
‥﹁景初三年正月丁亥朔﹂を﹁景初二年後後十二月﹂に出来た
‥はずである。実際の変更は、﹁景初三年後十二月﹂である。
‥それをしなかったのは、﹁景初三年正月丁亥朔﹂は、
‥明帝の没年月日ではなかった、ということになります
10‥︵管理人︶
:
2024/06/09 (Sun) 16:25:15
https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1717918829.png
︵FB談話室からの転載です。︶
槌田 鉄男 1時間·2024年06月09日︵日︶15‥00
コメントありがとうございます。
ブログ読ませて頂きました。
今回の晋書にあるとする正始元年正月の倭人朝貢は
見つけることができませんでしたが、いずれにしても
景初3年とする決定打には至っていないと思います。
自説の景初2年説の考えは
3年前の下記の動画で述べている通りで変わっていません。
景初2年の場合、難升米が魏に至った経緯が前回の動画の
ように興味深くなると思った訳ですが、
景初3年の場合、何か特筆するようなことがあるのでしょうか。
白石南花 55分·2024年06月09日︵日︶15‥06
槌田 鉄男 さん。
﹃晋書﹄巻一宣帝紀に
﹁正始元年春正月,東倭重譯納貢,焉耆、
危須諸國,弱水以南,鮮卑名王,皆遣使來獻。﹂とあります。
そもそも応答使は正始元年ですから、
一年以上いたことになります。
9‥︵管理人︶
:
2024/06/09 (Sun) 12:22:13
https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1717903334.png
︵FB談話室からの転載です。︶
白石南花
55分·2024年06月09日︵日︶11‥06
槌田 鉄男 様
討論室には書きましたが、なぜ景初二年説は否定されるのか、
景初三年説に立った場合はどのようになるのか、
ブログに書いております。
以下のリンクから﹁親魏倭王-朝貢年について﹂-の
(1)(2)(3)(4)(5)(6)﹁紀年銘鏡について﹂と続きます。
https://ameblo.jp/shiroi-shakunage/entry-12750681565.html
AMEBLO.JP ﹃親魏倭王(1) -朝貢年について-﹄
白石南花
33分·2024年06月09日︵日︶11‥28
ちなみに漢籍に造詣の深いハイエナさんのブログによると、
トゥルファンで発見された、三国志の一部によると、
現存三国志との文面の違いが報告されており、書物は時代が
下るにつれて文面が誤られてゆきます。
したがって文献の成立時代ではなく、現存の書物がつくられた
時代で、もっとも古いものをとるのが原則です。
そもそも晋書には、正始元年正月に倭人朝貢があり、
朝貢使いは一年三か月も洛陽にとどまり、二回朝貢になり
不自然です。
最初の朝貢が景初三年の改暦により後十二月となった月と
すると、これは西晋の時代の暦では、正始元年正月となり、
晋書の倭人朝貢と魏書の倭人朝貢は、同じものを異なる暦で
記録したものとなるわけです。
西晋の時代の改暦は、泰始元年に行われたもので、本来
過去の出来事をその暦で評価するのはおかしいのですが、
これは司馬氏が曹爽政権の手柄を横取りするための苦肉の策と
思われます。
︵管理人より︶
※‥参考図は、管理人が白石南花さんのブログを
_‥︵紹介用に︶勝手に抜粋したものです。
8‥米田
:
2024/06/08 (Sat) 18:20:58
https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1717838459.gif
﹁景初2年か3年か﹂問題についての考察
‥この問題を解くカギは、明帝の没年月日を
‥探すところから始まります。
‥︵そのためには、三国志を調べます。︶
┌
│三國志 卷四 魏書四 三少帝 齊王芳 ︵原文︶
│青龍三年 立爲齊王 景初三年正月丁亥朔 帝甚病
│乃立爲皇太子
└
‥﹁景初三年正月丁亥朔﹂に明帝は﹁甚病﹂と書かれています。
‥これをユリウス暦で調べると、﹁丁亥朔﹂は、239年1月22日
‥になります。︵これは、ネットでは景初2年12月1日です。︶
‥﹁是日 即皇帝位﹂とありますから、亡くなったようです。
‥︵本来、このまま終了のハズですが、何かおかしいのです。︶
‥
‥時系列で流れを見ていきます。
・景初2年︵238年︶6月ころ、
_この頃、帯方太守﹁劉昕﹂を派遣し、海を渡って、云々。
・紹漢2年8月26日︵238年8月23日︶﹁公孫淵﹂の没年月日。
_︵紹漢は、公孫氏の元号ですが、景初と同じです。︶
・﹁景初三年正月丁亥朔﹂は、ユリウス暦で、239年1月22日。
・景初3年6月、倭の女王は、大夫難升米を云々。
_︹帯方郡︺太守の﹁劉夏﹂は、云々。
・計算上の﹁景初四年正月朔﹂は、西暦で、240年1月12日。
_︵これは、あとで、景初三年うるう12月になります。︶
・明帝の享年。︵明帝は、数え年で数えて、享年36歳。︶
︵石井仁﹃魏の武帝 曹操﹄巻末の﹁曹氏系図3 魏の帝室﹂
_では明帝︵曹叡︶を205年生まれとしている。︶
・明帝が景初4年1月1日に生きていれば、享年36歳は正しい。
・正始元年、︹帯方郡︺太守の弓遵は、悌儁らを遣わし、云々。
_︵正始元年1月1日は、ユリウス暦では、240年2月10日。︶
‥帯方太守﹁劉昕﹂・﹁劉夏﹂・﹁弓遵﹂に無理はないです。
‥
‥このように見てくると、三国志魏書の明帝の没年月日として、
‥﹁景初三年正月丁亥朔﹂は、間違っていて、
‥本当は、﹁景初四年正月﹂が、正しいはずでした。
‥その後、﹁景初四年正月﹂は、無くなってしまい、
‥﹁景初三年うるう12月﹂とされて、しまいました。
‥と、考えるのが、一番スムーズな感じがします。
‥4年ぶりに、﹁景初2年か3年か﹂問題を扱いました。
‥ようやく理路整然と書くことが、出来ました。
‥
‥三国志を調べ、暦を調べ、三正を調べた結果が
‥このような結論になりました。
7‥米田
:
2024/06/08 (Sat) 17:57:29
https://bbs1.fc2.com//bbs/img/_888000/887932/full/887932_1717837049.png
*****
‥私も、4年ぶりに、この問題に向き合うことになりました。
‥復習がてら、4年前の投稿を再掲︵若干修正︶します。
‥この投稿のあとに、現在の考えをまとめてみます。
*****
﹁2020年4月頃に掲示板に投稿した文章﹂より︵再掲︶
Q‥﹃三國志﹄︵卷四︶に書かれている﹁景初三年正月丁亥朔﹂
_‥は、﹁乾象︵けんしょう︶暦﹂や、<中華暦︵ネット︶>
_‥では、いつになるでしょうか。
A‥これが、︵簡単そうですが、︶なかなか、簡単には答えが
_‥出ません。その理由を書きます。
_‥﹁乾象暦﹂は、﹁呉﹂で使われた﹁暦﹂です。
_‥ネットでの<中華暦(からごよみ)>の年表は、﹁魏﹂と
_‥いいながら、﹁呉﹂の暦︵乾象暦︶で書かれています。
_‥﹁魏﹂と﹁呉﹂では、1か月のズレが生じています。
_‥︵それを補正しなくては、なりません。︶
┌
│﹁乾象︵けんしょう︶暦﹂は、三国時代の呉において
│黄武二年︵223年︶から末年の天紀三年︵280年︶までの
│58年間にわたって使用された太陰太陽暦の暦法。
│後漢末の劉洪︵りゅうこう︶が作った。
└
<中華暦(からごよみ)>
﹁中華(からごよみ)﹂は古代から現代までの中国の暦日情報
を提供するWEBサービスです。
︵問題点その1︶‥﹁乾象︵けんしょう︶暦﹂には、正始元年の
________‥前に、﹁後十二月﹂が、ありません。
︵問題点その2︶‥﹁乾象︵けんしょう︶暦﹂には、
________‥﹁景初三年正月丁亥朔﹂が、ありません。
︵問題点その3︶‥﹁乾象︵けんしょう︶暦﹂には、
________‥﹁正始元年春二月乙丑﹂が、ありません。
︵分かっていること︶‥﹁景初﹂の期間は、
﹁魏﹂と﹁呉﹂では、1か月暦がずれている。
三國志 卷四 魏書四 三少帝 齊王芳 ︵原文︶
‥
‥齊王諱芳 字蘭卿 明帝無子 養王及秦王詢 宮省事祕
‥莫有知其所由來者
‥青龍三年 立爲齊王 景初三年正月丁亥朔 帝甚病
‥乃立爲皇太子 ←‥﹁景初三年正月丁亥朔﹂
‥
‥是日 即皇帝位 大赦 尊皇后曰皇太后 大將軍曹爽・
‥太尉司馬宣王輔政←‥﹁司馬宣王﹂=司馬懿仲達
‥詔曰 朕以眇身 ︵云々︶
‥司徒・司空・冢宰・元輔總率百寮 以寧社稷
‥其與羣卿大夫勉勗乃心 稱朕意焉 諸所興作宮室之役
‥皆以遺詔罷之 官奴婢六十已上 免爲良人
‥二月 西域重譯獻火浣布 詔大將軍・太尉臨試以示百寮
‥
‥丁丑詔曰 太尉體道正直 盡忠三世 南擒孟達 西破蜀虜
‥東滅公孫淵 功蓋海内 昔周成建保傅之官 近漢顯宗崇寵鄧禹
‥ 所以優隆雋乂 必有尊也 其以太尉爲太傅
‥持節統兵都督諸軍事如故
‥三月 以征東將軍滿寵爲太尉
‥夏六月 以遼東東沓縣吏民渡海居齊郡界
‥以故縱城爲新沓縣以居徙民
‥秋七月 上始親臨朝 聽公卿奏事 八月 大赦
‥冬十月 鎮南將軍黄權爲車騎將軍
‥
‥十二月 詔曰 烈祖明皇帝以正月棄背天下
‥臣子永惟忌日之哀 其復用夏正 ←‥﹁夏正﹂を復用いる。
‥雖違先帝通三統之義 斯亦禮制所由變改也
‥又夏正於數爲得天正
‥其以爲正始元年正月建寅之月 以建丑月爲後十二月
‥
‥正始元年春二月乙丑 ←‥﹁正始元年春二月乙丑﹂
‥加侍中中書監劉放・侍中中書令孫資爲左右光祿大夫
‥丙戌
‥以遼東汶・北豐縣民流徙渡海
‥規齊郡之西安・臨菑・昌國縣界爲新汶・南豐縣 以居流民
※‥年表を見ますと、﹁景初三年正月丁亥朔﹂は、
﹁乾象暦‥景初2年12月1日︵239年1月22日︶﹂にあります。
_‥おなじく、﹁正始元年春二月乙丑﹂は、
_‥﹁乾象暦‥正始元年1月15日︵or 3/16︶﹂にあります。
※‥﹃三国志﹄の撰者の陳寿は、三国時代の蜀漢と西晋に
_‥仕えた官僚ですから、この違いを
_‥どこまで分かっていたか、ということになります。
※‥この違いを解くカギは、次の項目になると思います。
*******************************
景初元年(237)~三年(239)には建丑月を
正月とする殷正が行なわれました。
________‥殷正では建丑の月︵12月︶を正月とする。
青龍五年(237)三月を景初元年四月としました。
景初三年(239)十二月には夏正へ復帰、
________‥夏正では建寅の月︵1月︶を正月、とする。
翌建丑月は後十二月とされ
その翌月から正始元年(240)正月となりました。
殷正導入により景初元年三月が景初元年四月とされ
一か月ずれました。
殷正から夏正へ戻す処置として
景初三年後十二月が挿入されました。
****************************
私の頭は、ここで、ストップしてしまいます。
ですので、︵年表を付けて、︶私の考察を終わります。
6‥︵管理人︶
:
2024/06/08 (Sat) 17:54:55
︵FB談話室からの転載です。︶
槌田 鉄男
1時間·2024年06月08日︵土︶14‥51
‥東アジアの討論室の使い方が今一つ理解できないでので、
‥ここで回答します。
‥別の動画でも述べているように私自身は景初2年と思って
‥いるのですが、景初2年か3年かは明確に決着がついて
‥いるようには思えません。
‥しかし、景初2年とすれば卑弥呼の朝貢は今回の動画の
‥ようになり、大変興味深いものになって難升米が魏に行った
‥理由もハッキリすると思った次第です。
‥動画の中でも問いかけているように
‥景初3年だとどのようになるのでしょうか。
5‥米田
:
2024/06/06 (Thu) 00:38:37
┌
│⑧ 卑弥呼の朝貢は景初2年か3年か?
└
‥これは、景初3年が正しいです。
‥ウィキペディアで﹁曹叡︵そうえい︶﹂を調べたら、いまだに
‥﹁景初2年説﹂で書かれていました。︵困ったものです。︶
‥この問題は、歴史の問題ではなく、﹁暦︵こよみ︶﹂の
‥問題で、﹁暦法﹂とか﹁改暦﹂・﹁三正﹂の問題なのです。
‥たとえ話をします。
・令和6年_の正月の元旦を西暦︵年月日︶に直します。
・令和6年度の正月の元旦を西暦︵年月日︶に直します。
︵解答︶‥2024年1月1日
︵解答︶‥2025年1月1日
‥簡単にいうと、﹁景初3年の正月﹂は、この違いなのです。
‥景初の期間は、明帝が、暦法︵三正︶を変更しているのです。
﹁三正︵さんせい︶﹂︵ウィキペディアより︶
‥三正とは、中国戦国時代に唱えられた﹁中国暦の年始
‥︵正月・年界︶をどこに置くか﹂についての3種類の考え方。
‥ぜひ、暦の勉強をして下さい。
4‥︵管理人︶
:
2024/06/06 (Thu) 00:09:55
︵槌田氏の主張の紹介‥抜粋︶
騎馬民族説の復活︵改4︶﹁扶余族に征服された邪馬臺国﹂
槌田 鉄男
︻要旨︼
3世紀の卑弥呼の時代に纏向遺跡が突然出来た。
それから4世紀前半にかけて列島各地に全く新しい墳墓、前方
後円墳が急速に拡大し、ほぼ同時に環濠集落や銅鐸が消滅した。
この急速な変化の拡大は新たな輸送手段、馬を伴った人々が
来たと言う仮説でのみ説明出来ると考え、
この仮説証明のため魏志倭人伝をこれまでにない角度から
読み直すと共に最新の考古学と照らし合せて7つの検証を
行った。
その結果、次の3つの結論を得ると共に従来説とは全く
異なる日本誕生に向けての新たなストーリーが出来た。
‥① 邪馬臺国を含む女王国は熊本中部以北の北部九州に
___存在し、一方で狗奴国は熊本中部以南に存在した。
‥② 纏向遺跡は騎馬民族の扶余族と彼らに担がれた公孫氏が
___造ったものである。
‥③ 倭人伝は女王国への扶余族の来襲から制圧までを
___書き留めたものである。
︻検証6︼倭人伝の新しい解釈
⑧ 卑弥呼の朝貢は景初2年か3年か?
倭人伝では卑弥呼の使いは景初2年︵238 年︶6月に魏の
帯方郡太守に朝献を願い出て同年12月に皇帝から長文の詔を
得ている。
しかし公孫氏の滅亡は同年8月であり、一般的に景初2年では
なく同氏滅亡後の3年が正しいとされる。
しかし、ここで2つの疑問が生じる。
1つ目は景初3年1月に明帝が崩御し次皇帝曹芳が8歳で
即位しているが、この幼帝に哀れみを込めた長文の詔を発する
ことが出来たかである。
詔が明帝のものなら景初2年になる。
2つ目は景初2年8月に公孫氏滅亡の情報を得て10ヶ月で使を
洛陽に送ることが可能かである。
3‥白石南花:
2024/06/05 (Wed) 21:11:08
討論室ですので、私見を述べさせていただきます。
卑弥呼の最初の朝貢年は景初三年だと考えています。
詳細はブログに書きましたのでご参照いただければ幸いです。
https://ameblo.jp/shiroi-shakunage/entry-12750681565.html
2‥︵管理人︶
:
2024/06/05 (Wed) 09:41:43