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大口病院の事件は、僕の周りでもかなり話題になっているのですが、看護師さんたちはみんな﹁あれはさすがにありえない﹂と言っていました。長期療養病棟で高齢者と接していて、﹁どういう状態が、生きているってことだろうか……﹂﹁ここまでして、生き続けるのも大変だな……﹂と思うことはあっても、だからといって、積極的に殺す、というのは別の話です。 この事件がきっかけになったのか、いまの高齢者医療についての告発というか紹介のツイートが話題になっています。 twitter.com
このエントリには、こんなブックマークコメントがつけられているのです。 b.hatena.ne.jp
うーむ。 僕も医者になってはじめて高齢者の長期療養病棟にアルバイトで行ったときには、かなり衝撃を受けたんですよね。 ずっとベッドに寝たきりで、関節が固まってしまって、喋ることも意思表示をすることも難しく、鼻から入れられた管から栄養を流されて生きている高齢者たち。 内心、﹁ここまでして、人を﹃生かす﹄必要があるのだろうか、本人だってきついんじゃないかな﹂と思っていたんですよ。 案内してくれた看護師さんが﹁うちはこんな感じなんですよ……﹂と寂しそうにポツリと言ったのを憶えています。
ただ、この一連のツイートを今の僕が読むと、けっこう引っかかるんですよ。なんというか、そんなに他人のことを不幸だとかかわいそうだとか決めつけて良いのだろうか、って疑問もあるのです。 ﹁こんなの幸せなわけないだろう!﹂って言いたい人も多いだろうけれど、僕は正直なところ、そういう状態の高齢者の内心がどうなのか、﹁わからない﹂のです。それを知る方法は、今のところありません。 ﹁わからない﹂かぎりは、自分の勝手な想像で、﹁本人は苦しんでいて、死にたいと思っている﹂とか、﹁かわいそうだから、もう死んでもいいよね﹂と決めつけるのは危険だと考えています。 もし自分がそういう立場になったら、﹁あんまり幸せじゃないだろうな﹂とは思うんですけど、だからといって、本人が死にたいかどうかはわからないし、僕だって殺したくはない。ひょっとしたら、ずっと夢をみているような状態なのかもしれないし、ちょっとした刺激に喜びを感じることもあるかもしれない。これもまあ、こちら側からの﹁想像﹂なのですが。 そもそも、元気で身体が自由に動く人が想像する﹁こんなふうになったら死にたい﹂が、実際にそういう状態になっても同じ気持ちなのかどうかというのは、わからないですよね。人は、﹁死にたい﹂のと同じくらい、あるいはそれ以上に﹁生きたい﹂生物なのだと感じることは少なくありません。
そして、こういう話になると、﹁年金がもらえなくなるから、もらえる日まで生かしてくれ﹂みたいな家族が登場してきたり、﹁税金を使っているのに﹂という意見が出てきたりするわけです。 僕はけっこう多くの数のこういう状況の患者さんをみてきましたが、﹁年金がもらえなくなるから生かしてくれ﹂なんていう家族には出会ったことがありません。﹁診断書をこんなふうに書いてくれ﹂と要望されたことは何度もありますが︵もちろん、診断書には嘘は書けないから、と丁重にお断りしました︶。 もちろん、そういう家族がいる可能性は想像できますし、そういう家族が多い地域や病院、というのもあるのかもしれません。医者に対してよりも、看護師さんに対してのほうが、患者さんや家族は本音で喋ることが多いので、僕のところまでそういう話は伝わってこない可能性はあります。 とはいえ、延命希望であれば、看護師さんにだけお願いしても致し方ないわけで、﹁そんな家族が多数派﹂だとは思えないのです。 こういうのって、﹁ごくひとにぎりの生活保護の不正受給者﹂を大きくとりあげて、﹁だから、生活保護なんて要らない﹂﹁受給者はみんな怠惰なダメ人間﹂だと印象付けているのと同じではなかろうか。 ネットでは、こういうことがまかり通っていて、僕は﹁なんでふだんはこんなに用心深そうにしている人たちが、あっさり引きずられてしまうのか﹂と考え込んでしまいます。人は、信じたいものを信じる。
こうやって、﹁病院は金もうけをしている﹂﹁患者家族も稼いでいる﹂﹁税金の無駄遣いだ﹂って言うけれど、実際は、そこまで割り切って﹁金のために延命治療を望む﹂家族はごく少数ではないかと思います。
実際、自分の親がそういう状態で入院していたら、どうなのか? 僕自身の経験から言うと︵うちの場合は、老衰、ではなかったのですが︶、自分の身内が、いつ心臓が止まるかわからないような状態で入院している、というのは、ものすごくきつかったんですよね。 いつそういう連絡が来るかわからないので、電話が鳴るたびに、﹁もしかして……﹂と不安になってしまう。 面会に行ったり、定期的に洗濯物を取りに行ったりするのもけっこう大変です。 高齢者の長期療養病棟では、家族も、そういう生活が、いつ終わるのかわからないのです。 とにかく、無事に一日が終わるとホッとする、その繰り返し。 ︵もちろん、夜中に連絡が来る可能性もあるのだけれど︶ とりあえず生きていてくれるだけで、ありがたかった。
そういう精神的な負担や手間︵というのは不適切な表現かもしれませんが︶は、ものすごく大きなものでした。 終わってしまったときには、寂しさとともに、少し、安心もしたのです。
考えてみていただきたいのです。 高齢者を入院させて﹁お金儲け﹂をするというけれど、そんな精神的な負担にさらされた上に、どんどんお金も出ていく、という状況が続くようであれば、﹁早く殺してくれ﹂という家族が出てきたり、家族のなかでも人間関係が殺伐としていく可能性が高くなるでしょう。 病院だって、そういう大変な仕事をやっていけるのは﹁お金になるから﹂という動機が大きいのです。個人的には、看護・介護の職員の給料は安すぎると思うのですが。 年金で少しプラスになる、というくらいの料金設定であるからこそ、寝たきりでも高齢者が生かされる、ということに対してみんな受け入れられている、というのは事実でしょう。
そもそも、﹁こういう人は、もう生きたくないよね﹂とか﹁生きていても、どうしようもないよね﹂って他者が決めるのは、優生思想につながるのではないかと思うのです。 本人の意思が明確な場合はさておき、そうでない場合には、勝手に他者が判断すべきではないと思う。 それが許されてしまったら、どんどん﹁死んでもいい人﹂の範囲が広がっていくのではないかと危惧しています。
僕は、家族や周囲の人たちの負担を減らす、というのが、高齢者医療の大きな存在価値だと考えています。 家で全介助状態の高齢者を介護することは、家族にとって大きな負担になります。というか、一人のそういう状態の患者さんを看るためには、少なくとも一人が付きっきりになる必要があるのです。トレーニングを受けた人じゃないと無理、という状態の患者さんも少なくない。全介助ではなくても、認知症で行方不明になったり、線路で立ち往生してしまう、なんて事例もたくさんある。 今の世の中って、本当に自由なのは、30歳くらいまでで、子どもができれば育児があって、そのあと親の介護、それが終われば自分が介護されて死んでいく、というライフスタイルが多いのです。それでも、平均寿命が30歳とか、乳幼児死亡率が高かった時代よりはマシではあるのでしょうけど。 高齢者をひとり病院や施設が受け入れることによって、自由になれる人がいるのならば、それは本人にとっても、世の中にとっても良いことではなかろうか。
﹁ここまでして生かさなくても﹂とは言うけれど、みんな、自分の親や家族のこととなると、そこまで割り切るのはなかなか難しいのです。 自分自身は延命なんかしなくてもいい、と思っていても。 欧米では、自分で食べられなくなったら寿命、ということで、経管栄養とか胃ろうはつくらず、自然に衰弱していくのを看取る、ということが多いようなのですが、今の日本では、それを受け入れられる人は、あまり多くはありません。それは、これまでの歴史的な背景や文化的な土壌というものがあって、﹁外国ではこうだから﹂と言われても、﹁そうですか﹂ということには、なかなかならない。 ﹁何もしないで死んでいくのを見守っていく﹂というのは、それはそれでつらいものですよ。家族にとっても、医療関係者にとっても。 ましてや、﹁安楽死﹂となれば、誰が手を下すのか。 死が迫っている人を何もしないで見守るよりも、ずっとハードルは高くなるし、誰もそんなスイッチを押したくはないでしょう。 それをやってしまったことが、ずっと引っかかる人生になってしまうかもしれない。
僕は本人のことはわからないけれど、少なくとも、家族を負担から解放し、やれることはやった、と納得してもらえるように、ということは意識しています。﹁やれることはやった﹂というのは、なんでもかんでもやって延命する、というわけではなくて、死ぬということを受けいれていくための心の準備をする時間をつくることと、家族が﹁ああしておけばよかった﹂という自責の念をこれからの人生でなるべく軽くする、ということです。そういうのは、どうやってもゼロにはならない、それはわかっているのだけれど。 なかには、酷いことを言われたり、八つ当たりをされることもあります。つらいよねそれは。 医療というのは、感情労働でもあります。 正直、医者はそれなりに対価を得ているから、我慢できている、という面もあると思う。 看護師や介護職で離職する人が多いのは、仕事と待遇がマッチしていないから、というのは事実でしょう。
終末期医療とか介護というのは、半分くらいは、これからも生き続ける人のためにあるものだと思っています。 ﹁税金を使って延命治療なんて﹂という意見については、個人的には﹁税金というのは、こういう、人生においてある一定の確率で誰にでも起こりうる困難をサポートするためにプールされているお金﹂だと思っています。ただ、﹁無い袖は振れない﹂という状況であるのも承知してはいるので、おそらく近い将来には北欧のように﹁自力で食べられなくなったら、あとは自然にまかせる﹂というようになっていくでしょうし、個人的には、それで良いと思っています。 申し添えておくと、延命治療って、僕が医者になった20年前くらいに比べると、ものすごく減っているんですよ。 救急救命や元気だった人の急変時を除けば、心臓マッサージや昇圧剤を使う機会は激減しました。 以前は、末期がんの人でも﹁なるべく長生きさせてほしい﹂と希望されることが多かったのですが、今はもう﹁なるべく苦しまないように、自然に﹂と言われることがほとんどです。 一時期話題になったためか、胃ろうをつくる患者さんもかなり減りました。経管栄養を続けるならば、胃ろうのほうが良いのでは……と思う事例もあるのですが。 経済的な負担や若年人口の減少、高齢者の孤立、家族鑑、生命観の変化というさまざまな事象の変化もあり、法律が変わったり、偉い人が呼び掛けたりしなくても、現場では﹁過剰な延命治療﹂はどんどん減ってきているし、それを希望する人も減ってきているのです。
本当は﹁安楽死と自殺幇助と延命治療を行わないことは、それぞれ違うので、冒頭のツイートなどを読んで、安楽死に結びつけないでほしい﹂というのを書くつもりだったのですが、脱線してしまいました。 fujipon.hatenadiary.com
この本を読んでみていただくと、いまの﹁安楽死についての世界的な動き﹂と具体的な事例がわかると思います︵すごい労作だし、良書です︶。
﹁安楽死の種類﹂について、この本から紹介しておきます。 本書で﹁安楽死﹂と記した場合、﹁︵患者本人の自発的意思に基づく要求で︶意図的に生命を絶ったり、短縮したりする行為﹂を指す。 次に安楽死の種類を明確にしておく。上記の広義の安楽死は、︵1︶積極的安楽死、︵2︶自殺幇助、︵3︶消極的安楽死、︵4︶セデーション︵終末期鎮静︶の四つに分類される。 ︵1︶の積極的安楽死とは、﹁医師が薬物を投与し、患者を死に至らせる行為﹂となる。 ︵2︶の自殺幇助は、﹁医師から与えられた致死薬で、患者自身が命を絶つ行為﹂を指す。 ︵3︶の消極的安楽死は、﹁延命治療︵措置︶の手控え、または中止の行為﹂を意味する。多くの国々で臨床上見受けられる。日本でも老衰患者の胃瘻処置や、末期癌患者の延命措置などで、これに該当する行為が取られる。ただし、これらを規定する法律はない。 ︵4︶のセデーションは、﹁終末期の患者に投与した緩和ケア用の薬物が、結果的に生命を短縮する行為﹂である。国によっては﹁間接的安楽死﹂と呼ばれることもある。たとえば末期癌患者に薬を投与し、意識レベルを下げることで苦痛から解放するとともに、水分、栄養の補給を行わず死に向かわせる医療措置などがある。通常は緩和ケアの一環として行われ、大半は﹁安楽死﹂と結びつかない。 専門的には、狭義の安楽死として︵1︶の積極的安楽死のみを指すことが多い。本書でも自殺幇助と差別化して記す場合などには、﹁安楽死﹂という用語を︵1︶の意味で使用している。 安楽死という用語は、国によって尊厳死と同一視されたり、差別化されたり、まちまちだ。混乱の原因は、各国の尊厳死協会などが使用する﹁Death with dignity﹂という表現、つまり﹁尊厳死﹂︵直訳すれば、尊厳を持って死ぬ︶の解釈に差異があるからだ。スイスやオランダでは、前述の︵1︶や︵2︶で死に至らせることが﹁患者にとっての尊厳死﹂という認識がある。アメリカは逆に、安楽死と尊厳死を同一視することを嫌う。その一方で、日本で言われる尊厳死は、前述の︵3︶に近い。
現実的には、日本でも、︵3︶の消極的安楽死に抵抗を感じる人は少なくなってきています。むしろ、﹁延命治療はしないでほしい﹂と本人が希望されることも多いのです。その一方で、︵1︶︵2︶については、いまだ議論そのものが避けられがちです︵その背景には、癌の治療や緩和医療の進歩、というプラスの側面もあります︶。安楽死というのは、本人だけでなく、それを選択される家族や医療者にとっても大きな精神的負担となるのです。 高齢者医療でも、何もしなければ死んでいく高齢者を見守ることよりも、積極的に﹁死なせる﹂ことは、はるかにハードルが高いし、それは当然のことだと思うんですよ。
結局のところ、これは正解がない問題というか、時代の変化に従っていくしかないのかもしれませんね。 僕自身は、自力で食事も摂れなくなった際の延命措置は希望しませんが、それはそれとして、自分の仕事を粛々とやるしかないのだろうな、と考えています。 人間にとって死が不可避である以上、そこになるべくうまく着地するのも大事なことだと思うので。
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