もうコメント欄を承認制にしますよ。みなさんもそうしたほうがいいですよ。︵極東ブログ (2008/6/2)) こういうのは、ブログの規模だとかコメントの多さとかによっても変わってくるので、一概には言えない部分もあるとは思うけれど、finalventさんが今この決断をして、こういうエントリを書かれたことにはそれなりの意味があるのではないだろうか。 一閲覧者としての僕の印象では、finalventさんのコメント欄でのコメントへの対応は、﹁そんなコメントにいちいち真面目に対応しなくてもいいのではないか?﹂と感じることが多いくらい真摯なものだし。 僕がこれを読んで考えたのは、finalventさんが﹁アルファブロガーとしていちばん伝えたかったこと﹂というのは、﹁みんな、そんなにキチンとコメント欄と向き合うことなんてないんだよ﹂あるいは、﹁自分にとって手に余る、あるいは、自分に向けられた刃だと感じるようなコメントは、なかったことにしてもいいんだよ﹂とメッセージなのではないかということだった。 ブックマークなどでは、﹁承認制にしても、﹃死ね﹄がどうせ管理者の目には触れるのだから同じだ﹂と言う人もいるのだが、こういう反応をする人というのは、たぶん、コメント欄に﹁死ね﹂とか書かれたことがない人ではないか。 ブロガーは孤独である、いや、人間なんてみんな孤独には違いなんだけれども、ブログをやっていると、﹁世界を相手に自分ひとりで闘っているような気分﹂に陥ってしまうことってあるのだ。もちろん、ブロガーがみんなそういう体験をするわけではないと思うが。 いきなり見知らぬ人に路上で﹁死ね﹂と言われたら、たぶん、ものすごく怖い。 教室でみんなの前で話しているときに﹁死ね﹂と言われたら、怖いというより、悔しいし、悲しい。 嫌がらせメールは前者であり、コメント欄への罵詈雑言は後者だ。 前者で警察に届ける人はいても自殺する人はいないだろうが、後者が自殺の原因となる可能性はある。 コメント欄は、ブログにとっては﹁公の場﹂であり、同じ﹁死ね﹂というメッセージでも、そこに書き込まれたら、ブロガーは、﹁みんながそう思っているのではないかという不安﹂に駆られることもある。 現実は、たぶん、そうじゃないのだ。 どんなブログでも、8割、あるいは9割は﹁淡々と読んで楽しんでいる人﹂であり、圧倒的な賞賛や罵倒の感情を持って接している人は、ごくごくわずかしかない。 しかしながら、﹁淡々と読んでいる人﹂はコメント欄に書いたりしないので、極論だけがコメント欄には氾濫しやすい。 そして、ブロガーには、そういう﹁極論﹂しか見えなくなってしまうことがある。 僕は自分のブログのコメント欄に関しては、﹁基本的に放置、明らかなスパム以外はとくに削除もしない﹂ようにしている。コメント欄を削除しないのは、まだなんとなく、﹁ここから声をかけてくれる人がいるのではないか﹂という未練が残っているからで、削除しないのは、﹁自分に対する悪口も削除しない心の広いブロガー﹂だと思わせようというイメージアップ戦略と、本当にくだらないコメントに対する最大の復讐は﹁そのまま晒し者にしてあげること﹂だと考えているからだ。これはまあ、基本的にコメントそのものが少ないブログだからとれるスタンスではあるのだが。 個人的には、﹁コメント欄は、よっぽどこだわりがない限り、閉じてしまったほうがいい﹂と僕は思っている。 いや、﹁コメント承認制﹂っていうのは、けっこう大変なんだよ本当に。 コメント承認制には、とにかくコメントをもらうことはでき、困ったコメントを第三者の目に触れさせないというメリットがあるのだけれど、コメント承認制になることによって、 ︵1︶︵実際にはスパムくらいしか﹁非承認﹂にしていなくても︶コメントが﹁選別﹂されているというイメージを閲覧者が受けてしまう。 ︵2︶コメントのリアルタイム性が失われる。 ︵3︶ブロガーが、自分で﹁選別﹂しなければならない。 ︵4︶そして、﹁選別﹂したコメントには、自分である程度﹁責任﹂を持たなければならない。 というようなデメリットも生じてくるのだ。 コメントが多いブログでは、︵2︶はさておき、︵1︶︵3︶︵4︶をうまくコントロールしていくのは、けっこう大変なのではなかろうか。﹁選別﹂したコメントには、それなりの﹁レス﹂を要求されるのだろうし。 芸能人ブログのコメント欄が﹁野放し﹂になっていることが多いのは、コストの問題もあるのだけれども、コメント欄をコントロールしようとすると、かえって﹁責任﹂が生じてしまうというのも大きいのではないかと思う。 でもなあ、たぶん、﹁コミュニケーションに傷つきやすい人﹂ほど、ネット上でのコミュニケーションを求め、依存してしまうというのもよくわかる。僕もそうだからね。 そういう人ほど、﹁せっかく誰かがくれたコメントを﹃選別﹄するなんて!﹂とか考えちゃうんだよなあ。 ネットにも、現実世界と同じように﹁関わるだけ時間のムダになる人は存在する﹂と僕は考えている。 時間は有限だ。 僕はたぶんあと30年くらいしか生きられないし、君だって長くてあと70年くらいのものだろう? 時間の使いかたを選ぶのは、自分自身。 ひとつだけ言っておくとすれば、本当に心から自分を求めてくれる人は、﹁コメント承認制だから、ここに書くのやめた﹂なんてことはない、ということかな。 あと、﹁誹謗中傷にも真摯に対応するのが立派なブロガーだ﹂なんて大嘘。 ネガコメに返事書いてる時間があったら、そんなコメントは全部削除してベッドにもぐりこみ、1時間多く睡眠をとったほうがいいよ。 一晩寝ればどうでもよくなることなんて、世の中にはけっこうたくさんあるし、疲れているときには、あまりまともなことは考えられなくなるものだからさ。
ブロガーよ、コメントと闘うな。
もうコメント欄を承認制にしますよ。みなさんもそうしたほうがいいですよ。︵極東ブログ (2008/6/2)) こういうのは、ブログの規模だとかコメントの多さとかによっても変わってくるので、一概には言えない部分もあるとは思うけれど、finalventさんが今この決断をして、こういうエントリを書かれたことにはそれなりの意味があるのではないだろうか。 一閲覧者としての僕の印象では、finalventさんのコメント欄でのコメントへの対応は、﹁そんなコメントにいちいち真面目に対応しなくてもいいのではないか?﹂と感じることが多いくらい真摯なものだし。 僕がこれを読んで考えたのは、finalventさんが﹁アルファブロガーとしていちばん伝えたかったこと﹂というのは、﹁みんな、そんなにキチンとコメント欄と向き合うことなんてないんだよ﹂あるいは、﹁自分にとって手に余る、あるいは、自分に向けられた刃だと感じるようなコメントは、なかったことにしてもいいんだよ﹂とメッセージなのではないかということだった。 ブックマークなどでは、﹁承認制にしても、﹃死ね﹄がどうせ管理者の目には触れるのだから同じだ﹂と言う人もいるのだが、こういう反応をする人というのは、たぶん、コメント欄に﹁死ね﹂とか書かれたことがない人ではないか。 ブロガーは孤独である、いや、人間なんてみんな孤独には違いなんだけれども、ブログをやっていると、﹁世界を相手に自分ひとりで闘っているような気分﹂に陥ってしまうことってあるのだ。もちろん、ブロガーがみんなそういう体験をするわけではないと思うが。 いきなり見知らぬ人に路上で﹁死ね﹂と言われたら、たぶん、ものすごく怖い。 教室でみんなの前で話しているときに﹁死ね﹂と言われたら、怖いというより、悔しいし、悲しい。 嫌がらせメールは前者であり、コメント欄への罵詈雑言は後者だ。 前者で警察に届ける人はいても自殺する人はいないだろうが、後者が自殺の原因となる可能性はある。 コメント欄は、ブログにとっては﹁公の場﹂であり、同じ﹁死ね﹂というメッセージでも、そこに書き込まれたら、ブロガーは、﹁みんながそう思っているのではないかという不安﹂に駆られることもある。 現実は、たぶん、そうじゃないのだ。 どんなブログでも、8割、あるいは9割は﹁淡々と読んで楽しんでいる人﹂であり、圧倒的な賞賛や罵倒の感情を持って接している人は、ごくごくわずかしかない。 しかしながら、﹁淡々と読んでいる人﹂はコメント欄に書いたりしないので、極論だけがコメント欄には氾濫しやすい。 そして、ブロガーには、そういう﹁極論﹂しか見えなくなってしまうことがある。 僕は自分のブログのコメント欄に関しては、﹁基本的に放置、明らかなスパム以外はとくに削除もしない﹂ようにしている。コメント欄を削除しないのは、まだなんとなく、﹁ここから声をかけてくれる人がいるのではないか﹂という未練が残っているからで、削除しないのは、﹁自分に対する悪口も削除しない心の広いブロガー﹂だと思わせようというイメージアップ戦略と、本当にくだらないコメントに対する最大の復讐は﹁そのまま晒し者にしてあげること﹂だと考えているからだ。これはまあ、基本的にコメントそのものが少ないブログだからとれるスタンスではあるのだが。 個人的には、﹁コメント欄は、よっぽどこだわりがない限り、閉じてしまったほうがいい﹂と僕は思っている。 いや、﹁コメント承認制﹂っていうのは、けっこう大変なんだよ本当に。 コメント承認制には、とにかくコメントをもらうことはでき、困ったコメントを第三者の目に触れさせないというメリットがあるのだけれど、コメント承認制になることによって、 ︵1︶︵実際にはスパムくらいしか﹁非承認﹂にしていなくても︶コメントが﹁選別﹂されているというイメージを閲覧者が受けてしまう。 ︵2︶コメントのリアルタイム性が失われる。 ︵3︶ブロガーが、自分で﹁選別﹂しなければならない。 ︵4︶そして、﹁選別﹂したコメントには、自分である程度﹁責任﹂を持たなければならない。 というようなデメリットも生じてくるのだ。 コメントが多いブログでは、︵2︶はさておき、︵1︶︵3︶︵4︶をうまくコントロールしていくのは、けっこう大変なのではなかろうか。﹁選別﹂したコメントには、それなりの﹁レス﹂を要求されるのだろうし。 芸能人ブログのコメント欄が﹁野放し﹂になっていることが多いのは、コストの問題もあるのだけれども、コメント欄をコントロールしようとすると、かえって﹁責任﹂が生じてしまうというのも大きいのではないかと思う。 でもなあ、たぶん、﹁コミュニケーションに傷つきやすい人﹂ほど、ネット上でのコミュニケーションを求め、依存してしまうというのもよくわかる。僕もそうだからね。 そういう人ほど、﹁せっかく誰かがくれたコメントを﹃選別﹄するなんて!﹂とか考えちゃうんだよなあ。 ネットにも、現実世界と同じように﹁関わるだけ時間のムダになる人は存在する﹂と僕は考えている。 時間は有限だ。 僕はたぶんあと30年くらいしか生きられないし、君だって長くてあと70年くらいのものだろう? 時間の使いかたを選ぶのは、自分自身。 ひとつだけ言っておくとすれば、本当に心から自分を求めてくれる人は、﹁コメント承認制だから、ここに書くのやめた﹂なんてことはない、ということかな。 あと、﹁誹謗中傷にも真摯に対応するのが立派なブロガーだ﹂なんて大嘘。 ネガコメに返事書いてる時間があったら、そんなコメントは全部削除してベッドにもぐりこみ、1時間多く睡眠をとったほうがいいよ。 一晩寝ればどうでもよくなることなんて、世の中にはけっこうたくさんあるし、疲れているときには、あまりまともなことは考えられなくなるものだからさ。