阮甫 ‖ +―――――+――さき ‖ | ‖ 登井 | +――――+―やえ(大槻魯庵妻) (妹尾 | ‖ | 長治娘) | 呉黄石 | | | | +―文聰 | | ‖ | | +――――+――夏(吉田良三妻) | | ‖ | | | やす +――敏(小松恒太郎妻) | |(高気一娘)| | | +――建(医博心臓病学者) | | | | | +――文炳(経博日大総長) | | | | | +――たつ(鷲見寛二妻) | | | +―くみ(柏原浩溟妻) | | | +―りき | | ‖ | | +――――+――得二(貿易業) | | ‖ | | | 日高秩父 +――愛子(北島常時妻) | | | | | +――喜美子(大島与吉妻) | | | | | +――勲子(大束建夫妻) | | | | | +――光三(田中家養子) | | | | | +――第四郎(学習院副院長) | | | | | +――第五郎(成城学園教授) | | | | +――たま(三浦家嗣) | | | | | +――かつ(木村男也妻) | | | | | (三浦 +――茂一(東大教授) | | 千春娘)| | | みな +――いくよ(斎藤助堯妻) | | ‖ | | | +――――+――芳江(三浦家養女) | | ‖ | +―秀三 | ‖ | +―――――――章二(日大勤務) | ‖ | みつ | (本多 | 富次郎娘 +――つね | ‖ | +――――+―奎吾 | ‖ | | 秋坪 | | (菊池氏) +―大麓(菊池家嗣) | ‖ | ‖ | ‖ | +――――+――たみ(美濃部達吉妻) | ‖ | ‖ | | ‖ | たつ +――千代子(鳩山秀夫妻) | ‖ |(福田氏) | | ‖ | +――泰二(物理学者) | ‖ | | | ‖ | +――冬子(末広巌太郎妻) | ‖ | | | ‖ | +――英子(平山復二郎妻) | ‖ | | | ‖ | +――健三(理博東大教授) | ‖ | | | ‖ | +――正士(原子物理学者) | ‖ | | | ‖ | +――百合子(川村秀文妻) | ‖ +―佳吉 | ‖ | ‖ | ‖ | +――――+――良次(日本郵船勤務) | ‖ | ‖ | | ‖ | 安 +――新六(理博東北大教授) | ‖ |(五島孝継 | | ‖ | 娘) +――花子(吉阪俊蔵妻) | ‖ | | ‖ +―元八 | ‖ ‖ | ‖ +――――+――綾子(甲野謙三妻) | ‖ ‖ | | ‖ みつ +――秋吉(理博作曲家) | ‖ (進十六 | | ‖ 娘) +――縫子(矢野矢妻) | ‖ | | ‖ +――洋輔(工業技術家) | ‖ | | ‖ +――歌子(堀田嘉幸妻) | ‖ | +――――+―直 | ‖ ‖ +――しん +――――+――誠太郎(理博東大教授) ‖ ‖ | ‖ 坪井 +――春(西田正三妻) ‖ 正五郎 | ‖ +――菊(佐谷台二妻妻) ‖ | ‖ +――忠二(地球物理学者) ‖ ‖ もと(三沢精確娘) ‖ ‖ ‖ +――――+――貞子(石川千代松妻) ‖ ‖ | +――――+―麟祥 +――操子(長岡半太郎妻) ‖ ‖ | 省吾 ‖ +――祥三 (佐々木氏) ‖ +―――――――俊夫 ‖ 東子(大前寛信娘)箕作 秋坪︵みつくり しゅうへい︶ 戻る 秋坪は文政8︵1825︶年、備中国上砦部村︵上房郡北房町︶の教諭所都講菊池 士郎︵文理︶の次男として生まれました。13歳の時に父を喪って、津山藩の儒者稲垣茂松に引き取られ、やがて津山藩典医箕作阮甫の養子となりました。養子 縁組の前に阮甫は秋坪の教育を緒方洪庵に委託していたようです。阮甫には3女あり、はじめに長女に養子を迎えましたが不縁となり、ついで3女﹁ちま﹂に岩手水澤藩士佐々木佐衛治の次男省吾を迎えて孫麟祥が出来ましたが、省吾は26歳の若さで死去したために、秋坪が次女﹁つね﹂の婿養子として迎えられることになりました。箕作姓を嗣いだ秋坪は、一旦は江戸で医師としての仕事をはじめますが、幕末維新の押し寄せる外交問題処理のために、幕府の手伝いをする洋学者としての仕事が主になって行きました。維新後は英学塾﹁三叉学舎﹂を開設、 東郷平八郎、原敬、平沼麒一郎らが入門し、福沢諭吉の慶應義塾と並ぶ洋学塾の 双璧と云われました。後に、明六社の設立にも関わり、森有礼のあと社長に就任しています。多くの他にも職を歴任していますが、明治19年全ての職を辞した 直後、腸チフスにて死去しています︵62歳︶。秋坪の母多美は津山藩士後藤 佐野右衛門基義の娘で、夫士郎が死去した後に、秋坪とその妹を育て、文久3年7月に作州勝山で病死しています。いくつかの成書を調べてみましたが、その享年は不明で、実家も後藤氏というのは共通しているものの、薬種商であったと記載しているものもあり、秋坪の母の素性についてはよく知られていないようです。実母の死去に相前後して、恩師 緒方洪庵 、養父阮甫、妻﹁つね﹂の死去と不幸が続き、省吾の未亡人で﹁つね﹂の妹﹁ちま﹂を継室に迎えています。 箕作 元八︵みつくり げんぱち︶ 戻る 文久2︵1862︶年に生まれています。はじめに動物学を専攻し、後に西洋史学の研究に転向します。西洋史の著書、論文は多数ありますが、昭和47︵1972︶年、ニューヨークタイムズでの昭和天皇単独記者会見記事に、天皇がもっとも大きな知的影響を受けた人物として箕作元八の名が出て、側近までも驚いたということがあるそうです。元八は大正8︵1919︶年、58歳で死去しています。 箕作 佳吉︵みつくり かきち︶ 戻る 動物学を専攻し、東京帝国大学理科大学長を勤めています。明治42年、52歳で死去しています。真珠の養殖で有名な御木本幸吉も佳吉の指導を受けていま す。 箕作 麟祥︵りんしょう︶ 戻る 父省吾は麟祥が生後4ヶ月くらいで死去していますので、祖父母に育てられて います。文久元年、16歳で幕臣箕作家を相続しています。明治維新以後は終始 官界の主要ポストを歴任、とくに法制改革に貢献しています。たいへん几帳面な人であったそうで、家中の時計が揃って同じ時刻にならないと機嫌が悪かったという面白いエピソードもあります。 箕作 奎吾︵みつくり けいご︶ 戻る 幕府留学生に選ばれて15歳で渡英、明治新政府になってからは大学校に奉職、後に辞して父の三叉学舎で教鞭をとっています。明治4年、隅田川で遊泳中に溺死しています︵享年20︶。 菊池 大麓︵きくち だいろく︶ 戻る 秋坪の次男で、安政2︵1855︶年に生まれ、父の生家を嗣いで菊池を名乗りました。12歳で幕府の命で英国留学、更に明治政府の命によって再度同国に留学し、ロンドン大、ケンブリッジ大で学んでいます。その間、成績は常に首席を通したといわれます。帰国後、東大教授、同大総長、文部大臣などを歴任し、明治35年には特旨を以て華族に列せられ男爵位を授けられています。専門は数学、特にわが国への幾何学の導入に尽力し、和算の卓越性も紹介しています。大正6︵1917︶年8月、63歳で死去しています。 菊池 正士︵きくち せいし︶ 戻る 東京帝大理学部物理学科卒、理化学研究所に入っています。昭和3年、電子線 回折に関する実験に成功して世界的に認められています︵菊池線︶。後に、大阪帝大理学部教授となり、サイクロトロン建設に尽力します。戦後は東大教授、東京理大学長などを歴任しています。 呉 秀三︵くれ しゅうぞう︶ 戻る 箕作阮甫の長女﹁せき﹂の3男で、慶應元︵1865︶年に生まれました。わが国 の精神病学の草分けで、歴史研究にも強い関心を持ち、医学史、シーボルト、箕 作阮甫、華岡青洲などの伝記書を著述しています。私がこの人を知ったのは、斎藤茂吉、北杜夫兄弟の著作を通じてでしたが、箕作家の調査を通じて色々な成書 を漁るうちに、この人はルーツ研究家の一人だったことが分かり、勝手に親近感を抱いています。昭和7︵1932︶年に68歳で死去しています。 呉 文聰︵くれ あやとし︶ 戻る 内閣統計局審査官に就任して、早くから欧米のような国勢調査を実施すべきことを力説しています。その国勢調査が実施された半月ほど前、大正7年9月、67歳で死去しています。 美濃部 達吉︵みのべ たつきち︶ 戻る 兵庫県生まれ、東大卒、東大教授。憲法行政法学者。旧憲法下で唱えた天皇機 関説は、昭和10年、国体に反する説として排撃される。長男は亮吉︵経済学者 、東大卒、法大・東京教育大教授、昭和42年より連続3期東京都知事を勤める ︶。 坪井 正五郎︵つぼい しょうごろう︶ 戻る 信道︵幕末の蘭学者、美濃の人︶の孫、日本の人類学開拓者。東大教授。コロボックル日本原住民説を唱える。 石川 千代松︵いしかわ ちよまつ︶ 戻る 東大教授、日本の進化論の先駆者。 長岡 半太郎︵ながおか はんたろう︶ 戻る 東大卒、東大教授。ボーアの原子模型に先立つ原子模型と理論を発表。 鳩山 秀夫︵はとやま ひでお︶ 戻る 東大教授、民法学者 美作国勝山藩江戸留守居役
鳩山十右衛門博房――和夫――+―― 一郎――威一郎 (室三浦氏) | +―― 秀夫――道夫
和夫の妻春子は旧松本藩士多賀努娘で共立女子職業学校(共立女子学園)の創始者、一郎の妻薫は元貴族院議院寺田栄娘、威一郎の妻安子はブリヂストン創業者石橋正二郎の長女です
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