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「山頭火」という名前 高村昌雄 H140430 10号 付録 納音(なっちん)を知ろう
先日、山頭火の句を調べるために「層雲(復刻版)」の貝を繰っていたら、思いがけないところで「山頭火」の文字が目に入った。大正112月号の「雲堂」と題した井泉水の選する俳句欄である。

    老人小鍋かかへて 煮凍たべをる

という句であるが、よく見ると「田中山頭火」とある。次にまた同年4月号「心律」にやはり「田中山頭火」で

    あたりしんしん 神の井すめり

同年5月号「心律」に

    高らかに歌ふ 山路は一人よりなし

同年6月号「心律」に

    淋しい此村の祭に 桜が咲いた

と、いずれも「田中山頭火」として句が出ていた。まだ他に無かったかとその前後の層雲をしらべたが、結局この四句だけであった。
 丁度この頃「種田山頭火」は層雲から遠ざかって全く出句していないから、全然別人であることは間違いないだろう。どこの、どのような人なのかと思い、層雲に出る句会通信なども目を通して見たが名前が出て来ない。
 「種田山頭火」がしばらく層雲を留守にしているので、「山頭火」を名乗る先人がいることを知らなかった新人が「山頭火」を名乗うたのか、同じ名前を使うのも自由だと考えて名乗ったものなのか。そして、6月号「心律」に出た後はぱたりと名前が消えてしまっている。誰かから「山頭火」の号は既に大物の先輩が使っていて紛らわしくなるから使わないようにと指摘されて別号にしたのか、自らが気がついて別号を名乗ることにしたのか、或いは層雲を離れてしまったのか。そのへんの所は全く判らない。
 次ぎに、木下信三著「山頭火虚像伝」 (三省堂一九九〇年刊)に二人の山頭火がいたことが紹介されている。
 その一人は秋田出身の俳人島田五空(本名豊三郎・明治841日〜昭和31226日)で、別号として香車、悟空、五工などの他に山頭火も名乗ったようである。北羽新報を経営し、明治33年俳誌「俳星」を石井露月と発行している。因みに「俳星」は正岡子規が命名したもので、その経緯を示す島田豊三郎宛の子規の手紙(現物は秋田県指定文化財)が秋田県能代市清助町の能代公園に「俳星碑」という大きな碑として立てられている。子規の手紙の上に「俳星」のメンバーの句が刻まれており、その中に

 誰を得て衣鉢伝えん寒稽古

という句が「五空」の号で刻まれている。
 俳誌「俳星」は「ほととぎす」とともに最も古くから続いている俳誌である。
 もう一人については、幡谷東五編集発行「花実」61号に発表された小梛精以知「助走時代の山頭火ー新発見資料に拠る」から、明治4243年当時の回覧誌「澪標」(堺市・心社)の会員の中に梅処という人がいて、「山頭火」を名乗っていることが紹介されている。小梛精以知によれば梅処の号で俳句を発表し、時雨郎・巴人の名で小説も発表しているが、小説の内容は分かっていない。「花実」61号には新発見の「山頭火」の俳句として一六八句が挙げられてあるそうだが、「山頭火虚像伝」にはその内の十句が紹介されている。

 脱け残る歯の痛みいる 秋の風

 踊るべく更くるを待つや 寺小姓

 夏帽をぬいで汗拭く 並木かな

 落ち葉や水汲む女 こちを向け

 渋柿に紫苑の花の 触れんとす

の五句が先ず挙げてあるが、防府を中心にした椋鳥会の回覧誌「椋鳥五句集」に載せられている山頭火の句調とは全く異なる。更に、

 犠の熊にメノコや 立ち去らず

 熊に児を奪られし村を 過ぎりけり

 凍てて残る熊の足跡や 衆と見る

 熊狩りに手練のアイヌ 老いてあり

 昨熊に逢ひしをいふや 案内者

の五句が挙げてある。いずれも北海道で詠んだものと考えられるが、山頭火は北海道には行っていない。
 また梅処=山頭火は大阪在住の人と推測される。このような事を含めて、この山頭火は「種田山頭火」とは全く別人と木下信三氏は考えられており、私も同感である。
 ただ、以上三人の詠んだ句が「種田山頭火」の新発見の句として、句集、資料の中に紛れ込まないように注意しておかねばならない。
 このように、「山頭火」が俳号あるいはペンネームとして用いられているが、もともとこの言葉の依って来るところは「納音 (なっちん)」にある。これは運勢判断に使われるもので、五行 (木・火・土・金・水)と、十干(甲・乙、丙・・・・辛・壬・癸)と、十二支(子・丑・寅・・・・西・戍・亥)を組み合わせてできる「甲子(きのえね)」から「葵亥(みずのとい)」までの六十干支を年に当てはめて年干とし、これに甲子・乙丑は「海中金」、丙寅・丁卯は「炉中火」と三文字の名称を二年毎に割当て、三十種に種別してある。これが「納音」である。このうち「山頭火」は甲戌、乙亥の年になり、明治89年、昭和910年、平成67年が該当する。因みに私は昭和9年の山頭火である。先に述べた三人の山頭火は納書から号をとったとすれば明治89年生まれであるから、梅処は当時3435歳、田中山頭火は4647歳の人だったろう。荻原井泉水は彼の生年が明治17年(甲申)であるところからその納音「井泉水」を号としたものである。
 しかし、山頭火は明治15年(壬午)生まれであるから、納音は「楊柳木」であり「山頭火」ではない。
 小学館の「国語大辞典」によれば「山頭」とは「山岳の頭部、山頂、山嶺」の他に、「(古くは多く山上にあるところから)焼き場また墓地をいう。」とあるから、「山頭火」は「焼き場の火」ということになりそうだ。
 山頭火は、「格別の意味があってつけたのではない」というているが、私は山頭火の母親の死と無縁ではないと考えている。自殺した母を荼毘に付したとき、山頭火が長男として荼毘の火を付けたのであろう。そのときの強い印象が「山頭火」の名を遊ばせたのではなかろうか。私も昭和21年に妹と母を亡くしたときに同じような経験をしたが、未だに強烈な印象として心に残っている。使えるなら私も「山頭火」を名乗りたい。