拓植学科のあゆみ
久木田賢志
拓植学科の歩みを辿るについては、どうしても50年の歴史をかえりみざるを得ない。本稿を記すに当たって、沿革史については昭和42年12月日本大学拓友会事務局で編纂された﹁拓植学科三十年の歩み﹂及び昭和53年6月日本大学拓植学科40周年記念行事実行委員会作成の﹁日本大学拓植学科の40年﹂に記載されたものをかなりな部分にわたり転載することをあらかじめお断りしておきたい。
昭和12年3月17日、かねて申請中であった日本大学専門部拓殖科の設立が認可され、4月より開講された。当時日本が東亜の各国に呼びかけた東亜共栄圏の理想は拡大され、東洋に於ける国家群に対する保護援助は、わが国の民族的使命とされていたので、それに対応して第一線で活躍する指導者の養成機関として新設されたのが日本大学拓殖科であった。
当時発表された日本大学拓殖科の教科要綱は次のようなものである。
1専門部拓殖科として農業専攻科と貿易専攻科の2科を置く。
2昼間部・夜間部の複数講座とする。
3修業年限は3ヶ年。
4定員100名とする。
顧問としてまた教授としてその指導に当たったのは、農業専攻科元東京帝国大学農学部長農学博士麻生慶次郎
貿易専攻科満州移住協会理事経済学博士永雄策郎、法文学部監小松雄道の3名であった。特に麻生慶次郎は、その後拓殖科の農業専攻を基盤に、日本大学農学部の新設に当たり、初代の農学部長として引続き活躍し、のち日本大学からも名誉教授の称を贈られている。︵昭和40年3月没︶
これよりさき、昭和8年11月以来、日本大学においては特殊講座として、満州国専門講座を開講していたが、拓殖科の設立と共に、満州国のみを対象とせず、広く南洋諸島方面にも進出する者のために、上述講座を、満州南洋拓殖学校と機構を改め、昭和12年4月より日本大学拓殖科に併設されることとなった。これは修業年限1ヶ年の夜間部として設置されたもので、拓殖人の速成科ともいうべきものであった。これには日本大学の学生︵法・政・商経等の第一講座所属︶で、将来を外地で活躍しようとする希望者が、外地に関する知識を補習するために入学することが多かった。︵﹃日本大学七十年の人と歴史﹄第二巻︶
かくして新設された拓殖科は、三崎町法文学部校舎において昭和12年4月から開講され、第1次は農業専攻科67名、貿易専攻科24名、計91名であった。当初拓殖科には、科長制はなく立教大学教授今村忠助︵戦後衆議院議員 昭和31年没︶が日本大学統制部主事兼講師として着任、拓殖科の教務事務全般を担当した。その後昭和15年4月、農業専攻︵農業・薬草園芸・畜産選択︶貿易専攻︵英語・支那語選択︶拓殖経済専攻︵大陸・海洋選択︶の3専攻と7選択となり、在籍生徒数も1000名を越える隆盛をみるに至った。
拓殖科は創設以来、科長欠員のまま教授麻生慶次郎が顧問となり、実際の運営は法文学部学監小松雄道が担当してきたが、昭和17年9月30日付をもって、同学監が科長に任ぜられた。一方日本大学は、農業教育の本命たる農学部設立を企図するのであるがその農学部は昭和18年5月に設立され、学部長として拓殖科顧問、農学博士教授麻生慶次郎が任命された。校舎は昭和16年6月拓殖科が府中農場から移転していた藤沢市六会の農場30余万坪に建設、新発足をみたのである。﹃日本大学七十年略史﹄
その後、拓殖科は順調に発展し、多くの俊英を世に送ったが、昭和20年8月第2次世界大戦の終焉とともに連合軍の日本占領政策に基づく文部省通達により、昭和21年8月25日、拓殖科の存続は不許可となり廃止されることになる。このために大学当局は専門部農業経済科を設置し、拓殖科在学生を移籍すると共に新生日本の態勢に即応する姿勢を固めたのである。
その後日本の教育体制は大幅の変革を迫られることとなり、昭和26年3月より所謂新制大学への全面的移行とともに、専門学部農業経済科も全国の専門学校とともに廃止されることとなる。拓殖科がその間社会に送り出した卒業生は農業経済科に改称されてからの数と合算して2.300名余に達していた。
一方昭和22年9月、拓殖科の名称が消えて約1ヶ月後在京の拓殖科卒業生の有志80余名が、三崎町の法文学部21番教室に第1回校友会を開催、満場一致で日本大学拓友会を結成、日本大学校友会機構の一環として発足するとともに、拓殖科復活運動を協議することとなった。
その後、昭和36年4月拓友会有志の献身的努力と当時の学部長岩田耕作、次の学部長大森智堪、事務長石渡悦郎等の協力により農獣医学部農業経済学科に拓殖専修コースが併設され新生の歩を印することになる。これまでに至る戦後10年間は、拓友会が学部教職員並びに学生に対し海外問題研究の重要性の認識と拓殖教育の必要性を強調するため、海外事情特別講座の開講、海外研究部の創設等々、学部内での関心昂揚に懸命の努力を続けていたのである。昭和36年4月、専修コース開講の当初は拓殖の専任教員はなく、外来講師の後藤連一、田原春次、結城司郎次、岩田喜雄、末永晃、工藤正城等々少数の陣営を持って拓殖教育実施に踏み切った。
越えて昭和37年11月、学部長大森智堪の決断により学科新設の決意を固め同月3日各学科主任教授並びに代表助教授、学部事務局長、事務長、拓友会長等の参集を旧拓殖科六会農場校舎に求め、満場一致拓殖学科新設の議案を可決、即日大学本部並びに文部省に対して関係書類の申請手続きがとられた。
昭和38年2月創設認可通達を受け、日本大学農獣医学部拓植学科として陣営を整え、
主任教授磯辺秀俊︵元東京大学農学部長 昭和61年没︶
教授後藤連一︵元外務省移住局事務官︶
同錦織英夫︵農林省 参事官︶
同久木田賢志︵農業経済学科教授︶
の教授陣の発令があり新設拓植学科の学生募集業務に入ることになる。
校舎は藤沢校舎の使用を決定、2ヶ年間は藤沢で教育後残り2年間を東京校舎で行うことになった。この理由は藤沢の環境の秀れた地域であることもさることながら、後で述べる拓殖教育の3主柱の1つである技術教育、特に農場実習を学生の日常生活の中に生かし且つ浸透させる目的があった。2年間を藤沢で教育する主旨から学生寮の必要が重視され、昭和39年旧農学部を改修して約70名収容可能な学生寮を開設した。
さて、これで愈に再建拓植学科の発足が軌道に乗った訳であるが、それからの数年間というものは正に新生児苦悩苦闘の歴史であった。当時漸く敗戦後の模索時代から青年達は進学熱を高め始めてきてはいたが、本学部でも一部の学科を除いては、本学部でも一部の学科を除いては、応募学生の数が伸び悩みの状態であった。特に新設拓植学科では学部中最低の入学者であった。新設というハンディキャップはあるものの、その最大の原因は﹁拓植﹂という名称が、戦前のイメージをそのまま国民に感受させ新生拓植を素直に受け取れぬ所にあった様である。主任教授を始め専任の教員、また拓友会の校友もこの点を心痛し、種々の対策を講じながら全国高校宛のパンフレットやポスター等を作成送付するなど懸命の努力を続けたのである。特に﹁拓植﹂理念の新しい理解を求める努力は新しい課題として引続き検討されてゆく。
拓植学科再建を記念して日大拓友会報︵秋季号︶が昭和40年11月に発刊され拓植学科特集号として配布されたが、その記事の中かで﹁拓植と吾が学科の特色﹂と題する記事の主旨もこの課題に対する模索であり、更に昭和41年発行の拓友会報第3号に磯辺主任教授が執筆した﹁新しい拓植教育の理念﹂もこれに対処いようとする論説である。稍々冗長になるが新拓植理念の発想源としてこれを転載してみよう。 拓植学科と言えば、戦前の拓殖を連想して今日の拓植を正しく理解しがたい人が少なくない。なぜなら、戦前の拓植は、先進国が植民地、後進地域に移民を送って自国の人口問題の解決や経済的利益の伸張を図るために、国家権力を背景として行われたものである。
戦後は情勢が一変して、植民地は次々と独立国となって、後進地域の開発が重要な課題となり、地域住民の福利ひいては世界平和増進のために国際協力が中心理念となる。今日低開発地域の人口の3分の2を占めるが、そのうちのまた3分の2は栄養不足または栄養不良に苦しみ、食糧増産が強く望まれる。そのために農林水産業の開発、その基礎の上にたつ工業開発、社会開発への先進国の協力が必要であり、わが国へも強く要請されている。開発は現地に入って直接これに当たるだけでなく貿易も大切である。
わが拓植学科は、こうした国際活動に活躍できる人材の養成を目的としている。そのために広い国際的視野とたくましい実践力の育成、語学教育、技術教育を教育の3本の柱としている。国際活動において欠くことの出来ないのは﹁言葉﹂である。しかし本学科は、外交官や語学者を養成するのではないから、外国人と日常接して互いに意思の疎通が出来る実用語学の学習を重視している。今日新興国諸国では民族意識が強くて、戦前のような何の技術も持たない労働移民は歓迎されない。何かの技術・技能を身につけた人、特に型にはまった知識技術のみでなく、実情に応じて臨機応変に対応できる能力が強く要望される。従って本学科では農学・畜産などの専門技術または貿易経営の経済技術を選択学習させ、応用のきく広い知識技術を身につけるように努めている。こうした専門技術の履修を開発移住部門と貿易経営部門の2つに分けている。この貿易経営部門は本学科の特色の1つといえよう。拓植活動に何より必要なのは広い国際的視野と困難に応じてやりぬくフロンティア精神、近頃言われる根性である。広い国際関係の学習とともに拓植実習・農場実習・学外見学実習などで団体訓練を行うのもこの要請に役立てるためである。こうして本学科は海外活動に活躍する人材の養成を第1義とするが、このような人材であれば海外に行かなくても国内の産業界でも充分役立ち歓迎されるものと確信し、国内産業への進出にも強い配慮を行っておりその目覚ましい成果は卒業生の就職先を見れば極めて明瞭である。
いまや日本は孤立した島国ではなく、世界の日本、アジアの先進国である。日本を明治初めの未開状態からこれまでに発展させた日本人の能力、狭少な耕地から世界1~2を争う高い生産性を上げる農業技術、高水準の工業技術、戦後の驚異的な経済成長に新興国民は強い尊敬と関心を寄せ、日本人の協力を求めている。
明治以来拓植の理想に燃えて海外に雄飛した日本青年のたくましい気力を今日の青年に期待できないであろうか。拓植学科は、たくましい拓植の精神と能力を持つ人材の養成に努めて、後進地域の開発はもちろん、国内産業の発展に寄与したいと念願している。
磯辺主任教授の念頭には、脈々たる新拓植教育の理想が燃えていた。些事に拘わらない責任感旺盛で溌刺たる行動力に溢れる日本青年を国際人として完成させる夢がある。またその夢を如何にしても達成させようと支えたのが次の主任教授を受けた錦織教授である。この両首脳が学科運営の基本的方向をがっちりと固めていたので、若い学科構成員の新しい意欲的な種々の計画が実にスムーズに具体化され得たことは創成時の学科に若々しい血を沸らせ、益々建学の夢を膨らませ得た動因であった。加わうる当時の大森学部長の決断と前述の拓友会校友の新摯な協力が大きな支えになったのも忘れ得ない功績である。尤も校友の熱意は時としてカリキュラムの構成にまで立ち入ることがあり、その都度磯辺主任教授と激論を交えたことも一再ではなかったが、主任教授の断固たる信念に校友諸氏も潔よく撤回する等、創設時の建設には正に多事といった所であった。今頃になって校友諸氏と当時を懐顧しながら、﹁当時俺達も若かったからなあ﹂と述懐させるのも懐かしく、若い愛学心を赤裸々に吐露しあった想い出は終生彼等のよき人生の金字塔たり得るであろう、彼等も既に還暦半ばを過ぎる好々爺連である。
さて創設時の融通性が斯くの如くであったから、教育目的に具現された行事はまことに多彩であった。
夏休みを利用して海外研修・台湾・マレーシア・インドネシア・アメリカ・ブラジル・フィリピン等々、単独であるいはグループで陸続きとして海外の実情を、この目で、この膚で知ろうとする学生は次々に乗り出して行く様になった海外研修の火付け役でもあった。国内の諸行事も多彩であった。昭和41年頃になると入学学生も校友始め、学部当局の理解で急速に増加するようになる。学生数が増えると益々団体訓練、集団行動に対する個人の責任と自覚は強く要請されることになる。殊に戦後のデモクラシズムは稍々もすると突拍子もない方向に向く。このために大地にしっかり根をふまえた行動力を指向する学科は海外研修と同時に国内での夏期研修に力を注いだのである。後藤連一教授・中村薫教授・松崎雄二郎教授︵何れも停年退職︶を初めとする学科教職員全員は、八岳研修農場・建設大学校・日産自動車追浜工場・内原訓練所・北海道酪農家等に夫々学生を引率し、自らも鍬をとりハンマーを振って合宿指導を実施した。学生達が擦り剥いた指先の痛み、手足の豆の疼きは必ずや何等かの感懐を彼等の人生観に残して得ているであろう。中でも忘れ得ないのは昭和42年度新入学生の500名余りをバス旅行とはいえ、3泊4日の八郎潟見学に引率したことである。途中の2泊は夜行軍のバスの中で眠る強行軍であったがこれ程の大人数の部隊が事故一つ無くこの長途の旅行に耐え得た事は、八郎潟の中央訓練所での研修の効果とはまた別の意味の自信と満足感を全員に与えたと確信している。
昭和43年度は世界中の大学で学園紛争がまるで燎源の日の如く燃えさかった年である。昭和42年頃からパリの周辺でチロチロ燃え始めた学園改革の烽火は黒死病以上の速さで世界を嘗め尽くして行った。文教の職にある者ならば今想い出しても筆舌に尽くせぬ屈恥感と絶望を想起することであろう。進歩的と自称する教育者、一部の若い学生に対する阿ねりと諂い、マスコミの一方的な木鐸ぶり。是は是とし非は非と論し得なくなった教育の尊厳の失墜、然しい今となって見ればそれもこれも歴史の中の必然であったのかも知れぬ。 拓植学科も勿論この洗礼を受けることになる。大森学部長の辞任と磯辺主任教授の学部長代行就任。更に学部長への昇格に伴い後任の学科主任は錦織英夫教授が選任された。この間、学生によるバリケード、大学によるロックアウト、授業再会に伴う大衆団交、疎開事業、これ等は拓植学科のみが蒙った実害ではないので詳細は省略する。いかい教育の本髄を護るために終始学部の先頭に立って学科を挙げて邁進した事実は敢えて附記しておかなければならない。
紛争の余燼も漸く収まり始めたのは昭和44年であり、昭和46年12月、磯辺教授停年退任、昭和48年3月には錦織教授停年退任、同年4月から久木田教授が学科主任として就任する。錦織教授はこの間、発足以来10年目を迎えた日本拓植学科の育成充実のため会長として、副会長中野正雄東京農大教授︵当時︶、同じく副会長菅原友太宇都宮大学教授︵当時︶の協力を得て渾身の努力を傾注した。そもそも学会というものは、それがアカデミズムを根底とするだけに、その生成発展は極めて遅々たることが通例である。況んや﹁拓植学科﹂という戦前的イメージを与えかねないこの学会の発展には誠に過大な心労を要したと申して過言ではない。錦織教授の努力漸く結実し、現会長菅原友太・副会長中野正雄・副会長久木田賢志として略200名を越す会員を全国に浸透し得て、既に日本農学会の1部門に登録の運びにまで成長し得たのは、学会の根底を確立した錦織教授の功績と讃えられるべきだあろう。
昭和40年代後半になると再建当時の状況と正に様変り的な趨勢が表面化する。それは応募学生の急増とそれに対応する学科の嬉しい悲鳴振りであった。勿論これは拓植学科のみならず、学部全体、いや全日本的に大学への進学率増大傾向という裏付けがあったことは否定できないが、入学志願者の激増は学科の安定的発展へとつながることは申すまでもない。
昭和50年11月発行の拓友会報第4号に載せられた、学科主任久木田教授の﹁要請強まる拓植教育﹂の一部を転載してみよう。
昭和40年再建後のわが学科が第1回の卒業生を社会に送り出して昨年で丁度10年目の一区切りを経過した。本年からはその二巡年目に這入ることになる。
10年一節とはよく言われることがあが、今ここでその10年間を振り返り、学科の発展の跡を謙虚に反省すると共に、更に将来に備えて飛躍の基礎を固めることは、極めて大切なことであり、またその時機でもある。再建初代の学科主任磯辺教授によって打ち立てられていた﹁広い国際的視野とたくましい実践力に裏打ちされた専門教育・語学教育・技術教育﹂の3本の柱は、錦織前主任教授に承け継がれ、現在もそれが踏襲されていることは申すまでもない。当時磯辺教授が指摘されているように﹁拓植学科と言えば、戦前の拓殖を連想して今日の拓植を正しく理解しがたい人が少なくない﹂。
このことは再検当初﹁拓殖﹂のイメージが志願者数にも影響を与えていることを素直に認め、社会の理解と高校生の認識喚起を訴えられたものである。我々もこの際むしろ学科名を新たにした方が社会的に理解され易いのではないかと考えたことも事実である。学科内にも検討委員会を設け当時の錦織主任教授を中心に慎重な検討を重ねると共に、校友の先輩達とも打合わせを行ってきた。学科の名称だけではなくカリキュラムについても、既に昭和41年度から4回に渡って実施しているように大幅な改訂を行っているのであるが。この検討過程の中において﹁拓植学科﹂の名称については、最近漸く全国の校高等にも認識され、この名称も社会に定着してきたのではないか。と云うのは、ここ2~3年拓植学科への志願者数が定員の数倍に達し始めたこと、これは勿論名称が社会的に普遍化され定着したとだけ見るべきではないかも知れない。恐らく近年の進学率の急激な増加の余恵でもあろう。原因は難であれ、この傾向が持続される過程の中では、拓殖の正しい理念が理解され真の意味で拓植学科の名称も定着する可能性があるという認識から、学科名の変更は当分見送ることになった。
またこの機会に、先の教育方針三原則に基く研究方針と教育目標を﹁拓植学科は新しい構想のもとに創設された産業社会学科であると規定し、広く国際的視野に立って、産業・社会開発上の諸問題を総合的に研究すると共に、その体系化を図り、国の内外を問わず、産業・社会開発に積極的に挺身し得る創造的実践的な人材を養成することを目標とする﹂ことを再確認したのであるが当面する教育上の問題を若干述べておきたい。
再建以来、開発移住コースの学生は貿易経営コースを選ぶ学生に較べて比較的少数であったのが、ここ2~3年は漸増し両コースが平均化されつつある。外国語教育については、英語・スペイン語・中国語・インドネシア語︵現在この外に、フランス語・ブラジル語を増設︶とも専任の教員を充足することができ、愈本格的に取り組める姿勢に至った。技術教育については、わが学科独自の科目については勿論、時代の要請も勘案しながら今後改善すべき点は多々残されているであろうが、そのうちで自然科学系列の科目の多い開発移住コースについて触れておきたい。このコースの学科目は再建当初、学部の全学科のうちから希望する科目を選ばせ、それ等の学科に委嘱した形で25単位を履修する方法を講じてみた。しかしこの方式では時間割の編成上スムーズな履修が行われ得ないことが判明した。そこで昭和44年度より当面最も開発移住コースに必要と考えられる、農学・畜産・農業工学科に限定し、そのうちから25単位の科目を選択履修する方法に改めた。これでも勿論満足できる履修方法とは考えられない。近来、国内外の大学間においてすら単位の相互認定の方式が認められる様になってきている。況や同一学部内での各学科の壁を乗り越えた相互認定が行い得るようになれば、唯に本学科の学生のみならず、学部の全学生の履修にとって大きな朗報であろう。今後の本学教育の課題として考究されるべきものであろう。
学科の発展が、客観的社会情勢の推移と共に安定的発展が期せられるにつれて、学科の課題として既に触れておいた、科学として学問としての﹁拓植学﹂は如何に体系化されるべきかという課題について、学科をあげて考究を続けてきている。特にその指導的役割を果たしたのが篠原泰三教授︵元東大農学部長︶渡辺兵力教授︵元農林省農業総合研究所長︶の両泰斗である。篠原教授は昭和48年4月より昭和56年3月まで、渡辺教授は昭和57年4月から昭和59年7月まで、何れも拓植学科の看板教授的存在として学内外の信望を受けているのである。
篠原教授は、学科内の﹁アカデミズム﹂の育成に、渡辺教授は﹁拓植学のカテゴリー﹂策定に懸命の努力を尽くし顕著な成果を着々としてあげていることは学科としても感銘に耐えないところである。
近来、国際関係を種々の立場から研究教育する大学が誕生し始めている。それに伴ってわが学科の主体性をより明確にする要請がある。時としては、拓植学科の指向するものは一体何であるのかと云う妄言をすら聞くことがある。科学とくに社会科学の深淵を諒察し得ない輩の軽薄な措辞ではあるが、これに対しては唯々憮然たるを禁じ得ない。事実の探究、それは時として偶発的発見により比較的簡単に帰結し得ることもある。しかしながら学問・科学への模索は、特にその対象が人間の意識・社会生活を目堵する場合にはしかく単簡ではあり得ない。従って、既に軌道化されたカテゴリーでの科学分野と異り、試行錯誤は勿論許されるべきであろう。
前述の渡辺教授が指摘する拓植学の試論の要旨を記してみよう。
今日の拓植学は戦前の植民学︵経済学の一分野︶を母胎としているが、戦後新しい問題意識によって、抬頭した新しい学問の研究分野であって、その意味では未完成の科学である。由来拓植活動は主として、第一次産業︵農林水産業︶の経済開発から出発している。
ここに本学科が農獣医学部に存在理由がある。しかし拓植は単なる開発ではなく、海外に対する積極的協力と移住を伴う、幅広い内容の開発行為であるから、これを研究する拓植関連の科学は多方面にわたる。したがって拓植学は1~2の既成の専門学科で構成されるものではなく、国際的問題意識を持ち、経済学を軸とした社会諸科学と開発関連の自然・技術諸学とを総合した研究を必要とする科学であるといえる。これまでの既成の諸科学、とくに社会科学は、社会の進歩・発展するものという大前提に立っていた。したがって進歩の法則、発展の理論を追求し、あるいは発展段階の違い等を見出すことなどに基本的問題意識を持っていたといえる。いいかえると時間次元あるいは時間的思考にたっており、とくに経済学は古典力学の考え方﹁力の均衡﹂、直線的理論に立っていた。これに対して拓植学の必要とする考え方は進歩の法則性を否定するものではないが、それよりも生きた人間の行動の問題、すなわち主体性とその主体性が行動する環境とのかかわり合いに問題を求めてゆくことになろう。それは最近の生態学の考え方に近い。すなわち、空間的次元における円環的あるいは回路的因果律の発見を求める問題意識にたった科学ということになろう。
以上のように、﹁拓植学﹂の体系化を探究し、試行錯誤の歩を続ける中で、カリキュラムの全面的見直しを行い、昭和56年度から現行の教育内容が再構築された。これまでの貿易経営コースを貿易・経済コースに、開発移住コースを開発・経営コースにそれぞれ改称した。また、拓植学科の教育・研究の体系化をめざして次の7本柱とした。すなわち、拓植、経済、国際経済、経営、国際協力、環境農学、拓植語学がそれである。さらに、昭和59年度より拓植語学のうち、フランス語とブラジル語を廃止し、スペイン語、中国語、インドネシア語の3科目にした。現行カリキュラムは、国際化時代の要請に応えて新規の科目を開設したが、その主要な科目は、国際協力論、農業経済学、農業経営学、宗教社会学、地域開発論、国際経済方等である。
拓植学科の教育・研究も年輪を増すごとに充実し、入学志望者も多くなってきているだけに、社会的な期待と責任も大きくなってきている。昭和61年度の在学生数は869名︵うち女子50名︶であり、農獣医学部の中では食品経済学科に次いで多くの学生が在学している。教員スタッフも再建当初から見れば飛躍的な充実・発展を遂げ、現在、教授7名、助教授3名、専任講師8名、副手2名、計20名であり、新生拓植学科の飛躍をめざして懸命な努力を続けている。昭和38年に再建されてから、この20年余りに社会に巣立った﹁拓植生﹂は既に4,000余名に及び、国内外の第一線で活躍している。激動する社会の中にあって﹁拓植精神﹂を喚起させ燃焼させている﹁拓植生﹂の姿は実に頼もしい限りである。
実践行動の学科として誕生した拓植学科の歴史も既に40年余りの歴史と伝統を作り上げてきた。そして更に実践技術・行動手段の具体性の中に、その売らず毛となる理論的体系化・科学性の確立という段階に達し始めてきたと考えられる。
しかし我々は単なる観念論を追求するものではない。あくまでも国民社会・世界人類に裨益し得る学生・青年の育成を第一主義として、より行動的な実践力を学科の基本理念とすることは論究するまでもないのである。︵拓植学科35周年記念誌掲載文より︶
拓植学科
遠藤浩一
昭和59年に拓植学科は再建20周年を迎えた。当時の久木田学部長や故磯辺教授をはじめ、OBの前拓友会会長工藤正城氏等の献身的な努力のもとに拓植学科を新設された苦心談を﹁拓植学科20年の歩み﹂のなかから読みとることができる。
久木田教授は昭和57年から昭和63年まで農獣医学部長として応用生物科学科の新設、国際地域研究所の充実等、学部の発展のため活躍され、昭和64年定年退職された。そのあと、学科主任は金沢教授、宮崎教授︵昭和62年~平成3年︶と続き、現在は遠藤教授となっている。
昭和57年には、東大を退職された金沢夏樹教授および廣瀬昌平教授が拓植学科の専任教授に就任された。金沢教授は、拓植学科の﹁国際協力論﹂の講義を持って拓植学科の新しい分野を積極的に開拓され、また国際地域研究所長として農獣医学部の総力をあげて東南アジア農業発展のため研究プロジェクトを進めてきた。廣瀬教授は﹁環境農学﹂という開発経営コースにおいて最近急速に展開しつつある講座の責任者として学内外に活躍されている。また、もと農林省におられた井上嘉丸教授は昭和60年度から、滝川勉教授は平成元年度から就任され、貴重な経験を生かして拓植学、国際経済学等の講義を受け持っておられる。
上原秀樹教授は、昭和62年度から﹁経済原論﹂を担当され、藤田泰伸専任講師はインドネシア語の専任講師として今後の拓植学科の発展のために活躍が期待されている。
長谷川勝男および井上雅也両氏はそれぞれ昭和60年度、平成元年度に助教授に昇格、中国語の陳仁端講師も昭和61年度に助教授になられた。相座昭夫は昭和58年度に採用、村井正之は、昭和61年度に専任講師に昇格。副手として、松浦京子、清水順子が活躍している。 ところで、最近10年間の日本および世界をめぐる変化は目をみはるものがあり、大学も受験者数の激減に備えてその反応を迫られ、さらに平成3年度から文部省の大学設置基準の大幅変更によるカリキュラムの見直し、さらに学部・学科名の変更をも考える事態にまで進んできている。
拓植学科の科名変更の問題は、以前にも幾度か取り上げられたことがあったが、時期尚早などの理由で見送られてきたのであった。
近年になって日本拓植学会が日本国際地域開発学会と名称を変更し、﹁国際農業開発学科﹂と名称変更がなされている。こうした変化は、前に述べたような事情に加えて﹁拓植﹂という言葉が現代の若い人には理解しにくくなっていることによる。
したがってわが学科の過去の貴重な伝統を生かしつつ、現代さらに未来の動向を見通しながら、学科名変更に進むべき時期に来たと考えられている。
カリキュラムについても、平成4年度から一部手直しが行われ、全体として開講単位数が減らされた。また従来の﹁開発・経営コース﹂を、﹁環境・資源コース﹂として世界的にも注目されている環境問題を資源と経済の関係から捉える方向が打ち出されている。
カリキュラムの変更は、主として専門課程について行われ、一般教養のあり方など根本的な問題が依然として残されており、完全に出来上がったものではない。
とりわけ、﹁拓植学﹂は、本質的に国際的問題意識から発しており、かつて渡辺兵力教授が指摘されたように﹁経営学を軸とした社会科学と開発関連の自然・技術論とを総合した研究を必要とする科学である﹂ということであろう。
これは、基本的な方向であるが、現実の変化を直視しつつ、また、一層分析のための理論的フレームワークを作り上げる努力が必要である。﹁拓植学﹂は、つねに新しい学問研究分野に挑戦する意欲が望まれるが、単なる現象や事実の探求に終わるのではなく、国際的にも通用する﹁理論﹂の裏付けを持ったものとして発展せなければならない。平成3年に半澤専任講師が﹁ケニアにおけるトウモロコシ高収量品種普及過程の社会・経済的研究﹂で博士号を得られた。拓植学科の若い教員が半澤講師に続くことを期待するものである。︵農獣医学部創設40周年記念誌掲載文より︶
生物資源科学部設置の趣旨及び必要性
設置の趣旨
本学部は従来、農学、農芸化学、獣医学、畜産学、食品経済学、林学、水産学、農業工学、食品工学、拓植学及び応用生物化学の11学科を擁し、いわゆる農学系の総合学部として、衣食住資源の生産、加工及び流通の各分野で活躍し得る人材の養成を目指して発展してきた。しかし、近年、学問の進歩は目覚しく、今日の農学系教育研究の主流はバイオサイエンス及びバイオテクノロジーに関する新知識・技術をベースにした生物資源の開発、生産・加工・流通が新総合科学の中で展開されるであろうことが予測される。
一方、世界の人口増加は環境破壊、環境汚染及び地球の温暖化を招来し、地球の生物生産力保持と生態系の保全が人類にとって優先的な必須の課題となっている。このような状況の中で、本学部を構成している各学科では、新しい教育研究領域をカバーし得る新カリキュラムを検討し、平成4年度︵一部3年度︶から実施している。これらのカリキュラムの改正は、個性ある教育の充実、自主・創造性の高揚、ゆとりある教育の実現︵週5日制︶、カリキュラムのユニーク性の確保、濃密な授業の展開などへの対応をも配慮したものである。
しかしながら、カリキュラム改正により農学徒が現実に果たしつつある研究領域は、﹁農﹂に関する一般社会のイメージと合致しなくなったばかりでなく、カリキュラムの内容そのものも現在の学部・学科名称とそぐわなくなってきた。このため、カリキュラム改正後4年を経過するこの機会に、今後の向上発展を根ざした新名称を検討し、ここに学部名称と併せて学科名称︵11学科のうち7学科︶の改称を強く要望するところとなった。なお、今回の学部・学科の改組転換は本学部における教育の質的向上と今後の学生確保ならびに人材の養成の上に極めて重要であり、緊急を要する課題でもある。
学部の特色
﹁生物資源科学部﹂の特色は、生命科学を基礎に、衣・食・住資源の生産・加工・流通という人類の営みに不可欠の事項を扱い、かつ地球環境の保全を図る使命を果たすべく、各学問分野を担う各学科を立体構造的に構築するものである。
学科の特色
国際地域開発学科は、従来の農林水産業を中心とした経済開発に加えて、生物資源の生産環境解析及び地域開発モデルを含め、その内容は国際地域開発学と呼ぶにふさわしいものに特色づけられている。