「うるまの島」の版間の差分
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[[室町時代]]には、当時の[[琉球王国|琉球国]]が[[室町幕府]]に遣使し、本土との交易を行ったころから、辺境の島としての「うるま」が沖縄を指すようになり、
[[安土桃山時代]]に[[里村紹巴]]が﹃狭衣物語﹄の注釈書﹃下紐﹄に﹁琉球をうるまの島と云と也﹂と書いて定着したものと考えられ、[[江戸時代]]前期に成立した和歌用語辞典﹃和歌呉竹集﹄には﹁うるまのしま国 又うるまの国ともいふ琉球国の事也﹂と明記されている。17世紀末に琉球の識名盛命︵唐名は毛起龍︶が和文体の紀行文﹃思出草﹄に薩摩と日本本土での琉球の別称として記したことから、琉球人の間でも知られるようになったが、一般への定着はならなかった。 もっとも、江戸時代中から「うるま」と琉球国の関係については疑問が呈されており、『[[古事類苑]]』に引用される[[嘉永]]3年([[1850年]])の[[山崎美成]]『琉球入貢紀略』では、『下紐』の記述からそう言われているが「うるまは新羅(今の朝鮮なり)の属島にして琉球にはあらず」「うるまは迂陵の韓音なりといへり」と断言されている。
20世紀に入り、[[大正]]時代以降に本土の文人が沖縄の美称として﹁うるま﹂と呼ぶようになったことから、沖縄県民の間にも広がるようになる。[[昭和]]10年︵[[1935年]]︶には[[明仁]]親王の乗馬として[[宮古馬]]が選定され、右流間︵うるま︶と名付けられた。 |