ここで宗二記の﹁侘び﹂についての評価を引用しておこう。﹁宗易愚拙ニ密伝‥、コヒタ、タケタ、侘タ、愁タ、トウケタ、花ヤカニ、物知、作者、花車ニ、ツヨク、右十ヶ条ノ内、能意得タル仁ヲ上手ト云、但口五ヶ条ハ悪シ業初心ト如何﹂とあるから﹁侘タ﹂は、数ある茶の湯のキーワードの一つに過ぎなかったし、初心者が目指すべき境地ではなく一通り茶を習い身に着けて初めて目指しうる境地とされていた。この時期、侘びは茶の湯の代名詞としてまだ認知されていない。
一般に﹁[[わび茶]]﹂の創始者と言われる室町時代の[[村田珠光]]︵1422-1502︶は、当時の高価な﹁唐物﹂を尊ぶ風潮に対して、より粗末なありふれた道具を用いる方向に[[茶道|茶の湯]]をかえていった。珠光は浄土宗の僧侶であり、臨済宗の僧[[一休宗純]]︵1394-1481︶の下に参禅し禅の思想に触れた。そして、禅と同様、﹁茶の湯を学ぶ上で一番悪いことは、我慢(慢心︶我執の心を持つことである﹂<ref>倉澤行洋﹃珠光―茶道形成期の精神﹄p.43﹁心の文﹂より淡交社、2002年 ISBN 978-4473019042</ref>︵倉澤行洋﹃珠光―茶道形成期の精神﹄p.43﹁心の文﹂より 淡交社 2002︶として、禅と茶の一致を説いた。いわゆる茶禅一味である。その方向を、[[武野紹鴎|武野紹鷗]]︵1502-1555︶や千利休に代表される堺の町衆が深化させたのである。彼らが侘について言及したものが残っていないため、侘に関しては、彼らが好んだものから探るより他はない。茶室はどんどん侘びた風情を強め、﹁床壁の張付を取り去って土壁とし、木格子を竹の格子とし、障子の腰板も取り去り、床のかまちが真の漆塗りであったのを木目の見える程度の薄塗りにするとか、またはまったく漆を塗らずに白木のままにした。﹂<ref name="Na">熊倉功夫﹃現代語訳 南方録﹄中央公論社、2009年 ISBN 978-4120040276</ref>︵﹃現代語訳 南方録﹄﹁棚 一茶室の発達﹂p.225-226熊倉功夫 中央公論社 2009︶張付けだった壁は民家に倣って土壁﹂﹃南方録﹄︶になり藁すさを見せた。茶室の広さは﹁4畳半から3畳半、2畳半に﹂<ref>武野宗延﹃利休の師 武野紹鴎﹄p.127 宮帯出版社、2010年 ISBN 978-4863660571</ref>、6尺の床の間は5尺、4尺へと小さくなり、塗りだった床ガマチも節つきの素木になった。紹鴎は日常品である備前焼や信楽焼きを好み、日常雑器の中に新たな美を見つけて茶の湯に取り込もうとした。このような態度は、後に[[柳宗悦]](1889-1961)等によって始められた﹁民芸﹂の思想にも一脈通ずるところがある。<ref>柳宗悦﹃民藝の趣旨﹄﹃柳宗悦全集著作篇第八巻﹄筑摩書房、1980年
﹁それ故民藝とは、生活に忠實な健康な工藝品を指すわけです。・・・その美は用途への誠から湧いて來るのです。﹂</ref> 一方、 利休は自然で無駄のない楽茶碗を新たに創出させた。
侘は茶の湯の中で理論化されていったが、﹁わび茶﹂という言葉が出来るのも江戸時代である。江戸時代には多くの茶書が著され、それらによって、茶道の根本美意識として侘が位置付けられるようになった。武野紹鴎鷗は侘を﹁正直に慎み深くおごらぬ様﹂と規定している。<ref>桑田忠親﹃日本茶道史﹄p.129-130﹁紹鴎侘びの文﹂より 河原書店、1975年 ISBN 978-4761100575</ref>︵桑田忠親﹃日本茶道史﹄p.129-130﹁紹鴎鷗侘びの文﹂より 河原書店、1975年︶ 一時千利休の秘伝書と目された﹃南方録﹄では、侘が﹁清浄無垢の仏世界﹂<ref name="Na">熊倉功夫﹃現代語訳 南方録﹄中央公論社、2009年 ISBN 978-4120040276</ref>︵前出﹃現代語訳 南方録﹄﹁滅後 二茶の湯の将来﹂p.650︶と示されるまでになる。﹃南方録﹄は全篇で﹁わび茶の心﹂<ref name="Na">熊倉功夫﹃現代語訳 南方録﹄中央公論社、2009年 ISBN 978-4120040276</ref>︵同書﹁はじめに﹂p.1︶が語り続けられているが、その冒頭には、﹁小座敷の茶の湯は第一に仏教の教えをもって修行し悟りをひらくものである。…こういうことは全て釈迦や祖師のやってきた修行であり、そのあとをわれわれが学ぶことである﹂<ref name="Na">熊倉功夫﹃現代語訳 南方録﹄中央公論社、2009年 ISBN 978-4120040276</ref>︵同書﹁覚書 一わび茶の精神﹂p.15︶との利休の言葉が記される。
[[岡倉覚三]]︵天心︶(1863-1913)の著書﹃The Book of Tea︵茶の本︶﹄の中では﹁茶道の根本は‘不完全なもの’を敬う心にあり﹂<ref>岡倉天心﹃茶の本 The Book of Tea﹄p.16 IBCパブリッシング、2008年 ISBN 978-4896846850</ref>と記されている。この“imperfect︵不完全なもの︶”という表現が侘をよく表していると言える。英語で書かれた同書を通じて侘は世界へと広められ、その結果、日本を代表する美意識として確立されていった。
俊成の子定家︵さだいえ・ていか1162-1241︶は﹁見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮﹂︵﹃新古今和歌集﹄363番︶と詠み、夕暮れの静けさや寂しさを歌った。ここにも静けさや寂しさのなかに美を見出したことが示されている。またこの歌は、茶の湯の武野紹鴎によって侘び茶の心であると評されてもいる<ref name="Na">熊倉功夫﹃現代語訳 南方録﹄中央公論社、2009年 ISBN 978-4120040276</ref>︵前出﹃南方録﹄﹁わび茶の心﹂p.93︶。
[[吉田卜部兼好|兼好法師]]︵1283-1352頃︶が書いたと言われる﹃[[徒然草]]﹄︵1330~1349ごろ成立︶には﹁羅︵うすもの︶は上下︵かみしも︶はづれ、螺鈿︵らでん︶の軸︵じく︶は貝落ちて後こそいみじけれ﹂といった友人を立派であると評して︵第八十二段︶、古くなった冊子を味わい深いと見る記述がある。また、﹁花はさかりに、月くまなきをのみ見るものかは﹂︵第百三十七段︶として、つぼみの花や散りしおれた花、雲間の月にも美が見出されることを示している。このような美を提示する﹃徒然草﹄も、﹁無常観によって対象を見ていた﹂と言われる。<ref name="Fu">復本一郎﹃さび 俊成より芭蕉への展開﹄塙親書57、1983年 ISBN 978-4827340570</ref>︵前出﹃さび ―俊成より芭蕉への展開﹄p.57︶ 兼好は出家僧であり、﹁己をつづまやかにし、奢りを退け、財(たから)を持たず、世を貪らざらんぞ、いみじかるべき﹂︵﹃徒然草﹄第十八段︶と述べており、禅の生き方を理想としていることが読み取れる。侘の美意識とも重なる。また、兼好が生きた中世には﹃平家物語﹄や﹃方丈記﹄が成立し、無常観が意識されていた時代でもあった。兼好は﹁これまでにない高度で深遠な美的態度を表明した﹂<ref>渡辺誠一﹃侘びの世界﹄p.13 論創社、2001年 ISBN 978-4846002985</ref>︵﹃侘びの世界﹄p.13 渡辺誠一 論創社 2001︶といえる。この頃には寂しいもの不完全なものに価値を見出し、古びた様子に美を見出す意識が明瞭に表現されていたことが確認される。寂は[[室町時代]]には特に[[俳諧]]の世界で重要視されるようになり、[[能楽]]などにも取り入れられて理論化されてゆく。寂をさらに深化させて俳諧に歌ったのが江戸時代前期の[[松尾芭蕉]](1644-1694)である。芸術性の高い歌を詠み、その独自な趣は蕉風と呼ばれた。寂は芭蕉以降の[[俳句]]では中心的な美意識となるが、芭蕉本人が寂について直接語ったり記した記録は非常に少ないとされる。芭蕉は﹁西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一(いつ)なり﹂<ref name="Oi">﹃芭蕉文集﹄﹁笈の小文﹂p.52 日本古典文学大系46岩波書店、1959年 ISBN 978-4000600460</ref>︵﹃芭蕉文集﹄﹁笈の小文﹂p.52 日本古典文学大系46岩波書店︶と述べる。この﹁貫道する物﹂は﹁風雅﹂<ref name="Oi">﹃芭蕉文集﹄﹁笈の小文﹂p.52 日本古典文学大系46岩波書店、1959年 ISBN 978-4000600460</ref>︵同、p.52注︶であり、風雅とは﹁広義には芸術、狭義には俳諧﹂<ref name="Oi">﹃芭蕉文集﹄﹁笈の小文﹂p.52 日本古典文学大系46岩波書店、1959年 ISBN 978-4000600460</ref>(同、p.52注)をさす。そして、﹁風雅論に根ざして生まれたもの﹂<ref>潁原退藏﹃芭蕉研究論稿集成﹄第一巻 ﹁さび・しをり・ほそみ﹂p.428 クレス出版、1999年 ISBN 4877330771</ref>(﹃芭蕉研究論稿集成﹄第一巻 ﹁さび・しをり・ほそみ﹂p.428 潁原退藏 クレス出版)のひとつとして寂がある。しかし、さびしさをそのままさびしいと歌ったのみでは歌の評価は低い。歌の中に﹁さびしさを詠み込むことであったのであり、鑑賞する側から言えば、叙述された景の中にさびしさを読み取ること﹂<ref name="Fu">復本一郎﹃さび 俊成より芭蕉への展開﹄塙親書57、1983年 ISBN 978-4827340570</ref>︵前出﹃さび ―俊成より芭蕉への展開―﹄p.87︶が必要である。このあり方が歌の、絵の、茶の湯の、美を高める。しかも、それが自然にありのままになされるところが肝要である。わざとらしさ、ことさらな演出はかえって作り物の偽物になってしまうからである。<ref>藤村庸軒 ﹃[{{NDLDC|2539936/42}} 茶話指月集2巻]﹄今井重左衛門、1697 ﹁いかにもさびている狐戸だけれども、遠くの山寺から人手をかけてもらってきたものだろう。侘びの心なら、麁相な猿戸が欲しいと戸屋に行って、松杉のを継ぎ合わせたものをそのまま釣りてこそさびて面白し。﹂</ref>そして、常時寂の境地にあることができるもののひとつが旅であった。﹁さびと孤独とのかかわりは、旅を通してあるいは草庵を通して、…すこぶる緊密である。﹂<ref>復本一郎﹃芭蕉における﹁さび﹂の構造﹄p.49 塙選書77、1973</ref>(﹃芭蕉における﹁さび﹂の構造﹄p.49 復本一郎 塙選書77昭和48年) 芭蕉は草庵に住み、また、漂泊の旅の中で歌を詠み続けた。これは﹁人をして孤独の極に立たしめ、自己の内部における寂しさの質の転換を迫る場所﹂であり、そこで﹁本来、否定されるべきさびしさは、肯定すべき境地としての位置を占める﹂<ref name="Fu">復本一郎﹃さび 俊成より芭蕉への展開﹄塙親書57、1983年 ISBN 978-4827340570</ref>︵前出﹃さび ―俊成より芭蕉への展開―﹄p.115) に至り、俳諧の﹁さび﹂となる。芭蕉に﹁この道や行く人なしに秋の暮れ﹂という歌がある。最晩年の歌である。﹁この道﹂は、秋の暮れに歩く人もいないさびしい道である。一般にこの句は、芭蕉の歩む俳諧の道が孤独であることを歌っている、と解釈される。しかし、芭蕉は仕官して立身出世しようとしたり、学問により自らの愚かさを悟ろうとしたり<ref name="Oi">﹃芭蕉文集﹄﹁笈の小文﹂p.52 日本古典文学大系46岩波書店、1959年 ISBN 978-4000600460</ref>︵前出﹃笈の小文﹄p.52︶、仏門に入ろうとしたり<ref>松尾芭蕉﹃幻住庵記﹄﹁ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは佛離(ぶつり)祖室の扉(とばそ)に入らむとせしも﹂</ref>︵﹃幻住庵記﹄︶したが、俳諧の道を選んだのである。このことを鑑みるに、﹁この道﹂は俳諧の道以上のものであるだろう。芭蕉における寂の精神性の深さがある。﹁この道﹂は﹁絶対的な存在としての道﹂<ref name=S>森神逍遥 ﹃侘び然び幽玄のこころ﹄桜の花出版、2015年 ISBN 978-4434201424</ref>︵﹃侘び然び幽玄のこころ﹄p.198 森神逍遥 桜の花出版︶であろう。﹁寂びしい自分の姿を超越した絶対的な静寂がそこを支配している﹂(同)という根源的事実の表現である。ここに寂び観の本質があり、これが仏教の根本と重なるのである。
侘びとともに利休以後の茶道の真髄として語られる寂びだが、意外なことに利休時代の茶の文献には見当たらない。﹁侘び﹂の項に挙げた[[山上宗二]]記の侘びの十ヶ条にも寂びは見られず、同書の他の部分にも﹁寂び﹂﹁寂びた﹂の語は現れない。おそらく江戸時代以降、俳諧が盛んになり寂びの概念が広がるとともに、侘びと結びつけられて茶道においても用いられることになったものであろう。