「わび・さび」の版間の差分
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{{otheruses||小惑星|わび・さび (小惑星)}}
'''わび・さび'''︵'''侘︽び︾・寂︽び︾'''︶は、慎ましく、質素なものの中に、奥深さや豊かさなど﹁趣﹂を感じる心、[[日本]]の[[美意識]]。美学の領域では、狭義に用いられて﹁美的性格﹂を規定する概念とみる場合と、広義に用いられて﹁理想概念﹂とみる場合とに大別されることもあるが<ref>大西克禮﹃美學 下巻 美的範疇論11版﹄ == 侘 ==
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ここで宗二記の﹁侘び﹂についての評価を引用しておこう。﹁宗易愚拙ニ密伝‥、コヒタ、タケタ、侘タ、愁タ、トウケタ、花ヤカニ、物知、作者、花車ニ、ツヨク、右十ヶ条ノ内、能意得タル仁ヲ上手ト云、但口五ヶ条ハ悪シ業初心ト如何﹂とあるから﹁侘タ﹂は、数ある茶の湯のキーワードの一つに過ぎなかったし、初心者が目指すべき境地ではなく一通り茶を習い身に着けて初めて目指しうる境地とされていた。この時期、侘びは茶の湯の代名詞としてまだ認知されていない。 一般に﹁[[わび茶]]﹂の創始者と言われる室町時代の[[村田珠光]]︵1422-1502︶は、当時の高価な﹁唐物﹂を尊ぶ風潮に対して、より粗末なありふれた道具を用いる方向に[[茶道|茶の湯]]をかえていった。珠光は浄土宗の僧侶であり、臨済宗の僧[[一休宗純]]︵1394-1481︶の下に参禅し禅の思想に触れた。そして、禅と同様、﹁茶の湯を学ぶ上で一番悪いことは、我慢(慢心︶我執の心を持つことである﹂<ref>倉澤行洋﹃珠光―茶道形成期の精神﹄p.43﹁心の文﹂より淡交社、2002年 ISBN 978-4473019042</ref>︵倉澤行洋﹃珠光―茶道形成期の精神﹄p.43﹁心の文﹂より 淡交社 2002︶として、禅と茶の一致を説いた。いわゆる茶禅一味である。その方向を、[[武野紹鴎]]︵1502-1555︶や千利休に代表される堺の町衆が深化させたのである。彼らが侘について言及したものが残っていないため、侘に関しては、彼らが好んだものから探るより他はない。茶室はどんどん侘びた風情を強め、﹁床壁の張付を取り去って土壁とし、木格子を竹の格子とし、障子の腰板も取り去り、床のかまちが真の漆塗りであったのを木目の見える程度の薄塗りにするとか、またはまったく漆を塗らずに白木のままにした。﹂<ref name="Na">熊倉功夫﹃現代語訳 南方録﹄中央公論社、2009年 ISBN 978-4120040276</ref>︵﹃現代語訳 南方録﹄﹁棚 一茶室の発達﹂p.225-226熊倉功夫 中央公論社 2009︶張付けだった壁は民家に倣って土壁﹂﹃南方録﹄︶になり藁すさを見せた。茶室の広さは﹁4畳半から3畳半、2畳半に﹂<ref>武野宗延﹃利休の師 武野紹鴎﹄p.127 宮帯出版社、2010年 ISBN 978-4863660571</ref>、6尺の床の間は5尺、4尺へと小さくなり、塗りだった床ガマチも節つきの素木になった。紹鴎は日常品である備前焼や信楽焼きを好み、日常雑器の中に新たな美を見つけて茶の湯に取り込もうとした。このような態度は、後に[[柳宗悦]](1889-1961)等によって始められた﹁民芸﹂の思想にも一脈通ずるところがある。<ref>柳宗悦﹃民藝の趣旨﹄﹃柳宗悦全集著作篇第八巻﹄筑摩書房、1980年 ﹁それ故民藝とは、生活に忠實な健康な工藝品を指すわけです。・・・その美は用途への誠から湧いて來るのです。﹂</ref> 一方、 利休は自然で無駄のない楽茶碗を新たに創出させた。 侘は茶の湯の中で理論化されていったが、﹁わび茶﹂という言葉が出来るのも江戸時代である。江戸時代には多くの茶書が著され、それらによって、茶道の根本美意識として侘が位置付けられるようになった。武野紹鴎は侘を﹁正直に慎み深くおごらぬ様﹂と規定している。<ref>桑田忠親﹃日本茶道史﹄p.129-130﹁紹鴎侘びの文﹂より 河原書店、1975年 ISBN 978-4761100575</ref>︵桑田忠親﹃日本茶道史﹄p.129-130﹁紹鴎侘びの文﹂より 河原書店、 [[岡倉覚三]]︵天心︶(1863-1963)の著書﹃The Book of Tea︵茶の本︶﹄の中では﹁茶道の根本は‘不完全なもの’を敬う心にあり﹂<ref>岡倉天心﹃茶の本 The Book of Tea﹄p.16 IBCパブリッシング、2008年 ISBN 978-4896846850</ref>と記されている。この“imperfect︵不完全なもの︶”という表現が侘をよく表していると言える。英語で書かれた同書を通じて侘は世界へと広められ、その結果、日本を代表する美意識として確立されていった。 |